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2019年04月30日10:58

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【1991年3月】少し早すぎた京都・奈良の旅

会社生活三年目を迎えようとしていた春の京都・奈良の旅の記録を綴ります。1991年3月21日(木)からの三泊四日、春分の日を含む飛び石連休の「飛び石」の金曜に有休を取って旅行しても咎めだてされないのは「ブラック職場」ではなかった証でした。前日は竹橋の科学技術館にコンピューターケミストリーの展示会を見学するために出張し、帰りには松戸のCDショップでクラシック音楽のCDを二枚買い、一旦茨城県阿見町の社員寮に戻ってから、改めて車で千葉県沼南町(現在は柏市南部)の実家に帰り、旅への出発は21日の朝7時前でした。東京発8:00の「ひかり」の自由席禁煙席に座って行けました。京都までの列車も慣れると却って退屈に感じられ、車内での時間を新書と京都のガイドブックを代わりバンコに読んで時間を潰しました。

昨年入ったうなぎ屋の場所がうろ覚えで京都駅で30分浪費、結局何も食べずに山陰線に乗り込み、二条城へ直行しました。当時の二条駅は出雲大社の玄関駅だった大社駅(大社線は廃線になったか駅舎は保存されている)と並んで瓦屋根のどっしりした風格のある社殿風の駅舎でした。二条城までの道にも古い土蔵造りや瓦屋根の商店が残り、古い時代の雰囲気が残っていましたが、新しい建物も増えだして景観が崩れつつありました。「町並みの保存」を訴える共産党の市議候補のポスターもあちこちで見かけました。(21世紀になる前に二条駅周辺は再開発が進み、山陰線は高架になり二条駅は現代的な駅舎に建て替えられ、近くに京都リサーチパークが完成しています。)

二条城には女子高生の修学旅行がバスを6、7台連ねて押し寄せていたので、チケットを買った後、玉砂利の上を急ぎ足で歩いて集団を追い抜き二の丸御殿へ向かって参観しました。将軍が大名に謁見するための部屋が幾つもあり、その情景を生々しい人形を用いて表しています。廊下を歩くたびに一歩一歩キュッキュッと音がして、大人数が押し寄せた時などは、まるで鳥が沢山囀りあっているような音が響きわたります。堀の周りは梅が満開で、椿の花の盛りは過ぎたところ、散策には悪くない季節です。女子高生軍団は、色々な石や松の木を配した池の周りに6〜7人集まってはガイドさんに記念写真を撮ってもらっていました。彼女らが立ち去ってから風景の写真を撮りましたが、女子高生が写り込んだ風景写真があっても良かったかと少し後悔しました。

アーケード街を通り抜けて二条駅まで戻りました。山陰線から奈良線へと本数の少ない列車を乗り継いで、宇治に向かうことにして、京都駅の名店街で一年前に入った店を探し出して「おひつまぶし」(1800円)を遅めの昼食としました。奈良線の本数が少なくて30分待たされました。宇治到着は14時半頃、宇治川の水は緑色に澄んで非常に美しいけれど水量が多く流れがとても速くてまるで台風の後の様でした。泳いだりボートを出したりしたら向こう岸に着くまでに50分くらい掛かりそう、それどころか下流に1km以上流されてしまうに違いありません。

平等院を訪れる観光客は多いけれど、騒がしさはなく落ち着いて気分良く散策できました。十円玉のデザインになっている鳳凰堂の写真を松の枝も入れて四枚撮影しました。木造の古い建屋が堀の中に浮かんでいるような姿です。鳳凰堂の内部に入り、漆と金箔により描かれた大仏とその周りで踊る多数の仏様達の絵について、案内人のおばさんの流暢な説明を聞きました。

周辺は宇治茶を売る店が多数、駅に近い店は有機農法が売りですが、質素な紙に入っていていかにも手作りの逸品という触れ込みでお土産にと思ったら、値段が140gで2800円という高価なので諦めました。16時過ぎでまだ十分に明るいのですが、お寺の大半は拝観終了時刻が近くて慌ただしくなるのに違いないので京都駅へ戻り、宇多野ユースホステルへ向かいました。京都市内が混雑で渋滞して、かなり時間が掛かりました。眠気が襲って十分くらい眠っている間に立っている人がいなくなって、気が付いたらすっかり空いていました。

二年ぶり二回目の宿泊となる宇多野YHです。小学生の団体が宿泊していて、一般のホステラーも年齢層が若くて話が合わなそうに見え、三ヶ月前に30歳になった自分はもうYHで旅行するような世代ではないのかと悲観的な気分になりかけました。夕食の内容は大して質が高くないけれど、鮭のステーキ(小ぶりで骨が多かった)、鳥にトマトソースを掛けたもの、スパゲッティ、スープ、サラダとフランス料理風なものも混じってボリュームがありました。トイレも風呂も清潔でしたが、タオルを忘れてきたことに気づき、仕方なく忘れ物として置いてあったものを拝借しました。

同室者は大人しそうで話をしない人ばかりでしたが、風呂であった人から8時半から談話室で飲みましょうと声を掛けられました。行ってみると九州帰りの一人旅の男が三人、それに鹿児島出身の女の子二名が加わって盛り上がりました。ビールと焼酎を少し飲みました。男の一人は大学院の修士課程を終えての卒業旅行中、もう一名は東京水産大の博士課程二年で自転車旅行中です。鼻の孔が上を向いた愛敬のある丸顔の子とスリムで浅黒い子の二人組。スリムな子は桜島出身、実家でタヌキを飼っていたことがあるそうです(人に慣れないまま逃げだしたという)。溶岩に乗って遊んだこともあり、徒歩通学でもヘルメットが必要なことがあったりしたそうです。桜島にはタヌキの他サルも多いそうです。11時半ころまで話をしていました。居室に帰ってからその日の分の日記を書いた後、就寝しました。

翌3月22日(金)も宇多野YHに連泊でした。あいにくの雨で肌寒い一日でした。半月前の北海道旅行で摩周湖の全景や流氷を眺められた分のツケが回ったかと思いました。折り畳み式のボロい傘を持参していたけれど、骨が一本折れて、布が外れている箇所もあり、風ですぐ反転してしまうのでした。ユースを出発したのは8時半、竜安寺までバス。早朝参拝は気分の良いものですが、すでに本堂には修学旅行生やカップルや外国人観光客の姿がありました。それでも静けさは十分に保たれて、板の間に座って枯山水の雰囲気に浸りました。13年前の修学旅行、二年前の卒業旅行に続く三度目の拝観ですが、その時の心境によって石庭の風景が微妙に変化し、その後も数えきれないくらい訪れる度に新鮮な印象を受け取っています。いかなる方向からも同時に見ることが不可能な15個の石を何度も数え直したりもしました。外の池には島があって、雨に煙る風景にもそれなりの趣がありました。梅も満開で今の時期の竜安寺の見所の多さを感じました。

竜安寺から京福電鉄の駅まで歩き、レール幅の広い路面電車に乗るのは二年前からの念願でした。(嵐山への京福電鉄の利用は後に定番コースとなりました。)四条大宮まで乗車したのですが、大原へ行くバス乗り場が分からずに烏丸三条をうろうろした後、地下鉄で北大路へ出て、20分以上待って一時間に一本のバスに乗りました。途中で15分くらい眠りました。大原のバス停から三千院まで坂を登ること約15分、土産物店や食堂が並んでいます。三千院の内部は襖絵が結構鮮やかなまま残っていて抹香臭さも良い雰囲気です。中庭には自然があふれていましたが新緑や紅葉の時に来るべき所だったと感じました。土産物屋の奥のコーナーで湯豆腐定食を食べました。メインが豆腐だけですが薬味と醤油なしでも味が良いようです。京野菜の漬物や煮物も付いて1000円で高くない内容でした。

音無の滝まで歩いて10分。雨で道が悪くて靴がグショグショです。音無とは言っても雨で水量が増えてサラサラと静かながら滝の音は聞こえます。でも岩の上を滑らかに流れる白い水流は独特で見ごたえがあり、ここまで足を運んだ甲斐はありました。バスで京阪三条に戻ったのは3時過ぎです。タオルを忘れたのでコンビニに寄って買い物をするつもりが、祇園の街並みにコンビニは似合わないのか一軒も見当たらず、買い物は後回しになりました。白川沿いの街並みの写真を一枚だけ撮影して京福電鉄の路面電車に乗り、蹴上で降車、南禅寺まで歩きました。

南禅寺の前にある水路閣を見るのはこの時が初めてでした。京都の魅力は古い寺や伝統的な街並みだけでなく明治時代の文明開化の遺跡にもあることを認識しました。ローマの水道のような水路閣に敬意を示し三枚撮影した写真には雨粒も写り込んでいます。(初めての海外旅行は8年後のこと、学会参加のためのイギリス湖水地方とローマでした。)南禅寺にも枯山水があって細かい石が波の模様を形作っています。大阪からと思しきカップルが三組も庭に見入っていました。

南禅寺から銀閣寺まで哲学の道を歩くには季節が早すぎました。桜の蕾さえ膨らんでいなくて見所がなく、雨で体を冷やしただけでした。途中にペーパークラフトの店があったので、雨宿り代わりに立ち寄り、「モビール」を実家への土産に購入しました(900円)。女子大生かOLの二人組が店員の女の人と旅行について長々と立ち話をしているので待たされました。繁華街の河原町でバスを乗り継いでYHに戻ったのは18時40分でした。

この日のユースの夕食もボリュームたっぷりで、白身の魚のフライ、豚肉を焼いてカレーソースを掛けたものが提供されました。前日から外国人ホステラーが多くて、朝食時に隣に座っていた人はスイス人でスイス訛りのドイツ語を喋るそうです。この日に浴室で会った体のデカい(100kgある)オーストラリア人はFarmer、たった一人で広大な農場をトラクターで耕しているそうです。SUMOU Wrestlerを見るのが好きだとも言っていました。とても太っているのでTシャツの下が開けて腹がはみ出ていました。

日本人のホステラーとの会話は夜9半ごろになってから始まりました。千葉の高校を卒業したばかりの女の子は大学の薬学部の入試に失敗したけれど、アメリカの大学へ二年間留学して衛生学を学ぶことになったそうです。神戸のお婆さんに会いに行く途中で京都に寄ったそうです。本当はフラスコを振る仕事に憧れていて、私が勤務していた化学会社の名前はJ‐WAVEで流れるCMで聞いて知っていました。

談話室には全国のユースホステルの感想をホステラーが記した大学ノートがありました。率直な感想が書いてあり、こんなユースなんか潰れてしまえ!と罵倒されているYHも幾つかあります。翌日宿泊する千光寺YHの評判が良いので安心しました。宇多野YHに関しては絶賛のカキコミが多いけれど、食事が不味いという意見も載っていて、それに反論するカキコミもありました。昨年宿泊した奈良YHは規則にうるさく管理が厳しいペアレントの評判が悪いようですが、本当はいい人だとの擁護の意見もありました。愛知県の岡崎から来た天文好きの女性と話をしました。瀬戸内海の「まなべYH」で出会った人に嵐山を案内してもらったところで、明日はその人と神戸でデートだそうです。居室に帰って夜12時を回ってから、この日の朝からの分の日記をしたためました。

翌3月23日土曜日も雨でした。スイスの人はバスの一日券を持って旅行しているそうですが、この日は奈良へ向かいました。愛知県の女性は朝食のテーブルをご一緒しました。アメリカへ留学する女の子に名前や住所を教えたり、会社の名刺を上げたりしなかったのは不覚でした。勉強や進路の相談に乗ってあげられたのにとか思ったのでした。バスで出発して仁和寺前で降りました。傘の状態がますます悪化したので、仕方なく拝観券売り場でビニール傘を500円で買いました。

仁和寺の名前は高校時代の古文で習った「徒然草」で愚かな僧侶の話が二話続いていたので覚えたのですが、場所を知ったのは二年前の卒業旅行で四国を回る前々日に宇多野YHに宿泊して岡山へ向かう朝に慌ただしく自転車で金閣寺と竜安寺を参拝した途中のことでした。朝一番で参拝した仁和寺は静かで心が落ち着き、板の間を歩く床の踏みごたえも心地よいものでした、板張りの廊下が続いて折れ曲がり、広い庭園の景色も趣がありました。仁和寺から京福電鉄の御室駅までは歩いてすぐでした。雨の降る中で撮った駅舎の写真には「驛室御」と右から旧字体で書かれた駅名標があり、レンズに水滴がついたための滲みが残っています。

終点で降りて500mくらい歩いて梅の盛りの北野天満宮を参拝しました。おみくじを引いたら吉と出ました。400円払って庭園を鑑賞。カップル(日記には「アベック」と表現)の姿が無かったので快適でした。梅の香が心地よく、枝がしだれているものや、花の色が濃いものなど数種類の木々を鑑賞できました。茶屋で柔らかい煎餅みたいなお菓子と昆布と梅の粉の入った塩味のお茶のようなものをご馳走になりました。

東山方面を散策するためバスで四条堀川へ向かい、四条烏丸まで歩き、阪急で河原町へ。京都の分かりにくいバス路線に少しは慣れたつもりですが、それでも乗り間違えたりします。あまり気にせずに聞き覚えのある地名で降りて気楽に歩いてなんとかなりそうな気がするくらい京都に馴染んできたと勝手に思い込みました。前日に少し眺めた祇園の白川沿いの風景をもう一度味わうつもりが方角を見失って道に迷い建仁寺の周りをぐるぐる歩いていたら、白川沿いとは別の茶屋街の景色に行き当たりました。簾を下ろした古い街並みが続いて、京都らしい風景の魅力にまた一歩踏みこんだ気分です。「都をどり」の案内があちらこちらに掲げられて、地元の人々も少し華やいだ雰囲気で歩いているようです。カメラを構えた観光客の姿もちらほら見かけました。

歩いている内に八坂の塔が見えて産寧坂にたどり着きました。昨年は工事中だった清水寺は、今回はしっかりした舞台の骨組みを十分に眺めることができ、舞台からの京都市内の眺望も堪能し、音羽の滝からの水に触れる参拝客の様子を舞台の上から眺めました。土産物屋の並ぶ坂へ引き返して歩きました。松方弘樹さんの店と山田邦子さんの店は大きな人形が悪趣味で景観を壊しているようです。「あけぼの亭井和井」という店で藤色の花かんざしを、まもなく大学の獣医学科を卒業するはずだった従妹へのお土産に購入、2900円、10×10×20cmくらいの大きな箱に入って、店員さんが「荷物が大きくなってすみません」と恐縮していました。職人さんが手塩にかけて製作したものを安易な買い方をするものではありません。(学生バンドのボーカルで活躍していた従妹は留年が決まったので、卒業一ヶ月後の25歳の誕生日祝いと変更することにしました。無事に獣医として就職できたのは二年後のことでした。)

京阪電車を東福寺でJR奈良線に乗り換えました。奈良線は単線でレールが錆びていかにもローカル線の風情です。30分近く待ちました。雨が上がっていたせいか仁和寺で買ったばかりのビニール傘を車内に置き忘れましたが、安物の傘が邪魔になっていたので忘れたのは幸いかもしれません。JR奈良駅の社殿風の駅舎の写真を撮った後、近鉄奈良駅の近くの昨年入ったお好み焼き屋へ。バイトの女の子が焼いてくれるスタイルで、忘れられてほったらかしにされているかと思った頃に、絶妙のタイミングでひっくり返しに来るのです。甘口のソースも既製品のマヨネーズもそれぞれイケました。

東大寺までの2kmの道は京都を歩きすぎて疲れた足には少しハードでした。三月堂(法華堂)のみ三度目の見学で訪れました。並び立つ仏像への恐怖感は薄れてきましたが、見飽きることはありません。近鉄を乗り継いで元山上口駅から千光寺ユースホステルを目指して歩きました。登り坂が続き、最初は平和な住宅街で主婦の買い物風景も見かけられますが、住宅街が途切れると坂もきつくなりました。キノコを植えるための窪みをたくさん付けられた木材が積み上げられていました。真っ赤な日産サニーが停車して運転していた若い女性が「ユースですか?乗っていきませんか?」と声を掛けられましたが、YHまで歩くのも大切な修行と思ってお断りしました。

千光寺ユースホステルはきれいなところで畳敷きの部屋が三つありました。先刻、車から声を掛けてきたグラマーな美人は、お寺に来たばかりのお嫁さんでした。宿泊者は男ばかり。80代のお爺さんの一人旅は、仙台から青春18きっぷを使って夜行列車で来て、奈良駅からは坂の下まで自転車で来たそうです。奈良YHが満室で断られてここまで来たそうです。自転車での走行距離は4万km。仙台では筋ジストロフィー症の子供の世話をする仕事を週に三日やっているそうです。翌朝の朝食の席では「出会い」につて一席ぶった後、割りバシを使った手品をやって見せて種明かしも披露してくださいました。

夕食の席はテーブルに鍋が二つ並び、片方はホステラー四名、もう片方はペアレント一家が囲みました。うどんと野菜と餅の入った関西らしい薄味の鍋でお腹が一杯になりました。お彼岸で到来物が多くて名前の分からないミカンと饅頭も御馳走になりました。

夕食後に一人旅の韓国人青年が到着。釜山から船で来てヒッチハイクで奈良までたどり着いたそうです。日本語がかなりできて勉強熱心でもありますが、英語力はほとんどなくて、日本語で通じなかったところを英語で言いなおしても理解してもらえません。日本の食べ物はほとんど甘すぎて口に合わず、トラックの運ちゃんに連れられて行った広島風お好み焼きも好きになれなかったというので、たぶん夕食の鍋も好みではなかったに違いありません。運ちゃんに従軍慰安婦問題について話をしようとしたら「昔のことだ」と相手にされなかったのが不満、また天皇陛下のお言葉の「痛惜の念」も今ひとつだそうです。高速道路の料金所の係員が高齢者ばかりなのを不思議がるので、排気ガスで空気が悪いところで立って働く過酷な環境だから若い人は嫌がるのだろうと新聞か何かで読んだ話をしたら、今言ったことを紙に書いてくれと言われました。私の悪筆は我慢してもらうことにして、今の若い人は3K(汚い、危険、キツイ)仕事を嫌がりますとも書き加えました。

留年が決定したばかりの東大の4年生が三連泊。仙台出身の元気な男ですが、初めてのユース体験で女子との出会いに恵まれず(二日続けて女子ホステラーが当日キャンセルしたらしい)、次の京都北山ユースホステルに期待というところでした。真っ赤に日焼けた顔をした鈴鹿からやって来た男は九州を回ってきたそうですが、私の勤める事業所の新素材研究所の所長の息子と聞いてびっくりしました。

翌3月24日日曜日は晴れていました。朝食前に掃除を実施しました。出発前に記念写真を撮るのも恒例行事です。千光寺の門の傍らには石でできた男女の生殖の神様の像があって普段は布で覆ってあるのを開帳いただきました。男神は体と同じくらいの大きさにそそり立ったモノを手で支えて照れ笑いを浮かべています。女神は足を開いて顔と一緒に花が笑っているようです。

東大生と韓国人と一緒に坂を下りました。韓国の人口の1/3がソウルへ集中して、次に大きな都市が釜山であることを聞きました。元山上口駅の手前の住宅地について、日本の会社である程度出世した会社員が持つマイホームの標準がこのレベルだと説明してあげました。

近鉄を王寺と西田原本で乗り継いで11時に八木西口駅で下車。江戸時代からの古い街並みの残る今井町は歩いてすぐでした。狭い路地を入って奥へ行くに従って味わいの深い街並が広がりました。徳島県の中央の脇町で見たような「うだつ」を二階に備えた家も連なっていました。天気の良い散策日和の日曜ですが、人通りは少なくて長閑な雰囲気です。地面のアスファルトの無粋な工事が行われている箇所があるのが少し興ざめでした。(その後、地面の補修がかなり進んで、21世紀にはすっかり快適な散策ルートとなっています。)一軒だけ新しい家を見つけましたが、木の格子窓となって周囲の古い家との調和を図っていました。通りかかった建築現場の係員に街の印象を聞かれたので、古い趣のある街は良いですねと答えたと思います。

近鉄で日本橋(にっぽんばし)に着いたのは14時半頃でした。「あそこ」のうどんと「大たこ本家」のタコ焼きを食べて帰るつもりが、「あそこ」は定休日、「大たこ本家」には10mくらいの行列ができていました。仕方なく道頓堀の通りから階段を上がったところの喫茶店風の店で明石焼きとソース焼きを食べました、まあまあの味ですが、ソース焼きは明石焼きを鉄板に乗せてソースを掛けただけの代物で大阪風とは違うようでした。その後、新大阪駅で食べたうどんも塩味が強くて、以前岡山駅のホームで食べたうどんの方が大阪の味でした。

新大阪駅から乗車した16:04の「ひかり」では自由席にぎりぎりで座れました。東武野田線沿線の実家に帰ったのは20時半頃でした。翌日に京都土産の「聖」(ひじり、生八つ橋)が職場に行きわたると、同期の女子社員が「なんで今頃京都に行ったのだろう?」と不思議がっていたようです。

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