mixiユーザー(id:64329543)

2019年02月12日11:11

66 view

測る:真偽から数量化まで

 共同幻想としての意識の「今」、形式的な約定としての「今」が生活世界で概ね通用してきた。日常の「今」は「その時」に似て、代名詞のような役割を担い、使われる状況に応じて「今」が何を指示するかは変幻自在である。代名詞のように、状況に依存するため、今が何時を指すのかは定まっていない。「今」が指示する時刻が変わるにつれ、過去も未来も当然ながら影響を受けることになる。さらに、「今」がどのくらいの時間幅をもつのかも状況に応じて変わってくる。とはいえ、この幅は変幻自在という訳ではなく、大抵は僅かな時間幅に過ぎない。生活する中での「今」の意識は時間的に長くはないが、「今のファッション」と表現されるような比喩的な「今」はそれでも相当に長い。このように、「今」が何時かも、どの位の幅かも曖昧なのだが、私たちは「今」がリアルに各個人に意識されることによって生活が成り立っていると確信している。だから、私たちは「今を生きている」と信じて疑わない。
 さて、「今」は瞬間として時計を使って計られることになっているが、古来測定は正確な知識を獲得する上で欠かすことのできないものだった。暦の制定や土地の測量に代表される追求は人類の楽しみでもあり、苦しみでもあった。量という漠然たるものを数を使って表現することなどと言ってしまうと、測定の苦楽は消えてしまうのだが、測定の背後には、

数量化と性質化、理性化と感性化

と対比できるような仕方でせめぎ合ってきたというのが一般的な理解ではないか。だが、それは明らかに誤りで、数量化、性質化、理性化、感性化のどれもが(それぞれ異なる)測定によって実現されるのである。
 知識を使って対象を知ることは、知識という物差しを援用して対象を知ること、つまり対象を知識を使って正確に測る(知る)ことである。判断するとは測定することの一つと考えることができるのである。
 論理学が扱う言明には真偽がある。これが叙述言明についての大前提であるが、真偽は言明についての最も原理的な測定結果であり、「どの言明も真理値をもつ」という仮定から私たちの判断はスタートすし、推論が実行される。論理規則のシステムは命題の真偽を計算する装置であり、真と偽という二つの値を使って言明が述べる事実や出来事を測り、それらの論理的な組み合わせによる推論についての真偽も計算できることになっている。論理計算に似て、数値化された物理システムの状態から数学的な計算によってそのシステムの未来の状態が計算される。論理という装置、数学という装置だけでなく、私たちは知覚という装置ももっている。知覚も知識、記憶を使って知覚装置を稼働させ、情報を測定していると考えることができる。
 このように述べてくると、知覚、論理、知識はいずれも私たちの周りの出来事や対象を精巧な測定装置を稼働させて測っていると考えることができるのではないか。測定時に曖昧で判定しかねる場合は、約定によって真、あるいは偽に取り決めているし、実数値も細かな約定によって厳格に使われている。つまり、私たちの日常経験、科学研究活動のあらゆる場面で、細かな約定に基づいた判断、判定、測定が実行され、その結果私たちは何かを知り、活動しているのである。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する