■ひろゆきが伝授する「論破法」 1対1の討論は厳禁!必要なのは“ジャッジ”
(AERA dot. - 10月15日 16:02)
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いつも言われっぱなしで頭に来ているあなたへ。討論番組に出るたび、“論破祭り”とネットで評判になるひろゆきが、思わず「そんな方法あり?」と思っちゃうような強力な武器を伝授します。新刊『論破力』(朝日新書)から、「議論の絶対大原則」を紹介。他人を動かすテクニックとは?
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テレビやネットの討論番組には、必ずそれを見ている人がいて「誰が勝ったか、負けたか」を常に判断しています。じつはビジネスシーンでも同じで、議論の場にはそれを見てジャッジする人がいるわけです。つまり、大事なことは目の前の相手と討論することよりも「見ている人に自分をどうプレゼンするか」だと思うのですよ。
要は、そういうジャッジをする人たちがどういう基準で判断するのか、その人たちに何を見せるのかということを考えて、何個かある「勝ちパターン」の中から順番に試して、議論というゲームで勝とうとするわけです。
裏返して言うと、「ジャッジがいない状況では議論しない」が鉄則ということです。
たとえば、デザインA案、B案のどちらがいいかでもめた場合。2人きりで議論してしまうと、本当は自分が決めたくせに、「あのデザインはあいつが決めたんだよ」などとあとで偉い人がいくらでもごまかせてしまいます。
なので、「第三者の証言が取れる状況」が大事なわけです。1対1で言い争いをすることには、まったくメリットがありません。
要するに、なるべく「脇の甘さを出さない」ということなのですよ。
1対1で議論してしまうというのは、おいらに言わせれば、かなり脇が甘い。
そうして1個でも責めるパーツを相手に渡してしまうと、そこをガンガン責められてしまいます。責められ続けると人は簡単に落ちてしまうものなのです。
いろんな責め方があることは、それが得意なおいらはよくわかっています。責められるとすごく面倒くさいことになるということも……。
ジャッジを意識した議論の例をもう一つ挙げましょうか。
「人を殺すことはよいことか悪いことか」という議論をする場合、その議論の勝ち負けを判断する人が、子どもがいるお母さんだった場合には「子どもが殺されそうになって、目の前に銃があって、犯人を殺したら子どもが助かるっていう場合、お母さんは殺しますよね」と言ったら、たぶんお母さんたちは納得すると思うのですよ。
マンガを読んでいそうな子どもっぽい人、あるいは子どもだったら、「いま世界に悪い人がいて、その人さえ殺せば世界が平和になるとしよう。それ殺しただけで世界中の人が幸せになるんだよ。それだったら殺したほうがよくね?」みたいな、マンガとかにありがちな世界観で説明をすると、おそらく支持されるでしょう。
つまり、本当は目の前の相手とおいらの議論なのだけれども、ほとんどの場合は判断する第三者というのがいて、その判断する第三者に刺さるかたちの説明をするということが、議論というゲームの攻略法というわけです。
大事なのは、自分の目の前の言い争いをしている人がどういうタイプか、ではないということ。
あくまでも、議論を聞いている人がどういうタイプの思考パターンを持っているかというところを読む。
そして、このタイプだったらこういう切り口でいくと同意されるだろうなと予想して議論を展開することなのです。
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古代ギリシャには、多くのフィロソフィがいた。彼らは自然を範として、思考を深めた。多くの自然哲学は、数学を生み、それはユークリッドでひとつに結実したとされる。人類の歴史で、それが拡張されたのは19世紀まで待たなければならない。それほど盤石で探求が必要な環境であり、今も探求の手は緩んでいないと思われる。
素朴と例えるのは明らかに深い追及が自然の観察の中で生まれた。地球の大きさも月までの距離も、太陽との距離も求めていた。天動説は今では批判されているが、当時の人々は様々な考えの中から妥当性を求めたのであって、そこに宗教的な意味合いが込められのはずっと後の話である。
おそらく、現代の我々が当時に行って地動説を力説したとしても彼らを説得できるものは少ないであろう。我々が様々な観測機器に基づいて思索をしていることを、肉眼だけでやっていたのである。
もちろん、そこには肉体的な活動を蔑む風潮、文化があったこととも関係していると思われる。それが論理や形而上的な思索が進んだ所以かもしれず、一概に否定できるものではない。
何れにしろ、彼らは討論好きであったのは間違いはなく、そのため弁論術は非常に発展した。それは説得術でもあったし、言論による格闘技でもあった。人を説得するのは簡単で、古来、相手を殺すのがもっとも手っ取り早いというのは共通した認識であった。
それをまず言論による決着に持ち込もうとしたのがギリシアであるとすれば、その価値転換の大きさに驚愕せずにいられない。人間は非常に悧巧なので、ルールが決まれば極めて強く適応する。弁論に決着があるならば、それに特化する方向に進むのは自然である。
勝敗という考えから、真実という概念にシフトしたのがソクラテスと言えるだろう。論を通じて一つの真理に到達できるというのが、おそらくダイモニオンからの啓示だったと思われる。もし真実というものがあるならば、勝負も真理への近似によって判定されるべきだろう。
だが、真理が何かわからない状況であれば、結局、勝敗は判定者によって決まるしかない。ならば、判定者を説得した者に真理があるという逆方向の考え方も成立する。
そういう学派は、詭弁学派(ソフィスト)と呼ばれている。その延長線にディベートがあり、説得術もある。営業術もこれに近い。相手の同意をいかに暴力を得ずに得るか、という技術であるから、哲学者といより専門家と呼ぶほうが相応しいだろう。
これらはもちろん、技術なので人に伝わるものと思われるだろうが、技術は知れば使えるというものではない。使いこなせるようになるにも長い間の訓練が必要なのである。心からの希求なくて技術が染み込むように得られるものでもない。多くの人が同意すると思うが、技術とは極めて個人的資質に依存するものである。
格闘技という視点から見れば、もちろんプロレスvsシュートみたいな戦いもある。一般的にプロレスラーはシュート相手に勝利するのは困難というのが最終結論と思われるが、もちろん、観客が違うわけである。異種格闘技というものは興行的には魅力的なジャンルだが、将棋VS囲碁がナンセンスであるように、格闘技という一種の洞窟の比喩ではないが、イデアとしての格闘技がある。
格闘技には様々なルールや制約により多くのジャンルを生んでいるが、どれもイデアの格闘技という本来ひとつの所から分化したように考える。すると、本質的には対戦可能であると考えるのが道理だ。ならば、どの格闘技が最も強いかという主張はどれがイデアの格闘技に近いか、またはその血脈をもっとも色濃く受け継いだかという争いである。
ま、進化論で例えれば、人間の中でも最もピテカントロプスに近いのは誰だ、という話であ、ま近ければ偉いという話でもなかろう。所詮格闘技なんざ軍隊の前では赤子である。いくら空手がもともと無手で軍隊と対抗するために生まれたといえども、そりゃ刀相手の時代であるし、その工夫も、通用するはずがない。戦争は補給が決める、攻撃力ではないのである。
彼らの討論術が有効に働くには条件がある。もちろん、ライブであること、その時の瞬発力がものを言うのであるが、もうひとつの条件が短期決戦であると思われる。おそらく数時間に及ぶ討論や質疑応答形式では次第に不利に陥ると思われる。
科学は幾つもの討論の上に成立しているが、そのひとつに学会がある。発表して、討論して、わいわいお喋りして解散するものだと思われるが、彼らが戦場がそういう場でないのは明らかだ。
説得力の有効な場所は、例えば外交がある。世に優れた交渉上手はやはりカメラの前での振る舞いが上手だし、発言にも世論の興味を引くことを意識している。日本で最も著名な交渉はイギリスvs高杉晋作であろうか。かしこみかしこみ、と日本神話を最初から吟じて、堂々とこの交渉の意義をきちんと相手に説明しなければならないと嘯く。彼は交渉の長期戦を意図していたように思われる。
彼らがそれまでの内容(コンテンツ)から技術(テクニック)に売るものをシフトしてきたのは注意してよい。
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