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2018年06月13日12:14

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愛国心と言うと拒絶反応を示す一派に、

愛国心と言うと拒絶反応を示す一派が居る様ですが、
本来、愛国心を表明して危険人物観される国はありません、
なぜから反政府主義者ですら、故国を思う価値観は方向性が異なったとしても、
感情としては同じものだからです、

しかし今の日本には愛国心を表明すると危険人物視される風潮が強く、
特に衆目を集めやすい芸能人に対しては、
鋭敏且つ広範囲に敵視されています、

この謝罪文として掲載された文は原文を読みましたが、
私の解釈としては、この歌はどこかを敵視したり、排除する思想はなく、
ただこの国が、日本人の良さが長く良い形で続くように、と願った歌で、
批判されるような意図は全くなかったが、そう受け取ってしまう一派に対しては、
気を悪くされたようで、すみません、と述べた訳で、
日本人全般に対しての謝罪文ではありません、

そう解釈した上で個人的な意見を言わせてもらえば、
この記事を書いた石黒隆之と言う人物ですが、
個人批判と人格批判が度を越しています、

対応の稚拙さを訴え、文の至らぬ点を訴えていますが、
最後に、いったい誰に謝っているんでしょうね、とこの一文だけでも読解力の無さが窺えます、
当時、大東亜戦争と呼ばれたかの対戦は、
少なくとも日本にとっては、国家の維持を目的とした防衛戦争でした、
侵略が目的ならば、植民地からの収奪よりもインフラの整備や、
教育、衛生面の改善に注力した意図からもうかがえます、
侵略に始まる植民地化と言うのは、
収奪を効率的に永続的に行うための行動に限定しており、
教育やインフラの整備は植民地化のそれとは大きく異なります、

その点すら留意出来ない記者のこの文は、
以前見たことのある感があったのですが、
思い起こせば、2011年の高岡蒼甫氏が作られた韓国ブームに対して批判をした一件、
あれを髣髴させるのです、
当時の日記は↓こちら、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1755684697&owner_id=1433863

なぜここまで批判されるのか、
なぜここまで許容できないのか、
なぜここまで文を選ばず書くことが許されるのか、

日本のメディアにとって、日本人の主張する愛国心と言うのは、
韓国内で主張する親日のように許容されないのです、
それは今までの芸能人の活動や言動、趣味趣向においても、
ほぼ例外なく許容はされず、メディア総出で批判を繰り返してきました、

そもそも、先の戦争で、自称被害者であるはずの韓国は、
日本で多くのパチンコ屋を経営していますが、
戦後、一番軍歌をかけていたのはパチンコ屋です、
被害者を訴えつつ、自身の経営する店で軍歌をかけ、
今、軍歌のようだ、とされる歌が世に出たら批判する、
その根拠があまりにもありません、

例えて言うなら、殺人事件の遺族が事件を小説にし、
加害者の視点でドラマ化するなど、被害を痛切に感じていると思うでしょうか、
韓国人が経営するパチンコ屋でかけられていた軍歌と言うのは、
あちらが主張する論で言えばそんな感じになります、

つまり軍歌への批判など、絵空事なのです、
もしそれが許されない行為であるなら、
パチンコ屋の経営者がどういう批判に晒されなければならないか、想像してみてください、

郷土愛は大切です、愛校精神も、愛社精神も大切です、
で、愛国心も大切です、と書くと愛国心の部分だけ拒否反応を示すのは、
GHQの行ったWGIPと言う事実上の洗脳工作の影響であって、
それ自体に何の正当性も妥当性もありません、

今、その洗脳が徐々に解けてゆき、
今回のような歌が世に出てくることは、
私はよい方向性だと思っています、

危険視しなければいけない愛国心と言うのがあるとすれば、
戦わない、守らない姿勢を示して、
危険な諸外国を誘惑する、守る意志のない愛国心、
それだけではないか、と思えてならんのです。



■RADWIMPS、軍歌と叩かれてすぐ出した謝罪文の幼稚な“愛国心”
(女子SPA! - 06月13日 09:22)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=156&from=diary&id=5153231

 ロックバンド「RADWIMPS」の新曲「HINOMARU」(6月6日発売、作詞・作曲 Yojiro Noda)
が物議を醸しています。タイトルの通り、激しい日本愛に溢れた歌詞なのです。

 わかりやすいのは、<胸に手を当て見上げれば 高鳴る血潮、誇り高く 
この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊>や、<たとえこの身が滅ぶとて 
幾幾千代に さぁ咲き誇れ>などのフレーズ。
これにネットでは“軍歌みたいだ”と冷ややかな声が上がる一方、
“国歌にしてほしい”と支持するファンもいて、議論が分かれているというわけです。

◆すぐ謝罪してしまう程度の“信念”だったの?
 改めて言うまでもありませんが、どんなテーマで曲を書こうと
基本的にはミュージシャンの自由です。
軍国主義バンザイとか、大日本帝国復活を願うとか歌っても、それは一向にかまわないのです。

 もちろん、そのようなきわどい表現には反発がつきもの。
32歳になる作者の野田洋次郎氏なら当然分かっていたはずです。
しかし作品に対する強い信念があるのであれば、
謝ったり言い訳したりする必要などどこにもないわけです。
 ところが、彼は6月11日、インスタグラムでこんなコメントを発表しました。
「戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。
傷ついた人達、すみませんでした」と謝罪したのです。

====================
<野田洋次郎氏のコメント、6月11日Instagramより>

「戦争が嫌いです。暴力が嫌いです。
どんな国のどんな人種の人達とも、手を取り合いたいです。
終戦記念日やその他の歴史的な事柄を語る時、アジア各国でライブをする度、
僕はなるべく自分のメッセージを伝えてきたつもりです。
時代に逆行するのではなく、前進しようと。二度と繰り返してはいけないと。
HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。
そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。
ありません。誰かに対する攻撃的な思想もありません。
そのような具体的な歌詞も含まれてません。
この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても、大津波がきても、
台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。
みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。
結果的にその曲で不快な想いをさせてしまった人がいたというのが何より悲しいです。
(中略)

色んな人の意見を聞いていてなるほど、
そういう風に戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした。
これが僕の気持ちです。一つの嘘もありません。(以下略)」
====================

 この件について今井絵理子参院議員(34)は「作家に釈明と謝罪までさせてしまう
今の社会の風潮には賛成することができません」とブログに書いたそうですが、
今回は野田氏が耐えきれなくなって勝手に謝っただけですからね。

◆災害に負けない日本人?謝罪文が晒した幼稚さ
“謝るぐらいなら最初からそんな詞を書くなよ”というツッコミはさておき、
野田氏の謝罪文を読んでいて、違和感を覚える箇所がありました。それは以下の部分。

<この曲は日本の歌です。
この曲は大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、
どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。
みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。>

「HINOMARU」という曲そのものより、筆者にはこの野田氏の心がけの方が気になりました。
災害に負けない強さを描くのに、どうして日本と日本人だけをことさらに特別視するのでしょうか?
なぜそれを日本全体の美徳として過剰に褒め称えるのでしょうか?
日本だけが自然災害にあっているわけではないし、
世界中どの国の人だって「立ち上がって進み続けて」ますよね。

 それなのに「御霊」とか「この身が滅ぶとて」とかの言葉で崇高さを演出したくなってしまう
心理は、一体どこから来るのでしょう?

 もしこの釈明で世論を和らげられると考えたのなら、
野田氏は大きな間違いを犯してしまったかもしれません。
マッチョな軍国主義よりも、民族的な優越性をソフトにPRする姿勢こそが
破局的な戦争を引き起こしてきた歴史があるからです。

「HINOMARU」を書いた野田氏なら「八紘一宇」(※)をご存知のはず。
この言い訳が本心だとしたら、けっこう深刻なのではないでしょうか。

※編集部注:八紘一宇(はっこういちう)/「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。
第2次世界大戦中に日本の中国、
東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。
(ブリタニカ国際大百科事典)

 そういう点で、野田氏の“日本愛”は危ういのですね。
愛が強すぎて(本当に強いかどうかは知りませんが)、物事の前提が見えなくなってしまう。
そのため、ごく単純な論理すら組み立てられなくなり、
“日本人は特別だ”といった幼い全能感が生じてしまうのではないでしょうか。

◆5年前の「五月の蝿」にもにじみでる幼さ
 さて政治的な興味から注目された「HINOMARU」ですが、
野田氏の“幼い全能感”は他の曲からも見て取ることができます。
「五月の蝿」(2013年、作詞・作曲 野田洋次郎)という曲が典型的ですね。
上っ面だけ暴力的な言葉の羅列によって、
とりあえずセカイと個人が対決しているような雰囲気を作る。
そんな不可解な戦いの中で、どういうわけか重要な真理を知った気になってしまう。



<君が襲われ身ぐるみ剥がされ レイプされポイってされ途方に暮れたとて
 その横を満面の笑みで スキップでもしながら鼻唄口ずさむんだ>

<激動の果てに やっとたどり着いた僕にでも出来た絶対的な存在
 こうやって人は生きてゆくんでしょ?生まれてはじめての宗教が君です>

「こうやって人は生きてゆくんでしょ?」と言われても、違うんじゃね?
としか言いようがないのですが、ともかく、世間一般から隔絶した形でしか人間を描けない点が、
日本や日本人を世界と切り離して神聖視してしまうことと通じているように感じるのですね。
“他とは違う”とか“特別である”ということへのこだわり。

「HINOMARU」と「五月の蝿」はそれぞれ異なるテーマの楽曲ですが、
その根っこにあるのは“特別”を求める野田氏の痛切なまでの凡庸さなのではないでしょうか。
もっとも、この凡庸というやつこそ取り扱い注意なのですが……。

 こうした批判に対しても、“表現の自由がおびやかされる”と訴える人達もいるようです。
もちろん、筆者は野田氏に対して“今すぐ「HINOMARU」を撤回しろ”とか
“こんな歌詞を書いたのだから謝れ”なんて言った覚えはただのひとつもございません。
好きなように書いた曲に対して、好きなように意見や感想を言う。それだけの話です。

 野田氏が「みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。」と言うのであれば、
「海行かば」なら歌いたいけど、とてもこんな歌はうたえませんと返すまで。
“日本が好きで何が悪い”と言われれば、
その勇ましいかけ声に言葉遣いが追いついていませんよと指摘するまで。

 思想信条が悪いのではありません。
その着想や表現の仕方に見過ごせない不具合があるから「HINOMARU」に対して
NOと表明するのです。

 表現の自由を訴えるのならば、遠慮のない批判を突きつけられたとしても、
それを受け入れる覚悟とセットでなければ成り立たないはず。
何より残念だったのは、当の野田氏がその機会を
“謝罪”という形でうやむやにしてしまったことなのではないでしょうか。

 というわけで、色々と考えてみましたが、
それにしても野田氏は一体誰に何を謝っているんでしょうね?

<文/音楽批評・石黒隆之>
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