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2018年03月17日22:56

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三春の算額から神の数式へ

 久しぶりに日記を書く。つぶやいているうちに考えがまとまってきたので、日記にして残してもいいかなと思った。
勢いで書いたから、かなりの誤りを含んでいると思うが、これでいいのだ。

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 金曜夜の「新日本風土記」再放送が三春町の回だったので見た。2015年5月29日放送回だそうだ。

 三春町は家から一時間ほどの距離にある(福島県人の感覚では「それほど遠くない」)が、あまり行った事はない。ゴールデンウィークに滝桜を見た事はあるが、滝桜までの山道があまりに長い渋滞で、一度で懲りた。あんな山の中に大渋滞があるとは想像もしなかった。
 メディアに出る事はあまりないが、滝桜はダム湖のほとりにある。滝桜の下には沈んだ里があるということだ。家族と滝桜を見た時はダムが完成した直後で、まだ水が溜まっていなかった。草に覆われた無人の集落を、滝桜の近くの道から見下ろした事を思い出した。

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 番組にはとりたてて何も期待しなかったのだが、三春の和算家を取り上げていて、見て得したと思った。番組によると三春全体で25の算額が奉納されている。名前を失念したが、三春の和算家に数千人の弟子がいて、ほとんどが農民だったという。
 適当に調べた所、どうやら佐久間庸軒という人らしい。意外にも三春で算術を指南したのは幕末から明治にかけてで、門弟が2000人以上いたことが明治初期の入門帳に残っている。(ただし全員が庸軒の直弟子とは限らず、孫弟子も含まれている可能性があるという)
 三春藩のような田舎に和算家がいた事は、和算を知っていれば意外な話ではないが、藩の政策と関係していたと番組で言っていたのは初耳だった。藩主の秋田家が学問を奨励した事が背景にあるらしいが、詳しい事情は番組では分からない。福島県の和算について書いた本はないだろうかと思った。

 少しだけ調べてみたら、福島県和算研究保存会により『福島の和算』(1970)、『新・福島の和算』(1982)、『福島の算額』(1989)が出版されていると知った。しかしいずれも入手困難だ。無理して探すより、東北の和算全般を扱った五輪教一『黄金比の眠るほこら 算額探訪から広がる数学の風景』(日本評論社2015)を読む方が早そうだ。そこから参考文献を探っていく事も可能だろう。
 五輪著については今のところAmazonのレビューしか見ていないが、算額が全国で最も多く保存されているのは福島県だそうで、100面以上が確認されている。三春藩は福島県の和算の中心地だったのかもしれない。

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 そして今日、BS1の「神の数式・完全版」を見た。この種のノンフィクションは数式を徹底的に避ける習慣があるが、この番組は量子力学だろうが一般相対論だろうが、式をあらわに出して、その「意味」を説明する。最終的には超弦理論を紹介して、話が終わる。
 見ていて、数式が一つ増える度に読者が半減するという「法則」は根拠のない思いこみなんじゃないか、と感じた。この番組の難易度は他の科学番組と大差なく、数式を前面に出した事で難解になった様子は全くないからだ。
 式を具体的に示して、その「意味」を言葉で説明する。これでいいじゃないか。どうして世間は、数式をあんなにも恐れるのだろう。

 この「読者半減の法則」は『ホーキング、宇宙を語る』P6に書いてあるが(誰かが著者に助言したそうだ)、これを文字通り受け取ると、式が33以上ある本は読者数が1より小さくなる。すなわち読者が存在しえないので出版されるはずがないという結論が導かれる。現実と合わない事は明らかだ。

 しかし高校数学からベクトルを追放しようと画策している文科省の官僚は、この、法則というより俗説を真実と思いこんでいるのかもしれない。私はこの件を、
http://webronza.asahi.com/science/articles/2018022600003.html?ref=opimag1803_sp_con_mailm_0313_312
高校指導要領改訂案:数学への悪影響は甚大だ

で知った。

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 ベクトルについて、こんな事を思い出した。以下は20年以上前の話である。現代の事情とは食い違っている点もあるかもしれないが、とりあえず思ったままの事を書く。

 私が高校で行列の掛け算を習った時、なぜこういう規則なのか悩んだ。それでも、ベクトルと行列の積はまだ良かった。連立一次方程式という具体例があったからだ。悩んだのは行列同士の積で、なぜこんな計算規則になり、他の規則にならないのか、どうしても納得がいかなかった。
 卒業してずっと後になって、平面上でベクトルを別のベクトルに変換する図形を作ってみると――正確にいうと、二種類の変換を続けて行うと――変換が2次行列の積で表される事を見出した。ああ、高校の授業でこれをやれば良かったのにとつくづく思った。

 さらにこの時、ベクトルに変換Aを施した後、引き続いて変換Bを施せば、変換の全体はABではなくBAで表される事を知った。つまり、行列の積は「二つの変換を右から左の順に行う」操作を表している。
 ここからさらに、行列に関する最も基本的な事実に気づいた。すなわち、「行列の式はベクトルを右辺から左辺へと変換する操作である」と考えると理解できることに。授業では式に「向きがある」事など全く教えてくれなかった。大学の線形代数テキストにもそうは書いていない事が多い。どんなテキストでも行列の積では交換法則が成り立たないと書いているにも関わらずだ!
 普通のテキストはこのように書いている。

フォト

 これでは、なぜ行列をベクトルの左に書くのか、その理由がわからない。しかもテキストは、ベクトルを行列の左から掛けることはできないというから、余計混乱する。しかし以下のように、

フォト

ほんの少し書き直せば、操作が右から左に進んだ結果として右辺のベクトルが左辺のベクトルになる。右辺のベクトルを左辺のベクトルに変換する操作が行列である、という事が直感的に明らかだ。

(そう考えると、行列の左にベクトルを書くことができない理由もはっきりする。行列はあくまで「操作」だから、先立って変換するためのベクトルがあって初めて意味を持つ。左にベクトル、右に行列を書いたのでは、「ベクトルなしの操作」がまずあって、それから「ベクトルさせる」、という順序になってしまう。これでは何のことか分からない。まるで『不思議の国のアリス』のチェシャ猫だ)

しかもこれは関数記号y=f(x)と同じ形であるから、行列が「関数の一種である」、すなわち行列とはベクトルをベクトルに変換する関数だという事もすぐ理解できる。このような「関数」がすなわち線形写像である訳だが、大方のテキストは「言葉の定義」と数式の「書き方」がチグハグになっているのだ。

 以上は20年前に実際に紙に図を描いて確かめた事であり、平面上の線形写像を考えれば二次行列の計算規則は自明になる。
 いかに自明になるか例を挙げよう。行列の掛け算は一般に非可換であるが、二次の回転行列の積は可換になるはずだ。
 これは今即興で立てた予想だが、まず間違いない(たぶん手持ちの線形代数テキストのどれかに、練習問題として載っていると思う)。平面上の回転は、90度回転してから180度回転しても、180度回転してから90度回転しても同じ結果になるからだ。行列の計算を図形の操作――ベクトルの変換――としてイメージすれば、結果は直観的に理解できる。同時に、三次の回転行列の積が可換でない事も、すぐに分かる。

 しかし幾何学的ベクトルを知らなければ線形写像を学びようがない。行列の計算は勝手な約束事として教えるしかなくなる。生徒は規則を丸暗記するしかない。これでは教師も生徒も浮かばれないだろう。
 だが聞くところによると、高校数学から行列が排除されて久しいという。行列を教えないのだからベクトルを教えなくても支障はないという趣旨の政策なのだろうか。
 上記記事によると、高校指導要領改訂案は「数学における基本的な概念や原理・法則を体系的に理解する」のが第一の目的だというが、ベクトルを知らなくて「原理・法則の体系的な理解」ができるのか。文科省はどうしてそんな事が可能だと考えられるのか。

 数学教育政策はあるべき道の逆を行き続け、自滅へと向かっていると思う。

 この分だと、遠くない将来には故平井和正の名言「小説には読者を結末まで引っ張っていくベクトル感覚が必要」も、理解不能になっていることだろう。

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 ベクトルを授業から無くすような愚かな政策がなぜ推進されようとしているのだろうか。思うに、彼らの本音、発想の根底にあるのは「数学の能力は権威の象徴である。格別な労苦に耐えて習得した特権者が占有すべきだ」という思想だろう。だから、数学を必要としない一般庶民の学習は労力を軽減してやるべきだ。ただし統計のような実用的な道具を使いこなせる程度の訓練は施してやろう、という理屈になる。つまり彼らは、人民大衆に恩恵を施しているつもりなのだろう。

 勉強が苦手な人たちは、これを結構な事と思うかもしれない。だが学習軽減の思想を推し進めれば、社会階層の固定化につながる。つまり「知識人」と「無知な一般大衆」が文化的に断絶した社会に行きつく。こう考えると、教える側が学ぶ側の「勉強を楽にしてやる」事は、社会に深刻な悪影響をもたらす可能性がある。

そういえば、家畜を「楽にしてやる」と言えばどういう意味になるか。……分かるね?

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 けれども、格差社会に反対する立場の人が教育を語ると、知識は「特別なものであるから貴重であり、貴重だから万人に与えられるべきだ」という発想になる事がある。それでは、知識を一種の「利権」と見なす事になり、階級格差を生み出す思想と根底では同じになってしまう。
 苦しい労働からひととき心を解放してくれる娯楽として和算に親しんでいた農民に、自分たちのやっていることが「特権的な知識である」という発想は夢にも浮かばなかっただろう。

 現代人にはにわかに信じられない事かもしれない。しかし和算について少しでも知ると、それが事実と分かる。各地に残されている算額を見ると、実用的な計算ではなく純粋な幾何学の問題ばかりだ。しかも算額の大部分は農村部の神社に奉納されている。すなわち、和算の学習者の中には多数の農民がいたが、彼らが和算を生活に役立てる可能性はほとんどなかった。それにも関わらず多くの弟子を持つ和算家が農村部に存在した。
 先日の新日本紀行のナレーションによると、三春には三千人の門弟を持つ和算家がいたという(検索したら佐久間庸軒の門弟は二千人とある。三千人は聞き間違いかもしれない)。
 もし門弟がみな武士だったとしたら、三春藩のような小藩の藩士が全員門弟になっても足りないだろう。門弟は県内外にいたというが、当時の交通事情から、遠方にいた門弟が大部分だったとは考えにくい。したがって弟子の多くは農民だったとしか考えられない。つまり農民が和算家に授業料を払って学んでいたわけだ。

 江戸時代の農民の暮らしは楽なものではなかった。その中で、決して生活の役に立たないと知りながら、しかも金を払ってまで勉強をする愚か者がどこにいるだろうか。明らかに彼らは「楽しいから和算をやっていた」のであって、「大事な事だから学んでいた」のではなかった。和算が学問ではなく「芸事」であったという事は、三上義夫が明らかにして以来、和算研究の基本である。
 確認した訳ではないが、私は娯楽の少ない農村部において、和算は貴重な農民の娯楽だったのではないかと思っている。
 もし農民たちの前に現代からのタイムトラベラーが現れて「君たちのやっている事は勉強だ」と言ったなら、彼らは仰天したに違いない。
 彼らは「学習していた」のではない。近頃流行りの言葉でいえば「楽習」していたのだ。

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 私もまた、残された人生を「楽習者」として生きていきたいと切に思っている。

 私が仕事の合間に数学書をあれこれ読んでいた時期はもう20年前になるが、それは職業上の必要とは無関係だった(仕事で数学を使わなかった訳ではないが、読む本とは基本的に別だった)。では何のためにやっていたのか。学校で訳も分からず機械的に押し付けられた規則の「意味」を自力で発見し、納得することができるのが楽しかった。その「楽しみのために」数学書を読んでいたのだ。
 江戸時代の農民が和算を学んでいた心理は、これと大体同じだったのではないかと私は思う。彼らは高度な公教育こそ知らなかったが、知識を学んで「自力で納得する楽しさ」という点では、和算も線形代数も変わりはない。

 現代人は数学を学歴や社会的地位、理工系専門職と結びつけて考える。それ以外の見方を知らないと言っていい。しかし和算は全く異なる社会的基盤の上に発展した。江戸時代、東北小藩の農民が和算を愛好した心情は現代人にも了解可能であると、自分の経験から実感を持って言える。

 近年、和算が一般人から注目を集めるようになり、和算研究書や和算小説などが盛んに書かれている。しかし和算への関心が日本人の自惚れ鏡、「江戸時代の日本数学スゲー!」に留まるのであれば、そんなものを今さら評価する意味などない。西洋近代数学の成果の方が和算より遥かに「スゲー」事は明らかだからだ。

 現代人は和算の数学的成果よりも、「農民たちの気晴らしであった」和算の精神こそを評価すべきと思う。
 ニュートンやオイラーやガウスを生み、近代科学を生み出した西欧文明に、「数学を楽しむ農民」は一人でもいただろうか。農民の子が教育を受けて数学者になった例なら西洋にもいくらでもある。ニュートンだって農家の生まれである。問題は農民が農民のまま、楽しみのために数学を学んでいたかどうかだ。学問的に立証されているかどうか知らないが、そんな話は聞いた事もない。たとえいたとしても、きわめて稀だろう。おそらくこのような社会現象は世界広しといえども近世日本だけなのではないか。
(インドについてはどうか。かのラマヌジャンはバラモン階級に属していた。この事実が無言のうちに語っていると思う)

 和算が素晴らしいとしたら、そういう「文化」を生み出したからである。そこをちゃんと評価しさえすれば、和算がついに近代科学を生み出せなかったことでさえも、問題ではなくなる。
 数学が多くの貧しい人たちの「生きる喜びであった」。これこそが和算が歴史に刻むべき成果に他ならない。
 そして、日本人が取り戻すべき文化でもある、と私は思う。

 そのためには、和算の難解な幾何学問題を解く必要はない。庶民の一人一人が思い思いに数学書を読み、微分積分や線形代数を自習し、教科書から解放された自分だけの数学を味わう時間を持てばそれでいい。そして、和算の問題はどんなに精緻だろうと所詮は現代社会と無縁でしかないが、西欧数学を学ぶのであれば、現代文明の一員である事を実感できるようになる、という功徳がある。
 そのような「文明との一体感」こそが万人が身につけるべき心性であり、その過程で得られる「喜び」は、学ぶ対象が西欧の産物であっても、日本人が和算から受け継いだものである。
 一労働者が仕事に使うでもなく数学を勉強した20年前の自分は、「和算の精神を生きていた」のだと今になって思う。そういう「精神」を日本人は取り戻すべきだ。

 その先には、全ての人が「神の数式」を手にする社会があるだろう。

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