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2017年12月28日04:45

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ミサのエロティシズム

 カトリック教会のミサ、特にクリスマスのミサで異教徒の私でさえ心中穏やかでなくなるのは、クライマックスの聖体拝領、つまり、パンとぶどう酒をいただき、聖体の秘跡を体験する時である。つまるところ、ミサとは聖体拝領の儀式なのである。異教徒の私はパンとぶどう酒を口にすることができず、独り席に座ったままで信者たちの聖体拝領を見ているだけなのだが、その孤独で取り残されたような時間が私には特別の時間なのである。私の想像はあちこちを駆け巡り、聖体を拝領する信者たちの子羊のような姿はカニバリズムの洗練された姿のように見え、神と一体となれたと感じる時の高揚感のある心持がどのようなものかとあれかれ思いを巡らすのである。
 私の眼前には、聖別されたパンとぶどう酒、つまりキリストの血と肉を食す人々が列をつくっている。神の子と一体になるためにその一部を食べるというのはとてもわかりやすいのだが、それが直接過ぎて返って戸惑うのである。憑き物、憑依と言った原始的な現象がミサの中に残っているのではないかと想像するだけでも心が躍り、しかもとても原始的な気分になるのである。

フォト
(ディルク・ボウツ「最後の晩餐」(1464−67))

 イエス・キリストとして受肉し、最後の聖餐は実は自らの血と肉を使徒たちに分かち与えることだったことを暗示するかのように、ミサでは聖体の秘跡がなされ、信者たちはキリストの一部を自らの身体に取り入れ、神を自らの中に感じるのである。ここには信仰の原型、信仰の直接性がそのまま赤裸な形で見えているのである。狐憑きの如く、イエス憑きになることによって、信者は神を感じ、神と一体となって、神に従うのである。
 神の戒律でも神の瞑想でもなく、神の愛に基づく教えは肉体的な、場合によっては性的な直接性に基づいているのだと聖体拝領を通じて感じてしまうと、ミサはとてもエロチックな儀式に見えてくる。これは異教徒の私だけでなく、信者こそがもっと強く感じることではないだろうか。神の身体の一部を拝領し、神の愛を感じる直接の機会がミサであり、その時に信者はキリストの血と肉を通じて神と神の国を実感するのである。残念ながら、異教徒の私はそれをじっと眺め、色々と妄想するしかないのである。
 日本神話とギリシャ神話はよく似ていると言われてきたが、どちらの神も既に受肉していて、とても人間的である。そのためか、ギリシャでは神と人間の混血である半神がたくさん誕生したり、日本では天皇が神の子孫になったりできるのである。一方、神の一度限りの受肉であるイエスはマリアの子供として生まれ、人々の原罪を背負い十字架に架けられ、それでも復活する。イエスが十字架に架けられて死んだのは全人類の罪の贖いのための生贄。そして、さらにイエスが昇天したのち、イエスは自分に代わり、福音告知のために使徒たちの弁護者としてこの世に聖霊を送った。このシナリオは他の神話よりうまくできていて、信仰のシナリオとしては遥かに長けている。人の心を巧みに捉え、その心を操るシナリオとして見事だと思うのは私だけではない筈である。
 きっとまともな信者の方々は、私のよからぬ心の内を非難するだろう。だが、ミサがポルノだと言っているのではなく、ミサはエロティックだと言っているのである。私には、エロスは愛であり、愛こそがキリスト教の本質だと思えるのである。

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