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2017年11月13日02:47

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もし徳川信康が生きていたら

第二次上田合戦は、1600年9月8日、総勢3万8千の徳川秀忠を総大将とする、徳川軍が、わずか3500の真田昌幸・信繁(幸村)率いる上田城の真田軍にこてんぱんにやられ、9月15日の関ヶ原の合戦に遅参するきっかけとなったと言われている戦です。

まず、戦の前の両軍。
小諸に軍をおいた秀忠は、昌幸の長男、信幸(のちの信之)と本多忠政を使いにやって、昌幸に開城を迫ります。
ところが老獪な昌幸は、のらりくらりと返答を渋り、応えない。
家康ならすぐにわかったと思いますが、昌幸の目的は時間稼ぎ。この秀忠の徳川本軍を関ヶ原に遅参させ、あわよくば15年前の第一次上田合戦の時のように、ふたたび徳川に煮え湯を飲ましてやろうと、ひそかに兵を集結させ、兵糧を集め、またある狙いをもって神川を堰き止めるなどの下準備をしていた。
一方、家康の参謀である本多正信と徳川四天王の一人、榊原康政が当時秀忠の軍におり、攻めるべきではないと、秀忠に進言。
というのも、二人は第一次上田合戦での真田の強さを聞かされて知っていたし、おまけに秀忠は初陣。勝てる相手ではない。
軍勢の差? そんなもの真田には関係ないことを、第一次上田合戦の時に思い知らされていた(あの時は徳川7000に対し、真田1200)。
よって相手にせず、関ヶ原に直行すべきと、秀忠を諫める二人だったが、兵力に勝ることを頼みに思っていた、土井利勝ら戦馴れしていない重臣や、先の上田合戦の恨みを忘れられない部下が多かったせいもあり、秀忠の気持ちは戦の方へ傾いていた。
直接の引き金になったのは、昌幸のこの態度であった。
さんざん待たせたあとに、
「いや、待たせた。実は籠城の支度に手間取っておっての。そこもとが待ってくれたおかげで準備万端整った。さて、一合戦つかまつろう。」
この、あまりに人をナメた宣戦布告に秀忠は逆上。
「謀ったな! 安房守!」と怒鳴り散らして上田攻めにかかった。が、これは昌幸の思うツボ。
ここまでにもう3日が経過。真田は十分な足止めに成功したと言える。
ただ、これが事実ではなく徳川本軍のもう一つの目的が、西軍の残党狩りであったなら、真田は討つべき敵だったと言える。

ここからは"もしも"の話になってゆきますが、この徳川本軍、仮に、信長に謀反の疑いをかけられて、21歳の若さで(満20歳)死に追いやられた家康の嫡男徳川信康、父家康以上の大器と言われ、将来を嘱望されていた信康が生きていて総大将になっていたら、どうなっていたか。それを考察してみたい。

秀忠本軍は上田城東部の染谷台に陣を置き、上田の支城、戸石城にいる信繁(幸村)を攻めよと、兄、信幸(信之)に命じたが、信繁は戦上手でもあり、兄でもある信幸と戦いたくないと、戸石城をあっさり捨て上田城へ逃れる。信幸は戦わずして戸石城をせしめ、秀忠は幸先がいいぞと、気を良くするのであるが。これは兄信幸に手柄を立てさせて、兄の徳川での立場をよくさせてやりたいと言う、信繁の兄想いの作戦だった。ここまでは史実であり、よしとする。

さて、問題はここから。
一息ついた秀忠本軍は、おもむろに次の作戦へ。牧野康成に命じて、上田城下の田畑の稲を刈らせる挑発行動に出た。旧暦9月ですから稲が稔る時期。ちょうど頃合いだったわけです。
そんなことをされては困ると、数百の真田軍が城を出、これを阻止せんとして、戦となる。徳川としては、餌にかかったな。しめしめというわけです。手ぐすね引いて待っていた後衛の本多忠政の軍が襲いかかり、数百の真田勢はたちまち散り散りに。そして上田城へ敗走。
ところがこれ、実は囮。徳川軍は深追いしてはいけなかったのです。
そうとも知らず、徳川の酒井、牧野、本多の第一陣、第二陣、第三陣が次々城の大手門になだれ込んだ。これがまずかった。この部隊、戦馴れしていないから、隊列を組んでいない。統率の取れないまま無鉄砲に斬り込んだ。まるで乱れる様に徳川第一陣が城門前に飛び込んできた。
手ぐすね引いて待ちかまえていたのは、実は真田の方だった。突如城門が開いた。そこにはずらっと並んだ真田の鉄砲隊。それが一斉に火ぶたを切った。蜂の巣にされてはたまらんと第一陣は命からがら敗走。そこへ隊列の整わぬままなだれ込んできた第二陣、第三陣が衝突。徳川の先鋒はまさにカオス。大混乱に陥り、そこへ背後から銃矢の雨が。さらにとどめとばかり、真田の本軍が城を出、規律の取れない徳川はあっと言う間に大敗の末に敗走。だが多くは討たれ、無駄に命を落とし、傷ついた。大手門前は死屍累々の山。

この場面、信康がもし生きていて、真田軍を見ていたらどう指揮を執ったか。
まず、阻止せんと出た数百の真田勢に、「何か妙だ」と思ったはず。信康は戦馴れしており、観察眼もすぐれたものがあった。状況判断も的確。勘もよかった。強敵真田がこうやすやすと負けてくれるはずがない。だから深追いはせず、第一陣は城門の手前でさっと左右に散る。近隣の物陰に隠れ、真田が城門から出てくるのをじっと待つ。 こっちも囮の軍勢を数百ほど城門へわざとなだれ込ませ、挑発しておいて、城門が開くのを見るや、攻めずにサッと引く。真田軍が出てきたらしめたもの。ここぞと数千におよぶ大軍を波状攻撃で襲いかからせる。
これでは真田もどっちが罠にかかったのか分からない。たちまち真田軍は敗走。城へ逃げもどる。
実際には真田もわかっていて、簡単に城門を開けるようなことはしないと思う。よって双方の睨み合いになる。容易に勝負がつかない。
ひとつ言えることは、信康は知略に長けており、深追いはしないということ。頃合いをみてさっと軍を引く。あの武田信玄は逃げかたもうまかった。昔から「戦上手は逃げ上手」と言われます。逃げ足が早くなくては戦上手とは言えない。

史実での秀忠は、ほうほうの体の先鋒をよそに、染谷台の本陣に休んでいた。
信繁はひそかに城を出、鉄砲隊を含む200の手勢を率い、秀忠本陣の北東で夜討ちのチャンスを狙っていた。徳川軍が寝静まった頃合いをみて、信繁軍は行動を起こした。ひそかに接近して至近距離から一斉射撃。不意を突かれた秀忠軍は蜂の巣をつついたような大混乱。そこへここぞとばかり、信繁の手勢が斬り込んできた。秀忠は命からがら小諸へ敗走。危ないところだった。

信康だったら、この場面、どう受けて立ったか。
戸石城を出た後から信繁の動きが掴めないことが気にかかっていたはず。
信繁はどこかに息をひそめて夜討ちの機会を窺っている。これは信康がきっと持っているであろう長年の戦の勘です。このとき彼は41歳の壮年期。男として油が乗り切っている時期です。どれほどの戦上手になっているか想像できないほど。
信繁め。ならば我々はその裏をかいてやろう。その夜、信康本陣は前祝いとばかりに飲めや歌えの大騒ぎ。酒宴を張るわけです。ところがこれはあくまでも振り。酒なんか飲んではいない。やがて、騒ぎ疲れて寝静まった"振り"をし、斥候をひそかに立て、真田の襲来を虎視眈々と待っている。
信繁軍を引き付けるだけ引き付けたら、さっと陣幕をあげる。そこには徳川の脅威の鉄砲隊がずらりと並んでいる。信繁軍と凄まじい撃ち合いになります。数に勝る徳川軍がここは圧倒的有利。
だがこれも、実際には信繁は夜戦をしかけずに終る可能性が高い。様子がおかしいと察する能力は信繁も一流です。勝算がない限り信繁は攻めない。

こうなると昌幸がかねてから神川を堰き止め、人工の鉄砲水を起こしても、そんな罠にはかからない信康軍。勝負は持ち越しにして、さっと兵を引き、関ヶ原に馳せ参ずるでしょう。 戦にも間に合うし、父家康に恥じ入ることもない。「それでこそ徳川の嫡男。さすがだ、信康」と家康は肩を叩いたかも。
実際、信康は武田との長篠の合戦にも参加し、軍功を挙げているし(当時16歳!)、遠江横須賀の戦でしんがりをつとめ(当時満18歳!)、あの武田軍に大井川を越えさせなかった。「徳川に信康あり」を印象づけた。もし上田合戦を任せたなら、これくらいの軍功は立てたであろう知将だった。関ヶ原の時存命ならば41歳になっているわけだし、真田昌幸のような戦国ダヌキに化かされるようなドジはしない。
実際には信康は1579年に没しており、1585年の第一次上田合戦で徳川軍が真田昌幸・信幸の軍に苦杯を飲まされた時、すでにこの世の人ではなかった。
秀忠の本軍が関ヶ原に遅参した時、家康は「信康が生きておれば、こんなことにはならなかったものを」と思わずつぶやいたと言う。
関ヶ原の合戦の日、9月15日は、奇しくも信康の21回目の命日であった。これは「もしも」の話だが、徳川信康対真田昌幸・信繁の第二次上田合戦は「戦国史上有数の名勝負」になったのではないか。そんな気がしてならない。
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