あくまでも信じたものが真理となり、
あくまでも信じたものとの比較が真実になる。
信じたものが一定であればよいが、
信じたものは容易に形を変え、記憶を変え、
僕らの前に、常に違う事象で現れる。
その全ての場合を探ろうとするとき、
場合の数ばかりが、爆発的に増え、
いつしか、自身の真理に基づく選択に対して、責任を負うことを避ける。
しばらく、避けることの自己嫌悪に陥るので、
真理と思ったものがちょっと形を変えただけなのか、
本当に違うのか、もはや分からなくなるが、
突如として光が、一筋入るように、
1つの真理に見える瞬間がある。
僕らは、こんどこそこれだ、と、それを信じる。
この瞬間、循環が形成され、再び文頭の感覚に戻る。
僕らは、この循環繰り返してるだけで、成長をしていないと感じる。ただ年を取っただけだ、と。
しかし、爆発的に増えた場合の数分だけ、僕らは、
成長したのでは?、と、信じたくなる。
この成長を信じたいという気持ちが、これまで記述した1つの信じた真理の上層に立ち込め、自分が持っているはずの真理に層を生じさせる。
真理に層などあるのだろうか。
だからこそ、面白いのか、いやになるのか?
そのわだかまりは、寝ることにより、
不思議と忘れ去られ、もしくは、潜在意識に格納され、
また、次の日を迎える。
寝て起きた後、僕らは何が変わっているのだろう?
少しでも、成長できてたら、いいな。
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