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2017年10月01日00:56

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10月1日の日記

今日の出来事:1863年−七卿落ち、1868年−仙台戊辰戦争:第二次駒ヶ嶺攻防戦、1868年−北越戊辰戦争:長岡藩家老・河井継之助死去、1946年−ドイツの戦争犯罪者を裁くニュルンベルク裁判が終了、1982年−ソニーが世界初のCDプレーヤー「CDP−101」を発売

今日は、七卿落ちです。「八月十八日の政変」で、7人の公家が京都から追放された事件です。薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した「八月十八日の政変」で失脚した尊王攘夷派の公卿・三条実美(27歳:権中納言従三位)、三条西季知(53歳:正二位行権中納言)、四条隆謌(36歳:従四位上行侍従)、東久世通禧(31歳:正四位下行左近衛権少将)、壬生基修(29歳:従四位上行修理権大夫)、錦小路頼徳(27歳:従四位上行右馬頭)、澤宣嘉(28歳:正五位下行主水正)の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びました。彼らは官位を剥奪され、長州藩兵に付き添われて洛東にある妙法院に集結した後、兵庫津を経て、海路で長州藩の三田尻港(現・山口県防府市)を目指しました。途上悪天候のため、3隻のうち2隻が徳山藩の徳山港(現・山口県周南市)に上陸し、ここから陸路、三田尻に向かいました。その後、錦小路頼徳は病没、澤宣嘉は「生野の変」で挙兵した後に脱出して長州に潜伏、残る五卿は「第一次長州征伐」の後に筑前国太宰府に移されました。1867年12月、「王政復古の大号令」の前夜、朝議にて赦免され、官位や諱が復されると、澤宣嘉は外務卿、三条実美は太政大臣や内大臣、三条西季知は参与や神宮祭主、四条隆謌は奥羽追討平潟口総督や陸軍中将、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長、壬生基修は越後口総督参謀や東京府知事となり、それぞれ明治政府の要職に就きました。

次に、仙台戊辰戦争:第二次駒ヶ嶺攻防戦です。駒ヶ嶺を失った仙台藩は駒ヶ嶺北の坂元に集結し、駒ヶ嶺を新政府の手から取り戻すべく、奪還のため出兵しました。列藩同盟軍の春日左衛門の指揮する「陸軍隊」も加わり、約3000名となった仙台藩の戦力は3隊に分けられました。駒ヶ嶺、曹善堂、今泉を同時に攻めて新政府軍を釘付けにし、旗巻峠の鮎貝太郎平の兵を動かして、駒ヶ嶺の後方から新政府軍拠点の相馬中村城へ攻め込むという戦略でした。新政府軍総督の四条隆謌は「仙台追討総督」の名をもって仙台藩と交戦していましたが、大総督府から「奥羽追討平潟口総督」という新たな役目を受けました。これは仙台藩のみでなく、「奥羽列藩同盟」を戦略目標とする方針転換でした。仙台藩兵は3隊に分かれて、坂元から駒ヶ嶺に向けて出陣しました。駒ヶ嶺東、海側の藤崎には熊本藩が入り、久留米藩は駒ヶ嶺の陣で防御を固めました。3隊に分かれた仙台藩のうち海側の部隊は、藤崎の熊本藩と交戦しました。藤崎は低地であったため熊本藩は上からの射撃を受けましたが、胸壁や樹木に隠れて、後方からの援軍を待ちました。一方、駒ヶ嶺の久留米藩は仙台藩の2部隊の襲撃を受けて苦境に陥っていました。仙台藩の先陣を行く西山権弥の隊は駒ヶ嶺の番所を抜き、外郭を制圧、火を放つと久留米藩兵の一部が潰走を始め、駒ヶ嶺の奪取まであと一歩のところまで迫りました。しかし、雨が降り出し、仙台藩の火縄銃、大砲を中心とした火力は激減しました。降雨の影響を受けない後装銃を用いた新政府軍が、陣地を維持しました。午後3時頃、到着した長州藩、岩国藩が援軍として久留米藩を支援しました。長州藩は駒ヶ嶺に増援に入り、岩国藩兵は西側を回って仙台藩の側面を突きました。さらに新政府軍に鳥取藩兵が到着し、久留米藩、長州藩が攻勢に移ると、仙台藩は潰走しました。駒ヶ嶺の北北西の福田にまで追い立てられました。一方、仙台藩の旗巻峠方面軍は、細谷十太夫が率いる「衝撃隊(黒装束を身にまとい、半てんの背中にカラスの文様が描かれていた事から「からす組」と呼ばれる)」が旗巻峠の麓にある初野へ向けて軍を進め、鳥取藩と相馬中村藩に遭遇し、交戦を開始しました。仙台藩の細谷十太夫は「からす組」を率いたゲリラ戦で新政府軍を苦しめた経験がある戦巧者で、新政府軍から恐れられていました。「からす組」は、高地に登って上から攻撃しました。新政府軍は一方的に射撃にさらされて、初野を放棄しました。細谷十太夫は初野に火を放った後に再び新政府軍へ向けて前進し、鳥取藩、相馬中村藩は再度後退の危機に立たされました。しかし、鳥取藩の増援が到着、さらに黒木から広島藩が増援に到着、津藩も初野へ転進して、「からす組」の左側面に進み出て一斉に射撃をしました。「からす組」は不意をつかれ、反撃もままならずに旗巻峠へと撤退しました。こうして、仙台藩の駒ヶ嶺奪還戦は失敗に終わりました。

その次に、北越戊辰戦争:長岡藩家老・河井継之助が死去です。「長岡城攻防戦」で長岡城が新政府軍に再奪取されました。河井継之助は家人の松蔵や外山修造らが支える籠に乗り、長岡城を脱出して見附に向かいました。敗兵を纏めて見附方面から撤退してきた三間市之進と村松忠冶右衛門が到着すると、会津へ向けて落ちのびる事になりました。河井継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠みました。その後、会津藩入り口の只見村叶津番所で河井継之助の症状が悪化した為、しばらく留まる事になりました。河井継之助の症状の悪化を知った会津藩は、鶴ヶ城城下で野戦病院を開いていた名医・松本良順を派遣しました。河井継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪求馬らに対して今後は米沢藩ではなく、庄内藩と行動を共にすべき事や藩主世子のフランスへの亡命など後事を託しました。また外山修造には、武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るから、これからは商人になれと伝えました。後に外山修造はこの河井継之助の言に従って商人となり、国立銀行創設や阪神電鉄社長就任など、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍します。河井継之助は松本良順の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、塩沢村(現・福島県只見町)に到着しました。塩沢村では不安定な状態が続きましたが、従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じました。翌10月1日の昼頃、河井継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥りました。そして、再び目を覚ます事のないまま、同日午後8時頃、破傷風により死去しました。享年42歳でした。河井継之助の葬式は、会津城下にて行われました。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓が暴かれる事を慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬されました。現在は臨済宗妙心寺派・大寶山建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑が残されています。

最後に、ニュルンベルク裁判が終了です。「第二次世界大戦」でドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判です。判事は連合国の主要国のうち、ドイツと直接戦ったイギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4か国からそれぞれ2名ずつ選ばれました。この裁判において裁かれるべき罪として次のものが挙げられました。
1.侵略戦争などの共謀への参加
2.侵略戦争などの計画、実行
3.戦争犯罪
4.非人道的犯罪
ドイツの最高指導者・総統アドルフ・ヒトラー、最高幹部で宣伝大臣・ヨーゼフ・ゲッベルスや親衛隊全国指導者・ハインリヒ・ヒムラーがすでに自殺しており、起訴する事が不可能となりました。また、ナチ党最大の実力者であった党官房長・マルティン・ボルマンも行方不明(後年、自殺が判明)であり、起訴はしたものの欠席裁判(死刑判決)でした。以下が裁判で死刑判決となった人達です。
ハンス・フランク(ポーランド総督)、ヴィルヘルム・フリック(内務大臣)、ヘルマン・ゲーリング(空軍総司令官、国家元帥、航空大臣)、アルフレート・ヨードル(国防軍最高司令部作戦部長)、エルンスト・カルテンブルンナー(国家保安本部長官)、ヴィルヘルム・カイテル(国防軍最高司令部総長、陸軍元帥)、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(外務大臣)、アルフレート・ローゼンベルク(ナチ党外交政策全国指導者)、フリッツ・ザウケル(労働力利用長官)、アルトゥル・ザイス=インクヴァルト(オーストリア・ナチス指導者)、ユリウス・シュトライヒャー(反ユダヤ主義新聞「シュテュルマー」の発行者)死刑は10月16日に絞首刑によって執行され、禁固者はベルリン郊外のシュパンダウ監獄へ移送されました。

今日の誕生日:長谷川時雨、ウィリアム・ボーイング、服部良一、三代目・江戸家猫八、別所毅彦、乙羽信子、ジミー・カーター(第39代アメリカ合衆国大統領)、海老一染之助、浜田光夫、うつみ宮土理、小川ローザ、原田伸郎(あのねのね)、村尾信尚、中村正人(ドリームズ・カム・トゥルー)、阪本順治、マーク・マグワイア、松浦勝人、柏原芳恵、河口恭吾、滝川クリステル、RYO(ORANGE RANGE)、神田沙也加、パンくん

今日の記念日:衣替え、国際高齢者の日、国際音楽の日、世界ベジタリアンデー、法の日、デザインの日、土地の日、日本酒の日、醤油の日、コーヒーの日、日本茶の日、印章の日、メガネの日、ネクタイの日、補助犬の日、福祉用具の日、浄化槽の日、展望の日、東京都民の日、荒川線の日、頭皮ケアの日、雨といの日、天下一品の日、トンカツの日、磁石の日、トライの日、ポイントカードの日、石塚誠(ゴリさん刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日から10月、「神無月」です。出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合います。出雲以外には神様が居なくなる月と言う事で「神無月」となりました。出雲では「神在月」といいます。
本日は、「東京都民の日」です。江戸幕府の崩壊後、江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入りました。新政府は江戸府を設置し、江戸が東京と改称されると、江戸府も東京府と改称されました。明治天皇が皇居(旧:江戸城)に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となりました。1878年には伊豆諸島が、1880年には小笠原諸島が東京府に編入され、1893年には多摩地域が神奈川県から移管されて、現在の東京都の領域が確定しました。1889年には市制施行で東京市が発足しました。1898年10月1日に市制特例が廃止され、東京市は一般市となりました。この10月1日を記念して、「都民の日条例」を制定し、施行しました。1943年7月1日には、東京市と東京府は廃止され、東京都が設置されました。
また、「衣替え」です。明治政府は洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、夏服と冬服の衣替えの時期を制定しました。1873年1月1日より新暦(太陽暦)が採用され、太陽暦6月1日〜9月30日が夏服、10月1日〜翌年5月31日が冬服と定められました。やがて、これが学生服に、次第に一般の人にも定着し、官公庁・企業・学校が毎年6月1日と10月1日に「衣替え」を行うようになりました。
国連総会で制定された国際デーの一つ「国際高齢者の日」、「世界ベジタリアンデー」、1994年11月に公布・施行された「音楽文化の振興のための学習環境の整備等に関する法律」で定められた「国際音楽の日」、1928年に「陪審法」が施行された事で「法の日」、1959年に「デザイン奨励審議会」が設置された事で「デザインの日」、2003年10月1日にTカードが誕生した事で「ポイントカードの日」、「十」と「一」を組み合わせると「土」の字になる事から「土地の日」、新米で酒造りを始めるのが10月で、酒壺を表す「酉」の字は十二支の10番目、さらに「酒造年度」が10月1日から始まる事から「日本酒の日」、「10」が干支で「酉」にあたり、酉が瓶に由来する象形文字である事と「醤油」という語に「酉」が含まれる事から「醤油の日」、国際コーヒー協会が定めた「コーヒー年度」の始まりの日である事から「コーヒーの日」、天正15年10月1日に豊臣秀吉が「北野大茶湯」を催した事で「日本茶の日」、1873年に公式の書類には実印を押すように定めた「太政官布告」が発布された事で「印章の日」、漢数字の「一〇〇一」が眼鏡の形に似ている事から「メガネの日」、1884年に小山梅吉が日本で初めてネクタイの製造を始めた事で「ネクタイの日」、2002年に「身体障害者補助犬法」が施行された事で「補助犬の日」、1993年に「福祉用具法」が施行された事で「福祉用具の日」、1985年に「浄化槽法」が全面施行された事で「浄化槽の日」、1974年10月1日に都電で存続対象として残された27・32系統が統合され、三ノ輪橋〜早稲田間の直通運転を開始し「荒川線」の名称が制定された事で「荒川線の日」、「テン(10)ボー(1)」の語呂合わせで「展望の日」、「頭(10)皮(1)」の語呂合わせで「頭皮ケアの日」、「雨と(10)い(1)」の語呂合わせで「雨といの日」、「10(天)1(一)」の語呂合わせで「天下一品の日」、「10(トン)1(勝つ=一番)」の語呂合わせで「トンカツの日」、「+(10)と−(1)」で「磁石の日」、「ト(10)ライ(1)」の語呂合わせで「トライの日」となりました。
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