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2017年08月27日23:25
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西洋の丸い地球と東洋の平たい地球 (2) 鄭和の地球は丸かったか
http://
の続きである。
前回は単につぶやきを整理しただけだが、そこで足りなかった点を補足しようとしたら本体より長くなってしまった。
さて、こういうことを考えたきっかけは、宇宙コミュニティのあるトピックスで、地球球体説と平面説、大航海の話題が出たからだった。
そのとき私は鄭和（1371-1434）の大航海についてコメントしたのだが、その際に調べたら「中国では17世紀にイエズス会宣教師が西洋天文学を持ち込むまで、地球を平面と考えていた」という記事を見つけた。
びっくりして手持ちの本を調べてみたら、前回のとおり薮内清編『中国の科学』が出てきた。1979年刊だから、この事実は少なくとも一世代以上前から、一般人が知る所となっていたわけだ。だがこの下りは全く記憶になかったのでかなり驚いた。
しかしトピックスでさらに話題となったのは、「鄭和は地球を球体と知っていたのだろうか」という問題だった。
鄭和は14世紀から15世紀にかけての人である。『中国の科学』を信じれば、この時代の中国人は地球球体説を知らなかった事になる。だが、地球を平面と信じながら中国からアフリカまで航海するなど、果たして可能なのか。陸路ならともかく海路である。常識で考えても、ありそうにない話だ。
少し調べただけで、鄭和が地球を球体と知っていた事は「ありうる」という結論が出た。
鄭和についてまとまった資料を持っていないので、ネットと手持ち本の断片的な情報だけで考えると、以下のような推測になった。調べればもっと確実な事実に基づいて書けるかもしれないが、そうすると時間がかかり、モチベーションも下がってしまう。ついには他の事に関心が移って、書くことを諦めてしまうようになるだろう。だから今は限られた材料でどこまで推測できるか試してみよう。
言ってみれば歴史を題材にしたフェルミ検定と思えばいい。
鄭和は雲南省出身のイスラム教徒である。ムスリムならメッカ巡礼の義務がある。そこでインドから東南アジアのムスリム社会にも、メッカまでの巡礼路があったはずで、その主要部分は海路だったろう。それなしにイスラム文化圏は存在できない。これは中国南部のムスリムについても同様だ。
だから中国からアラビアまでの航路があることは、鄭和は子供の頃から知っていただろう(★補足１)。
ただし明は建国当初、海禁政策をとっていた（1371年、太祖洪武帝の布告）。つまり人民は航海を禁じられていた。陸路で国外に出る事まで禁じられていたかどうかは知識がなくわからないのだが、おそらくこれも禁止されていたろう（★補足２）。仮に合法だったとしても国外旅行に陸路を使う事は海路に比べて、はるかに困難だったはずだ。つまり中国のムスリム社会は事実上、メッカ巡礼を禁じられていたことになる。
その禁令が永楽帝(在位1402-1424)の代になって緩和され、明は海外進出政策をとるようになった。これは一世代のあいだ信徒の義務を抑圧されていた中国のムスリムにとって、世界が大きく明るく開けたように感じられたことだろう（★補足３）。
鄭和の航海には、そうしたムスリムの心情が背景にあったと考えていいと思う。鄭和の艦隊には相当数のムスリムが参加を志願したのではないかと推測されるのだが、この点についても私は何も知らない。
確実なのは、航海の道案内のため、巡礼の海路に詳しい者が一行に加わっていただろう事だ。その中には必然的に航海術の専門家が含まれる。彼らは当然、メッカを中心としたイスラム文化圏に属していただろう。ムスリムで航海術の知識があれば、地球球体説を知っていた事はかなり確実だ。仮に出発時にそのようなスタッフがいなかったとしても、航海の途中で出会ったムスリム社会の知識が活用された事は間違いない。
ここまでは推測が多いのだが、傍証もある。鄭和のとった航路だ。
https:/
を見ると、鄭和の船団はインド洋を東西に横断する航路をとっている。それもほぼ緯度に沿っての航海である。（この図が正確かという問題はあるが、ほぼ同様な図が薮内清『中国の科学文明』P145にあるので、ある程度は信頼できる）
大航海時代の事を知っていれば、これを見てぴんとくるはずだ。これはコロンブスも採用した遠洋航海の基本的航海術である。
遠洋航海には天測が欠かせない。昼間は南中の太陽の高度を測り、夜間は北極星（など）の高度を測ることで、現在位置の緯度を知る（★補足４）(★補足５）。しかし星の高度を測定して分かるのは緯度だけである。経度を知る手段が確立されたのは西欧でも18世紀後半以降になるので、大航海時代の頃に大洋を渡るには、一定の緯度を保ったまま、海を東西に進むしかなかった。陸地に到達したら、あとは沿岸航法で南北に移動し、目的地を目指すわけだ。コロンブスが大西洋を横断したのも、この方法による。
そういうわけだから、鄭和のインド洋横断から推測できるのは、鄭和艦隊に緯度を測定する手段があった事と、そもそも緯度という概念を知っていた事だ。前者については上述の薮内著P148に、そのとおり書いてある。
「鄭和航海図」には、それぞれの地点で標準となる星の高度が記入されているが、星座名には中国本来のものだけでなしに、アラビア語に基づくものが見られる。さらに[星の]角度を示すのに指（し）という単位が使われており、計算の結果では一指はほぼ三度半である。こうした単位は中国で使われたことはないが、アラビアでいうイスパという単位が、ちょうどこれと合致する。インド洋ではアラブの船が盛んに活動していたことであり、この海での航海には中国人もアラビアの航法にしたがったものと見てよい。さらに星の高度を観測するアラビア流の観測器カマールも、当時の中国で使われていたのである。
（薮内清P148）
以上によると、鄭和はアラビア式の航海術を知っていた事になる。そして星の高度が地域によって変わり、そこから自分の現在位置を知る事ができるという事実を理解するには、緯度の概念を知っていなければならない。緯度を理解しているということは、とりもなおさず地球が球体であるという知識があったことになる。
こうして三段論法的に鄭和は地球は丸いと知っていた、という結論が導かれる。
ここまでまず確かと言っていいと思うが、では鄭和にとってこの知識はどのような意味を持っていたのか。これには、アラビア式航海術が中国でどの程度普及していたかを考えなけれればならない。
ここでも基本図書はニーダム『中国の科学と文明』11巻「航海技術」になるわけだが、これはシリーズの中でも特に古書価格が高く、当面入手の望みがない。仕方がないので、ここでもあり合わせの材料で推測してみる。
薮内著の引用にあるカマールなる観測器だが、同頁の図が不鮮明なので茂在寅男『航海術』P75の図を見ると、このようなものだ。（★補足５.５）
カマールは四角な板と、その中心からのびる紐とからできた簡単な測量具である。紐の一方を目の近くに持ってくるが、その長さを加減し、板の下端が水平線方向と一致し、その上端が目的の星に当たるようにする。星の高度は、この時の紐の長さで測定される。紐には、適当なところに結び目があり、直接に紐の長さを測らないでも、板から何番目の結び目かによって、直ちに星の高度が知られる。
（薮内清P148-149）
カマールは上の図からも分かるように大きな角度を測れる道具ではなく、視準星の高度がかなり低くないと使えない。以下の記事
http://
に、より詳しい説明があり、赤道に近いくらいの低緯度でなければ使えなかったとある。確かにもっと北であれば沿岸航法が可能だから、インド洋で緯度決定が必要なのは鄭和が通ったような海をまっすぐ横切る航路だろう。
薮内著によると、早くも唐代の8世紀には、中国からペルシア湾まで航海した記録がある(P143)。その一世紀前に三蔵法師が陸路インドに旅しているのだから、海路が存在したのはむしろ当然だろう。当時広東からホルムズ海峡までは一年を要する航海だったそうだ。宋(960-1279)になると朝廷が海外貿易を奨励するようになる。12世紀末の資料によるとペルシアに行く中国船はインド南端まで行ったところで、小舟に乗り換えてペルシア湾に入ったという。しかし中国で使われた用語や単位はアラビア系なのだから、航海術は逆にペルシアから東南アジアを経由して中国に至ったことがわかる。
鄭和の頃の用語がアラビア起源なのはそういう経緯があったからで、中国南部のイスラム教徒も、そうした航海術を継承した人々だったのだろう。
そこで宋代にはアラビア式航海術を使える中国人がいたということになる。中国に達するまでに赤道地帯を通ったのだから、カマールも中国に伝えられたと考えていいだろう。上記リンク先には、カマールがインド洋で使われるようになったのは10世紀とあり、宋代に合致する。だからこの時期に中国に伝わったと考えていいと思う。
次王朝の元(1271-1368)は国際社会であり、交通はさらに活発になった。
しかし明に入って一世代の間海禁政策が続いた。低緯度を航海する技術を持つ航海者がいたとしたら元末期の世代である。鄭和の頃には高齢になっている。技術を持つ者は存命していたとしても、カマールのような器具はずっと使う機会がないのだから多くは散逸したはずで、使用法を知る者が多かったとも思いにくい。
そういうわけで航海術や器具は中国ムスリムに継承者がいたとしても、鄭和の時代には畳の上の水練と化している。実際の航海となると、中国から遠く離れた海の事情に通じた水先案内人なしには遂行できなかっただろう。鄭和がムスリムだったことから、現地イスラム社会の協力が得られたものと考えられる（★補足６）。
そこで鄭和は航海に現地人の協力を必要としたはずだが、鄭和が使った航海術自体は、以下の根拠から、中国人の間で継承されていたものであると考えられる。
それは薮内著にある「指」（し）という単位だ。この記事にはアラビア語のイスパが「腕を伸ばした時の指の幅の角度」と説明されている（★補足７）。なるほど、だから中国語が「指」だったのか。この方式は天体観望の際に星の位置関係を説明するのによく使った。意外と伝統ある方法だったわけだ。
この用語が中国語に「意訳されている」ことは、指（し）という単位を使った人々が中国語ネイティブであり、鄭和の頃に運用の伝統があったことを示唆する。もし海禁政策の時代に中国で遠洋航海術が断絶し、鄭和が国外のイスラム航海者から改めて航海術を導入したのであれば、おそらくこの用語はアラビア語を漢字で音写したものになっていたはずだ。つまり「外来語」になっていただろう。しかし鄭和の時代にはこの用語は中国語として定着していた事になる。
中国人航海者の間で、緯度による星の角度の変化を利用する伝統があったということは、中国に「地球は球体である」という知識を持つ社会階層が、長い伝統を持って住み着いていたことを意味する。彼らが属していたのが中国南部のムスリム社会であり、鄭和はその出自から、彼らムスリム航海者の末裔と密接な交渉があったと推測される。鄭和の航海は彼らの知識を活かすことなしに成しえなかったのだから、鄭和は航海によって地球が球体であるという確かな実感を得た事だろう。
（つづく）
-------------
補足：
（1）鄭和の経歴については陳舜臣『中国の歴史』(講談社文庫1991年)6巻P36-56に詳しい。それによると鄭和の祖父と父は同じ馬哈只という名だった。姓の馬は預言者ムハンマドの子孫である事を示す。下の名はハッジと読み、本来はアラビア語でメッカ巡礼者に与えられる称号である。つまり祖父と父の二人ともメッカ巡礼の経験者だったことになる。その先祖は元朝の初期に咸陽王に封じられている。二代にわたってメッカ巡礼していることからも、雲南の名門だったといえる。
（2）探したら上垣外憲一『「鎖国」の比較文明論』(講談社選書メチエ1994年)が出てきた。あいにく内容は日本の鎖国政策が主で、明の事情は簡単にしか触れていない。しかし海禁政策と朝貢制度の関係についてまとめてあったのは便利だった。
中国において「貿易は周辺諸国に対する恩恵として与えてやる、という態度が基本であり、本来重要でないと思われる貿易を、貿易を求める異民族を統制する手段として使うことが特に明の場合、顕著である」（P235-236）。つまり人民の航海を禁じたのは貿易統制の一環であったわけで、この事を考えると海外への移動を禁じたのは、陸路も同様だったはずと考えられる。わずかな一般的説明だけでは判断に十分とは言えないが。
（3）現代ムスリムでもメッカ巡礼は簡単にできることではないが、当時の人にとっては人生を賭けた大事業である。イスラム世界の中心から遠く離れた中国では、巡礼することなく人生を終えた信者の方が多かったろう。
鄭和の父の名前、馬哈只の意味を考えると、そう想像できる。メッカ巡礼が一大事であるからこそ、この名が尊称として機能する。たとえば伊勢神宮参拝経験者を尊称で呼ぶなど聞いた事もないだろう。
そのような名誉であるから、メッカ巡礼者を先祖にもつムスリムは、メッカの記憶を代々語り伝えたに違いない。鄭和の一族もそのような人々だった。幼少期の鄭和は祖父や父からメッカ巡礼の物語を聞いて育ったことだろう。私の世代なら、アレックス・ヘイリー『ルーツ』を思い出すと思う。
（4）大航海時代は南半球も航海するようになったが、その場合は周極星である南十字星を使ったらしい。おそらくみなみじゅうじ座のα星とγ星が垂直に並んだ時刻に角度を測ったのだろう。
古代に遡ると天の北極に星がない時代になるが、その場合は南半球の場合と同様、周極星を観測すればいい。そのような古代にも天測による航海があった可能性は『オデュッセイアー』の詩行からうかがえる（この辺の事情は以前日記に書いた）。おそらく天の北極を方角の頼りにして地中海を南北に横断する航海に限られていただろうが。
（5）「北極星」の歴史は以前考えたことがあるが、関連するのでここでまとめておく。
こぐま座α星が天の北極に近づいてほぼ不動に見えるようになったのはA.D.1500年より後の時代である。しかしそれ以前に北極星という言葉がなかったかというと、実はある。14世紀に書かれたジョン・マンデヴィルの『東方旅行記』 (1360頃) は、天の北極と天の南極に不動の星があり、北極星と南極星と呼ばれると書いている。これが真っ赤な嘘なのは言うまでもなく、また実際このマンデヴィルの本は大部分が先人からの剽窃と純然たる創作で、著者の実体験はほとんど含まれていないと考えられている。しかし重要なことはマンデヴィルが「北極星と呼ばれる星」と書いていることだ。つまり14世紀なかば、既に天の北極に星があるという知識が普及していたことになる。北極星が実際に北極星になるのに数百年先んじて、その概念があったことになるのだ。
これが何を意味するかを取り上げた本には一度も出会った事がないのだが、私の推測を言うとこうである。周極星は古代から方位決定に利用されていた。しかし緯度決定に利用する事は、中世に航海技術が発達するまでできなかった。この時期に海上で星の高度角を測定する実用的な手段が発見され、しかもそれは、こぐま座α星が天の北極に近づきつつある時代でもあった。したがって、おそらく最初のうち周極星として緯度決定のために観測されていたこの星は、時代が下るにつれて北の方角を示す星という意味を強めていった。この経緯のどこかの時点で、西欧の記録者によって周極星であるという知識が抜け落ち、不動の星として書物に記されるようになったのだろう。
いつごろそうなったかはわからないが、山本義隆『磁力と重力の発見』第5章などを見る限りでは、「北極星」という言葉は磁石の指北性の記事にともなって現れるように見える。資料がごく限られているので軽々に判断するのは危険だが、仮にそうだとしたら12世紀末から13世紀の間と考えられる。当時のこぐま座α星の位置からしても、この概念の起源がこれより何百年も遡るとは考えにくい。
このような事情を勘案すると、アラビア航海者がカマールによって測定していた星は周極星だった頃の北極星と考えられる。赤道近くの高緯度において、水平線からあまり高く上がらず、かつ方位の基準にもなる星というと、まず北極星だからだ。最初に北極星を観測して方位をさだめ、それから周囲の他の周極星を使って緯度を定めたという可能性もあるが。
カマールの寸法を調べれば、その時代に測定の対象になり得た星の、より確実な推測が可能だろう。私の推測では、カマールのサイズは北極星の高度角から逆算して決められたのではないかと思う。
(5.5) 茂在著の図では「アル・ケマル」となっているが、アラビア語の母音にeはない。だから「ケマル」より「カマル」の方が正しい発音に近い。（たとえば一般にメッカと呼ばれている都市をアラビア人はマッカと呼ぶ）
（6）陳舜臣『中国の歴史』6巻P49に、鄭和が第二次航海のときにセイロン島に立てた石碑のことが書かれている。石碑は漢文とタミール語とペルシア語で刻まれ、仏教、ヒンズー教、イスラム教のそれぞれに対して功徳を積む内容だという。鄭和が現地人との融和に腐心した事情がうかがえる。
（7）腕を伸ばして見た指の幅ならば大体1度くらいの角度であるはずで、実際リンク先記事でも「1.5度より少し大きな角度」と書かれている。しかし薮内著のイスパ説明では「一指はほぼ三度半」となっている。自分の体を使って調べると、腕の長さが約60�僉∋悗良�が約1.5�僂如�確かに約1.5度だった。薮内著のように3.5度だと腕の長さ25�僂砲覆襦�これでは幼児サイズで、ありえない数値なので誤植に違いない。おそらく薮内氏の原稿では「ほぼ一度半」だったはずだ。
の続きである。
前回は単につぶやきを整理しただけだが、そこで足りなかった点を補足しようとしたら本体より長くなってしまった。
さて、こういうことを考えたきっかけは、宇宙コミュニティのあるトピックスで、地球球体説と平面説、大航海の話題が出たからだった。
そのとき私は鄭和（1371-1434）の大航海についてコメントしたのだが、その際に調べたら「中国では17世紀にイエズス会宣教師が西洋天文学を持ち込むまで、地球を平面と考えていた」という記事を見つけた。
びっくりして手持ちの本を調べてみたら、前回のとおり薮内清編『中国の科学』が出てきた。1979年刊だから、この事実は少なくとも一世代以上前から、一般人が知る所となっていたわけだ。だがこの下りは全く記憶になかったのでかなり驚いた。
しかしトピックスでさらに話題となったのは、「鄭和は地球を球体と知っていたのだろうか」という問題だった。
鄭和は14世紀から15世紀にかけての人である。『中国の科学』を信じれば、この時代の中国人は地球球体説を知らなかった事になる。だが、地球を平面と信じながら中国からアフリカまで航海するなど、果たして可能なのか。陸路ならともかく海路である。常識で考えても、ありそうにない話だ。
少し調べただけで、鄭和が地球を球体と知っていた事は「ありうる」という結論が出た。
鄭和についてまとまった資料を持っていないので、ネットと手持ち本の断片的な情報だけで考えると、以下のような推測になった。調べればもっと確実な事実に基づいて書けるかもしれないが、そうすると時間がかかり、モチベーションも下がってしまう。ついには他の事に関心が移って、書くことを諦めてしまうようになるだろう。だから今は限られた材料でどこまで推測できるか試してみよう。
言ってみれば歴史を題材にしたフェルミ検定と思えばいい。
鄭和は雲南省出身のイスラム教徒である。ムスリムならメッカ巡礼の義務がある。そこでインドから東南アジアのムスリム社会にも、メッカまでの巡礼路があったはずで、その主要部分は海路だったろう。それなしにイスラム文化圏は存在できない。これは中国南部のムスリムについても同様だ。
だから中国からアラビアまでの航路があることは、鄭和は子供の頃から知っていただろう(★補足１)。
ただし明は建国当初、海禁政策をとっていた（1371年、太祖洪武帝の布告）。つまり人民は航海を禁じられていた。陸路で国外に出る事まで禁じられていたかどうかは知識がなくわからないのだが、おそらくこれも禁止されていたろう（★補足２）。仮に合法だったとしても国外旅行に陸路を使う事は海路に比べて、はるかに困難だったはずだ。つまり中国のムスリム社会は事実上、メッカ巡礼を禁じられていたことになる。
その禁令が永楽帝(在位1402-1424)の代になって緩和され、明は海外進出政策をとるようになった。これは一世代のあいだ信徒の義務を抑圧されていた中国のムスリムにとって、世界が大きく明るく開けたように感じられたことだろう（★補足３）。
鄭和の航海には、そうしたムスリムの心情が背景にあったと考えていいと思う。鄭和の艦隊には相当数のムスリムが参加を志願したのではないかと推測されるのだが、この点についても私は何も知らない。
確実なのは、航海の道案内のため、巡礼の海路に詳しい者が一行に加わっていただろう事だ。その中には必然的に航海術の専門家が含まれる。彼らは当然、メッカを中心としたイスラム文化圏に属していただろう。ムスリムで航海術の知識があれば、地球球体説を知っていた事はかなり確実だ。仮に出発時にそのようなスタッフがいなかったとしても、航海の途中で出会ったムスリム社会の知識が活用された事は間違いない。
ここまでは推測が多いのだが、傍証もある。鄭和のとった航路だ。
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を見ると、鄭和の船団はインド洋を東西に横断する航路をとっている。それもほぼ緯度に沿っての航海である。（この図が正確かという問題はあるが、ほぼ同様な図が薮内清『中国の科学文明』P145にあるので、ある程度は信頼できる）
大航海時代の事を知っていれば、これを見てぴんとくるはずだ。これはコロンブスも採用した遠洋航海の基本的航海術である。
遠洋航海には天測が欠かせない。昼間は南中の太陽の高度を測り、夜間は北極星（など）の高度を測ることで、現在位置の緯度を知る（★補足４）(★補足５）。しかし星の高度を測定して分かるのは緯度だけである。経度を知る手段が確立されたのは西欧でも18世紀後半以降になるので、大航海時代の頃に大洋を渡るには、一定の緯度を保ったまま、海を東西に進むしかなかった。陸地に到達したら、あとは沿岸航法で南北に移動し、目的地を目指すわけだ。コロンブスが大西洋を横断したのも、この方法による。
そういうわけだから、鄭和のインド洋横断から推測できるのは、鄭和艦隊に緯度を測定する手段があった事と、そもそも緯度という概念を知っていた事だ。前者については上述の薮内著P148に、そのとおり書いてある。
「鄭和航海図」には、それぞれの地点で標準となる星の高度が記入されているが、星座名には中国本来のものだけでなしに、アラビア語に基づくものが見られる。さらに[星の]角度を示すのに指（し）という単位が使われており、計算の結果では一指はほぼ三度半である。こうした単位は中国で使われたことはないが、アラビアでいうイスパという単位が、ちょうどこれと合致する。インド洋ではアラブの船が盛んに活動していたことであり、この海での航海には中国人もアラビアの航法にしたがったものと見てよい。さらに星の高度を観測するアラビア流の観測器カマールも、当時の中国で使われていたのである。
（薮内清P148）
以上によると、鄭和はアラビア式の航海術を知っていた事になる。そして星の高度が地域によって変わり、そこから自分の現在位置を知る事ができるという事実を理解するには、緯度の概念を知っていなければならない。緯度を理解しているということは、とりもなおさず地球が球体であるという知識があったことになる。
こうして三段論法的に鄭和は地球は丸いと知っていた、という結論が導かれる。
ここまでまず確かと言っていいと思うが、では鄭和にとってこの知識はどのような意味を持っていたのか。これには、アラビア式航海術が中国でどの程度普及していたかを考えなけれればならない。
ここでも基本図書はニーダム『中国の科学と文明』11巻「航海技術」になるわけだが、これはシリーズの中でも特に古書価格が高く、当面入手の望みがない。仕方がないので、ここでもあり合わせの材料で推測してみる。
薮内著の引用にあるカマールなる観測器だが、同頁の図が不鮮明なので茂在寅男『航海術』P75の図を見ると、このようなものだ。（★補足５.５）
カマールは四角な板と、その中心からのびる紐とからできた簡単な測量具である。紐の一方を目の近くに持ってくるが、その長さを加減し、板の下端が水平線方向と一致し、その上端が目的の星に当たるようにする。星の高度は、この時の紐の長さで測定される。紐には、適当なところに結び目があり、直接に紐の長さを測らないでも、板から何番目の結び目かによって、直ちに星の高度が知られる。
（薮内清P148-149）
カマールは上の図からも分かるように大きな角度を測れる道具ではなく、視準星の高度がかなり低くないと使えない。以下の記事
http://
に、より詳しい説明があり、赤道に近いくらいの低緯度でなければ使えなかったとある。確かにもっと北であれば沿岸航法が可能だから、インド洋で緯度決定が必要なのは鄭和が通ったような海をまっすぐ横切る航路だろう。
薮内著によると、早くも唐代の8世紀には、中国からペルシア湾まで航海した記録がある(P143)。その一世紀前に三蔵法師が陸路インドに旅しているのだから、海路が存在したのはむしろ当然だろう。当時広東からホルムズ海峡までは一年を要する航海だったそうだ。宋(960-1279)になると朝廷が海外貿易を奨励するようになる。12世紀末の資料によるとペルシアに行く中国船はインド南端まで行ったところで、小舟に乗り換えてペルシア湾に入ったという。しかし中国で使われた用語や単位はアラビア系なのだから、航海術は逆にペルシアから東南アジアを経由して中国に至ったことがわかる。
鄭和の頃の用語がアラビア起源なのはそういう経緯があったからで、中国南部のイスラム教徒も、そうした航海術を継承した人々だったのだろう。
そこで宋代にはアラビア式航海術を使える中国人がいたということになる。中国に達するまでに赤道地帯を通ったのだから、カマールも中国に伝えられたと考えていいだろう。上記リンク先には、カマールがインド洋で使われるようになったのは10世紀とあり、宋代に合致する。だからこの時期に中国に伝わったと考えていいと思う。
次王朝の元(1271-1368)は国際社会であり、交通はさらに活発になった。
しかし明に入って一世代の間海禁政策が続いた。低緯度を航海する技術を持つ航海者がいたとしたら元末期の世代である。鄭和の頃には高齢になっている。技術を持つ者は存命していたとしても、カマールのような器具はずっと使う機会がないのだから多くは散逸したはずで、使用法を知る者が多かったとも思いにくい。
そういうわけで航海術や器具は中国ムスリムに継承者がいたとしても、鄭和の時代には畳の上の水練と化している。実際の航海となると、中国から遠く離れた海の事情に通じた水先案内人なしには遂行できなかっただろう。鄭和がムスリムだったことから、現地イスラム社会の協力が得られたものと考えられる（★補足６）。
そこで鄭和は航海に現地人の協力を必要としたはずだが、鄭和が使った航海術自体は、以下の根拠から、中国人の間で継承されていたものであると考えられる。
それは薮内著にある「指」（し）という単位だ。この記事にはアラビア語のイスパが「腕を伸ばした時の指の幅の角度」と説明されている（★補足７）。なるほど、だから中国語が「指」だったのか。この方式は天体観望の際に星の位置関係を説明するのによく使った。意外と伝統ある方法だったわけだ。
この用語が中国語に「意訳されている」ことは、指（し）という単位を使った人々が中国語ネイティブであり、鄭和の頃に運用の伝統があったことを示唆する。もし海禁政策の時代に中国で遠洋航海術が断絶し、鄭和が国外のイスラム航海者から改めて航海術を導入したのであれば、おそらくこの用語はアラビア語を漢字で音写したものになっていたはずだ。つまり「外来語」になっていただろう。しかし鄭和の時代にはこの用語は中国語として定着していた事になる。
中国人航海者の間で、緯度による星の角度の変化を利用する伝統があったということは、中国に「地球は球体である」という知識を持つ社会階層が、長い伝統を持って住み着いていたことを意味する。彼らが属していたのが中国南部のムスリム社会であり、鄭和はその出自から、彼らムスリム航海者の末裔と密接な交渉があったと推測される。鄭和の航海は彼らの知識を活かすことなしに成しえなかったのだから、鄭和は航海によって地球が球体であるという確かな実感を得た事だろう。
（つづく）
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補足：
（1）鄭和の経歴については陳舜臣『中国の歴史』(講談社文庫1991年)6巻P36-56に詳しい。それによると鄭和の祖父と父は同じ馬哈只という名だった。姓の馬は預言者ムハンマドの子孫である事を示す。下の名はハッジと読み、本来はアラビア語でメッカ巡礼者に与えられる称号である。つまり祖父と父の二人ともメッカ巡礼の経験者だったことになる。その先祖は元朝の初期に咸陽王に封じられている。二代にわたってメッカ巡礼していることからも、雲南の名門だったといえる。
（2）探したら上垣外憲一『「鎖国」の比較文明論』(講談社選書メチエ1994年)が出てきた。あいにく内容は日本の鎖国政策が主で、明の事情は簡単にしか触れていない。しかし海禁政策と朝貢制度の関係についてまとめてあったのは便利だった。
中国において「貿易は周辺諸国に対する恩恵として与えてやる、という態度が基本であり、本来重要でないと思われる貿易を、貿易を求める異民族を統制する手段として使うことが特に明の場合、顕著である」（P235-236）。つまり人民の航海を禁じたのは貿易統制の一環であったわけで、この事を考えると海外への移動を禁じたのは、陸路も同様だったはずと考えられる。わずかな一般的説明だけでは判断に十分とは言えないが。
（3）現代ムスリムでもメッカ巡礼は簡単にできることではないが、当時の人にとっては人生を賭けた大事業である。イスラム世界の中心から遠く離れた中国では、巡礼することなく人生を終えた信者の方が多かったろう。
鄭和の父の名前、馬哈只の意味を考えると、そう想像できる。メッカ巡礼が一大事であるからこそ、この名が尊称として機能する。たとえば伊勢神宮参拝経験者を尊称で呼ぶなど聞いた事もないだろう。
そのような名誉であるから、メッカ巡礼者を先祖にもつムスリムは、メッカの記憶を代々語り伝えたに違いない。鄭和の一族もそのような人々だった。幼少期の鄭和は祖父や父からメッカ巡礼の物語を聞いて育ったことだろう。私の世代なら、アレックス・ヘイリー『ルーツ』を思い出すと思う。
（4）大航海時代は南半球も航海するようになったが、その場合は周極星である南十字星を使ったらしい。おそらくみなみじゅうじ座のα星とγ星が垂直に並んだ時刻に角度を測ったのだろう。
古代に遡ると天の北極に星がない時代になるが、その場合は南半球の場合と同様、周極星を観測すればいい。そのような古代にも天測による航海があった可能性は『オデュッセイアー』の詩行からうかがえる（この辺の事情は以前日記に書いた）。おそらく天の北極を方角の頼りにして地中海を南北に横断する航海に限られていただろうが。
（5）「北極星」の歴史は以前考えたことがあるが、関連するのでここでまとめておく。
こぐま座α星が天の北極に近づいてほぼ不動に見えるようになったのはA.D.1500年より後の時代である。しかしそれ以前に北極星という言葉がなかったかというと、実はある。14世紀に書かれたジョン・マンデヴィルの『東方旅行記』 (1360頃) は、天の北極と天の南極に不動の星があり、北極星と南極星と呼ばれると書いている。これが真っ赤な嘘なのは言うまでもなく、また実際このマンデヴィルの本は大部分が先人からの剽窃と純然たる創作で、著者の実体験はほとんど含まれていないと考えられている。しかし重要なことはマンデヴィルが「北極星と呼ばれる星」と書いていることだ。つまり14世紀なかば、既に天の北極に星があるという知識が普及していたことになる。北極星が実際に北極星になるのに数百年先んじて、その概念があったことになるのだ。
これが何を意味するかを取り上げた本には一度も出会った事がないのだが、私の推測を言うとこうである。周極星は古代から方位決定に利用されていた。しかし緯度決定に利用する事は、中世に航海技術が発達するまでできなかった。この時期に海上で星の高度角を測定する実用的な手段が発見され、しかもそれは、こぐま座α星が天の北極に近づきつつある時代でもあった。したがって、おそらく最初のうち周極星として緯度決定のために観測されていたこの星は、時代が下るにつれて北の方角を示す星という意味を強めていった。この経緯のどこかの時点で、西欧の記録者によって周極星であるという知識が抜け落ち、不動の星として書物に記されるようになったのだろう。
いつごろそうなったかはわからないが、山本義隆『磁力と重力の発見』第5章などを見る限りでは、「北極星」という言葉は磁石の指北性の記事にともなって現れるように見える。資料がごく限られているので軽々に判断するのは危険だが、仮にそうだとしたら12世紀末から13世紀の間と考えられる。当時のこぐま座α星の位置からしても、この概念の起源がこれより何百年も遡るとは考えにくい。
このような事情を勘案すると、アラビア航海者がカマールによって測定していた星は周極星だった頃の北極星と考えられる。赤道近くの高緯度において、水平線からあまり高く上がらず、かつ方位の基準にもなる星というと、まず北極星だからだ。最初に北極星を観測して方位をさだめ、それから周囲の他の周極星を使って緯度を定めたという可能性もあるが。
カマールの寸法を調べれば、その時代に測定の対象になり得た星の、より確実な推測が可能だろう。私の推測では、カマールのサイズは北極星の高度角から逆算して決められたのではないかと思う。
(5.5) 茂在著の図では「アル・ケマル」となっているが、アラビア語の母音にeはない。だから「ケマル」より「カマル」の方が正しい発音に近い。（たとえば一般にメッカと呼ばれている都市をアラビア人はマッカと呼ぶ）
（6）陳舜臣『中国の歴史』6巻P49に、鄭和が第二次航海のときにセイロン島に立てた石碑のことが書かれている。石碑は漢文とタミール語とペルシア語で刻まれ、仏教、ヒンズー教、イスラム教のそれぞれに対して功徳を積む内容だという。鄭和が現地人との融和に腐心した事情がうかがえる。
（7）腕を伸ばして見た指の幅ならば大体1度くらいの角度であるはずで、実際リンク先記事でも「1.5度より少し大きな角度」と書かれている。しかし薮内著のイスパ説明では「一指はほぼ三度半」となっている。自分の体を使って調べると、腕の長さが約60�僉∋悗良�が約1.5�僂如�確かに約1.5度だった。薮内著のように3.5度だと腕の長さ25�僂砲覆襦�これでは幼児サイズで、ありえない数値なので誤植に違いない。おそらく薮内氏の原稿では「ほぼ一度半」だったはずだ。
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