2333日目からのツヅキ
↓↑ ↓↑
・・・「筑紫-国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)の乱」に又もや突然、飛ぶ・・・理由は単純で・・・飛鳥、明日香、平城、奈良再遷都・・・飛梅・訳備烏目・・・
↓↑
「薬子=くすこ=葛子(くずこ)・屑粉
↓↑ 九図拠=九相図(九想図・くそうず)
死体の変貌の様子」
↓↑
と名前の発音が似てい、
「葛木・葛城」の
「かづら=葛・蔓・鬘・蘰・葛山・和良」
の漢字の「同音の訓み」だから・・・
「葛野王(かどののおう・かどののおおきみ)
天智天皇八年(669年)
〜
慶雲二年十二月二十日(706年1月9日)
弘文天皇(大友皇子)の第一皇子」
孫に
淡海三船・・・・淡(あわ・タン)海(うみ・あま・カイ)
三(みつ・サン)船(ふね・ソウ)
官位は正四位上
式部卿」・・・「淡海三船」は存在したのか?
ーー↓↑ーーー
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筑紫 葛子(つくし の くずこ)
↓↑ つくし=竭(つくす・ケツ・ゲチ)
取之不尽、用之不竭
取っても使っても尽きることがない
つきる(尽・竭・歇・殫・殲・涸・卒)
使い果たす・終わりにする・なくす
物事の実現や解決のために
↓↑ あらゆる手段を試みる
6世紀(古墳時代後期)の豪族
カバネは君
磐井(筑紫 君 磐井)の子
『日本書紀』では
「筑紫 君 葛子
(つくしのきみ くずこ)」
↓↑
?〜?6世紀前半の豪族
父は
筑紫-国造(くにのみやつこ)
磐井(いわい)
「日本書紀」では
継体天皇二十二年(528)
父が朝廷の派遣した
物部麤鹿火(もののべの-あらかひ)
の軍に討たれ
↓↑
筑紫 葛子(つくし の くずこ)
6世紀(古墳時代後期)の豪族
カバネは君
磐井(筑紫君磐井)の子
『日本書紀』では
「筑紫-君-葛子(つくし-の-きみ-くずこ)」
と表記・・・・・椄句史・ 訓・ 句図故
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雄大迹天皇=継体天皇
↓↑
『日本書紀』
継体天皇二十一年
〜
同二十二年(527年?〜528年?)
父の
磐井(筑紫君磐井)
と
朝廷軍との間に戦いが発生し
継体天皇二十二年十一月
磐井は敗死(磐井の乱)
同年12月
子の葛子は
死罪を贖うことを求め
糟屋屯倉(かすやのみやけ)・・・倉庫・蔵・庫→蔵人?
庫裏(くり)=厨房?
台所・調理場
仏教寺院の伽藍の一つ
庫裡とも書く
「屯倉(みやけ)=ヤマト王権の支配制度の一つ
全国に設置した直轄地を表す語
のちの地方行政組織の先駆け」?
屯倉(みやけ)は「駐屯兵の兵糧倉庫」だろう・・・?
「屯倉=みやけ=宮家・三宅」・・・三宅秀?
(筑前国
糟屋郡付近
福岡県糟屋郡
福岡市東区付近に比定)
を朝廷に献じた
『筑後国風土記』逸文で
磐井に関する記述はあるが
「葛子」に関する記述はない・・・
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『先代旧事本紀』
「国造本紀」
伊吉島造(壱岐国造)条で
継体天皇の時に
石井(磐井)に従った
新羅の海辺の人を討伐したとする記述・・・
↓↑
継体天皇二十二年(528年?)
十一月十一日条・・・・・・十一・壱拾壱・一一・壱壱
磐井は
筑紫御井郡
(福岡県
三井郡の大部分と
久留米市中央部)
において
朝廷から征討のため派遣された
物部麁鹿火
の軍と交戦し
麁鹿火に斬られた
↓↑
継体天皇二十二年十二月
磐井の子の
「筑紫君-葛子」
は死罪を免れるため
糟屋屯倉(福岡県糟屋郡・福岡市東区)
を朝廷に献じた
↓↑
『日本書紀』において
「筑紫-葛子」が献じたとする
糟屋屯倉の記述
『日本書紀』では
筑紫地域において他に
穂波屯倉
鎌 屯倉
那津官家
などの屯倉の設置が知られる
↓↑
史書では
葛子の後も
7世紀末まで
筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ
その活躍が認められる・・・
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継体天皇晩年の編年
『百済本記』の伝える
「辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)」
により3年繰り上げられたとする説・・・
これによれば
「磐井の乱」は実際には
「530年〜531年」の出来事・・・?
↓↑
「磐井の乱(いわいのらん)」
527年(継体二十一年)
朝鮮半島南部へ出兵しようとした
近江毛野
率いるヤマト王権軍の進軍を
筑紫君磐井
が阻(はば)み
翌528年(継体二十二年)十一月
物部麁鹿火
によって鎮圧された
ヤマト王権と、
親新羅だった九州豪族との主導権争い・・・
↓↑
527年(継体二十一)六月三日
ヤマト王権の
近江毛野
は6万人の兵を率いて
新羅に奪われた
南加羅
喙己呑 (トクコトン) の2国
↓↑ 喙=口端(くちばし・ガイ・シ・嘴)
鳥類の口器
上下の顎(あご)が突き出し
角質でおおわれ、歯と唇の機能を持つ
容喙(ヨウカイ)=くちばしを入れること
横から口出し
差し出口
己(おのれ・自分・みずから・自然に・キ
土の弟=ツチのト)
呑(のむ・ドン)・・・雲呑 (ワンタン)
新羅は522年
大伽揶との婚姻同盟を結び伽揶に侵攻し
529年に金官国や
その西方にあった?
「喙己呑(トクコトン)」を武力制圧された?
「喙己呑」は漢字からすれば、
鳥のクチバシに己が呑みこまれそうな地形だろう?
韓国釜山、金海近辺の海岸はスベテが
鳥のクチバシの形に観える・・・
韓国、洛東江(ナクトンガン)の河口の
乙淑島(ウルスクト)は、鳥のクチバシに啄ばまれ、
呑み込まれているようにみえる・・・?
渡り鳥の到来地として有名らしい・・・
↓↑ 「乙淑島(ウルスクト)渡り鳥到来地」
を回復するため
任那へ向かって出発
新羅は
筑紫(九州地方北部)の有力者
磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)
へ贈賄し
ヤマト王権軍の妨害を要請・・・
磐井は挙兵し
「火の国(肥前国・肥後国)」
↓↑ ・・・熊本・・・熊川・錦江
忠清南道公州からは熊津江、
忠清南道扶余からは白馬江(ペンマガン)
錦江=百済にとって重要な水上交通路
公州には百済の旧都
熊津
扶余には新都泗沘
日本、百済vs新羅、唐
との間で戦われた
白村江の戦いが行われた白江・白村江
↓↑ は錦江と推定・・・
と
「豊の国(豊前国・豊後国)」
・・・大分・・・宇佐神宮・・・新羅
を制圧
倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
近江毛野軍の進軍をはばんで交戦
磐井は
「近江毛野」・・・近江の毛野
↓↑ ・・・毛野(けの・けぬ)
古墳時代の地域・文化圏の一
群馬県と栃木県南部を合わせた地域
史書には「毛野」の名称自体は無い
「上毛野(かみつけの)」
「下毛野(しもつけの)」
の名称が記録され
↓↑ これらは「毛野」が分かれたもの?
に
「お前とは同じ
釜の飯を食った仲だ。・・・釜の飯=鎌(足・子)のメシ?
お前などの指示には従わない」
と言ったとされ
ヤマト王権では
平定軍の派遣について協議し
継体天皇が
大伴金村
物部麁鹿火
巨勢男人
らに将軍の人選を諮問し
物部麁鹿火
が推挙され
同年八月一日
麁鹿火
が将軍に任命された
528年十一月十一日
磐井軍
と
麁鹿火
率いるヤマト王権軍が
筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)
にて交戦
磐井軍が敗北
「日本書紀」によると
磐井は物部麁鹿火に斬られた
『筑後国風土記』逸文には
磐井が
豊前の
上膳県へ逃亡し
その山中で死んだ
(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)
と記録
同年十二月
磐井の子
筑紫葛子
は連座から逃れるため
糟屋(福岡県糟屋郡付近)
の
屯倉(みやけ・トンソウ)
をヤマト王権へ献上し
死罪を免ぜられた・・・
乱後の
529年三月
ヤマト王権(倭国)は再び
近江毛野
を任那の安羅へ派遣し
新羅との領土交渉を行わせた
↓↑
『筑後国風土記』逸文
交戦の様子とともに
磐井の墓に関する記事が残され
『古事記』は
筑紫君石井(いわい)・・・訓む、意詞易(異)
が
天皇の命に従わないので
天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)
大伴金村
を派遣して
石井を殺害させたと記録
『国造本紀』に
磐井と新羅の関係を
示唆する記述がある・・・
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