mixiユーザー(id:3687887)

2017年08月04日15:32

116 view

2333日目からのツヅキ・・・馬糞風が飛んでいた北海道・・・チリが舞う

 2333日目からのツヅキ
 ↓↑ ↓↑
 ・・・「筑紫-国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)の乱」に又もや突然、飛ぶ・・・理由は単純で・・・飛鳥、明日香、平城、奈良再遷都・・・飛梅・訳備烏目・・・
 ↓↑
 「薬子=くすこ=葛子(くずこ)・屑粉
 ↓↑         九図拠=九相図(九想図・くそうず)
                死体の変貌の様子」
 ↓↑
 と名前の発音が似てい、
 「葛木・葛城」の
 「かづら=葛・蔓・鬘・蘰・葛山・和良」
 の漢字の「同音の訓み」だから・・・
 「葛野王(かどののおう・かどののおおきみ)
  天智天皇八年(669年)
   〜
  慶雲二年十二月二十日(706年1月9日)
  弘文天皇(大友皇子)の第一皇子」
  孫に
  淡海三船・・・・淡(あわ・タン)海(うみ・あま・カイ)
          三(みつ・サン)船(ふね・ソウ)
  官位は正四位上
  式部卿」・・・「淡海三船」は存在したのか?
ーー↓↑ーーー
  ↓↑
 筑紫 葛子(つくし の くずこ)
  ↓↑         つくし=竭(つくす・ケツ・ゲチ)
             取之不尽、用之不竭
             取っても使っても尽きることがない
             つきる(尽・竭・歇・殫・殲・涸・卒)
             使い果たす・終わりにする・なくす
             物事の実現や解決のために
  ↓↑         あらゆる手段を試みる
 6世紀(古墳時代後期)の豪族
 カバネは君
 磐井(筑紫 君 磐井)の子
 『日本書紀』では
 「筑紫  君  葛子
 (つくしのきみ くずこ)」
 ↓↑
 ?〜?6世紀前半の豪族
 父は
 筑紫-国造(くにのみやつこ)
 磐井(いわい)
 「日本書紀」では
 継体天皇二十二年(528)
 父が朝廷の派遣した
 物部麤鹿火(もののべの-あらかひ)
 の軍に討たれ
 ↓↑
 筑紫 葛子(つくし の くずこ)
 6世紀(古墳時代後期)の豪族
 カバネは君
 磐井(筑紫君磐井)の子
 『日本書紀』では
 「筑紫-君-葛子(つくし-の-きみ-くずこ)」
 と表記・・・・・椄句史・ 訓・ 句図故
 ↓↑
 雄大迹天皇=継体天皇
 ↓↑
 『日本書紀』
 継体天皇二十一年
  〜
 同二十二年(527年?〜528年?)
 父の
 磐井(筑紫君磐井)
 と
 朝廷軍との間に戦いが発生し
 継体天皇二十二年十一月
 磐井は敗死(磐井の乱)
 同年12月
 子の葛子は
 死罪を贖うことを求め
 糟屋屯倉(かすやのみやけ)・・・倉庫・蔵・庫→蔵人?
                庫裏(くり)=厨房?
                       台所・調理場
                仏教寺院の伽藍の一つ
                庫裡とも書く
   「屯倉(みやけ)=ヤマト王権の支配制度の一つ
            全国に設置した直轄地を表す語
            のちの地方行政組織の先駆け」?
   屯倉(みやけ)は「駐屯兵の兵糧倉庫」だろう・・・?
     「屯倉=みやけ=宮家・三宅」・・・三宅秀?
  (筑前国
   糟屋郡付近
   福岡県糟屋郡
   福岡市東区付近に比定)
 を朝廷に献じた
 『筑後国風土記』逸文で
 磐井に関する記述はあるが
 「葛子」に関する記述はない・・・
 ↓↑
 『先代旧事本紀』
 「国造本紀」
 伊吉島造(壱岐国造)条で
 継体天皇の時に
 石井(磐井)に従った
 新羅の海辺の人を討伐したとする記述・・・
 ↓↑
 継体天皇二十二年(528年?)
 十一月十一日条・・・・・・十一・壱拾壱・一一・壱壱
 磐井は
 筑紫御井郡
 (福岡県
  三井郡の大部分と
  久留米市中央部)
 において
 朝廷から征討のため派遣された
 物部麁鹿火
 の軍と交戦し
 麁鹿火に斬られた
 ↓↑
 継体天皇二十二年十二月
 磐井の子の
 「筑紫君-葛子」
 は死罪を免れるため
 糟屋屯倉(福岡県糟屋郡・福岡市東区)
 を朝廷に献じた
 ↓↑
 『日本書紀』において
 「筑紫-葛子」が献じたとする
 糟屋屯倉の記述
 『日本書紀』では
 筑紫地域において他に
 穂波屯倉
 鎌 屯倉
 那津官家
 などの屯倉の設置が知られる
 ↓↑
 史書では
 葛子の後も
 7世紀末まで
 筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ
 その活躍が認められる・・・
 ↓↑
 継体天皇晩年の編年
 『百済本記』の伝える
 「辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)」
 により3年繰り上げられたとする説・・・
 これによれば
 「磐井の乱」は実際には
 「530年〜531年」の出来事・・・?
 ↓↑
 「磐井の乱(いわいのらん)」
 527年(継体二十一年)
 朝鮮半島南部へ出兵しようとした
 近江毛野
 率いるヤマト王権軍の進軍を
 筑紫君磐井
 が阻(はば)み
 翌528年(継体二十二年)十一月
 物部麁鹿火
 によって鎮圧された
 ヤマト王権と、
 親新羅だった九州豪族との主導権争い・・・
 ↓↑
 527年(継体二十一)六月三日
 ヤマト王権の
 近江毛野
 は6万人の兵を率いて
 新羅に奪われた
 南加羅
 喙己呑 (トクコトン) の2国
 ↓↑  喙=口端(くちばし・ガイ・シ・嘴)
       鳥類の口器
       上下の顎(あご)が突き出し
       角質でおおわれ、歯と唇の機能を持つ
       容喙(ヨウカイ)=くちばしを入れること
                横から口出し
                差し出口
     己(おのれ・自分・みずから・自然に・キ
       土の弟=ツチのト)
     呑(のむ・ドン)・・・雲呑 (ワンタン)
     新羅は522年
     大伽揶との婚姻同盟を結び伽揶に侵攻し
     529年に金官国や
     その西方にあった?
    「喙己呑(トクコトン)」を武力制圧された?
    「喙己呑」は漢字からすれば、
     鳥のクチバシに己が呑みこまれそうな地形だろう?
     韓国釜山、金海近辺の海岸はスベテが
     鳥のクチバシの形に観える・・・
     韓国、洛東江(ナクトンガン)の河口の
     乙淑島(ウルスクト)は、鳥のクチバシに啄ばまれ、
     呑み込まれているようにみえる・・・?
     渡り鳥の到来地として有名らしい・・・
 ↓↑ 「乙淑島(ウルスクト)渡り鳥到来地」
 を回復するため
 任那へ向かって出発
 新羅は
 筑紫(九州地方北部)の有力者
 磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)
 へ贈賄し
 ヤマト王権軍の妨害を要請・・・
 磐井は挙兵し
 「火の国(肥前国・肥後国)」
 ↓↑    ・・・熊本・・・熊川・錦江
       忠清南道公州からは熊津江、
       忠清南道扶余からは白馬江(ペンマガン)
       錦江=百済にとって重要な水上交通路
          公州には百済の旧都
          熊津
          扶余には新都泗沘
          日本、百済vs新羅、唐
          との間で戦われた
          白村江の戦いが行われた白江・白村江
 ↓↑       は錦江と推定・・・
 と
 「豊の国(豊前国・豊後国)」
       ・・・大分・・・宇佐神宮・・・新羅
 を制圧
 倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
 朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
 近江毛野軍の進軍をはばんで交戦
 磐井は
 「近江毛野」・・・近江の毛野
 ↓↑    ・・・毛野(けの・けぬ)
          古墳時代の地域・文化圏の一
          群馬県と栃木県南部を合わせた地域
          史書には「毛野」の名称自体は無い
         「上毛野(かみつけの)」
         「下毛野(しもつけの)」
          の名称が記録され
 ↓↑       これらは「毛野」が分かれたもの?
 に
 「お前とは同じ
  釜の飯を食った仲だ。・・・釜の飯=鎌(足・子)のメシ?
  お前などの指示には従わない」
 と言ったとされ
 ヤマト王権では
 平定軍の派遣について協議し
 継体天皇が
 大伴金村
 物部麁鹿火
 巨勢男人
 らに将軍の人選を諮問し
 物部麁鹿火
 が推挙され
 同年八月一日
 麁鹿火
 が将軍に任命された
 528年十一月十一日
 磐井軍
 と
 麁鹿火
 率いるヤマト王権軍が
 筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)
 にて交戦
 磐井軍が敗北
 「日本書紀」によると
 磐井は物部麁鹿火に斬られた
 『筑後国風土記』逸文には
 磐井が
 豊前の
 上膳県へ逃亡し
 その山中で死んだ
 (ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)
 と記録
 同年十二月
 磐井の子
 筑紫葛子
 は連座から逃れるため
 糟屋(福岡県糟屋郡付近)
 の
 屯倉(みやけ・トンソウ)
 をヤマト王権へ献上し
 死罪を免ぜられた・・・
 乱後の
 529年三月
 ヤマト王権(倭国)は再び
 近江毛野
 を任那の安羅へ派遣し
 新羅との領土交渉を行わせた
 ↓↑
 『筑後国風土記』逸文
 交戦の様子とともに
 磐井の墓に関する記事が残され
 『古事記』は
 筑紫君石井(いわい)・・・訓む、意詞易(異)
 が
 天皇の命に従わないので
 天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)
 大伴金村
 を派遣して
 石井を殺害させたと記録
 『国造本紀』に
 磐井と新羅の関係を
 示唆する記述がある・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年08月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031