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2017年07月30日00:06

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7月30日の日記

今日の出来事:1496年−船田合戦、1570年−姉川の戦い、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が酒田に到着、1837年−モリソン号事件、1868年−戊辰戦争:飯野藩家老・樋口盛秀と藩士・野間銀次郎が自刃、1912年−明治天皇が崩御し、大正天皇が践祚、同日に元号を明治から大正に改元、1938年−日ソ国境紛争:張鼓峰事件が勃発、1945年−日本の伊号第五八潜水艦が、アメリカの巡洋艦インディアナポリス(原爆輸送の帰路)を撃沈、乗員883人が死亡、1995年−八王子スーパー強盗殺人事件

今日は、船田合戦です。船田合戦は、美濃守護・土岐成頼の後継者を巡って、斎藤妙純と石丸利光との間で行なわれた合戦です。近隣の近江・越前・尾張を巻き込んでの争乱となりました。
美濃錯乱:この頃、美濃守護・土岐氏の権力が衰えて守護代・斎藤氏が台頭し、守護の後継を決めるようになっていました。1444年、斎藤宗円は土岐氏の守護代・富島高景を殺害しました。この時、逃亡した富島八郎左衛門は土岐氏被官3名を捕らえて殺害し、守護代邸に放火した後に一族郎党を挙げて垂井で土岐軍と戦い勝利しました。さらに、斎藤氏の館に攻め寄せましたが、守護・土岐持益と斎藤宗円が着陣すると戦闘は小康状態となりました。この後、斎藤宗円は富島氏に替わって美濃守護代となりました。1446年、斎藤宗円は守護の軍勢を率いて垂井の富島氏の陣を攻め、激戦を展開しましたが勝敗は付きませんでした。1450年、斎藤宗円は京都の山名氏邸から守護代邸に帰る途中、近衛油小路で富島氏の手の者により暗殺されました。斎藤宗円の子・利永は、暗殺の首謀者・富島氏を討ち滅ぼし、守護代となって美濃の実権を掌握しました。
文明美濃の乱:1456年、土岐持益の嫡子・持兼が亡くなると、持益は孫で持兼の子・亀寿丸を継嗣としようとしました。しかし、斎藤利永は土岐持益を隠居させ、一色義遠の子・成頼を擁立して守護職に据えました。1460年に斎藤利永が死去すると嫡男・利藤が守護代を継ぎました。しかし、幼少のため斎藤利永の弟で叔父・斎藤妙椿が後見人となりました。「応仁の乱」で斎藤妙椿は西軍に加わり、東軍に属した富島氏や近江から来援した京極氏の軍勢と戦い、1468年までに駆逐して美濃国内を平定しました。その一方で多くの荘園を押領して、主家の土岐氏を凌駕する勢力を築き、近江・越前・尾張へ進出しました。こうして、土岐成頼の被官でありながら事実上美濃の支配者となりました。1480年、斎藤妙椿は守護・土岐成頼に甥・利国(妙純)を重用するよう遺言して亡くなりました。斎藤妙純が跡を継ぐと「応仁の乱」で斎藤妙椿が押領した荘園8万石の扱いをめぐり、守護代・斎藤利藤と争いとなって合戦が始まりました。室町幕府の支援を得た斎藤利藤に対し、土岐成頼は斎藤妙椿の遺言通りに斎藤妙純を支持しました。このため、斎藤利藤が敗れて近江の六角高頼の元へ逃れましたが、斎藤妙純の重臣・石丸利光に追討されて京都へ逃亡しました。1481年、室町幕府と土岐成頼・斎藤妙純は和睦しました。1487年、室町幕府の仲介で斎藤利藤は守護代に復帰し、翌年に美濃へ戻りました。しかし、実権は斎藤妙純が握り、幕府の命令は斎藤妙純を通して土岐成頼へ、次に斎藤利藤へ伝えるという形でした。「文明美濃の乱」で功績のあった石丸利光は、次第に斎藤利藤に接近していきました。9代将軍・足利義尚は、荘園押領を繰り返した六角高頼を征伐するため近江へ親征しました。1489年に足利義尚が陣没し、親征は中止されましたが後を継いだ10代将軍・足利義稙が1491年に親征を再開すると土岐成頼と斎藤妙純は参陣しました。
船田合戦開戦:土岐成頼は嫡男・政房より、末子・元頼を寵愛して後を継がせようとしました。これに対して、権力奪回を図る斎藤利藤と出世を目指す石丸利光が同調し、斎藤妙純の排除を図ろうとしました。1494年、斎藤妙純は郡上郡に大宝寺を創建し、開堂式に出席する事になっていました。石丸利光は道中で斎藤妙純の暗殺を図ろうとしましたが、悪天候で延期となり失敗しました。翌日に居城・船田城で兵を集め、船田城の北にある加納城の斎藤妙純を奇襲しようとしましたが、西尾直教の密告で発覚しました。石丸利光は、土岐成頼に仲介を頼んで斎藤妙純と和睦し、西尾直教は追放されました。しかし、斎藤妙純は加納城を増強したため、翌年に両軍は開戦しました。
正法寺の戦い:1495年5月5日、斎藤妙純の弟・斎藤利綱は村山利重らを率いて正法寺に入りましたが、石丸利光の弟・利元も間道から正法寺に移り、1つの寺で斎藤軍が北、石丸軍は南に対陣しました。5月25日に石丸利光は、斎藤利藤の孫・利春を船田城に迎え入れました。しかし、6月28日に斎藤利春は風邪で急死したため、急遽30日に斎藤利藤の末子・毘沙童を、7月3日には土岐元頼を船田城に入城させました。石丸軍は11日に石丸利光の一族・石丸利定が斎藤妙純方の安養寺を急襲して加納城を包囲しましたが、長井秀弘の反撃に遭って石丸利定が戦死、死傷者500名を出して敗走しました。斎藤軍は13日に正法寺へ入り、石丸利元は船田城へ逃れました。14日に尾張の上四郡守護代・織田寛広が斎藤妙純方として援軍を出し、安養寺近くに布陣しました。22日に斎藤妙純は石丸方の西郡の古田氏討伐に弟の長井利安・利綱ら3000人の兵を派遣しました。石丸利光も一族の石丸利信を将とした1000人の救援軍を派遣し、両軍は合戦となりました。この戦いで斎藤軍は56名、石丸軍は石丸利信を始め130余名が戦死し、斎藤軍の勝利となりました。度重なる敗戦で船田城の石丸利光は戦意を喪失し、28日に船田城を焼き払うと土岐元頼と毘沙童ら500騎を連れて近江へ逃れました。その後、土岐成頼が城田寺城に隠居して政房に家督と守護職を譲ったため、戦乱は一旦終結しました。
城田寺城の戦い:石丸利光と姻戚関係にあった尾張下四郡守護代の織田敏定・寛定父子は、美濃へ向かおうとして尾張上四郡守護代・織田寛広に行く手を阻まれました。織田敏定が陣没し、子・寛定も美濃で戦死すると両織田氏の争いは織田寛広が有利となりました。しかし、織田寛定の弟・寛村が後を継ぐと織田寛広は苦戦しました。斎藤妙純は織田寛広に援軍を派遣しましたが、翌1496年5月6日の合戦で両織田氏は共に多数の戦死者を出したため和睦し、尾張の戦乱が終結しました。一方、近江にいた石丸利光は再起を図り、管領・細川政元に兵糧代を送って幕府の支援を頼み、六角高頼と伊勢の梅戸貞実の支持を得ると南近江で兵を集めて美濃侵入を窺いました。しかし、両織田氏が和睦したため情勢は不利となりましたが、息子・利高に押し切られて決行しました。石丸軍は総大将・土岐元頼、副将・毘沙童として、伊勢から尾張津島へ侵攻し、竹ヶ鼻に到着しました。また、別の一軍は多芸郡に入って放火や威嚇を行ないました。斎藤妙純は墨俣に弟・利綱が率いる軍を派遣しましたが、6月20日に石丸軍は斎藤軍を破って北上して土岐成頼がいる城田寺城に迫りました。土岐成頼は門を閉ざして石丸軍を入れようとしませんでしたが、石丸利光の使者から土岐元頼が一緒に従軍している事、幕府の支持を取り付けた事を聞くと、門を開いて石丸軍を城田寺城に入れました。この事態に斎藤妙純は守護・土岐政房の命令を受けて城田寺城へ向かうと、同時に婿・朝倉貞景と京極高清に支援を要請しました。京極氏は、援軍に浅井氏、三田村氏を鵜飼に派遣し、美濃と近江の国境にある弥高山に着陣しました。斎藤軍は24日に長良川を渡り、25日から26日にかけて城田寺城を包囲しました。27日に織田寛広が派遣した尾張軍が到着、7月6日に朝倉貞景が派遣した越前の軍勢が到着して包囲網に加わりました。六角高頼は城田寺城へ救援に向かおうとしましたが、国境を遮る京極軍に敗れて500余名を失いました。梅戸貞実も斎藤妙純方の長野氏に妨害されて美濃へ行けませんでした。石丸利光は、9日に自分の切腹と引き換えに土岐成頼と毘沙童の助命を書いた降伏状を包囲軍に送り、承諾の返書を受け取ると翌10日に子・利高、弟・利元と共に切腹しました。毘沙童は13歳という幼少だったため罪を許され、後に出家して日運と改名しました。土岐成頼は元頼と共に城を出ようとしましたが、土岐政房の説得を受けて単独で城を出ました。そして、土岐成頼を加納城に奉じる一方で城田寺城に火が放たれ、7月30日に残された土岐元頼は自刃しました。こうして、1年に渡る合戦は終結しました。
その後:斎藤利藤は石丸方を支援したため隠居させられ、2年後の1498年に亡くなりました。土岐成頼は、1497年に死去しました。美濃の内乱を平定した斎藤妙純は、京極高清の要請で近江の六角高頼討伐に向かいました。しかし、六角高頼は蒲生貞秀らの支援を受けて対陣したまま和睦を結んだため、美濃へ撤退しました。ところが1497年1月10日、撤退途中に土一揆が蜂起し、不意を付かれた斎藤妙純は嫡男・利親以下1000余名と共に戦死しました。孫の勝千代(後の利良)は幼少のため、次男の又四郎が継承しました。1499年12月15日、斎藤又四郎が急死すると弟・彦四郎が継いで守護代職も継承しましたが、1512年に土岐政房と対立して美濃から追放されました。一方、土岐氏は再びお家騒動を起こしました。土岐政房は、嫡男・頼武よりも次男・頼芸に後を継がせようとしました。反発した土岐頼武に斎藤利良が就き、土岐頼芸に美濃小守護代・長井長弘と家臣・長井新左衛門尉が就いた事から再び合戦が繰り広げられました。1517年に土岐頼武派が勝利しましたが、斎藤彦四郎の助力を得て翌1518年に再び合戦となり、土岐頼芸側が勝利して土岐頼武を越前に追放しました。しかし、翌1519年に土岐政房が死去すると、これを好機と見て土岐頼武は再度反乱を起こし、朝倉孝景の援助で美濃に侵攻しました。土岐頼芸側を圧倒し、土岐頼武が守護の座に付きました。しかし、長井長弘は政権奪取を画策し、1525年に長井新左衛門尉とともに挙兵しました。新守護代となった斎藤利茂ら土岐頼武方と戦い、主家の斎藤氏の居城・稲葉山城を攻め取り、美濃守護所の福光館も占拠して反乱は成功しました。その後も土岐頼武方との対立は続きましたが、1530年に劣勢に陥った土岐頼武が再び越前に逃れたため、土岐頼芸が守護の座に就きました。これにより、長井長弘は守護代・斎藤氏に替わって、美濃の実権を握りました。その後、1533年に長井長弘、長井新左衛門尉らが相次いで死去したため、長井新左衛門尉の子・規秀(後の斎藤道三)を重用しました。こうして、斎藤道三が台頭する事になります。

次に、姉川の戦いです。尾張の織田信長は、駿河の今川義元を「桶狭間の戦い」で討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻しました。北近江を治める浅井長政には、妹・お市の方を娶らせて織田氏と縁戚関係を結んでいました。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名・六角義賢父子を「観音寺城の戦い」で破り、足利義昭を奉じて上洛を果たしました。その後、信長からの上洛参集要求を拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、越前への侵攻を開始しました。すると朝倉氏との縁(同盟関係)が深かった浅井長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲いました。一転して、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始しました。信長の家臣たちは「金ヶ崎退き口」と言われる撤退戦を経て、退却しました。信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣しました。まずは報復に出撃してきた六角義賢父子を一蹴(野洲河原の戦い)すると、織田軍を恐れた坂田郡の堀秀村などが信長に降りました。信長は虎御前山に布陣すると、森可成・坂井政尚・斎藤利治・柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下秀吉・丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせました。信長は殿軍として簗田広正・中条家忠・佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いさせ、いったん後退しました。信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣しました。徳川家康が織田軍に合流し、徳川家康もまた竜ヶ鼻に布陣しました。一方、浅井方にも朝倉景健が率いる8000の援軍が到着しました。朝倉軍は小谷城の東にある大依山に布陣しました。これに浅井長政の兵5000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13000となりました。浅井・朝倉軍は陣払いして兵を引きましたが、姉川を前にして軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣しました。これに対し、徳川軍が一番合戦として西の三田村軍へと向かい、東の野村軍には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)が向かいました。午前6時頃に戦闘が始まりました。浅井軍も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」という激戦になりましたが、織田・徳川側が1100余りを討ち取って勝利しました。織田・徳川軍の戦死者は800人でした。姉川の合戦での浅井家の被害は甚大で、浅井長政が最も信頼していたと言われている重臣・遠藤直経や長政の実弟・浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた多くの武将が戦死しました。朝倉氏では豪傑で知られた真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死しました。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出しました。一方、初期戦闘で苦戦した織田軍では坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死しています。横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城主にしました。この戦いで敗れた浅井・朝倉軍は、比叡山の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び(志賀の陣)戦い、甲斐の武田信玄や本願寺顕如らと組み「信長包囲網」を形成していく事になります。

その次に、奥の細道:松尾芭蕉が酒田に到着です。芭蕉は、日本海酒田に着きました。季節は夏真でした。ここでこの二句を詠みました。「暑き日を 海にいれたり 最上川」、「あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ」

その次の次に、モリソン号事件です。鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号」に対し薩摩藩及び浦賀奉行は「異国船打払令」に基づき砲撃を行いました。しかし、この「モリソン号」にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉ら7人が乗っており、この日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していた事が分かり、「異国船打払令」に対する批判が強まりました。また、「モリソン号」は非武装であり、イギリス軍艦と勘違いされていました。これがきっかけで、のちに「慎機論」を著した蘭学者・渡辺崋山、「戊戌夢物語」を著した高野長英の「尚歯会」2人が幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件「蛮社の獄」が起こります。

そのまた次に、戊辰戦争:飯野藩家老・樋口盛秀と藩士・野間銀次郎が自刃です。上総・飯野藩主の保科正益は、江戸幕府の若年寄でした。「戊辰戦争」では、新政府に恭順するためと、前将軍・徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしましたが、親戚に当たる会津藩主・松平容保が徹底抗戦の構えを取ったため、連座によって京都・北野で謹慎処分となりました。さらに、飯野藩士が林忠崇や「遊撃隊」に参加した罪を問われました。飯野藩次席家老・樋口盛秀は、「富津陣屋襲撃」は「自分の指示によって出兵したので、他の預かり知らぬ事である」と自ら罪を背負って切腹しました。亨年61でした。「箱根戊辰戦争」では、上総国飯野藩隊士20人が「第五軍二番小隊」に属していました。飯野藩士・野間銀次郎は、上総国飯野藩隊士20人を代表して自ら自刃を申し入れて切腹しました。亨年26でした。こうして、首謀者を断罪したとして藩主・保科正益は罪を許されました。

そのまた次の次に、明治天皇が崩御し、大正天皇が践祚、明治から大正に改元です。明治天皇は、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発し、61歳で崩御しました。宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表しましたが、当時の宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分です。これは「登極令」の規定上、皇太子・嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行なわなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議したうえで、崩御時刻を2時間遅らせて翌日の午前0時43分と定めたといいます。

さらに次に、日ソ国境紛争:張鼓峰事件です。張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流しています。ソ連軍は張鼓峰に侵入して占領しました。峰一帯に陣地を構築し、監視中の松島伍長を殺害しました。日本政府は、西代理大使を通してソ連政府に至急撤兵を要求し、満洲国も同様の抗議を行ないました。しかしソ連側は、現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わりました。ソ連軍は、峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとして日本守備隊に撃退されました。張鼓峰および沙草峰付近に大挙してソ連軍が来襲してきましたが、日本側守備隊は反撃を加えて被占領地を奪回し、満洲国領土を回復しました。しかし、ソ連側はさらに兵力を増強し、執拗に侵攻を企てて朝鮮の古城、甑山などを砲撃しました。さらに航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、さらに編隊を組んで朝鮮の洪儀、慶興、甑山、古城などを爆撃しました。これに対して、日本側はソ連軍の猛攻に損害を受けつつも奮戦し、なんとか国境線を確保しました。ソ連軍は大きな損害を被る事となりました。重光葵とマクシム・リトヴィノフの会談によってモスクワで停戦が合意されました。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦が決まりました。この激しい紛争で日本側は戦死526名、負傷者914名の損害を出しました。この事件は、「第一次世界大戦」の激戦をほとんど経験しなかった日本にとって、「日露戦争」後では初めての欧米列強との本格的な戦闘でした。日本軍は「日露戦争」と「シベリア出兵」の経験から、ロシアの軍隊を過小評価していましたが、「ノモンハン事件」と共に高度に機械化された赤軍の実力を痛感する結果となりました。しかし、当時は「日中戦争」の真っ只中であった日本陸軍にとっては、貧弱な中国国民党軍が主敵であったため、あまり積極的に機械化を進めようとしませんでした。そのため、後の「ノモンハン事件」、「太平洋戦争」に於いて、機械化が進んだ欧米列強に苦戦を強いられる事となりました。ソ連軍も戦死792名、負傷者2752名という日本側を上回る損害を出していました。指揮していたヴァシーリー・ブリュヘル将軍は無能として粛清されました。なお、この戦闘に加わった歩兵第75連隊の連隊長は「インパール作戦」での抗命で知られる佐藤幸徳大佐です。

最後に、日本の伊号第五八潜水艦が、アメリカの巡洋艦インディアナポリスを撃沈です。「インディアナポリス」は広島、長崎へ投下予定の原子爆弾用の部品と核材料を急ぎテニアン島へ運ぶよう命じられました。テニアンに最高機密の荷物を届けた後、「インディアナポリス」はグアムに派遣され、レイテ島へ向けグアムを出港しました。「インディアナポリス」は単独で直線コースを取り、レイテ島へ向かいました。「伊号第五八潜水艦」は、テニアン島に原子爆弾を搬送し帰路に着いていた重巡洋艦「インディアナポリス」を発見し、魚雷による通常攻撃で撃沈しました。この時、橋本艦長は魚雷のほかに白木一郎 一飛曹艇と中井昭 一飛曹艇の発進準備を行っていました。「インディアナポリス」に魚雷を命中させた後、白木艇からは「敵が沈まないなら出してくれ」と発進を催促していました。しかし、橋本艦長は「インディアナポリス」に魚雷を3本命中させた時点で、この攻撃での回天使用を止めていたのでした。止めの魚雷の装てんを終えて潜望鏡深度に戻った「伊58」でしたが、観測、次いで浮上しても周囲には何も見えませんでした。橋本艦長はアイダホ型戦艦撃沈と判断し、大物撃沈という事で乗員の士気は高まりました。しかし、これとは対照的に回天乗員は悔しがり、特に林義明 一飛曹は「戦艦の如き好目標になぜ回天を使用しなかったのか」と涙を流しました。「インディアナポリス」撃沈は、日本海軍の潜水艦としては最後となる大型戦闘艦の撃沈であり、「第二次世界大戦」で敵の攻撃により沈没した最後のアメリカ海軍水上艦艇となりました。回天乗員に不満の種を残しつつ、「伊58」は北上していきました。乗員1199名のうち約300名が攻撃で死亡し、残り約900名は8月2日に哨戒機によって初めて発見されてから5日後に救助が完了するまで、救命ボートなしで海に浮かんでいましたが、水、食料の欠乏、海上での体温の低下、これらから起こった幻覚症状、気力の消耗などで多数の乗組員が死亡しました。それに加えサメによる襲撃がありました。救助された生存者はわずか316名でした。

今日の誕生日:大浦慶、村田経芳、ヘンリー・フォード、東條英機(第40代内閣総理大臣)、新美南吉、荒井注(元ザ・ドリフターズ)、斎藤晴彦、ポール・アンカ、アーノルド・シュワルツェネッガー、西岸良平、ジャン・レノ、阿部義晴(ユニコーン)、柴田善臣、志村香、大竹七未、大竹夕魅、古閑美保、宮崎美穂(AKB48)、小瀧望(ジャニーズWEST)

今日の記念日:明治天皇祭、プロレス記念日、梅干の日

今日の「今日訓」:本日は、1926年までは、この日に亡くなった明治天皇を記念する祭日でした。1927年からは、明治天皇の誕生日、11月3日を「明治節」として祭日にしました。1953年7月30日に力道山が「日本プロレスリング協会」を結成した事で「プロレス記念日」、「梅干しを食べると難が去る」と昔から言われてきた事から「7(なん)が3(さ)0(る)」の語呂合わせで「梅干の日」となりました。
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