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2017年06月23日10:51

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「コペルニクスの原理」あるいは「凡庸性の原理」についての独り言

 コペルニクスもニュートンも「神が、幾何学的に美しくない宇宙を創造するはずがない」という確信から、自然哲学に革新的ともいえるパラダイムを導入した。彼らにとっては、神が人類の英知である数学に違反する世界を創造する筈がないのである。
 コペルニクスの原理(Copernican Principle)は「宇宙の中で地球は特別な位置を占めていない」と主張する。地球だけでなく、どんなものも特別な位置を占めてないというのが原理の主張としては相応しいだろう。頼るべきデータがない場合、科学者はこの世界の仕組みに関して妥当な仮定を立てる。これが最もよく当てはまるのは科学者たちが地球外生命の存在を議論するときである。私たちが知っているのは、太陽系だけであり、炭素をベースとする地球上の生命体のみである。これだけから結論を引き出すことは非常に困難で、それゆえ、コペルニクスの原理が登場することになる。
 コペルニクスの原理は、私たちの地球にはなんら特別なことはなく、ここでの出来事が宇宙の他の場所の出来事と違っている理由はないということである(「凡庸性の原理」)。それは、私たちが知る限り自然界の法則は宇宙のどこでも同一であるということと、沢山の恒星や惑星が存在することを思えば統計的な議論からしても地球が特別だということはありそうもないということに立脚している。
 コペルニクスは、それまでの哲学者たちや宗教家たちが固く信じていたことに反して、地球は宇宙の中心ではないと信じた。これは地球を特別な地位から引きづり降ろす第一歩だった。その後の研究によって、太陽は銀河系の中心ではなく、人類は他の生命種から進化したものだ、ということがわかった。これらの発見が人類を宇宙の中の特別な位置から引きずり下ろし、コペルニクスの原理の適用の成功例になった。数世紀にわたってそれを支持する発見が続いたので、コペルニクスの原理はほぼ正しいと考えられるようになった。その究極の現代版は「宇宙原理」、つまり十分に大きなスケールで見れば「宇宙はどの方向にも同じである」という仮定である。いまのところ、ほとんどの科学者は、それを受け入れない理由がないという理由からコペルニクスの原理を受け入れている。それが正当化されるか否かはもちろん更なる観測が必要である。
 凡庸とは、ありふれたことだが、本当に凡庸な存在などあるのか。かつて、太陽系や地球、生命、知性に対して凡庸性が適用された。それは正しかったのか。今では地球の特異性、個性が語られている。凡庸は英語ではmediocrity。この「凡庸さ」が、科学の世界では重要な意味をもってきた。凡庸さを原理とした「Principle of Mediocrity」は「月並み原理」とも呼ばれ、「Principle of Indifference」(平凡の原理)や「コペルニクスの原理」と同じである。注意が必要なのが、「コペルニクスの原理」。「コペルニクスの原理」は、「コペルニクス的転回」とは無関係。「コペルニクス的転回」は、有名な言葉だが、天動説から地動説という説を提唱したコペルニクスが起こした認識の大転換を指し、カントが用いて有名になったが、一種のパラダイム転換を意味する言葉である。

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 コペルニクスが地動説で示した重要な意義は、地球は太陽系では特別な天体ではなく、多くの惑星の一つに過ぎないということ。この考えを敷衍すれば、地球は、太陽系は、銀河系は特別なものではなく多数の天体のうちの一つに過ぎず、生命、ほ乳類、人類は特別な存在ではないことになる。この考えは、「凡庸性の原理」そのもの。
 さて、その「凡庸さ」を逆手にとって、議論を進める方法がある。手がかりがまったくない状態でも、「凡庸さ」を根拠に議論を展開していくことができる。凡庸性の原理が利用された例として、知的生命の存在確率の計算が有名。知的生命の存在の可能性を、銀河系の天体数と知的生命が存在するための様々な要因の確率の積としてを求めるものである。要因として、恒星が惑星をもつ確率、生命が存在できる領域に惑星がある確率、生命が発生する確率、生命が知的生命体にまで進化する確率、知的生命体が文明持つ確率、などが挙げられている。これらの要因は、いずれも不確かである。
  銀河には、数千億個の恒星があると見積もられている。生命が生存できる可能性の天体はどれくらいあるかを見積もるとしよう。ところが、地球外の生命についてはまったく情報がない。地球外生命や人類以外の知性などについては、現在の知識では推定不能なもの、信頼のできるデータがないものが多い。その時、地球や地球の生物、ヒトを参考にしていこうというのが、凡庸性の原理である。
  太陽系の形成モデルは、原始太陽系分子雲から恒星や惑星が必然的に形成されるというもので、どこにでも適用できるモデルだった。コンピューターのシミュレーションでも、同じ結果が得られていた。だから、太陽系での惑星形成は、ごくありふれたプロセスだと考えられた。地球生命は、惑星系で水が長期間安定して存在できる環境を前提に発生し、進化し、そしてやがて知的生命であるヒトが生まれ、文明が誕生し、現在の科学技術に基づく社会が生み出された。この条件を「凡庸性の原理」として受け入れ、可能性を推定していくわけである。
  太陽系には大きな惑星が10個ほどあり、そのうち水が存在できそうな天体は2個(地球と火星)だから、確率は0.2。そのうち、水惑星の環境が維持できたのは、地球だけで、0.5。生命の誕生の可能性は不明だが、環境が整えば生命が発生できると考えれば、火星でも生命が発生できた可能性がある。もし火星には発生せず、地球にだけ発生したとするのなら、確率は0.5。今のところ火星の生命の確実な証拠はない。慎重派なら0.5を、火星生命誕生の可能性を信じる楽天的な人なら、確率1となる。
 このような推定をしながら、知的生命の存在の可能性の概数を求めていく。残念ながら凡庸性原理を適用してとりあえずの結果がでたとしても、その数値には確かさの保証がない。とりあえずの方便のような手法をとっているので、結果に科学的な根拠がないのである。さらに言えば、そもそも私たちの存在が、本当に凡庸さの中にあるのかという疑問である。私たちの太陽系は、本当に当たり前の惑星系なのか。地球は本当に惑星の中で典型な惑星と見做してよいのか。
  新たな観測事実によって、私たちの「凡庸さ」の評価が変わりつつある。近年、太陽系以外の恒星で、惑星が幾つも発見されてきた。色々な手法で探査され、多様な惑星系の存在がわかってきた。最初に見つかったのは、ホットジュピータ(熱い木星)と呼ばれる惑星。ホットジュピターとは、公転半径が小さく公転周期が短い木星程度の大きさで、太陽に近いところを回るため非常に熱いと予想される惑星である。ホットジュピターの他にも、離心率の大きい、つまり長い楕円軌道をもつ高温期と低温期を繰り返す巨大惑星(エキセントリック・プラネット)も発見されている。ホットジュピターとエキセントリック・プラネットの比率は、これまでに発見された系外惑星の大半(百数十個のうち百個ほど)を占めている。つまり、どうも太陽系のような惑星系はありふれたものではない。
  現在も探査は継続され、NASAの探査機「ケプラー」は、太陽系外惑星を探す目的で、2009年3月に打ち上げられ、6月には運用が始まった。10万個の候補から、惑星系、特に生命が存在できる領域での地球型惑星を見つけることが最大の目的となっている。つまり、第二の地球、そして生命や知的生命の可能性が考えられるような惑星を探索することである。その惑星の発見は、2010年1月に最初の惑星が報告されて以来、続々と発見されてきた。2011年5月23日までに、11個の惑星系の存在が確認されている。ケプラーが発見した惑星の半分は、ホットジュピター。ただし、生命が存在できる領域にある地球型惑星も6個、発見されている。また、1000個以上の惑星候補があるうち、300個ほどが地球程度の大きさの候補だと考えられている。
  見つかっているいずれの地球型惑星も、地球とは似て非なるもので、大きかったり、寒かったり、暑かったりで、そっくりなものはまだ見つかっていない。地球型惑星があまり見つからない理由は、もしかすると、地球型惑星は凡庸ではなく、特異な存在なためかもしれない。現在のところ、発見されている惑星には、多様さが目立つ。もしかすると、多様さこそが惑星系の本質なのかもしれない。地球は、「凡庸」ではなく「特異な」天体でだったのかもしれない。生命も、ヒトという知的生命も、私たちの文明や技術も、特異な存在なのかもしれない。地球外知的生命は、さらに特異で、知的コミュニケーションができるような存在は、同時期には存在しえないのかもしれない。私たちは現在の宇宙で孤独な存在なのかどうか不明であり、凡庸と特異の間はまだまた埋まりそうにない。

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