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2017年05月17日23:51

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2281日目からのツヅキ・・・

 2281日目からのツヅキ
ーーーーー
 「襲津彦」・・・津波の襲来の諺(ことわざ・ゲン)?
 「襲=龍+衣」・・・リュウのイ(ころも)→劉の意(威)
 「津=氵+聿」・・・サンズイ(氵・水)のハジメ(初)
 「彦=立+ノ+彡」・・・「毘古・比古
             彦=ゲン=諺(ことわざ)」
  ↓↑
 「襲(おそ)う津(みなと)の彦(びこ・ひこ)」
 「かさねる(襲)、みなと(津)、びこ(彦)
          へそ(毘)いにしえ(古)」
 「襲津彦=シュウシンゲン=州秦解務・葺箴言」
 「津=つ・シン・しる・しずくとなってしたたる液体
    水のうるおす所
    浅瀬の舟着き場・渡し場
    水分でうるおう・うるおす
    生活をうるおす金
    手当金
    舟着き場・渡し場・津渡・河津・入津・要津
    体から出る液体・つば・汗
    津液
    次々と湧(わ)き出て潤(うる)おす
    「興味津津」
    「津波・津津浦浦」」
ーー↓↑ーーーーー↓↑ーー
  ↓↑     ↓↑
  葛城     襲津彦
 (かづらき の そつひこ)
 生没年不詳
 4世紀末〜5世紀前半頃の
 「記紀」等に伝わる古代日本人
  葛  城 長 江 曾都毘古
 (かづらきのながえのそつびこ・葛城襲津彦)
 玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖
 若子宿禰(わくごのすくね) - 江野財臣の祖
  ↓↑
  比古布都押 之信   命
 (ひこふつおしのまことのみこと)が
  尾張  連
 (おわりのむらじ)らの祖である
  意富那毘
 (おおなび)の妹
  葛  城 高 千那毘売
 (かづらぎのたかちなびめ)
 を娶して生んだ子は
  味 師内   宿禰
 (うましうちのすくね)で、
  山 代 の内  臣
 (やましろのうちのおみ)
 の祖
  ↓↑
  木 国  造
 (きのくにのみやつこ)の祖の
  宇豆比古
 (うづひこ)の妹、
  山 下 影  日売
 (やましたかげのひめ)を娶して生んだ子が
  建 内  宿 禰
 (たけうちのすくね)
  ↓↑  ↓↑
 建内宿禰の子は九人
 男七人
 女二人
  ↓↑
  波多 八代   宿禰
 (はたのやしろのすくね)は、
  波多 臣
 (はたのおみ)
  林   臣
 (はやしのおみ)
  波美  臣
 (はみのおみ)
  星 川  臣
 (ほしかわのおみ)
  淡海  臣
 (おうみのおみ)
  長 谷部 君
 (はつせべのきみ)
 の祖
  ↓↑  ↓↑
  許勢 小柄  宿禰
 (こせのおからのすくね)は、
  許勢 臣
 (こせのおみ)
  雀  部 臣
 (さざきべのおみ)
  軽 部 臣
 (かるべのおみ)
 の祖
  ↓↑  ↓↑
  蘇賀 石 河   宿禰
 (そがのいしかわのすくね)は、
  蘇我 臣
 (そがのおみ)
  川 辺 臣
 (かわべのおみ)
  田中  臣
 (たなかのおみ)
  高 向  臣
 (たかむくのおみ)
  小治 田 臣
 (おはりだのおみ)
  桜  井 臣
 (さくらいのおみ)
  岸 田 臣
 (きしだのおみ)
 等の祖
  ↓↑  ↓↑
  平群  都久  宿禰
 (へぐりのつくのすくね)は、
  平群  臣
 (へぐりのおみ)
  佐和良 臣
 (さわらのおみ)
  馬  御樴  連
 (うまのみくいのむらじ)
 らの祖
  ↓↑  ↓↑
  木 角  宿 禰
 (きのつののすくね)は、
  木 臣
 (きのおみ)
  都奴 臣
 (つぬのおみ)
  坂 本  臣
 (さかもとのおみ)
 の祖
  ↓↑  ↓↑
  久米能摩伊刀比売
 (くめのまいとひめ)
  ↓↑
  怒能伊呂比売
 (ののいろひめ)
  ↓↑
  葛  城 長江  曽都毘古
 (かずらぎのながえのそつびこ)は、
  玉 手 臣
 (たまでのおみ)
  的   臣
 (いくわのおみ)
  生 江 臣
 (いくえのおみ)
  阿芸那 臣
 (あぎなのおみ)
 らの祖
  ↓↑
  若 子 宿 禰
 (わくごのすくね)は、
  江野 間   臣
 (えののたからのおみ)
 の祖
  ↓↑  ↓↑
 玉手臣(たまでのおみ)
 的臣(いくわのおみ)
 生江臣(いくえのおみ)
 阿芸那臣(あぎなのおみ)
  ↓↑  ↓↑
 建内宿禰が先祖
  ↓↑
 「古事記」では建内(武内)宿禰の子
  ↓↑
 玉手 臣・・・玉手箱
 的  臣・・・的=いくは
          あてる・まと(真訳)・テキ
 生江 臣・・・生江(イクエ)・・・意句得・幾重?
        生江 家道女
       (いくえ の いえみちめ・生没年不詳)
        奈良時代〜平安時代初期
        の女性
        生江鎌取の娘
        越優婆夷=越の国の在家の
             女性の仏教信者
             越前国足羽郡江下郷出身
             天平勝宝九年(757年)
             聖武天皇の一周忌に際して
             母の
             生江大田女ととも
             願主として
             法華経100部800巻
             瑜伽論1部100巻
             を東大寺に献上
             のち
             平安京内の市で
             妄りに罪福
            (善因楽果と悪因苦果の道理)
             を説き人心を惑わせたとして
             延暦十五年(796年)
             本国の越前国に送り返された
 阿芸那臣・・・阿芸那臣(あぎなのおみ)
 らの祖
  ↓↑
 武内宿禰
 葛城氏
 および
 その同族の祖は
 履中天皇(第16代)
 反正天皇(第17代)
 允恭天皇(第18代)・・・
 の外祖父である
  ↓↑
 「葛城襲津彦」は
 対朝鮮外交で活躍した・・・
 『百済記』の類似名称の記載から
 実在性が指摘
  ↓↑
 『日本書紀』では
 「葛城襲津彦」、
 『古事記』では
 「葛城長江曾都毘古(曽都毘古)」
 や
 「葛城之曾都毘古」
 と表記
 他文献では
 「ソツヒコ」が・・・そとびこ=外毘古?
 「曾頭日古」
 「曾豆比古」
 「曾都比古」
 とも表記されるほか、
 『紀氏家牒』逸文では
 「葛城長柄襲津彦宿禰」
 と表記・・・
 『日本書紀』所引の
 『百済記』に
 壬午年(382年)の人物として見える
 「沙至比跪(さちひこ)」が
 通説では
 「襲津彦」に比定・・・
  ↓↑
 神功皇后六十二年(262年)
 干支二運を繰り下げた
 訂正紀年で
 西暦382年
 にあたる
  ↓↑
 玉田宿禰
 『日本書紀』
 允恭天皇五年七月十四日条
 襲津彦の孫
 雄略天皇七年是歳条では
 襲津彦の子
  ↓↑
 系譜に関して『日本書紀』に記載はない
 『古事記』孝元天皇段では、
 建内宿禰(武内宿禰)の子
 7男2女のうちの
 第八子
 記紀に母に関する記載はない
 『紀氏家牒』逸文では
 荒田彦(葛城国造)の女の
 葛比売
 『新撰姓氏録』では
 右京皇別 玉手朝臣条等において
 武内宿禰の子
 子のうち、
 娘の
 磐之媛命(石之日売命)は
 仁徳天皇皇后
 履中天皇・反正天皇・允恭天皇
 を産んだ
 『日本書紀』では、
 襲津彦の子
 または
 孫に
 玉田宿禰
 『古事記』では子に
 葦田宿禰
  ↓↑
 武内宿禰の系譜
 武内宿禰が
 後世(7世紀後半頃か)に創出された人物
 稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は
 「ヒコ→スクネ→ワケ」
 と変遷するべきで
 「襲津彦」の位置が不自然で
 原系譜では
 襲津彦
 が
 武内宿禰の位置にあったとする説・・・
  ↓↑
 『日本書紀』では、
 神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)
 に渡って
 襲津彦の事績が記録
  ↓↑  ↓↑
 神功皇后五年三月七日条
 新羅王の人質の
 微叱旱岐(みしこち)
 が一時帰国したいというので、
 神功皇后は
 微叱旱岐に
 襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、
 対馬にて
 新羅王の使者に騙され
 微叱旱岐に逃げられてしまう。
 襲津彦は怒り、
 使者3人を焼き殺し
 蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて
 草羅城(くさわらのさし)を落とし、
 捕虜を連れ帰った
 (桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)
  ↓↑
 神功皇后六十二年条
 新羅からの朝貢がなかったので、
 襲津彦が新羅討伐に派遣
 『百済記』(百済三書の1つ)を
 引用(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、
    襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか)
  ↓↑
 『百済記』逸文
 壬午年(382年)
 貴国(倭国)は
 沙至比跪(さちひこ)を遣わして
 新羅を討たせようとしたが、
 新羅は美女2人に迎えさせて
 沙至比跪を騙し、
 惑わされた
 沙至比跪はかえって
 加羅を討ってしまった
 百済に逃げた
 加羅王家は天皇に直訴し、
 怒った天皇は
 木羅斤資(もくらこんし)
 を遣わして
 沙至比跪を攻めさせた・・・
 「一云」
 沙至比跪は天皇の怒りを知り、
 密かに貴国に帰って身を隠した
 沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、
 妹に使いを出して
 天皇の怒りが解けたか探らせたが、
 収まらないことを知ると
 石穴に入って自殺した・・・
  ↓↑
 応神天皇十四年是歳条
 百済から
 弓月君(ゆづきのきみ)が至り、
 天皇に対して奏上するには、
 百済の民人を連れて帰化したいけれども
 新羅が邪魔をして
 加羅から海を渡ってくることができないという。
 天皇は弓月の民を連れ帰るため
 襲津彦を加羅に遣わしたが、
 三年経っても
 襲津彦が帰ってくることはなかった
  ↓↑
 応神天皇十六年八月条
 天皇は襲津彦が帰国しないのは
 新羅が妨げるせいだとし、
 平群木菟宿禰(へぐりのつく)
 と
 的戸田宿禰(いくはのとだ)
 に精兵を授けて加羅に派遣した
 新羅王は愕然として罪に服し、
 弓月の民を率いて
 襲津彦と共に日本に来た
  ↓↑
 仁徳天皇四十一年三月条
 天皇は百済に
 紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、
 百済王族の
 酒君に無礼があったので
 紀角宿禰が叱責すると、
 百済王はかしこまり、
 鉄鎖で酒君を縛り
 襲津彦に従わせて日本に送った・・・
  ↓↑
 『万葉集』では
 襲津彦に関連する1首
 強弓の伝説的武将の歌
  ↓↑
 葛城の 襲津彦真弓
 荒木(新木)にも
 頼めや君が 我が名告りけむ
  ↓↑
(かづらきの そつびこまゆみ
 あらきにも
 たのめやきみが わがなのりけむ)
 『万葉集』巻十一 2639番(原文万葉仮名)
  ↓↑
 「葛城の襲津彦が使う
  新木の強弓のように、
  私を妻として頼りにしておいでなので、
  それで私の名を口に出されたのでしょう」
 男を確実に獲得した女の歌・・・
  ↓↑
 『古事記』では
 「葛城長江曾都毘古」
 『紀氏家牒』逸文では
 「大倭国葛城県長柄里(奈良県御所市名柄?)
 に住したので
 「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけた・・・
 葛城地方の
 長柄(長江)地域との関係
 襲津彦の子孫のうち、
 仁徳皇后の
 磐之媛命が履中・反正・允恭
 を産んだ・・・
 襲津彦男子の
 葦田宿禰の娘の
 黒媛も
 履中の妃となった
 天皇家外戚として
 葛城勢力・・・
  ↓↑
 『日本書紀』では
 襲津彦に関する
 朝鮮外交伝承が記されている
 『百済記』所載の
 「沙至比跪」の記載の存在
  ↓↑
 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
 仁徳天皇六十四年?〜允恭天皇四十二年一月十四日)
 第十九代天皇
 在位
 允恭天皇元年十二月〜同42年一月十四日)
  雄朝 津間稚 子 宿 禰 尊
 (おあさづまわくごのすくねのみこと)
  男浅 津間若 子 宿 禰 王
 (古事記)
 中国の歴史書
 『宋書』・『梁書』
 に記される
 倭の五王中の
 「倭王済」に比定・・・
  ↓↑
 仁徳天皇の第四皇子
 母は
 葛城襲津彦の女
 磐之媛命(いわのひめのみこと)
 履中天皇、反正天皇
 の同母弟
  ↓↑
 皇后
  忍 坂  大 中  姫
 (おしさかのおおなかつひめ・稚渟毛二派皇子の女)
 第一皇子 木梨軽皇子
     (きなしのかるのみこ)皇太子
 第一皇女 名形大娘皇女
     (ながたのおおいらつめのみこ)
 第二皇子 境黒彦皇子
     (さかいのくろひこのみこ)
 第三皇子 穴穂皇子
     (あなほのみこ・安康天皇)
 第二皇女 軽大娘皇女
     (かるのおおいらつめのみこ)
 第四皇子 八釣白彦皇子
     (やつりのしらひこのみこ)
 第五皇子 大泊瀬稚武皇子
     (おおはつせわかたけるのみこ・雄略天皇)
 第三皇女 但馬橘大娘皇女
     (たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)
 第四皇女 酒見皇女
     (さかみのひめみこ)
  ↓↑
 妃
 弟姫(おとひめ・衣通郎姫(そとおりのいらつめ)
 皇后の妹
 『古事記』では
  藤 原  琴 節  郎  女
 (ふじわらのことふしのいらつめ)
 と同一人物・・・
  ↓↑
 都は
  遠  飛 鳥 宮
 (とおつあすかのみや)
 奈良県
 高市郡
 明日香村飛鳥?
 飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇
  ↓↑
 『日本書紀』
 反正天皇五年一月
 反正天皇が
 皇太子を定めずして崩御
 雄朝津間稚子宿禰尊
 を天皇(大王)に推挙
 尊は病気を理由に再三辞退
 允恭天皇元年十二月
 忍坂大中姫
 の強い要請を受け即位
 3年8月
 新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療
 4年9月
 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、
 飛鳥甘樫丘にて
 盟神探湯(くがたち)を実施
 5年7月
 玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)
 の叛意が露顕、誅殺
 7年12月
 皇后の妹
 衣通郎姫を入内
 皇后の不興を買い、
 藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる
 8年2月
 衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に
 茅渟宮(ちぬのみや・大阪府泉佐野市)へ移る
 天皇は遊猟にかこつけて
 郎姫の許に行幸を続けたが、
 10年に皇后に諌められ、
 その後の
 茅渟行幸は稀になった
 24年6月
 皇太子の
 木梨軽皇子
 と
 同母妹の
 軽大娘皇女の
 近親相姦が発覚
 (古事記)
 木梨軽皇子を廃太子
 伊予に配流(→衣通姫伝説)
 42年1月
 崩御
 新羅王はこれを悲しみ、弔使
 『古事記』『旧事紀』
 に78歳
 『愚管抄』『神皇正統記』
 に80歳
 北野本『日本書紀』に
 81歳(一本68歳)・・・
 陵(みささぎ)
 大阪府藤井寺市国府1丁目
 惠我長野北陵(恵我長野北陵)に治定
 公式形式は前方後円
 考古学名は
 市ノ山古墳(前方後円墳・全長228m)
 大阪府藤井寺市津堂にある宮内庁の
 藤井寺陵墓参考地では
 允恭天皇が被葬候補者に想定
 考古学名は
 津堂城山古墳
ーーーーー
 ・・・「允-恭(イン-ギョウ)」・・・木戸孝允の妻(木戸松子=幾松)、「幼少時の名は斗(ます)、計(かず)、号は翠香院(すいこういん)・父は若狭小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛(きざき いちべえ)、母は三方郡神子浦の医師・細川益庵(太仲)(ほそかわ えきあん)の娘・末子(すみ)」・・・アナトの女王、女神・・・穴戸=あなと=穴門・・・長門・・・
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