mixiユーザー(id:3687887)

2017年05月17日23:49

622 view

もじたま日記・2281日目・「アナト (anatu)の女神」=「穴戸(穴門)-豊浦宮の神功皇后(氣長足姫尊)」

 2281日目
 ・・・「牛=うし・ウシ=丑・宇志・宇斯・大人(うし)」の漢字にコダワル・・・「宇志比古神社・徳島県-鳴門市-大麻町-大谷-字山田六六・元、八幡神社、明治以降,宇志比古神社・宇志比古=丹波比古多多須美知能-宇斯王(たんばひこたたすみちの-うし-のきみ)」・・・「イシュタル(Ishtar)=イナンナ=ニン-アンナ」、「イシス (Isis)=アセト=頭部にハトホル女神から受け継いだ牛の角と太陽円盤を持った女神として表される」、「アプロディーテー(Aphrodita)=ヴィーナス(ウェヌス・Venus)=金星=ウェヌス」にコダワル・・・「泡(アプロス=aphros)」・・・「阿波・安房・安和」です?・・・「彼女の聖獣はイルカ(海豚)・聖鳥は白鳥、鳩、雀、燕・聖樹は薔薇、芥子、花梨、銀梅花・その他、真珠、帆立貝、林檎・牡山羊や鵞鳥に乗った姿でも描写」・・・
 「アナト (anatu)→アテネ=アシナ=アテナー」、「アナトは、カナン(シリア西部)のウガリット神話の主神バアルの妹であり、妻とされる、愛と戦いの女神で、狩猟の女神、豊穣の女神でもあると考えられていた」・・・「嵐と慈雨の神バアルの配偶女神」、「古くは最高神イルの娘にて妻」だったが、後に「嵐と慈雨の神バアルが信仰の中心となるとイルの娘でありバアルの妹であり妻」とされ・・・「多くの敵を殺した好戦的な女神」・・・
 「アナト (anatu)の女神」=「穴戸(穴門)-豊浦宮の神功皇后(氣長足姫尊)」・・・?
 ↓↑
 大化六年(650年)
 穴戸の国司
 草壁醜経・・・日下部の醜(みにくい)経(キョウ)
            醜=酉+鬼   経=糸+又+十+一
            経=キョウ=今日・教・京・協・狂
 が白雉を献上
 天智四年(665年)
 長門国の初見
 穴門とは海峡(関門海峡)
 穴門国造の領域と、
 阿武国造の領域・・・阿武=山口県-阿武郡-阿武町?
              長州
 を合(あわ)わせて、
 七世紀に
 穴戸国が設置され
 七世紀後半に
 長門国に改称・・・
 ↓↑
 「穴戸-豊浦宮(あなと-の-とゆらのみや」
 は
 「関門海峡の古名。また、長門国一帯の古名」
 だが、
 「第十四代-仲哀天皇・・・ナゼ、「仲哀」なのか?
                 イ(人)の中の悲哀?
 (148年〜200年3月8日
  在位は192年2月11日〜200年3月8日)」
 の宮で、
 「日本武尊の第二子」
 「妻が神功皇后(氣長足姫尊)」で
 「第十五代応神天皇の父親?」
 ↓↑
 「元年二月条、即月に、
  淡路の屯倉(みやけ)」を定む・・・
 (帶中日子天皇、・・・帶中日子(タラシナカツヒコ)
 ↓↑         帶中津彦(タラシナカツヒコ)
            帯中津彦(タラシナカツヒコ)
            帶中津日子(タラシナカツヒコ)
            帶中比古(タラシナカツヒコ)
            帯中津日子(タラシナカツヒコ)
            足仲津比古(タラナカツヒコ)
 ↓↑               の命=みこと=尊
  坐-穴門-之-豐浦-宮
  及-筑紫-訶志比-宮・・・香椎宮・福岡県福岡市東区香椎
 ↓↑           仲哀天皇の営んだ仮宮
             「橿日宮(訶志比宮)」の伝承地
              橿=かし・キョウ(樫・櫧)
                ブナ(椈・橅)科の
                常緑高木の一群の総称
                狭義には小楢(コナラ)属の樹
 ↓↑   訶=しかる・せめる・カ
        叱る  責める 呵責(カシャク)
            可笑しい、変だ、奇妙だ?
            訶志比=志しを比べ、叱る・吒・怒る
                こころざしを比較し、叱責
            カシイ←訶思惟・訶恣意
                首をかしげる?
                頭を傾(かし)げる?
                首を捻(ひね・撚・拈)る?
 ↓↑        摩訶止観・摩訶衍・摩訶不思議
  治天下也)古事記」・・・
 ↓↑
 「アナト (anatu)の女神」、
 元は
 「最高神イル」の配偶者・・・イル→イリ?
 「イル(イリ)は伊利・伊理・入」・・・・?
 「李の理」って・・「李さん一家」・・・?
 ↓↑
 「唐王朝=李淵が隋を滅ぼして建国」
 「隋王朝=楊堅が建国」・・・用件・要件・洋犬?
     「楊堅が北周の兵権を与えられ、
      581年
      静帝より禅譲を受け
      隋を建国」
 ↓↑ ↓↑
 ・・・上に述べた「各地の女神」は異音で別称だが、その実体は「同一の女神」である・・・そして、異質なモノも混合され統合された「メガミ」である・・・
ーーーーー
 「イリマメ(煎り豆)」の料理・・・「壹與・臺與」・・・
       煎=前(䒑+肉+刀)+灬(烈火)
        =炒る・熬る・乾燥した食材を
               さらに加熱して風味を出すこと
               「煎る」はより熱して焦がす意
                乾煎り・焙煎
 「入鹿=いるか=射鹿・・・海豚?」
 ↓↑
 656年・・・六百五十六=陸陌五拾陸
 ↓↑           六=亠+八
              陌=阝(阜)+百
 ↓↑           拾=足
 高麗の調進使
    「伊利」之使主
    「いり」のおおみ
 が来朝 ↓↑
 ↓↑  ↓↑
 いくめ「いり」びこいさちのみこと
 活 目「入 」彦 五十狭茅尊・・・日本書紀
 伊久米「伊理」毘古・・・・・・・・古事記
ーー↓↑ーー
 垂仁天皇
 ↓↑
 崇神天皇
 の
 第三皇子
 ↓↑
 崇神天皇二十九年一月一日
 〜
 垂仁天皇九十九年七月十四日)
 第十一代天皇
 在位は
 垂仁天皇元年一月二日
 〜
 垂仁天皇九十九年七月十四日)
ーー↓↑ーー
 新羅の
 牛頭(ごず)山に・・・牛頭=ソシモリ=蘇死母理?
 鎮座していた
 牛頭大王の
 神霊をもたらして祀った
 古代インドの
 祇園精舎に由来
 八坂神社は
 明治維新の神仏分離まで
 「祇園感神院」
 「祇園社」と言った
 この地域は、古代には
 八坂郷といった
 ↓↑
 牛頭天王(ごずてんのう)
 神仏習合の神
 釈迦の生誕地に因む
 祇園精舎の守護神
 「蘇民将来」説話の
 「武塔天神」と同一視され
 薬師如来の
 垂迹であるとともに
 「須佐之男(スサノオ)」
 の本地ともされた
 京都東山祇園
 播磨国広峰山
 に鎮座して
 祇園信仰の神(祇園神)
 八坂神社にあたる
 感神院祇園社から勧請されて
 全国の祇園社、
 天王社で祀られた
 陰陽道では
 天道神と同一視され
 道教的色彩の強い神だが、
 中国の文献には見られない・・・?
 ↓↑
 牛頭天王
 京都祇園社(現八坂神社)の祭神
 『祇園牛頭天王御縁起』によれば、
 本地仏は
 東方浄瑠璃界の教主
 薬師如来で
 12の大願を発し、
 須弥山中腹にある
 「豊饒国(日本)」の・・・「豊國=豊前+豊後」
             とよくに・憮然・文語?
 武答天王?・・・・・・・・武を答(こたえ)る天の王?
              武に応(こた)える天の王?
              武塔=ブトウ=武訳得・武等
                 分等・舞踏・武闘
               塔=「十+一」+「荅=答」
 の一人息子として
 垂迹し、姿を現した
 太子は、
 七歳にして
 身長が7尺5寸
 三尺の牛頭をもち、
 三尺の赤い角を持つ
 太子は王位を継承して
 「牛頭天王(ごずてんのう)」・・・午頭天王=馬頭天王
                  牛頭-馬頭(ごず-めず)
 を名乗るが、
 后をむかえようとするものの、
 その姿かたちの怖ろしさのために
 近寄ろうとする女人さえいない
 牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった
 3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと
 山野に狩りに連れ出すが、
 そのとき一羽の鳩があらわれ
 山鳩は人間のことばを話すことができ、
 大海に住む
 沙掲羅龍王・・・「沙掲羅」、「娑羯羅」と漢語に音訳?
         法華経・提婆達多品に登場する
         八歳の龍女は
         この竜王の
         第三王女で「善女(如)龍王]
 の娘のもとへ案内すると言う
 牛頭天王は娘を娶りに出かける
 旅の途次、
 長者である弟の
 「古単将来」に宿所を求めたが、
 慳貪な
 「古単(古端、巨端)」はこれを断り
 それに対し、
 貧乏な兄の
 「蘇民将来」・・・将来は
         民(たみ・ミン)を
         蘇る(読みかえる)・・・蘇我
                     耶蘇
 は歓待して宿を貸し、
 粟飯(あわめし・ショクハン・ゾクハン)
 をふるまった
 蘇民の親切に感じ入った
 牛頭天王は、
 願いごとがすべてかなう
 牛玉を蘇民にさずけ、
 蘇民は富貴の人となった
 ↓↑
 龍宮へ赴いた
 牛頭天王は、
 沙掲(羯)羅の三女の
 頗梨采女を娶り、
 8年をそこで過ごすあいだに
 七男一女の王子(八王子)を儲(もう)けた
 「豊饒(ホウジョウ・ホウニョウ)国」
 への帰路、
 牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、
 古単への復讐を図った
 古端は千人もの僧を集め、
 大般若経を
 七日七晩にわたって
 読誦させたが法師のひとりが
 居眠りしたために失敗し、
 古単の眷属五千余はことごとく
 蹴り殺された
 この殺戮のなかで、
 牛頭天王は
 古単の妻だけを
 蘇民将来の娘であるために助命して、
 「茅の輪をつくって、
  赤絹の房を下げ、
  『蘇民将来之子孫なり』
  との護符を付ければ
  末代までも
  災難を逃れることができる」・・・過ぎ越し祭り?
 と除災の法を教示した
 ↓↑
 『祇園牛頭天王御縁起』
 ↓↑
 牛頭天王の神格
 江戸時代から明治時代にかけて
 復古神道の影響下で主張された
 スサノオ・朝鮮半島起源説が知られるが、
 神仏分離と
 国家神道の政治的な影響が大きい
 ↓↑
 牛頭天王
 平安京の祇園社の祭神で
 祇園天神とも称され、
 平安時代から
 行疫神として崇め信じられてきた
 御霊信仰の影響から
 当初は御霊を鎮めるために祭り、
 やがて平安末期には
 疫病神を鎮め退散させるために
 花笠や山鉾を出して
 市中を練り歩いて鎮祭するようになった
 これが祇園祭の起源・・・
 ↓↑
 当時は疫病は異国からの伝染と考えて、
 異国由来の疫病神として
 牛頭天王を祀る由来となったと考える立場もある
 牛頭天王は、
 子の
 八王子権現や
 眷属とともに
 疫病を司る神とされた・・・
 ↓↑
 『備後国風土記』
 牛頭天王
 鎌倉時代後半
 卜部兼方
 『釈日本紀』に引用された
 『備後国風土記』逸文では
 牛頭天王は
 武塔神とも称され、・・・漢字は「武塔神」で
                「武答神」ではない?
 スサノオと同一視され
 富貴な弟の
 巨旦将来と・・・「巨旦=コタン=枯淡・小丹・古丹・古潭」
          巨=目=取っ手のある差し金・定規
          旦=日+一=あした(朝)
           =元旦=元日の朝・夜明け
 貧しい兄の
 蘇民将来
 の説話を記している
 『先代旧事本紀』では
 オオナムチノミコト(大国主)の
 荒魂が
 牛頭天王であると解説・・・
 平安時代末期
 『伊呂波字類抄』(色葉字類抄)では、
 牛頭天王は
 天竺の北にある
 「九相国」の王であるとしている
 ↓↑
 スサノオとの習合
 朝鮮半島との関係
 新羅に
 牛頭山という山があり、
 熱病に効果のある
 栴檀を産し
 この山の名を冠した神と同一視する説・・・
 ↓↑
 『日本書紀』巻第一神代上第八段一書
 スサノオ(素戔嗚尊)が
 新羅の
 曽尸茂利=曽尸茂梨=ソシモリ
 という地に
 高天原から追放されて降臨し
 「ここにはいたくはない」と言い残し、
 出雲の国に渡ったとの記述
 「ソシモリ」は「ソシマリ」=「ソモリ」
 ともいう
 朝鮮語で、
 牛頭または牛首を意味し、
 朝鮮半島の各地に
 牛頭山という名の
 山や牛頭の名の付いた島がある由と関連する
 ↓↑
 ソシモリのソは
 蘇民のソで、
 蘇民は「ソの民」であるとして、
 蘇民将来説話と
 『日本書紀』の
 スサノオの
 ソシモリ降臨と関連づける説もある・・・
 『三國相傳陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』
 (略称『金烏玉兎集』、『簠簋内伝』とも)
 第1巻牛頭天王縁起に
 詳細な説話が記され
 『祇園牛頭天王御縁起』(上述)では
 牛頭天王は
 武答天皇の太子として登場
 牛頭天皇とも表記
 八大竜王の一
 沙掲羅竜王の娘の
 頗梨采女を妃として
 八王子を生んだ・・・
 その姿かたちは
 頭に牛の角を持ち、
 夜叉のようであるが、
 こころは人間に似ていると考えられた・・・
 日本仏教では、
 薬師如来の垂迹とされ
 牛頭天王に対する
 神仏習合の信仰を
 祇園信仰といい、
 中世までには日本全国に広まり、
 悪疫退散
 水難鎮護
 の神として
 「祇園祭」「天王祭」「津島祭」
 などと称する祭礼が各地で催されるようになった
ーーーーー
 ↓↑
 「牛若丸」の由来・・・?
 「丁丑(ひのとうし)の年、
   丑(うし)の日、
   丑(うし)の刻」
 に生まれた
 今若、乙若の兄弟
 ↓↑
 源 義経(源義經・ゲンギケイ)
 平安時代末期の武将
 鎌倉幕府を開いた
 源頼朝の異母弟
 仮名は九郎
 実名は義經(義経)
 ↓↑
 河内源氏の
 源義朝の
 九男
 幼名
 牛若丸(うしわかまる)
 ↓↑
 生誕 平治元年(1159年)・・・?
 1159 戊寅(己・丙・甲)
  01 乙丑(癸・辛・己)
  25 癸丑(癸・辛・己)寅卯
  02 癸丑(癸・辛・己)
    〜
 死没 文治五年閏四月三十日(1189年6月15日)享年31
 1189 己酉(庚・ ・辛)
  06 庚午(丙・ ・丁)
  15 壬子(壬・ ・癸)
 ↓↑
 改名 牛若、遮那王、義經、義行、義顕
 別名 九郎、判官、廷尉、豫州(仮名)
 戒名 捐館通山源公大居士
 源義朝の
 九男として生まれ、
 牛若丸と名付けられ
 母
 常盤御前は
 九条院の雑仕女
 牛若丸は
 十一歳の時
 鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、
 稚児名を
 遮那王(しゃなおう)
 と名乗った
 ↓↑
 衣川の戦い(ころもがわのたたかい)
 文治五年閏四月三十日(1189年6月15日)
 陸奥国
 衣川館で
 藤原泰衡が
 源義経主従を討った戦い
 閏四月三十日
 500騎の兵をもって
 10数騎の
 義経主従を
 藤原基成の
 衣川館に襲った(衣川の戦い)
 義経の郎党たちことごとく討たれた
 館を平泉の兵に囲まれた義経は、
 一切戦うことをせず
 持仏堂に籠り、
 正妻の
 郷御前
 4歳の女子を殺害
 後、
 自害。享年31
 ↓↑
 鎌倉四代将軍九条頼経
 「寅年」「寅の日」「寅の刻」に生まれた
 三つ「寅」が並んで
 「三寅(みとら)」と名付けられた・・・
ーーーーー
 ↓↑
 次の頁にツヅク・・・

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年05月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031