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2016年10月11日00:34

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書評「ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点」  PART7

【ソ連軍大攻勢 クライマックス】

前回からの続き

8月20日、ジューコフのいた中央集団は日本軍の抵抗にあって450〜1400mしか
前進できなかったが、日本の前線中央に加えた攻撃が功を奏し、小松原は両翼を攻撃する事が出来なかった。

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イリヤ・アレクセエンコ大佐の北部集団では、満州国軍の2個騎兵部隊を難なく撃退した。
だがフイ高地には日本軍前線の強古な陣地があり、北部集団はそこで阻止された。
その後、フイ高地は日本軍の北の要衝となる。
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ソ連軍による第一次攻撃は激しさを増していた。

8月21日と22日に、ポタポフの南部集団は日本軍の主要防御線を複数突破。
日本の前線南部をいくつかの単位に分断して、各々を封鎖および包囲し、壊滅させた。
ソ連の装甲部隊、機械化歩兵部隊、砲兵部隊は効率的かつ迅速に行動し、敵に致命的な打撃を与えたのである。

ソ連軍は孤立陣地の重火器を無力化すると、砲兵隊と戦車によって包囲網を縮めていき、至近距離からの火砲で攻撃を加えたのである。
急増された陣地や、塹壕を火炎放射戦車が焼き尽くした後は、歩兵が擲弾や火器、銃剣で最後の総仕上げをした。
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8月23日水曜の夕刻にはポタポフはハイラースティーン河両岸の日本軍陣地を粉砕。
頑強に抵抗を続ける地点を一か所残すのみとなった。
またポタポフ指揮下の第8装甲旅団が日本軍の背後に回り込み、阻止陣地を確保した。
日本軍の退路を断つためである。

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航空戦についても戦車戦と同じことが言えるのだが、ソ連は航空機とパイロットで2対1で有利に立ち、また質の面でも日本軍を大きく引き離していた。
新型の強化されたI-16は97戦の7.7mmではダメージを与えることは不可能だった。
このため日本軍は一部の97戦に12.7mm機銃を装備した。
だが、ソ連軍航空兵は、97戦の外部増槽に十分な防弾装備がされないことに気が付き
そこで日本側は、航空機がことごとく高空で炎上するという悪夢に突き落とされたのである。

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8月23日にはリッペンドロップがモスクワに到着し、ポーランドと欧州の運命を変える条約に署名した日である。

このときになって関東軍はノモンハンにおける戦況を深く憂慮し、支援のために第7師団をハイラルまで進めることを許可した。
しかし、こうした措置も遅きに失した感は否めない。
戦闘は23〜24日に絶頂を迎えることになるからである。

追加した第7師団傘下の歩兵第71、72、26、28連隊である。
だが40kmに及ぶ行軍を前日に終えたばかりの兵士は、前線に到着したときは体力を消耗していた。
だが午前9時30分から10時に攻撃をおこなうことになった。

小林の第72連隊は濃霧を利用して移動、前方に見える松林を目指した。
だが、この松林はソ連の戦車隊が偽装したものだったである。
小林の第72連隊はすさまじい戦車攻撃のまっただ中に放り込まれた。
しかも初期型のT-34を相手にしなけらばならない。
またBT−5/7戦車も強化されており、新型のBT-7はディーゼルエンジンを装備し、引火し難くなっていたのである。
ガソリンエンジンの車両も、後部の換気グリルと排気多支管を覆い、火炎瓶の効果を薄めていた。

※日記者による註記。
【日本軍の有名な小松原部隊の火炎瓶攻撃及び対戦車砲攻撃の効果があったのは7月1〜3日の関東軍攻勢時だけである。
過去の日本人の著書はそれが余りにも誇張され過ぎている。
対戦車砲と火炎瓶攻撃で撃破したのは、ハルハ河西岸の戦闘だけであり合計140両だが、ジューコフは戦車・装甲車合計450両を用意しており、三分の一を消耗したに過ぎず、また大損害にも関わらず、小松原部隊の南下攻撃を頓挫させ、作戦目標であるハルハ河下流における安岡支隊との合流を完全に阻止しており、単なる美勇伝でしかない。

支援砲撃戦は7月23〜25日で、日本軍砲兵隊の最大射程距離よりも2km後方に離れてソ連軍砲兵隊は陣地しており、無駄弾を1日1万発発射して一時的に喜んだだけである。
その証拠にソ連軍砲兵隊には殆ど被害がないことが、文献からも伺える。

またソ連軍攻勢前の8月15〜16日頃に
「満州731部隊」に命じ、ハルハ河に腸チフス菌を流して、河を汚染したそうである。】



この日、日本の二個連隊は「完膚なきまでに蹂躙され、人的損傷はおよそ50%に達した。
大隊長と中隊長のほぼ全員が戦死した。
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同じころ、ソ連軍北部集団が北部拠点であるフイ高地に対する攻撃を強化していた。
攻撃を開始してから3日を過ぎていたが、何の成果も見られなかった。
この陣地を固守していたのは井置栄一中佐率いる800名の部隊である。
部隊は歩兵二個中隊と、騎兵1個中隊、重装甲1個中隊、工兵1個中隊、砲兵3個中隊(37mmと75mm抱を装備)
攻撃側のソ連軍の方が遥かに兵力は大きかったが、高地に設けられた防御陣地 連絡線でつないだ掩体壕を鉄条網で覆っていたが強固だったため、防御側の抵抗は激しく、北部軍団にかなりの損害をもたらした。
日本側がこれほどまで頑強に抵抗することは予想外であり、全面的攻勢開始の時期を図っていたソ連軍はそこで躓いた。
北部で殆ど戦果が得られないまま8月23日に突入すると、ついにジューコフは怒りを爆発させた。

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ジューコフは激怒し、アレクセエレンコ大佐を呼び出してなじり、その場で更迭。自ら指名した
第二の指揮官に指揮をとらせた。

その後、北部集団には第212空てい旅団と火炎放射戦車隊1個が投入された他、重火器が増強され、同部隊は攻撃を再開。
その頃には防御側も疲弊し、完全に打ちのめされていた。
ソ連の砲弾は1秒に2発という頻度で落下してきた。
日本側に残されていた最後の砲の使用が不能になると、火炎放射戦車に対する有効な防御手段はなくなった。
須見大佐は数キロ離れた場所にいたが、黒煙に覆われたフイ高地を目撃し、火炎放射戦車の炎が「まるでヘビの舌のようにはきだされている」のが見えたという。
残存兵は小火器や擲弾で戦い、夜にはソ連軍に銃剣突撃を加えて撃退した。
しかし800人いた井置の部隊は奮戦したが兵員の消耗は激しく、24日夜には、被害兵数を除くと僅か200人となっていた。
徹底抗戦を主張した井置だが部下に説得され、24日夜に隙を見て、部隊は撤退。
井置たちは途中で、搜索隊として合流した満州軍により30km離れた将軍廟に運ばれた。
25日ソ連軍がフイ高地を占拠すると、そこには600人以上の将兵の遺体があったという。

8月25日になると日本の防衛線は寸断され、組織的な抵抗は、3か所の孤立陣地を除き完全に崩壊した。

8月26日になると包囲網はさらに進んだ。3か所の孤立陣地の包囲網も狭まり、大規模な突破作戦は不可能になった。
南部集団のポタポフが第6戦車旅団と第80歩兵連隊を投入して、二方向から攻撃を開始。
8月の炎天下の使用で、日本軍100mm加農抱は閉鎖器が膨張し、発射後に飛び出すはずの
薬きょうが出てこなくなった。
この度に、汗みずくの砲兵が、砲口に回って丸太を押し込み、薬きょうを押し出すはめとなった。
発射速度は落ち、砲兵も危険にさらされた。それだけではない。
殆どの砲口をハルハ河西岸に向けていたが、幾つものソ連軍部隊が日本の防御線内に侵入して、日本軍の後方に回り込み、砲兵隊を東から、つまり背後から攻撃してきたのである。
それに加え、大半の歩兵が、ソ連軍の反撃や陣地の防御に回されていた。そのため日本の砲兵隊はソ連軍から砲火を浴びせられ、歩兵と戦車に蹂躙された。

8月27日と28日は、ソ連軍の飛行機と砲、装甲車、歩兵が3か所の日本軍陣地に猛撃を加えた。陣地はさらに縮小し、包囲された日本軍は死にもの狂いで戦い、ソ連側にもおびただしい数の犠牲者が出たが、すでに勝敗は明らかだった。
終局が近づいていた。
残っていた日本軍の砲兵中隊が壊滅すると、戦場でソ連軍の行く手を阻むものはなくなった。
日本軍の陣地は次から次へと蹂躙されたが、散りじりになった歩兵部隊は包囲網の脆弱な部分を突破して東に向かい、モンゴル側主張の国境をなんとか超えることが出来た。
そこまでたどり着けば、赤軍に襲われることはない。
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日本の一大戦闘作戦はたちまちのうちに効力を失った。

8月31日 国境線とハルハ河に挟まれた地域から敵軍部隊が一掃されたとジューコフが宣言した。
日本の第6軍は壊滅していた。
5月〜9月までの死傷者は1万8千〜2万3千人だった。
小松原の第23師団の人的消耗は76%、逸見の第26連隊(第7師団)は91%である。
また関東軍はおびただしい数の戦車と重砲の他、150機もの航空機を失った。日本の近代史上、それまでで最悪の軍事的敗北だった。
2002年の発表の新資料にて、ソ連軍は死傷者2万5655人(うち死者9703人 負傷者1万5952人)でモンゴル軍は556人であるとされた。

上記数字から日本軍が引き分けたとするのもあるが、赤軍の力がはっきり実証され、
武力行使にてモンゴル側の国境線の主張が通ったのであり、
関東軍が無残な敗北を喫したという事実は否定しようもない。

小松原の部隊が壊滅したこと。この地域における制空権をソ連が握ったことを考慮すると、かりにジューコフがノモンハンよりも、東のハイラルを目指して兵を進めたとするならば、この地域の日本軍は「収捨しがたい混乱」に陥り、ハイラルも陥落し、満州国西部全体が深刻な脅威にさらされただろう。
純粋に軍事的な視点から見れば、このようなことも起こり得たかもしれない。
しかしソ連政府にはそのような意図はなく、ジューコフの第一軍集団はモンゴルの主張する
国境線で律儀に停止したのである。

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このとき、関東軍は「冷静さを全く失った」と日本の軍事史家は言う。

次回は、同時期の欧州の複雑な外交政策の動きと日本外交の失策、ノモンハンの第二次世界大戦への影響を記述する。

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