(おことわり
ここでいう「被害者」は、犯罪の直接の犠牲者にとどまらない、その遺された関係者や含む、広義の「被害者」とします。
もちろん、狭義の「被害者」についての言及も出てくるかもしれませんが、
その辺は、文脈から汲み取っていただきたく。
「紛らわしい」というご指摘があれば、対応するかもしれません)
まず、
被害者団体といっても色々あるわけで、反“反死刑”で一枚岩ではない。
反死刑、にシンパシーを持つ被害者の団体もあるし、
死刑こそが救いだとする被害者団体もある。
また、
一人一人についても、
“転向”して反死刑を唱えるヒトもいれば、
反死刑から転向して死刑の執行を訴えるヒトもいる。
そして、
「今、迷い無く、一方の立場を主張できる」、そんな被害者ばかりではない。
死刑を願う被害者の中にも、ソコにあるある種の空しさや、そもそも死を要求しなくてはならない事への葛藤を感じ、迷い、それを吐露するヒトがいるし、
死刑の廃止を唱える被害者の中にも、死刑の対象となりうるモノに対して「死を願う」事があったりするわけで、
そういう迷いや葛藤が、一人の被害者の中にも(たいてい)あるのだ。
かように、
一言、「被害者」という言葉でくくってしまっても、
その中には、様々な想いのヒトがいて、
そのうちの一人に限っても、その想いは様々でありうる。
そこんところ、よくふまえておこう。
その上で、考えよう。
「被害者の心情を考えなければならない。」
確かに、その通りだ。
だが、アナタは、ワタシは、「どの被害者の心情を汲み取る」のだ?
ソレは、
所詮、「アナタが肩入れしたい事を言う被害者」を、
アナタが、
アナタの価値観に基づいて、
「選んでいる」のだ。
アナタが、あなたの好きなモノを選んでいるに過ぎない。
それは、
反死刑の立場でも、
反反死刑の立場でも、
殆どのヒトは、そういう意味では、
まったく大して変わらない。
その自覚の上で、
「もうちょっとマシな到達点」
ってのを、見つけられたらいいんだけどね。
テーゼに対するアンチテーゼ。
そこからの止揚。
ワタシが願うのは、そういうものだ。
だから、立場の違いや意見の違いは、問題では無い。
そんなモノ、ひょっとしたら変わるかもしれないしねw
問題は、メタ的な視点を持てる“人物”であるかどうかだよ。
いっぱしのことを言いたきゃ、
小者
にはなるなよ?
立場や属性に囚われた、そこからの世界が全てな小者に語れることは、受け売りくらいのモノだ。
■「殺したがるばかどもと戦って」 瀬戸内寂聴さんの発言に犯罪被害者ら反発「気持ち踏みにじる言葉だ」 日弁連シンポで死刑制度批判
(産経新聞 - 10月07日 05:03)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=3&from=diary&id=4229468
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