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2016年04月20日00:50

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4月20日の日記

今日の出来事:730年−薬師寺東塔(三重塔)が建立、1580年−石山合戦終結、1598年−豊臣秀吉、最後のイベント(醍醐の花見)が開催、1792年−フランスがオーストリアに宣戦し、フランス革命戦争が始まる、1871年−郵便業務開始、1877年−西南戦争:城東会戦

今日は、薬師寺東塔(三重塔)が建立です。薬師寺は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院で、興福寺とともに法相宗の大本山です。南都七大寺の一つです。本尊は薬師如来、開基は天武天皇、道昭、義淵です。680年、天武天皇の発願により、飛鳥の「藤原京(奈良県橿原市)」に造営が開始され、「平城京」遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転しました。天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させました。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇に引き継がれました。その後、710年の「平城京」への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から「平城京」の六条大路に面した右京六条二坊に移転しました。730年4月20日に、東塔(三重塔)が完成しました。「平城京」の薬師寺は973年の火災と1528年の筒井順興の兵火で、多くの建物を失いました。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみです。江戸時代後期に金堂、講堂が再建されました。東塔(三重塔)は総高34.1メートルで、日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、「東寺五重塔」、「興福寺五重塔」、「醍醐寺五重塔」に次ぎ、4番目の高さを誇ります。薬師寺は、1998年に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより「世界遺産」に登録されました。

次に、石山合戦終結です。織田信長は11年にも渡り、本願寺と戦い続けました。以下が石山合戦です。「野田城・福島城の戦い」、「比叡山焼き討ち」、「長島一向一揆蜂起」、「越前一向一揆蜂起」、「長島願証寺焼殺」、「越前一向一揆殲滅」、「天王寺合戦」、「第一次木津川口海戦」、「雑賀侵攻」、「第二次木津川口海戦」を経て本願寺と和議を結び、顕如は石山を退去しました。1578年、「石山本願寺討伐」の要であった荒木村重の離反「有岡城の戦い」により、信長の石山本願寺戦略に重大な狂いが生じました。同時に、「三木合戦」で羽柴秀吉が三木城を攻めていましたが、毛利氏が摂津に上陸して三木城に兵糧を運び込む動きが出てきました。これを機に信長は朝廷を動かして和解をする事を試みました。本願寺は毛利氏の賛同が無いと応じられないとして拒否したため、交渉は決裂しました。信長は毛利氏とも講和する事を決め、毛利氏への勅使が派遣される事になりました。しかしその直後、「第二次木津川口海戦」で織田水軍が大勝すると信長は和平交渉を中止し、荒木村重攻略を進めました。1580年、朝廷は本願寺へ勧修寺晴豊と庭田重保を勅使として遣わすと、本願寺は和議を推し進める事で合意しました。こうして1580年4月20日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は講和を果たしました。条件は顕如ら門徒の大坂退城などでした。講和条約に署名したのは顕如の3人の側近・下間頼廉、下間頼龍、下間仲孝でした。顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡・教如に渡し、紀伊鷺森御坊に退去しました。しかし、雑賀や淡路の門徒は石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れると窮乏してしまう事から、信長に抵抗を続けるべきだと教如に具申しました。このため、顕如が去った後も信長に抵抗する教如勢が石山を占拠し続けました。荒木村重が「花隈城の戦い」に破れるなどの情勢悪化や近衛前久の再度の説得工作によって、石山の受け渡しを教如派が受け入れて雑賀に退去しました。こうして石山は信長のものとなりました。しかし、引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けました。火は石山本願寺を完全に焼き尽くしました。その後、豊臣秀吉はここに大阪城を築きます。

その次に、豊臣秀吉、最後のイベント(醍醐の花見)が開催です。「醍醐の花見」は、朝鮮出兵「慶長の役」が行われている中、1598年4月20日に豊臣秀吉が京都の醍醐寺で、豊臣秀頼、淀君、北政所、前田利家、まつ、徳川家康、伊達政宗等、近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した花見の宴です。これが、豊臣秀吉の最後のイベントとなりました。その日の輿の順番は、1番目に北政所、2番目に淀君、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に長くつき合いのある、まつ(前田利家正室)が続きました。宴会の席では、正室・北政所の次に杯を受けるのを淀君と松の丸殿が争い、まつがその場をうまく取りおさめました。この花見で詠まれた和歌の短冊は今も三宝院に保管されています。「応仁・文明の乱」の後、荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主の義演・准后は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていましたが、秀吉の最期が近い事を感じ取り、一代の華美な英雄の最後に相応しい大舞台を設定するために、あちこちに手配をしてこの「醍醐の花見」を催させました。古今東西の多彩な献上品やアトラクションが供せられる一方で、諸大名の間では秀吉亡き後の政権について、さまざまな駆け引きや腹の探りあいが行われました。醍醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を開催しています。この半年後、秀吉は亡くなりました。

その次の次に、フランスがオーストリアに宣戦し、フランス革命戦争が始まるです。「フランス革命戦争」は、オーストリアによる「フランス革命」への干渉を契機として、1792年4月20日にフランス革命政府(ジロンド派内閣)のオーストリアへの宣戦布告によって開始されました。フランス北部および東部、オランダ、ベルギー、ドイツ、北イタリア、エジプト、一部の植民地などが主要な戦場となりました。「七年戦争」以来、ヨーロッパ大国間の対立関係は解消されました。プロイセン、オーストリア、ロシアの3国は「第1回ポーランド分割」で協調し、それぞれ国境に隣接する地域を獲得しました。ロシアとスウェーデンは1788年から「第一次ロシア・スウェーデン戦争」を戦っていましたが、スウェーデンの優勢によってロシアはフィンランドへの干渉を停止しました。イギリスは「アメリカ独立戦争」に伴う「第一次武装中立同盟」の結成によって国際的孤立に立たされましたが、戦争終結によって解消されました。こうした国際環境の中で「フランス革命」が勃発しました。スウェーデン国王・グスタフ3世は、フランス王家との繋がりから反革命の立場を表明していました。1791年6月、ルイ16世一家のフランス脱出(ヴァレンヌ事件)が失敗に終ると、直ちにフランスからの亡命貴族「エミグレ」と結び、反革命十字軍の結成をヨーロッパ諸国に呼びかけました。しかし、呼びかけに答えたのはロシア皇帝・エカチェリーナ2世のみでした。1792年3月にグスタフ3世が暗殺された事で、スウェーデンは革命戦争に参加しませんでした。神聖ローマ皇帝・レオポルト2世も決断を迫られました。レオポルト2世は、フランス国王・ルイ16世の王妃マリー・アントワネットの実の兄として、革命が過激化していくのを看過できなくなりました。1791年8月27日、レオポルト2世は亡命貴族のアルトワ伯爵(ルイ16世の弟)の仲介で、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共同で、「ピルニッツ宣言」を発表しました。これは、フランス王家の安全を守るため、必要があれば革命に介入する用意があるとするものでした。フランス革命政府には、この宣言は深刻な脅迫として受け止められました。さらに、オーストリア領ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)やドイツの王党派亡命貴族による扇動活動も、革命政府を刺激するのに十分でした。フランスとオーストリアとの間にはアルザス・ロレーヌの帰属問題という積年の対立もありました。こうした事を背景に、外務大臣の地位にあったデュムーリエらの主導のもと、フランス立法議会は1792年4月20日、オーストリアへの宣戦布告を決議しました。こうして「フランス革命戦争」がはじまりました。

そのまた次に、郵便業務開始です。前島密により、郵便制度が創設されました。郵便役所を東京・京都・大阪に設置し、それまでの「飛脚制度」に代わって、運用される事になりました。これを記念して「郵政記念日」となりました。

最後に、西南戦争:城東会戦です。薩摩軍・桐野利秋は4月14日、熊本隊大隊長・池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移しました。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えました。薩摩軍諸隊が熊本城・植木から撤退した4月17日、桐野利秋らは本営・木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20km余りの新たな防衛線を築き、南下する政府軍を迎え撃って全滅させる作戦をとる事にしました。薩摩軍最右翼の大津へは野村忍介が指揮する部隊が配備されました。4月20日、第1・第2・第3旅団は連繋して大津街道に進撃しましたが、野村忍介の諸隊は奮戦してこれを防ぎました。4月19日、熊本鎮台・別働第5旅団・別働第2旅団は連繋して健軍地区の「延岡隊」を攻めました。「延岡隊」は京塚を守って健闘しましたが、弾薬が尽きると後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して政府軍を撃破しました。別働第5旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩摩軍を攻めました。午後3時、猛烈な火力を集中して薩摩軍の先陣を突破すると後陣に迫りましたが、中島健彦が指揮する薩摩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなりました。腹背に攻撃を受けた政府軍は、何とか包囲を脱出すると後退しました。長嶺地区の貴島清は抜刀隊を率いて勇進し、別働第5旅団の左翼を突破すると熊本城へ突入する勢いを見せました。熊本城にいた参軍・山県有朋は大書記官・品川弥二郎からの政府軍苦戦の報告と、大山巌少将からの薩摩軍が熊本に突入する恐れがあるとの報告を聞き、熊本城にあった予備隊第4旅団を戦線に投入しました。薩摩軍最左翼の御船へは、坂元仲平が指揮する諸隊が熊本に入った政府軍と入れ替わる形で進駐していました。別働第3旅団は4月17日、熊本から引き返して御船を攻めました。坂元仲平の諸隊はこの攻撃を退けましたが、それに続く別働第1・第2・第3旅団の西・南・東からの包囲攻撃に堪えきれず、御船から敗走しました。このように両軍の衝突は4月19、20日に政府軍が薩摩軍に攻撃を仕掛けた事から始まり、戦いは熊本平野全域に及びました。先に薩摩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には最右翼の大津の野村忍介の部隊が退却すると、翌21日早朝、第1・第2旅団は大津に進入し、薩摩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に進出しました。第3旅団は大津に進出し、ここに本営を移しました。この「城東会戦」では、薩摩軍は左翼で敗れましたが、右翼の長嶺・保田窪・健軍では優勢な状況にありました。しかし、政府軍は最右翼の大津と最左翼の御船から、薩摩軍本営の木山を挟撃する情勢となりました。これに対し、桐野利秋は木山を死所に決戦をしようとしました。しかし、野村忍介・池辺吉十郎の必死の説得で遂に翻意し、撤退して本営を東方の矢部浜町へ移転する事を決定し、自ら薩摩軍退却の殿軍を務めました。本営が浜町に後退したため、優勢だった薩摩軍右翼各隊も東方へ後退せざるを得なくなりました。こうして、「関ヶ原の戦い」以来、最大の野戦となった「城東会戦」は、わずか一日の戦闘で決着がつきました。

今日の誕生日:後光明天皇(第110代天皇)、ナポレオン3世、アドルフ・ヒトラー、片山まさゆき、吉井理人、倉沢淳美(元わらべ)、紀里谷和明、西川忠志、大沢樹生(元光GENJI)、遠藤直人(元忍者)、坂本一生、小梅太夫、宇治原史規(ロザン)、HIRO(安田大サーカス)、白田信幸、長島圭一郎、野中美郷(元AKB48)、草刈麻有、トウカイテイオー

今日の記念日:穀雨、郵政記念日、青年海外協力隊の日、女子大の日、腰痛ゼロの日、失恋の日、珈琲牛乳の日、ジャムの日

今日の「今日訓」:本日は二十四節気の1つ「穀雨」です。「春雨降りて百穀を生化すればなり」(田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころ)という時期になりました。1871年、それまでの「飛脚制度」に代わって新しく「郵便制度」が実施された事で「郵政記念日」、1965年に「青年海外協力隊」が発足した事で「青年海外協力隊の日」、1901年、日本初の女子大学である「日本女子大学」が開校した事で「女子大の日」、1923年に東海道線国府津駅で珈琲牛乳の販売を開始し、東北から九州までの各駅で人気が広まった事で「珈琲牛乳の日」、1910年に長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)の塩川伊一郎が「苺ジャム」を明治天皇に献上した事で「ジャムの日」、「4(よう)2(つう)0(ゼロ)」の語呂合わせで「腰痛ゼロの日」、「4(し)2(つ)0(れん)」の語呂合わせで「失恋の日」となりました。
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