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2016年04月09日11:38

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普通に癇に障りますしイライラする原因になります、

ウチは仕事でも日常生活でも、バスや電車などの、
いわゆる公共交通を使わないのですが、
交通機関やファミリーレストラン、
ファーストフード店などで、
ガン泣きしている幼児の音には、
癇に障りますし、イライラの原因にもなります、

ファーストフード店で遭遇したなら、
ドライブスルーにすべきだったな、と悔やみますし、
注文する際に泣きわめかれると、
聞きとられにくくて、何度か言い直す時もあって、

ウチの主観としては、公共の場にとっては、
公益を害するもの、と考えています、
ただ、それを発しているのは子供ですから、
やむを得ない、と言う側面も理解しようとは思うのですが、

その音の発生源に、公益を害している、と言う概念がないのが、
ウチがイライラする大きな要因になっています、

ウチが考える公益の精神とは、
社会に眠っている善意と言う資源を、
やむを得ない場合、使わせてもらい、
資源が枯渇し、善意が馬鹿馬鹿しくなって、
善意の提供がなされない社会になってしまわぬように、
自然回復する程度の善意の利用に、
個々人が節度をもって止めておくための配慮が不可欠だと思うのです、

これは広い意味で躾や身嗜みに類する心配りだと思うのですが、
ウチの主観で言えば、主従の観念が間違っている人物が多いと思うのです、

まず優先すべきは公益の質であり、
泣きわめく幼児がそれを害しているのであれば、
害されていない状態は質が高いとなります、
幼児の発する騒音を許容させるのは、
権利ではなく、その場にいる人物らが、
耐えねばならない義務でもありません、

ウチの想像に過ぎませんが、
その騒音に耐えるのは社会の義務であり、
それを利用し耐えさせるのは親の権利、
そう考えているような親が多いと思うのです、

夏場、炎天下で喉が乾き、
街道にあった水道から水を飲んだとしましょう、
水道である以上、それには持ち主がいます、
飲んだ後、持ち主である人物と遭遇したとしましょう、
普通、水の料金を支払うのはともかく、
会釈なり、礼の一言は必要でしょう、
その一礼が不要と言う論は少ないかと思うのですが、

幼児の騒音に対して当てはめると、
水道はその場の公益の精神を指します、
水は善意そのものを指します、
持ち主はその場に居合わせた人物、もしくは社会を指します、
喉が渇いた人物は、泣きわめくのを止められない親を指します、

水を飲んで、つまりその場の人物らに我慢をさせて、
一礼もなくてよいのでしょうか、

ウチは前々から思い続けていて、
こういった件に遭遇する度思うのですが、

親ってそんなに頭を下げずに子育て出来るのでしょうか?

過去を美化するつもりはありませんが、
今の親は無謬性が高いのです、
無謬性とは間違いがない、
間違いなどあるはずがない、と言う考え方ですが、
人の意見を聞かず、無謬性が高いとなると、
それはもはや小さな暴君への一本道だと思うのです、

親が頭を下げる姿を見て、
子供は責任を背負う、と言う理屈を実感します、
誰も誰にも頭など下げたくはないでしょうが、
下げねばならぬ事情や場面があります、
そして下げるのは謝罪と言う意味だけではなく、
感謝や儀礼の意味もあります、

頭を下げれば失われる物がある、
確かにあると思いますが、
下げない事で失われる物があります、
それは他者の感情を考える、想像力です、

これが失われる、いや、子供の場合育まれずに育つと、
何をしてもらっても、当り前にしか感じません、
例えば食事だと日に三食作れば一年間で1000食以上調理をしますが、
それに感謝の礼がなければ、単なる調理という作業になってしまいます、

調理を作業にしてしまわぬには、
感謝と言う感情を育てねばならないと思います、
その感情は、親が頭を下げる事でしか育てられないのではないでしょうか?

その感情を育てずにいれば、
社会に対しても益の少ない人物になり、
益に害が勝る人物になりやすいと思うのです、

もし、そうなったとすれば、
その少ない益と多めの害、
そしてひとの感情を与する概念のない子供が育ち、
その影響を一番受けるのは、親と子供が築く家庭です、

そうはならぬ、そうさせぬためにも、
今の親の頭は高すぎやしませんか?



電車や新幹線で泣く子ども。その場で問われる「マナー」とは
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=116&from=diary&id=3938777

子どもは泣くのが仕事のひとつ。
とはいえ、静かな空間で甲高い声を出されれば、
「子どものやることだから」と思えなくなってはくる。
しかし、意外と街中にはいないだろうか。子どもを泣かせっぱなしで知らん顔の親たちが……。

「教えて!goo」でも
「何故子どもが泣いていても知らん顔なのでしょうか?」と訝しがる人がいた。
通勤電車ならまだしも、
たとえば新幹線ならば泣いている子どもを連れてデッキに移動するなどして、
まわりの「迷惑」に配慮すべきではないかと質問者さんは言う。
この問いかけに対し、さまざまな声が寄せられていた。

「親がなってない」「他人の迷惑を考えられていない」と怒り混じりの賛同もあったが、
今回は違う角度からの意見を取り上げてみたい。
どれが正解という類のものではないが一考に値するポイントもあると感じる。

■親側の努力を見守るのもマナー

「互いの立場を想像してあげることもマナーだと思います。
デッキに出たりあやしたり、親が泣き止ませようと努力しているのなら、
寛容に見守ることもマナー」(kabaddi13さん)

現在ニュースを騒がせている保育園問題もそうだが、
親は何かと“戦っている”ことが多い。
当事者にならなければわからないこともある。
一概に「迷惑だ」と切り捨てるのではなく、
親の立場から見守るという姿勢を持つことで、たしかに許容範囲も広まるように思える。

■「他人の迷惑」を振りかざすと自分の首も締まる

「子どもが泣くというのはある意味で不可抗力だとは思いますが、
度の過ぎた香水などのほうが自分からやっている分だけはるかに悪質だと思います」
(mojittoさん)

mojittoさんは「知っててやってしまう迷惑もあれば、
知らずにやってしまう迷惑もある」と言う。
論点を「迷惑がどうか」に置いた場合、個人によって許容度が異なってくるからだ。
「子連れは電車やバスに乗らないでほしい」という過激な意見もあったが、
「迷惑かどうか」で照らし合わせると、
仮に自分が「風邪気味で電車に乗る」のも、見方によっては迷惑行為となってしまう。

子どもの領分を考えるに、ある程度の寛容さは自分の身を助けるともいえそうだ。
もちろん、あまりに目につくようなら声をかけるか、
自分がその場を立ち去るという選択肢もある。

■我が子への対応として致し方ないこともある

「まれに『構えば構うほど泣く子』というのもいます。
(中略)…よく『お母さんなら泣き止ませられるもの』と思われるようですが、それは違います」(kawagutinozomiさん)

子を持つ親から寄せられた意見に「対処法としてそうするしかない」というものもあった。
もちろんその返答ですべてが片付くわけではないのだが、
「そういう状況もある」と知っておくことそのものには価値があるだろう。

インターネットの発達に連れてか「相互監視」のような空気が
より濃くなってきたようにも筆者は感じる。
難しい問題だが、「他人にある程度は寛容であると自分も助かる」という視点は、
生きやすさにもつながるように思う。みなさんはどう思うだろうか?

(松本塩梅)

教えて!goo スタッフ(Oshiete Staff)
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