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2016年03月01日18:40

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私が清原和博さんを「容疑者」と呼ばない理由

by茂木健一郎(脳科学者)


 違法薬物が、違法とされることには、それなりの根拠、合理性があると私は考えている。

 何よりも、違法薬物は、脳の回路を変えてしまう。通常ならば、努力したり、実際に身体を動かしたりしなければ放出されない「報酬物質」に類似の働きを持つ物質が、いとも簡単に脳内に出てしまう。つまり、薬物は、脳の回路が「ショート」するようなもので、そのことによって生じる依存症などの弊害は、無視できず、時に深刻である。

 そのような害をもたらす薬物を提供して利を得ようとする人々に刑事罰が課されるのは、合理的だろう。また、使用する側に対しても、結果として自分自身や社会に悪影響を与えるから、国家が薬物の所持や使用を刑事罰の対象とすることは、一つのアプローチとしてはあり得るだろう。

 もっとも、私自身は、ポルトガルが試みているように、薬物の使用、所持を非犯罪化して公衆衛生上の問題として扱うといったやり方にも、それなりの合理性があるし、より有効なケースもあると考えている。

フォト

警視庁から送検される元プロ野球選手の清原和博容疑者
=2月4日、東京都千代田区
 清原和博さんが覚醒剤の所持で逮捕された事件で、違法薬物の問題に社会的な関心が高まっている。これを機会に、日本における違法薬物規制、そして報道のあり方について、考えたい。

 違法薬物の問題から見えてくるある一つの対立軸がある。それは、国のあり方を考える時に、「個人の自由」と、「社会の秩序」のどちらをより重視するかという価値観の問題である。

 もちろん、個人の自由と社会の秩序は、必ずしも対立するものではない。ある程度の秩序がなければ、個人の自由は保証されない。17世紀に英国の思想家、トマス・ホッブズがその著書『リヴァイアサン』で展開した論によれば、そもそも、国家というものは個人の権利を守るために「社会契約」を通して形成されるものであり、刑罰が課される根拠もそこにある。

 しかし、個人の自由と社会の秩序のどちらを重視するか、というニュアンスの差のようなものは、やはりある。そして、今後の文明のあり方を考える時に、この微妙なニュアンスが、実は大切だと感じる。

 アジアは、違法薬物について厳しい地域だと認識している。中国やシンガポールなど、いくつかの国では、違法薬物を輸入しようとすると死刑が課せられる。私自身は死刑廃止論者であるが、それでも、もし仮に死刑が適用されるならば、殺人のような人の命を奪う犯罪に対してだろうと考えている。違法薬物も、社会に対して悪影響を与えるという意味では重大な犯罪につながるが、それにしても死刑を適用するというのは、個人的には行き過ぎだと思わざるを得ない。
 なぜ、中国を始めとするアジアでは、違法薬物に対して厳しい態度をとるのだろうか? アヘン戦争に至る、中国の社会での薬物の蔓延などの経験も関係しているのかとも思うが、やはり本質的なのは、個人の自由と、社会の秩序のどちらを重視するかという価値観だろう。
 中国などの国では、個人の自由よりも、明らかに社会の秩序を重視する価値観が主流である。違法薬物に関する犯罪に対する厳罰主義は、そのような思想の現れだと思う。

 一方、欧米では、ホッブズの『リヴァイアサン』のような著作が出てくることからもわかるように、もともとは、個人の自由を重視する思想が有力である。社会の秩序は、あくまでも、個人の自由を実現するための手段としてある。社会の秩序自体が、崇高な価値であるわけでも、目的であるわけでもない。
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米経済学者のミルトン・フリードマン氏
 薬物についての態度も異なる。私がかつて留学していた英国では、20年前から、主要な新聞が一面トップでマリファナの合法化を主張するなど、社会的な議論が巻き起こっていた。米国のレーガン政権に影響を与えたノーベル賞受賞の経済学者、ミルトン・フリードマン氏は、個人の自由を重視し、政府の介入を最小限にすべきだという立場であり、薬物も合法化してその使用の判断を個人の自由に任せるべきだと主張していた。

 もちろん、フリードマン氏のような論は、米国においても必ずしも多数派ではない。それでも、有力な学者がそのような論を表明するあたりに、個人の自由を重視する思想的伝統を見る。

 米国においては、「保守主義」とは、個人の自由の徹底を意味する。国家の秩序を最重視する中国の「保守主義」とは、そこが違う。

 日本は、アジアと、欧米の中間に位置する、興味深くユニークな国である。日本における個人の自由と社会の秩序のあり方は、どうあるべきか。明治維新で欧米の思想を柔軟に取り入れた日本では、人権や自由などの思想が社会にある程度根付いている。その一方で、清原和博さんが逮捕されると一律に「清原和博容疑者」と報じるなど、罪を犯した人を「別扱い」することで社会の秩序を保とうとする、アジア的な傾向も見られる。

 薬物で逮捕された芸能人が、公衆衛生や刑事罰の問題を超えて、社会的にバッシングされ、反社会的という烙印を押されてしまうことにも、個人の自由、権利よりも社会の秩序を重視する傾向を見てしまう。

 果たして、それで良いのだろうか? 私には、大いに疑問なのである。

 日本は、これから、どのような社会を目指すのだろうか。

 私自身は、日本は、アジア的な伝統と、欧米のようなグローバルな普遍的な価値を志向する社会という、二つの動きの間に位置するユニークな国でありつづけて欲しいと考えている。何よりも、個人の自由を重視する思想がないと、ITや人工知能といった分野におけるイノベーションが起こらず、経済も発展しない。

 中国の経済は、思想や言論の自由に対する抑圧的態度をとっている限り、行き詰まるだろうと私は考える。日本としては、個人の自由を重視する米国のやり方の、良いところは学ぶべきだろう。

 私たちは、一体、これから何を求めるのか? 清原和博さんの薬物使用に関する報道や、世論のあり方を見ると、日本という国の課題も、希望も、見えてくるように思うのである。

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