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2015年11月07日07:55

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私の昔の生活 50年前 従姉の家

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この人は、扇風機も使わない生活だそうだ。
まだ若い人らしいが、旧暦で生活してるというのは合理的だな。
旧暦だと、季節の名前と温度が一致するから。

61歳の私が小学生の頃、うちには、火鉢が一個、扇風機が2個、
コタツ(ニクロム線の、なかなか暖まらないヤツ)一個で、
洗濯機と掃除機は しょっちゅう故障していた。
掃除機は、重たくて 私は ほとんど使ったことが無かったので
どんな風に具合が悪かったのかは、不明。
今の掃除機の2倍くらい長い胴体のやつだった。

10歳ごろ、家を建て替えて、石油ストーブが初めて来た時は
大変に感動して、椅子を前に並べて寝転がった。
台所に一台だけしか無かったものだから。
まだ、灯油タンクがカートリッジ式になる前の時代だった。
車の無い家だったから、灯油は配達してもらっていたのだろう。

洗濯機が故障すると、たらいに入れて足で踏んでいた。
これが、私が喜んでやった唯一のお手伝いだった気がする。
だいたい、私が畳を雑巾で拭くと、水でふやけていたから、
よほど、握力が無かったのだろう。
拭き始めの畳の色が水を含んで茶色になるのを
畳に悪いと思わなかったのが子供だった証拠だ。
今なら、カビが心配で、水で拭くことさえ慎重にするのに。

ぐるぐる回す絞り器は、とても面白かった。
無理やり、何枚も重なった状態の布を突っ込んでたが
それで故障したりはしなかった。
中学生のころ、回転式の脱水機(だけが独立したキカイ)が来た時は
その回転音に感動した。今でも、好きな音だ。
電車が発車する時の音も同様に好き。

火鉢は、練炭を入れていた気がする。
あまり、灰をかき回した覚えが無い。
従弟の家の火鉢は、灰があって、長持ちしていた。

扇風機は、黒い鉄製の重いものと、プラスチックの羽のがあった。
よく、真ん中の外から触れる部分を回転中に指で押して、
摩擦で回転を止めて遊んでいた。
タイマーなんか無かった頃だ。

ナショナルの外側が木で出来たアンカがあって、
これもニクロム線だったから、なかなか暖まらず、
夜、冷たい足を突っ込むと、かえって冷たくて困った。
暖かくなる頃には、寝込んでしまうから、関係なくなる。

従妹の家では、豆炭を入れて使うアンカや湯たんぽがあって、
うらやましかった。湯たんぽはうちにもあったような気がする。

母は、父の母(つまり、姑)が一度だけ、泊まりに来た時、
張り込んで、電気毛布を買って来た。
その後は、母が使っていたが、潜り込んでみると、
その暖かさに感動し、自分の布団には無いのが悲しかった。
母は、中年の病いが多そうな人だったから、
子供でなく、自分が使っていたのだろう。

テレビは アンテナの受信状態が不良だったので、
細い川に面していた家だったが、向う岸の石垣に竹を立てて、
川をまたいでアンテナ線を渡し、接続していた。
それを、確か、父が自力でやったように思う。
隣の家も同じようにしていたが、
隣のおじさんは、川を泳いでアンテナ線を運んでいた。
増水期だったんだろうなあ。

うちは、玄関が西側で、西側の部屋は暑くて困ったが、
玄関の前のU字溝の上しか、日の当たる場所が無かったので、
母は、使わなくなった流しを置いて土を入れ、
スィートピーとマツバボタンを植えた。
使わなくなったコンクリートの用水桶みたいな箱は、
アジサイを植えていた。
考えてみれば、このプランター?2つは、違法な道路使用だった。

坪庭のような日の当たらない庭で調子の良いのは金木犀だけで、
これと、川に張り出した木性のベランダの下に生えたショウブだけが、
うちの花だった。

従姉の家には、バラ、ハギ、など素敵な花があったのだけど、
あんまりうらやましくなかったのは、なぜだろう?
きっと、自由に出入り出来て、我が物顔にうろつけたせいだろう。
ハギは白萩で、小さな私が中に入って隠れられるほど大株だった。
ヤツデ、トクサ、サンショウなどもあった。
南向きのベランダは、コンクリート張りで、ぶどう棚があった。
祖父母のための、オットマン付きの籐椅子が置いてあった。

従姉の家は、二階の不要な広々とした家で、7人家族だった。
うちは、敷地が狭いので、二階があったが、
従姉に私が二階を見せてあげると自慢したのが可笑しいと
母が笑っていた。
二階といっても、一部屋で、一部屋でも8畳あり、床の間と
箪笥置き場を入れると10畳になり、出窓までついていたが、
なんせ、西向きなので暑いし、窓が3方にあるのだけど暗いし、
階段は、梯子段と呼ばれる急傾斜の、体を横向きにしないと
降りられないもので、私は1,2回、転げ落ちたことがある。
そのうち、一回は、失神したので、さすが、母が介抱しにきた。
介抱してもらって、珍しいなと子供心に思ったが、
当時のこととて、医者にもかからなかった。

うちから、歩いて5分の所に、2軒、従弟の家があった。
頻繁に行ったのは、一姫二太郎の家で、団子三兄弟の方は、
やはり、男の子ばかりで遊び方が違うせいもあり、
伯母さんが共働きで忙しかったせいもあった。

一姫の従姉は、私より、学年で2年年下だったが、
大変な勉強家で、一度、祖母に遊びに来てはダメと
叱られたことがあった。
彼女は、それでも、ずっと私を従姉として、つきあってくれた。
私は、毎夏、1週間ほど、従姉の家に泊まるのを、10年続けたのだから。

どちらの従姉、従兄の家も、大変 世話になっている。
しょっちゅう 泊まっていたし、それも、台風の洪水で危ない時とか、
(伊勢湾台風だったはずだ)
家の建て替えで、一時、住む所が無い時とか、
関東に越して、ノスタルジーに耐えられずとか、
姉ともども、泊まり込んだ。
親たちも、泊まらせてもらっていたのだから、
図々しいもんだった。
さすがに、軽く、血のつながらない伯母さんに、
嫌味を言われたこともあったが、
伯父さんが、寛大だったせいで、
それでも、泊まりに行っていた。

従姉、従兄と書いているが、
母の兄達の家だから、従兄妹たちは、皆、年下である。
といっても、1,2,3、歳違いだから、よく遊べた。
4歳離れると、もう、遊ばないもんだ。




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