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2014年04月06日19:47

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大船渡夢商店街キャンドルサービスなど




4月に入り新しい生活が始まりましたが、岩手での出来事で書ききれなかったことがまだまだあるので、振り返って日記に残しておこうと思います。

3.11

震災から3年目を迎えるこの日。
大船渡ではリアスホールにて犠牲者追悼式が行われました。
今でも思い出すリアスホール。震災の年の5月に短期派遣で訪れた時には、ここリアスホールの楽屋に寝泊まりをした。

式典は仕事で出られませんでしたが、その後、私も、献花をさせていただきました。

またこの日に、大船渡夢商店街には「夢」を描いたキャンドルサービスが。
中日新聞の記者も取材に来ていたので、静岡にお住まいの方は、3月12日の新聞で見ている方もいるかもしれません。

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20140312/CK2014031202000089.html


その足で陸前高田へ。
最も被害の大きかった町のひとつである陸前高田市。
そんな地の一角にイルミネーションが。
何もない平らな地面にそこだけかなり派手に灯っておりました。

3年が経ちましたが、津波の被害にあった土地はほとんどの場所が更地のままです。
まだ、流され残った土台さえそのままになっているところもあります。
瓦礫の撤去までは進められても、その先の土地利用については大きな壁があるためです。

だからといって、復興は進んでいないのかと問われれば、確かに進んではいるのです。
目に見えないところで、その土地をどうするのかの計画が立てられ、交渉ごとが進められています。
しかし、計画的に事業を勧めようとしても様々な障害があって難航しているのが現状。
たとえば再開発のためにまとまった土地区画の整備を市がやろうとすれば、土地ひとつの利用をとってみても一筋縄ではいきません。
もともとは個人の土地ですから当然所有者の承諾が必要になります。土地所有者が犠牲になっているなどですでにいない場合、その相続権者全員を探し出して承諾を得なければなりません。場合によってはさらにその下の代まで探さねばならないこともあり、1筆の土地の使用の承諾を得るために、全国に散り散りになった何十人もの人の承諾が必要になってしまう場合もあると聞きました。
非常事態としてある程度は強制的に計画を進められればここで時間を費やすこともないのですが、発災時に国がそういう対応を取らなかった以上、市町村にそこまでの権限はなく、現行法に則った対応で少しずつ進めるしかありません。そんな中でも復興局の職員たちは地道な作業を進めています。
そしてようやく、大船渡では旧大船渡町内の駅前区画で盛り土の工事が始められました。
被災した方々は今もなお仮設住宅に住み、仮設店舗に通って生計を立てる生活を続けています。土地区画の整理の進み具合と、仮設店舗の使用期限など、さまざまな要素が絡み、先の見通しが立てにくいまま生活をしています。土地の整備が進み、「仮」の字が取れるには、まだまだ時間がかかります。それでも立て直す力のある若者たちは自力で仮設住宅を出ることができますが、それだけの力を持たない高齢者などがだんだんと取り残される状況になっていくことでしょう。そういった方々は、土地の整備が進んで災害公営住宅が整うまでまだまだ仮設住宅での生活を余儀なくされます。
復興は確かに進んでいますし現地の方々も努力していますが、これが実態なのです。

先日日記のコメントで、「いつまでも甘やかすな、甘えるな」というコメントをいただきました。
まあ、最初にそのコメント見た瞬間にはちょっと反射的感情的にかちんともきちゃったのは認めますけれどもw よく読んでみると、そうじゃないんですね。
その前にある「いつまでも同情では力は集まりません。復興したいと思う気持ちに対する共感が必要だと思います。」という部分こそが本題なのです。
大船渡市に行き、そこの人たちと直接触れ合った私は、その人たちが必死に努力して、今もまだがんばっていて、それでも先行き不透明な現実にさらされてることを知ってるわけです。知ってるからこそ「甘えるな」の言葉に対して反発する心が生まれるのですが、逆にそういった現実が伝わっていない、発信されていないからこそ、そんな言葉も出てしまう、だからこそ、現地に行った人は現地の現実を伝えていくことこそが役割なのだ、と受け取りました。現地の現実を伝えることで共感を作っていくことこそが必要なのだと。
うん、正直同情とかの段階はとっくに通り越してはるか昔に共感になってた私は、その温度差に気付いてなかった。というか、浜松に帰ってきたことで、そういった現地のことを伝える報道があまりにも少ないことにようやく気付く有様。これはそのまま被災地と他の地域との認識の違いで、その認識の違いに両者とも気づいていないのではないかと思った。だからずれる。すれ違う。

86歳から仮設店舗でのお店を始めたおばあちゃんがいます。
年金生活に入るくらいの年齢で、店舗も家も何もかも流された夫婦も、それでもお店をやっていきたいがその年齢で再開できる力はなく、小さなプレハブ小屋のみで細々と営業をしています。
工場の一角に津波伝承館を作り、多くの人に訪れてもらって、津波の恐ろしさや、そんな時どうすればいいかを伝えることに尽力する元社長さんがいます。
皆、自分の力で立ち上がって行こうと懸命にがんばっています。私の出会った人たちからは、甘えと思われるようなことは一切感じられません。むしろがんばりすぎなくらいです。そのことを伝えたい。

正直、復興そのものについては、個人ボランティアが関わって何かの手助けをする段階は通り過ぎていると思います。今は、専門分野の方々が力を注ぐステージになっています。ボランティア的なところでは、今後独居高齢者が増えると予想される仮設住宅などを訪問して安否確認やケアをすることなどには需要がまだまだあると思いますが、以前の私が行っていたように個人がぽいぽーいっと出かけて行って行うような形式ではないので、そういう活動をしている組織などに参加する形になると思います。
時間はかかりますし、はっきりした見通しが立つまで先行き不透明な生活が続きます。


この現実を知り、共感する気持ちを持ち続けて欲しいと思います。それの気持ちを伝えることが、何よりも励みになります。

そしてもし、生活に余裕があってできるのであれば、やはり現地に足を運んで現実を見て欲しいというのが一番に来ます。テレビを見たのでは伝わらない、他の誰かから聞いたのでは伝わらない現実がそこにあります。ぶっちゃけ現地に足を運んで現地にお金を落としてくれると私は単純に嬉しいですが、それだけじゃない。津波伝承館で話を聞くことは、ひるがえって自分の、自分の住む土地を守る役に立つことでもあるのですから。

後半は別日記に対するお返事がわりになりましたが、どうにもこうにもまとめきれずに長くなっちゃったので、別日記の形で挙げさせてもらいました。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1923647734&owner_id=7076225


もし今後浜松が被災したら、大船渡の方々は間違いなく真っ先にやってきてくれることでしょう。そして、当時のノウハウで炊き出しをし、おにぎりを握りまくってくれるに違いありません。
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