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2011年11月23日22:10

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<LOOP-02>第二部 押井守監督、語る語る大いに語る(2)

『スカイ・クロラ』の話から
やさしいというのは、励ますとか慰めるとかいうこととは違う。親身になったというのが自分の中ではやさしさという感情になるんだけれども、初めて若い人に親身になれた。気にかけてあげられたというかな。今まではどうでもいいと思っていた。これから老年になろうかなという自分にしか興味がなかった。逆にそういう時期に初めて若い人に目が向いた。ちょっと親身になれるような気がした。今はあやしいんだけども、親身になったところで、それは相当残酷なことだったかもしれない。

言わないより言ってあげたほうがいいんだ。言わない大人はむしろ親身になれないから言わないんだよ。本当にその人のことを思い親身になれるならば、本当のことを言ったほうがいい。あの時期、集中的に中学校、小学校にも行きましたが、中高大と行って、けっこう色んなことをしゃべりました。

僕が言ったのは、「早く幻想を捨てなさい。あなたたちひとりひとりには何の個性もない。」そういうことを言って先生方に嫌がられた。戦後民主主義、戦後の教育を真っ向から否定したわけだから。ひとりひとりの個性を尊重し、ひとりひとりにはかけがいのないオリジナリティがある、というのは全部ウソである。そのことにふりまわされてると将来棒に振りますよ。あなたたちは限りなく凡庸であり無名であり匿名であり、だからこそ未来があるんだ。あるとすればね。ないかもしれない。

少なくとも大人がつくりだした言説、言語空間に生きる限り、ある役割を担い、ある期待を実現しようとするだけなんだ。よいこちゃんであろうと反抗しようと同じこと。いわば大人がつくりだした言葉に対して、どう反論するのかってことを問われてるだけに過ぎない。
自分が自分であるために必要な言葉は、夢をみないこと。幻想をもつな。たぶんあなた方の未来にはいいことはひとつもないんだ。ということから始めたらいかがでしょうか。

アニメの中に初めて娼婦が出てきたことについて。
悪女とかベティ・ブープとか、男をふりまわすバンプの系譜はアニメーションにはある。
5人いたらひとりは女の子だ。ガッチャマンもそう。あれは日本におけるバンプの変型。いってみれば、草薙素子のルーツでもある。
アニメーションに登場する女性キャラクターは娼婦性をたえずふりまいてきた。うちの父ははっきり言っていた。死ぬ前に、ロボットものや戦隊ものに出てくる女はあれはなんだ、露出狂だ。女であることを前面に出すことでしかキャラクターを主張できない。うちの父は大嫌いだと、いたくお気に召してなかったようだ。一方で僕のつくった草薙素子は一定程度の評価をしてくれた。それはなぜか、男の目を意識しない女だということで。

アニメーションというのはキャラクターをどう考えるんだっていう話になるんだけれども、全部メタファーでありある種の典型であるべきなんだと。キャラクターそれ自体が、人間としての感性の違いとか、個性というレベルで表現されるのは幻想に過ぎないから。ある役割になって出てくる。
アニメーションのもってる構造というのが、実写映画と違って、精緻な演技とか微妙な心理とか表現できないようになってる。『イノセンス』の作画レベルまでもっていってもそう。
『スカイ・クロラ』の娼婦というのは、少年たちに対峙する大人として登場してるに過ぎない。
登場人物が少年少女だったとしても、彼らのまわりにいる大人は3種類しかいない。整備員のおっかさんであり、よく行くドライブインのおやじであり、あとは娼婦である彼女しかいない。大人の3つの役割に合わせてる。たしかに日本のアニメーションに、娼婦を娼婦として登場させた歴史はたぶんない。

身体というものの中の一番原初的な身体、性差としての身体、それが抽象されて「冷たい身体」になり、おそらくジェンダーという話になる。そうじゃないもっと原初的な性という形でいえば「匂う身体」。
宗教が最後まで戦いつづけた身体、キリスト教が暗殺しようとした身体のこと。キリスト教が動物的なるものデーモンの領域に押し込めようとしたのは、それがあったから。
キリスト教というものは人類がつくりだした自意識そのものだから。神というのは人類の自意識にしか過ぎない。単純過ぎるけど、そういう側面があったことは間違いない。自分を見ている自分が存在していないとき、はたして身体というものが成立するだろうか。

一方で身体は身体として、自己実現するときに自意識というのは歩み寄るんだろうか?
僕の舞踏家やってる姉がよく話すことなんだが、舞踏を演じて、踊って恍惚となる瞬間に、自分なんてなくなるんだと。身体が全面的に解除される瞬間、もしかしたら自意識が開放されてるのかもしれない。それはもしかしたら、セックスにおけるエクスタシーと似た体験なのかもしれない。自我が融合するという、自他が融合するというか。瞬間であるわけです。人間というのはつくづく不自由にできている。『スカイ・クロラ』の中で娼婦を出すということに関しては、(周囲の?)抵抗もあった。ご丁寧に入れ墨いれてるし。
入れ墨大好きで、タトゥのコレクター。自己改造、自分の身体を自分の意識の中で造りかえようとする。女の人がお化粧するのと同じ。女の人のメイクアップの究極はタトゥなんだ。アフリカ原住民だったり、アジアの一部だったり、プリミティブな神道?あるところは例外なしにタトゥを入れてる。自分で自分の体に刻印を入れる。

銭湯、大衆浴場は面白い文化。別に日本だけの専売特許じゃなくて、それこそテルマエロマエじゃないけど。映画が公開されるらしいけど楽しみにしてる。阿部ちゃんがどんなローマ人やってるんだろうって。日本でつくったローマの映画って、間違いなく珍品になることは保証されてる。
銭湯、ローマの大衆浴場含めて、不特定多数の人間が自分の肉体を裸体をさらして一堂に会する、ある種祝祭的空間でもあり、一方で果てしなく日常のベタベタな世界でもあり、個人の体験でいえば、初めて身体に出会った場所。小学生の頃、親が忙しかったので子どもたちだけで銭湯に行った。そういう文化がかつて下町であった。昼間からでも夕方でも行く。誰がいるかというと、暇な年寄りがいる。体に絵を描いてるおじさんは何者なんだろう。戦後の身体に処するけれど、手のない人、足のない人、洗い場で義足をつけてるおじさん、この人たちの体はなぜヘンなんだろう。無くなった部分の体はどこにいってるんだろう。身体と出会った最初の場ですよ。

身体というのは日常の中に頻出する。突然出てくる。一方でとらえようとするとスルッと逃げていってしまう。これをなんとか固定したいという想いが、ひょっとしたら人形を生み出した。あるいはアニメーションにロボットという文化を生み出したのかもしれない。そのぐらい身体というのは面妖であり捕まえがたい、意識することがはてしなく困難なもの。
精神だって同じ。ただの誰一人として指し示した人はいない。じつは精神と肉体は相克もしなければ分離もしていない。

言葉と人形の果てに、核兵器もあればロボットもあれば原爆もあれば、さまざまなものが全てある。敷衍すれば技術というのは言葉の問題に過ぎないんだ。言葉に厳密なものを求めない人間たちは、技術を獲得することはあり得ない。つまり日本人のことを言ってるわけだけども、日本人は言葉というものを厳密に使うということを巧妙に避け続けてきた。それが日本の文化だ。

福島第2原発のメルトダウン、僕自身は広島、長崎に続く「第3の原爆」と呼んでる。
核兵器はいけないけれど、原発はいいという、そのことの正体があれだ。それは政治家が悪いとか役人が悪いとか、そういう話じゃない。あれを受け入れた自分が悪いという話でもない。日本人自身のものの考え方が悪いんだよと。あれは第3の原爆が落ちたんだと言い切ったことで、すべての物事が変わって見える。当事者の意識すら変わるだろう。日本人自身が起こした自爆テロに過ぎない。

物事の本質というのは一個しかないんだ。そのことにいろいろな解釈は与えられるということでいえば、言葉は何通りにも使える。核分裂という現象はひとつしかない。それを原爆と呼ぶのも原発と呼ぶのも同じことだ。本質としてはただの核分裂だ。核分裂を人間が利用しようとして、いわば人工的につくりだした。いわば人工の太陽をつくりだした。核融合でもかまわないけれど。そういう意味では、核エネルギーというのは人間にとってプロメテウスの炎。人間の本能といってもいい。人間の最大の欲望なのかもしれない。代替エネルギーというものも、太陽エネルギーの変換したものに過ぎない。化石エネルギーであろうが、地熱エネルギーだろうが、すべて元々は太陽エネルギーに過ぎない。太陽エネルギーをアプリオルにダイレクトに作り出そうとするのが原発。やってることは同じなんだ。
言葉がもっている、現象に対するさまざまな語り。いかようにも語れる。

アニメはなぜ面白いか
アニメーションは最近なぜこんなに取りざたされるんだろうか。今日もここでアニメーションということで戦後の日本の問題を語れるんじゃないかと。身体もそうだし、マンガアニメでもいいが、これがなぜ日本映画じゃないのか、なぜ日本文学でないのか。日本美術でないのか。なぜ音楽でないのか、それはそれで語ってるのかもしれないけれど、日本のアニメーションがもっている独特の「ぬえ性」、それがいろんな語りをしやすくしてるんじゃないか。

30年アニメーションをやってきてつくづくうんざりしてるん人間なんだけど、といって今から実写映画の監督になる気もない。今よりもっと表現活動を制約されてしまうだけ。きれいな女優さんには会えるかもしれないけれど。

アニメーションという表現は、大幅に観る側に依存した形式であることは間違いない。実写は完結してる。そこにあるものを写し取っているから。
ある種の訓練を経ないと、アニメーションは映画として認知されない。最近の子どもがマンガを読めなくなりつつあるという話があるが、一定の空間をコマ割りされたものをどう辿って思考づけていったらいいのかわからない。モニター見過ぎたせいだという。モニターの大きさは常に一定。マンガのコマは大きかったり小さかったり、縦長だったり、枠があったりなかったり、言葉があったりなかったり。モニターというのはこれほど安定したフォーマットはない。その四角い世界の中にすべておさまっている。向こうの世界は動いていても、自分の位置は不動であると。僕はコクピットだと言ってる。コクピットの思想なんだ。目の前の流れてくるものを自分で瞬時に判断していくことが全てだ。戦闘機のコクピットと同じだ。

一方、本を読むとかマンガを読むとかはもっと同時処理的な頭の使い方をする。前に遡ったり両方見比べたり、先のページいってからまた元に戻ったり。アニメーションというのはそのコクピットの思想の究極なんだ。つまりそこにあるのは記号だけだから、実写映画がもってるような存在の複製ですらない。絵だから。現実という夢に根拠をもたない映像をアニメーションと呼ぶ。最近ハリウッド映画でも根拠をもたない映像はふつうになっている。

アニメーションの将来について
あるジャンルが創始者の寿命とともに滅んでいくのは別に珍しいことじゃない。映画はたかだか100年の歴史。その映画の中のさらに特殊な映画として存在する。アニメーションをいかに映画にできるかということに全知全能を傾けてきた。漫画映画じゃない。映画なんだ。絵柄がリアルであるかどうかは問題じゃない。アニメーションの記号的表現に頼らずに、表現のレベルまでアニメーションを煮詰めることで映画になるんじゃないか。そういうつもりでつくった『天使のたまご』をつくったが、仕事に不自由な監督として生きるはめに。
アニメーションという形式に忠実であろう、表現として純化して煮詰めていこうとすれば、必ず食えなくなる。

ジャパニメーション、ゲームやアニメ、これからの輸出していく花形産業と10年前から言われ続けてきて、政治家にも役人にも会い、海外にも行き、どうやったら国の産業になるのかと。
言われれば言われるほどほんとかいなと。現場の人間はみんなそう思ってると思う。そういうつもりでやってこなかったし、誰もそんなことは気にかけてこなかったし、だからこそ好きにやってきた。ありとあらゆる表現を試してみた。表現としてはつたないレベルだったけれども。
ロボットいえば、アトムからガンダム、あらゆるバリエーションを試すことができた。ほっといてもらいたかった。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』はサイバーオリエンタリズムということで、欧米のインテリに受けた。
片方で、極東の島国からきた珍なる文化であった。よりにもよって精細な絵を描きを動かし、こいつらバカなんじゃないかっていう、なぜこんなことをやるんだ。その情熱の種類が理解できなかった。アニメーションの動かしやすい形、色、動かすことに特化した表現を追求すべきだと。なぜか日本だけがそれに逆らうかのように、より動かしづらいキャラクターを、より精緻に動かそうとしたんだ。こんなバカなことをやってるのは日本人だけだ。

日本人は蒔絵のように工芸品をつくるのが大好き。工芸品でいいじゃないか。まさに僕がやってきたアニメーションは工芸品に過ぎない。どれだけ精緻につくりこめるか。ドラマに対する欲求と明らかに違う。造形に対する絵師なんですよ。表現を追求する結果として、人間の形に向かってしまった。それはサイボーグでありロボットでありクローンであり、子どもでありながら大人であり、そういう表現に逢着したに過ぎない。つまりアニメーションという表現形式がテーマをはらんでしまった。思わぬ形で。
もちろん何も思わずに形を追求することはできないから、日本でアニメーションといった場合、植物とか動物である以前に、まず人間を動かすことが至上命題。それは商業主義だから。人間以外動かしたもので成功したものは、ほとんどない。『トトロ』といえども人間のキャラクターが必要だった。トトロはバンビじゃない。

日本のアニメーションが特殊、日本であったがゆえに、日本である種の誤解を生んだ。
ただ僕は誤解されることは嫌いじゃないので、持論としては誤解されることで、映画は映画になる。本来国境を越えないものが、誤解されることで文化として受容される。その最たるもの、最大限誤解されたものが、日本のアニメーション。

工芸品であると同時に、日本のアニメーションは世界観の表明であった。最初から多国籍であった。日本人しか出てこないアニメーションを探すほうが難しい。日本のおかれた文化状況、戦後ともちろん無縁ではない。
そうでない選択肢として、アニメーションを工芸品として扱っていく。珠玉の銘品として。これは実写映画にはできないことなんですよ。実写映画はオリジナルの劣化コピーに過ぎないから。ビデオであろうがハイビジョンであろうが、原書のコピー。
ただね、絵で描いたりCGで描いたり、手でつくりだしていくんですよ。鉛筆であろうがマウスであろうが一緒なんですよ。あえて差別化することに、ある種の文化的な価値、序列というものをつくろうという悪意を感じるんですよ。鉛筆でつくろうがコンピュータでつくろうが同じこと。そこでしかできないものとはなんなんだろうか。
ドラマを排除する映像という可能性でいえばアニメーションしかない。実写がコピーである限りは必ずそこに一定の世界観とドラマがある。恣意的な人間はそこに登場し得ないから。どっかの誰かなんですよ。俳優のドキュメントに過ぎない。ところがアニメーションは違うんです。そういう意味では言葉に近いんだ。多義的で、同時に曖昧な存在である、それを称して「ぬえ」的と呼ぶんですよ。

『機動警察パトレイバー』オヤジがあれは映画か?映画として認識できない。訓練経てないからですよ。子どもの頃から訓練なしに一般の映画もそうだけど、アニメーションは極限の形をとっている。いってみれば、観る側の脳の補完作用なしにはアニメーションは成立しないんだ。
僕が恣意的に思うがままにあからさまに扱っている。悪の匂いがする。
アニメーションの監督は実写の監督ほど誠実になれない。僕は実写の監督もするけれども、実写の監督であることにひるむ。並みの人間と相対するから。役者が苦手である。アニメーションにはない、現実と格闘して撮っていく。
気後れした感情なしに、全世界に向かって、全歴史に向かって言いたいこと言っちゃう。こんなことやったのはアニメの監督だけ。誇大妄想の極限であると。だからこそ、アニメーションの中にドラマをはびこらせるな。悪の匂いがする。
現実に検証されてない表現を野放しにするとどうなるか。非常に危険な匂いがする。それが若い人をさらに引きつけるんですよ。悪を楽しもうとは思うけれども、明らかにする必要がある。
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思考を鍛錬し言葉をあやつることをしてこなかった、努力不足と、もっといえば能力がそれについていかなかった私としても、耳が痛い内容でした。
シンポジウムというよりは押井守独演会と化してましたが、話しはじめると切れ目なく継ぎ目なくよどみなく話が続くのですよ。しかもものすごい早口。話しながら考え、自在に論理を組み立てるようにもみえ、あっちこっち話題が飛びながらもループして話が戻ったりするんです。
質問コーナーもあって、さらにもう少し続きます。

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空手はじめて4年になる。去年黒帯とって、棒術もやってる。絶好調です。なにがいいって、やたら酒がうまくなってる。
姉の言葉で言えば、身体の内発性。僕にとって空手は格闘技ではない。空手とはなにか。相手が殴りかかってきた瞬間、自分の体が思考するよりも速く動く。そのことのもっている感動ってやつ。約束事とはいえ、3年間毎週殴りかかられるという体験をすると、体が反応するようになるんですよ。普通の人が道ばたで殴りかかられても、筋肉が硬くなりこわばってどうしていいかわからないと思う。

人間の体というのは、自分の意志のとおりには動かない。きわめて面妖なものであって、犬や猫だったらためらわず動くが、人間の体だけがコントローラブルでない。いってみればコントロールしようとするから反応しない。繰り返し繰り返しの動作以外にない。身体がもってるむき出し性というか暴力性を含む。そういったものにどう対処するか学ぶ。その訓練の過程のことを稽古と呼ぶ。型はその集大成に過ぎない。拠り所として型をやるんです。反復練習としてメソッドになりえないから、
うちの姉がやってることはもっと複雑なことで、内発性だけを根拠して体を動かす。床にのたうちまわって突然立ちあがる。類人猿の感動を再現。魚が立ち上がったような感覚。

自分の体をゼロから考え直す。
自分の中に眠っていた反射神経。相手が動いてからじゃ遅い。相手の動きの先読みから勝てる。空手のワザは基本的にカウンター。
空手を学ぶことの快感とは、自分の体が復活する瞬間なんです。やらないとわからない。スポーツやるのと根本的に違う。自分は柔道5年間やって黒帯ももってるが、柔道とも違う。柔道とまったく違う世界だからこそのめり込むことが出来た。体に反応するんです。相手が動いてからじゃ遅い。説明するのが難しいが、身体の内発性としか言いようがない。人間の体というのはそれ自体思考する。脳がしてるんじゃない。脳は後付けで形にするだけ。脳が考えて体が動いてるわけじゃない。動く体が先にあるんだ。

人間の本質は身体だ、とうちの姉は喝破したが、僕はそこまでの度胸はない。
自分が映画監督だから言語空間に生きてる人間だから、言葉で考えたことしか話にできない。考えたことしか絵にならない。この限界と、今自分の体の中に芽生えつつある内発性とどう折り合いをつけるか。それが目下のテーマ。

自分の体の即時性、考える前にあるんだ、このことを確認する作業というのは、思考を訓練するのと同じくらい重要なことで、これを失ってることが、現代の人間にとって最大の不幸。残念ながら僕も気がつくのが遅すぎた。でもやらないよりやったほうがマシ。おかげでいい思いもした。痩せたし、ぶよぶよの体とおさらばできたし、なんといったって酒が旨いし、自分の体を制御することの快感を初めて知った。素晴らしい体験ですよ。

日本のアニメーションは90%以上ただの消費材に過ぎない。コピーのコピーのまた劣化コピー。
ジブリが配給した『イリュージョニスト』は確かに素晴らしい作品だった。まさに工芸品と言うにふさわしい。すべて手描きで(部分的には違うかも)すべてフルサイズ。アップショットがひとつもない。それがどんなに大変な作業であるか。お奨めします。
フランス、ヨーロッパのムーブメント、たしかに迫力のあるものを生み出しつつある。国が力を入れてやってるから。国家予算組んでやってる。

ただ、ヨーロッパ流アニメーションは以前としてヨーロッパである。ヨーロッパの価値観で一から十まで染め上げられてる気がしてならない。これは根強いもんですよ。ヨーロッパほどしぶとい世界はない。いまだに世界の中心はヨーロッパなんだと、彼らは信じて疑ってない。

僕の作品はフランスで人気があるらしいが、ヨーロッパで一番嫌いな国がフランス。フランス人の独特の言語空間、鼻持ちならない国家意識は大嫌いです。中国以上だ。
(岡本氏、主催者側がひきつってますが)
日本って不思議なところは、そこらへんで価値を追求しないんですよ。自分で日本人が一番だと思えない部分がある。逆にそこで自分自身に大目にみてきたんです。言葉を精密に語るってことをしてこなかった。今まさにそのことを思う日々。どんどんダメになってる理由はそこなんだと。

言葉を精密に使う。そのことが技術の思想を生むんだ。
原発をものできる?のは日本だけ。ここまでひどい目にあってる国だからこそ、やって欲しいんだ。十字架背負えというのはそこに根拠がある。
日本の文化は言葉の曖昧さの上に成立してることは間違いない。その言葉の曖昧さが復讐されつつあるんだと。日本語を厳密に使うことが可能なのかどうか、それが試されてる。それはその言葉のもつ文法の問題ではない。日本語は漢字とひらがなを併用することに成功した唯一の民族、地域住民なんですよ。

ローカルな文化の中にこそ本質が宿るんですよ。フランスでもなければアメリカでもない。文化というのはいつもローカルなところを走る。日本においてマンガやアニメーションがそうであったように。もしかしたらポップスがそうであったように。アカデミックな世界はそれを後付けで整理するに過ぎない。
今さらサブカルとか言う必要もない。日本の本質はローカリティなんだ。周辺なんだ。まさに僕は周辺を生きてきたし、これからも生きるんだと。


以上です。

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