5月18日から26日まで8泊9日で大船渡市の支援のため派遣されました。
その時の記録です。
5月19日
大船渡市の遠景。
煙を出している煙突はコンクリート工場。
かつてあった引佐町の住友セメントの煙突を思い出しました。
煙を出していたので稼動しているかと思ったのですが、津波の被害を受け現在は稼動していないとのこと。恐らく焼却炉のみ開放していたのではないかと思います。
大船渡市役所
高台にあるため津波被害は免れました。
市役所職員の津波による犠牲者は1名。
消防団員で、地震の直後水門を閉めに行ったのだそうです。
しかし水門は地震の影響で歪み閉めることができず、津波に呑まれてしまったとのこと。
閉められなかった水門そのものも津波の威力で破壊されたということです。
ご冥福をお祈りいたします。
大船渡派遣時の仕事場です。
私は6次隊として参加しました。
私が参加している間に他市町村からの支援のパソコンが大量に届き、それぞれのパソコンをネットワークで繋ぎました。派遣された人の中にそういうことに詳しい人がいたからできたことで、私がやったことではありませんが。
仕事場に貼られていた全国からの応援メッセージ。
確実に現地の方々の力になっています。
リアスホール。文化会館。
私達派遣隊は初日と最終日は奥州市水沢のビジネスホテルで宿泊し、大船渡ではこちらのリアスホールの楽屋を宿泊場所として利用させていただきました。
避難所にもなっています。大阪府警が詰めていました。玄関の見張りの警官は子供達とすっかり仲良くなっていました。
また、私達がいる間に自衛隊が来て駐車場にお風呂場を設置していきました。
後発隊の人達はそのお風呂を利用したそうです。
宿泊した楽屋。
クッション、毛布、寝袋。
後発隊は寝袋が布団に変わったとのこと。
う、うらやましくなんてないやい。
仕事の内容は事務的なことが多かったですが、事務的なことで1週間交代の支援では満足なことができず、大変もどかしい思いをしました。
5月19日当時の大船渡市の様子です。
震災から2ヶ月。まだ、人々の避難所の生活や物資の供給がようやく安定したところで、瓦礫の撤去などはこれからといった様子でした。
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