えぇと、mixiで湿っぽい話しは書かないように(中略)ですが、今日は書いてしまったので仕方ない。そして「信仰」に関するお話が続いてしまい、まるでじんわり洗脳をしようと試みる人みたいですが、そんなこともありません。
今日はこれを書きたかったから書いて更新したってことで。
えぇと、一昨々日同様、↑なものがNGな方は、大変恐縮にして本日はご遠慮ください。まぁ、タイトルもトラップをかましているので、アクセスされる方も少ないかと思いますがw
あ、さて。
先日書きました「御百度」ですが、望んだ効果はあらわれずに、昨日今日と、通夜祭、神葬祭(仏教で言うところのお通夜&告別式)が続いています。特に仕事関連の方にはご迷惑をおかけしております。
【祈ったのに、望んだ効果があらわれなかった】
そういう時、以下のような論争が起こることがあります(極論です)。
無神論者は「
祈ったところで結果が出ていない。神は実在しない」という論理で、
祈ることを退けます。
信仰を持つ人は「
望んだ結果は得られなかったが、祈ったことで大難が小難に、大事が小事になった」と
祈った効果を主張します。
さて、残念なことに、
上記ふたつはどちらも証明が不可能です。望んだ結果があらわれなかったことは事実ですが、同時に事実は起こったことしか確認が出来ないのだから、大難が小難になったことを退けることも不可能なのです。
なので結局は、「
事象の問題」ではなく「
人の気持ちの問題」になってしまいます。
ということで。これから、神主(心得見習)としては暴言を吐きます。
小生は、神の実在は、たいした問題ではないと思っています。神がいると信じること、すなわち信仰を持つことで、救われる「
気がする」、強くなれる「
気がする」、祈っていないよりも良い結果になっている「
気がする」。そういった「
思い込み」が重要なんだと思います。
何故なら人は、自分の思い込みの中で生きているから。
自分の気持ちを納得させる(≒思い込みの)“手段”が、「信仰」であっても「哲学」であっても「科学」であっても「論理」であっても、小生は構わないと思うんです。何でも構わないからこそ、信仰や祈りを否定するのも、またご遠慮いただきたいな、と思うわけで。
祈ったのに望んだ効果が得られないことはとても残念なことですが、だからと言って信仰を捨て去ることは、もっと大変なことなのです。
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余談ですが。信仰を持つことは、欧米の歴史から例を挙げるまでもなく、争いの種にもなります。結局のところ、それを使う人次第、というのは何においても変わらないことではありますね。
あと、参考までに『信仰セレナーデ〜ひとりリレーコラム5』。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=93260930&owner_id=65677
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一年前の日記
●会社帰りにJAZZハウス
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=16949354&owner_id=65677
ピアニスト塩谷哲を狭い空間で聞く贅沢。
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