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立川流真言宗

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詳細 2023年10月18日 20:07更新

立川流(たちかわりゅう)とは、鎌倉時代に仁寛によって開かれ、南北朝時代に文観によって大成されたとされる密教の一派である。
真言立川流(しんごんたちかわりゅう)ともいう。
経典は理趣経(りしゅきょう)。邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、本来仏教では不邪淫戒で禁止されているはずの性交を奨励し、人間の髑髏を本尊とするなど、「淫祠邪教」(いんしじゃきょう:いかがわしい神を奉じ、人心を惑わす教え)と評されるのが一般的。
特に髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂といって1000人の髑髏の上部を集めたもの、法界髏という儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。こうして選ばれた髑髏の表面に性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、さらに髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。しかもその行の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。こうして約7年間もの歳月を費やして作られた髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現すという。下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語るという。
しかし、この淫靡な儀式の奥には別の真実が隠れている。理趣経は本来男性と女性の陰陽があって初めて物事が成ると説いている。この儀式に7年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的だからであり、そうなればもはや髑髏本尊など必要なくなってしまうのである。
ここまで真剣に女性原理を考えている宗教は無い。立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。この点において、「女性は穢れた存在であり、仏にはなれない」と説いていた既存の宗派と異なる。
立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵、もう片方が二鈷杵になっている。この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)という。

歴史

立川流は鎌倉時代に密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代に南朝(吉野朝廷)の護持僧となった文寛によって大成されたといわれる。南朝第1代の天皇である後醍醐天皇の肖像画には、金剛杵を持った後醍醐帝が描かれている。

創始
1113年(永久元年)、後三条天皇の第3皇子・輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を図って失敗し(実行役とされた童子の名をとって「千手丸事件」という)、11月に伊豆の大仁へ流された。名を蓮念と改め、この地で真言の教えを説いていた仁寛は、武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。ほかに観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、彼らに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。
1114年(永久2年)3月に仁寛が城山(じょうやま)から投身自殺を遂げたのちは、見蓮らが陰陽道と真言密教の教義を混合して立川流を確立し、布教したとされている。鎌倉には、京都から放逐された天王寺真慶らによって伝えられた。
その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』によると、真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていたといわれる。

中興
鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観(もんかん)は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。
1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。
1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇は壱岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者(※)にまで上り詰めた。
これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。
(※)勅任によって京都東寺に住した一山の首長の称号。

その後
後南朝が衰退した後、立川流も徐々に衰退し、江戸時代の弾圧によって断絶。現在には伝わっていないというのが定説である。真言正統派においては、この邪説に対する反証として、戒律を厳しくするなどの試みが行われた。
しかしその独特の教義は仏教の各派に多くの影響を残し、後の日本の密教思想の形成の大きな遠因となっている。

疑問
上に記述した歴史については、多くの学者が疑義を呈している。
仁寛を立川流の開祖とする記述は、『伝灯広録』などの文献にみられる。しかし『伝灯広録』は、その記述に誤りや矛盾が数多く指摘されており、信頼性が低い。
仁寛が伊豆に流されてから死去するまでの期間は5ヶ月であった。流刑に遭うまでは、仁寛には独自理論の確立に関する目立った動きがみられないことから、この5ヶ月間で教義を練り上げ、しかも伝授したと考える必要があるが、あまりに短すぎるため不自然である。配流される前の、醍醐三宝院に在った頃から研究をしていたと考えても、見蓮に奥義を伝授するのに要した期間が短いことには変わりない。
千手丸事件で罰せられたのが仁寛、及び実行犯とされる千手丸の2名のみであったのは、そもそも天皇暗殺計画がなかったからではないか。即ち、謀反は輔仁親王や支持勢力の村上源氏(仁寛も一族の1人であった)の影響力を削ぐために白河上皇によって捏造されたものであり、彼らを一掃せずとも所期の目的を果たせさえすればよしとしため、この2名のみを「生贄」としたのではないか(その際、仁寛の邪悪性を際立たせる材料として立川流を利用し、彼を開祖に仕立て上げたとの見方もある。なお、文観についても同様に、悪人の印象を植え付けるために立川流と関連付けられたとの説がある)。
以上のような疑問のほか、仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、彼らと立川流との関係を疑問視する向きもある。
しかしながら、ほとんどの記録が失われた現在では、多くの疑問点が未だ真相不明のまま残されているのが実情である。現在残っている資料として『受法用心集』『宝鏡抄』といった文献があるが、これらは立川流を敵視する立場から書かれたものであり、その教理を誹謗する意図が含まれていると考えた方がよいであろう。


参考文献

京極夏彦『狂骨の夢』 講談社(講談社ノベルス)、1995年、ISBN 4061818449
笹間良彦『性と宗教?タントラ・密教・立川流』 柏書房、2000年、ISBN 4760119299
藤巻一保『真言立川流?謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』 学習研究社、1999年、ISBN 4054010091
真鍋俊照『邪教・立川流』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002年、ISBN 4480087036


以上wikipediaより
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