にんげんの想像力なんてたいしたことはない。そう言い切ったやいなや、いや、にんげんの想像力ってすごいじゃないか、という文句が聞こえてきそうだ。
にんげんの言葉なんてろくなものじゃない、と声を張り上げたとしてみる。するとたちまち、いや、言葉にできないことはないのだとの木霊が響いてくる。
とどのつまり、何が言えて何が言えないのか。そんなことが分かっているひとなんているんだろうか。
しかたがないので、とりあえずすいかを抱いてみる。
たとえばすいかを通して世界が見つめられると思いませんか? にんげんの形には飽きがくるときもあるのです。さあ、すいかの教えを乞いましょう。。。
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なぜすいかなのか。
それは、なぜこの遊星を地球っていうのかに応えるくらいむずかしい。
むずかしいことをかんがえると、あたまがいたくなる。それだけならかまわないのだが。
あんまりむずかしいことをかんがえると、すいかになってしまうという走り書きをこのあいだ、うらの蔵で見つけた。
それでは、やみくもにやさしいことばかりをかんがえていればいいのだろうか。曾祖母によると、やさしいことばかりかんがえていると、太鼓になってしまうそうだ。
いったい何をかんがえればいいのか、来る日も来る日も考えているのだが。
すると石を投げられた。