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三重県あれこれ

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詳細 2020年10月13日 13:11更新

我が町三重県の現状は一体どんなものなのか。

またどんな事がなされているのか。

三重県にある政党もしくはそれに伴う団体に目を向け

我が町が今、どんな風であるのかを見つめ

良いと思われる部分はみんなで盛り上げ

ん?なんだこれは?的な事は、議題としてあげて

討論をする。

またこれまで培われてきた三重県の歴史にも目を向け、これからすべき姿勢をみんなで、考えていきましょう。

ド素人の私が作成するコミュニティでございます。

固い事は言いません、気軽に普段生活していて疑問に思った事などを

声に出して記載して下さい。

三重県の現状

各市の現状

街創りに積極的な団体やサークル・ボランティア団体

三重県史

などなど・・・。

色々な現状が把握できる事は悪い事ではないと私は考えます。

■☐■関連リンク■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐

・三重県wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C

・三重県
http://www.pref.mie.jp/

・三重県警察
http://www.police.pref.mie.jp/

・観光三重
http://www.kankomie.or.jp/

・財団法人三重県産業支援センター
http://www.miesc.or.jp/

・三重県立図書館
http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/

・三重県総合文化センター
http://www3.center-mie.or.jp/center/index.shtml

・三重県キッズサイト
http://www.pref.mie.jp/kids/

・三重の環境と森林
http://www.eco.pref.mie.jp/

・三重県医師会
http://www.mie.med.or.jp/hp/index.html

・三重の酒
http://www.mie-sake.or.jp/

・九条の会・四日市
http://9jou4.fc2web.com/

・YYウェーブ21
http://www.greenpla.net/yy/

・社会民主党 三重県連合
http://www.sdp.or.jp/mie/

・自由民主党三重県支部連合会
http://www.e-net.or.jp/user/jimin-mie/

・民主党・三重県総支部連合会
http://www8.ocn.ne.jp/~dpjmie/


(順不動)
■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐■☐

どんな事でも構いません、普段の疑問や提案など

お気軽にトピック立てていただける

「みなさん参加型」

ですので、どしどしトピック立てて盛り上げて行きましょう。


すべては、素晴らしい、そして住み良い地元を目指して。


■県章(昭和39年4月20日制定)※写真
三重県の「み」を力強く雄飛的にデザインしたもので、世界的に有名な真珠養殖も象徴しています。また、右上がりになっている字は、県が飛躍することを表しています。
■県民歌(昭和39年4月20日制定)
県民歌は、県民が気軽に県民として誇りをもって歌える、軽快で健康的なものをということで、形式、応募資格の制限を設けず、広く全国に募集し、全国385点の応募作品の中から入選した作品の一部を修正して決定したものです。
なお、作曲は東京の作曲家飯田信夫氏に依頼したものです。
http://www.pref.mie.jp/MOVIE/detail.asp?con=12
■[県民鳥獣]カモシカ(昭和39年11月24日指定)
■[県の花]ハナショウブ(昭和44年9月22日指定)
■[県の木]神宮スギ(昭和41年10月20日指定)
■[県の鳥]シロチドリ(昭和47年6月20日指定)
■[県のさかな]伊勢えび(平成2年11月2日指定)

☆三重県史☆

■旧石器〜古墳時代

 伊勢と志摩の二つの国が、伊勢の海を西から包み、東紀州は太平洋の荒波にたちむかう。伊賀国はかつて琵琶湖に連なっていたという。北端にはには日本海気候が侵入、寒風と多量の積雪をもたらし、南端は黒潮が流れ、亜熱帯植物が自生する。日本の中央部であるとともにその縮図でもある。
 この南北に細長い三重の地に人々が住み始めたのは、一万数千年前の先土器時代とされる。当時の狩猟具としては最も発達したナイフ形石器が使用された頃で、遺物は多気郡大台町出張(デバリ)遺跡、度会郡玉城町カリコ遺跡をはじめ宮川・櫛田川・鈴鹿川・名張川流域や志摩半島などの台地丘陵の先端部で採集される。石材は入手しやすいチャートであるが大和二上山(ニジョウザン)のサヌカイトもあり、西方と交流のあったことが知られる。
 土器が製作・使用されるようになった縄文時代に入ると、内陸部へと生活領域をひろげ、遺跡は伊賀・鈴鹿山麓や櫛田川・宮川流域などで発見される。土器の型式は初期から西日本の影響[押型文(オシガタモン)土器]を強くうけているが、志摩では海づたいに交流された東日本型も見られる。尚、上野市森脇遺跡で食糧貯蔵穴が、度会町森添(モリゾエ)遺跡で長期におよぶ大集落跡が発見されたが、伊勢・志摩とも海岸移動の結果か、貝塚文化を示すものは発見されていない。
 紀元前3世紀頃、大陸から水耕稲作を中心に弥生土器・金属器をともなった文化が伝来した。この文化は大和盆地から、伊賀では名張川流域、伊勢ではまず雲出川流域[中ノ庄遺跡]に伝わり、櫛田川・安濃川・鈴鹿川流域へとひろがった。四日市市大谷・鈴鹿市上箕田(カミミダ)・津市納所(ノウソ)、そのほか300カ所ほどで遺跡が発見されている。中期になると伊勢では尾張・三河と同じ宮廷(パレス)式土器と呼ばれる下半朱丹(シュタン)塗りの伊勢湾岸ローカル土器がうまれている。祭器としての銅鐸(ドウタク)は伊賀で4個、伊勢で7個出土しており、有力集落が現れたことを知らせる。
 政治権力者の出現を示す古墳時代は4世紀から始まる。古墳は流域平野を見下ろす台地や丘陵上に築造されたものが多く、初期のものは伊賀の石山古墳・雲出川流域の筒野(ツツノ)古墳などで、大和政権への服属を示す三角縁神獣鏡(サンカクブチシンジュウキョウ)が出土している。中期の5世紀に入ると特異なものもあるが、規模の一段と大きい前方後円墳が一群となって出現する。上野市の御墓山(ミハカヤマ)古墳[全長173m]、名張市美旗(ミハタ)古墳群中央部の馬塚(ウマヅカ)[142m]、松阪市の宝塚1号墳[100m]、亀山市能褒野(ノボノ)古墳[90m]、鈴鹿市王塚古墳[70m]などで、葺石(フキイシ)におおわれ、円筒埴輪がめぐらされていたと思われる。6〜7世紀になると一般的には横穴式石室をもつ小規模な円墳が県下各地に群集して築造された。志摩半島にも初めて現れ、津市長谷山古墳群の約400基をはじめ、明和町・多気町・玉城町にまたがる丘陵上、伊賀大山田村の古墳群がその代表で、農業生産の発展のなかから有力家族が現れてきたことを物語る。石室の中からも発見される硬質で丈夫な須恵器(スエキ)は最初に久居市北端の藤ケ丘で焼かれたと思われ、また一般住宅も明和町の古里(フルサト)遺跡、四日市市の貝野(カイノ)遺跡などから、しだいに竪(タテ)穴式住居が消え、掘立(ホッタテ)柱住居に移っていったことが知られる。

■戦国時代

 1567[永禄10]年から天下統一を目ざす織田信長の伊勢・伊賀侵攻が始まる。彼は有力国人神戸(カンベ)氏には三男信孝(ノブタカ)を、長野氏には弟の信包(ノブカネ)を養子とすることで和を結んだ。関氏は敵対することができずに軍門に下った。北畠氏には大軍で具教(トモノリ)の籠(コモ)る大河内(オカワチ)城を攻め、次男信雄(ノブカツ)を強引に養子とし、最後は一族を謀殺(ボウサツ)した。ただ長島の一向一揆には苦戦した。1574[天正2]年陸からの大軍と、九鬼水軍の力をかりて海上からも攻撃、門徒衆は全員虐殺(ギャクサツ)され、デルタの川は血で赤く染まったという。伊賀では信雄が国人・地侍の連合軍に撃退されたことから、1581[天正9]年信長が大軍を率いて四方より侵攻し、多くの首をはね、放火を繰り返し、わずか半月ほどで全土を焦土とした。その煙は遠く奈良の街からも望見(ボウケン)されたという[天正伊賀の乱]。
 1582[天正10]年の本能寺の変ののちは信長の後継者をねらう信雄・信孝と次の天下を目ざす豊臣秀吉とがかかわって、北・中勢の各地で戦いが行われた。南勢5郡は近江日野から入った秀吉の功臣蒲生氏郷(ガモウウジサト)の領国となり、松阪に城が築かれた。伊賀では筒井定次(ツツイサダツグ)が大和郡山から移封され、上野に築城した。秀吉が最も力をそそいだ太閤検地は、その完成期ともいうべき1594[文禄3]年、宮川以東の神宮領を除いて実施され、伊勢国は約60万石、伊賀国は約10万石、志摩国は約3万石と石高が計上された。
 1600[慶長5]年、天下分け目の関ケ原の戦いが行われたが東軍に長島・津・松阪・鳥羽・伊賀上野城主らが、西軍に桑名・神戸・亀山の各城主が加わった。戦いの結果西軍に加わった大名は没落し、東軍に加わった大名は石高を加増され転封もされた。最大の転封といわれたのは藤堂高虎(トウドウタカトラ)で、家康は大坂豊臣方包囲のために伊賀・伊勢国を重視し、信任厚かった高虎を伊予(イヨ)国[愛媛県]今治から22万石の津城主に移した。

■江戸時代

 大坂冬・夏の陣が終わり、幕藩体制が整えられるなかで、家康の第十子頼宣(ヨリノブ)が御三家として紀州和歌山城主になると、伊勢国内でも松阪・田丸・白子に代官所が置かれ、18万石がその所領となり、三重県の南半分を支配した。また神宮の警備・裁判や大湊・鳥羽港の監視などを目的に山田奉行所が設置され、東海道の宿場四日市・石薬師・庄野などの要地、米どころは天領となり、四日市や信楽(シガラギ)の代官が管轄した。県下の大名は紀州藩をのぞいて江戸中期、伊勢長島藩[2万石]・桑名藩[10万石]・菰野(コモノ)藩[1万2000石]・神戸藩[1万5000石]・亀山藩[5万石]・藤堂藩[32万3000石]・久居(ヒサイ)藩[5万3000石]・鳥羽藩[3万石]の8家で、譜代大名が多く、外様大名は藤堂氏と菰野の土方(ヒジカタ)氏だけであった。藩主の交替もしばしば行われ、桑名藩5回、亀山藩9回、鳥羽藩7回などで、所領も入り組み、互いに監視し合う配置になっていた。
 過重な年貢に加え貨幣経済の進展と、たび重なる凶作・飢饉のため18世紀なかばから農村人口は減少して田畑は荒廃し、各藩は深刻な財政難におちいり、百姓一揆も多くなった。1768[明和5]年亀山藩下の83カ村で新検地反対一揆が、1796[寛政8]年藤堂藩下で庄屋・中農層を中心に貧農もまき込んだ地割(チワリ)[均田制]反対の大一揆がおこった。
 武士・農民の窮乏とは反対に、17世紀なかば頃からの商品経済の発展は、富裕な町人と新しい文化を生みだした。特に松阪を中心にした伊勢商人の活躍はめざましく、本店を伊勢に置き、江戸・大坂・京都をはじめ各地に出店を持った。松阪の長谷川家は伊勢・松坂木綿(モメン)を白子の港から江戸大伝馬(オオデンマ)町に運んで利益をあげ、同じ松阪の三井高利(タカトシ)・高平(タカヒラ)親子の越後屋は「現金安値・掛値無し」の大衆本位商法で江戸の競争相手を圧倒した。
 またこの当時、海を舞台に活躍した人物に、御朱印船で安南(アンナン)を往来した大湊出身の角屋(カドヤ)七郎兵衛、東・西廻り航路を開拓した南島(ナントウ)出身の川村瑞賢(ズイケン)、ロシアに渡った若松港の大黒光太夫(コウダユウ)、北海道の命名者三雲出身の松浦武四郎(タケシロウ)らがいる。
 元禄時代[1688〜1704]伊賀の松尾芭蕉(バショウ)は江戸に出て庵をむすび、各地に旅して幽玄閑寂の蕉風(ショウフウ)[正風]俳諧(ハイカイ)を確立した。江戸の後期松阪の豪商小津(オヅ)家の一族として生まれた本居宣長(モトオリノリナガ)は、綿密な実証的研究法をもって『古事記伝』を完成し、日本古来の精神を説いて国学を大成した。同じ頃、津の谷川士清(タニガワコトスガ)は国語学の研究にはげみ、『日本書記』を通釈している。また本草学では紀州藩主の奨励もあり、多気郡勢和村出身の野呂元丈(ノロゲンジョウ)が西洋本草学を紹介するなど、全国でも盛んな土地となった。
 交通・通信制度の整備も進み、御師(オシ)の全国的な活躍もあって「お伊勢まいり」は江戸時代に入ると一層盛んとなった。御師は室町以来伊勢神宮の年貢収納が減少したため、お祓(ハライ)の大麻(タイマ)や暦(コヨミ)を配り、祈祷や参詣の世話をして収入とし、伊勢信仰をひろめていた。彼らの扇動(センドウ)もあったと思われるが、1638[寛永15]年以来7回ほど爆発的に「ぬけ参り」「お陰参り」と呼ばれる民衆の集団参宮が発生し、200万からときに400万を越える人々が伊勢路に殺到し、つのる日常の不満を発散させた。

■明治時代

 1868[明治元]年の鳥羽・伏見の戦いで桑名藩と藤堂藩は旧幕側についたが、藤堂藩が山崎で薩長側に説得されて旧幕軍を砲撃したため、旧幕軍は総崩れとなった。1869[明治2]年各藩主は版籍を奉還、知藩事に任命されたが、新政府は1871[明治4]年7月、一挙に廃藩置県を断行し各藩は県となった。11月北中勢・伊賀は安濃津(アノツ)県に、南勢・志摩・東紀州は度会(ワタライ)県として統合され、安濃津県庁は津から四日市旧陣屋跡に移り、日本武尊(ヤマトタケル)の伝承をもつ三重郡(コオリ)の名をとって三重県と改称された。1876[明治9]年になると度会県は三重県に併合され、津に県庁を置いたが、各県のバランスをはかる程度の便宜的な県域画定でもあった。
 つぎつぎと発表された新政府の政策のなかでも、地租改正・徴兵令・強制就学は前代以上に農民に負担を強(シ)いるものであった。同年12月米価の暴落をきっかけに魚見(ウオミ)村周辺[現松阪市]の農民が地租の軽減を叫んで暴動[伊勢暴動]をおこし、たちまち激しさを増して北上、愛知・岐阜県下にもひろがった。政府も急ぎ翌年、地租を地価の3%から2.5%に引き下げ、あわせて民費も軽減した。
 また平田派復古神道の思想的影響下にあった新政府は、神道の国教化と天皇の神格化をすすめようと、1869[明治2]年、かつてなかった天皇の伊勢神宮親拝を行い、神宮を御師(オシ)の手から切りはなして国の管理とし、国家神道の頂点においた。そのため民家を撤去して神域をひろげ、宇治と山田で18カ寺を廃寺にした。
 明治10年代の自由民権運動では、伊勢新聞が改進党の立場から国政・県政を批判し、鳥羽の栗原亮一(クリハラリョウイチ)は板垣退助の立志社に名を連(ツラ)ね、1880[明治13]年県会での予算案否決、議員総辞職を暗に指導した。翌年国会開設の詔が出ると、県民の政治意識もしだいに高まり、10年後の第1回総選挙には南勢を地盤とした尾崎行雄(オザキユキオ)が当選、以後63年間権力の独裁と対決し、憲政の神様といわれた。
 県内の交通も明治から大正にかけて発達し、まず関西鉄道・参宮鉄道が開通、各地で軽便(ケイベン)鉄道が走った。四日市港が稲葉三右衛門(イナバサンエモン)の12年間の努力によって完成すると、ここを基地に1886[明治19]年、四日市の伊藤伝七(イトウデンシチ)は渋沢栄一の指導も得て三重紡績をおこし、1914[大正3]年には大阪紡績を併合して東洋紡績にと発展させた。鳥羽では御木本幸吉(ミキモトコウキチ)が苦心のすえ、1893[明治26]年貝付半円真珠をとり出し、他の協力を得て14年後、真円真珠の養殖(ヨウショク)に成功、「ミキモトパール」として世界に名をはせた。

■大正〜昭和時代(戦前)

 第1次世界大戦末の1918[大正7]年、シベリア出兵にからむ米価暴騰(ボウトウ)から富山で始まった米騒動は県下にも波及し、伊賀阿山郡に始まり、伊勢路にとひろがった。津地方で特に激しくゆれ、弾圧のため軍隊も出動した。その際意図的に多数の被差別部落の人々が検挙・起訴された。1922[大正11]年に被差別部落開放運動の中心組織として全国水平社(スイヘイシャ)が創立、ただちに三重県水平社も誕生し、全国最多の社員を数えた。翌年日本農民組合三重県連合会が組織されると、両者は一体となって差別撤廃(テッパイ)・小作料減免(ゲンメン)を求めて行動をおこした。1925[大正14]年5月1日、労・農・水平による県下初のメーデーが松阪で行われ、同年11月に、日農側の減免要求に対し、地主が収穫前の米を差し押さえ、競売を裁判所に申請したことから起きた日農立毛(タチゲ)闘争での松阪区裁判所包囲事件は全国的に知られた。
 1931[昭和6]年満州事変、1937[昭和12]年日中戦争、1941[昭和16]年太平洋[大東亜]戦争と日本はひたすら戦争への道をつき進んだ。若者たちの多くは久居の歩兵第33連隊に徴兵され、満州、中国本土・フィリピン・ビルマなどに転戦、多くの命が再び故郷には帰ってこなかった。また日本軍の後退が伝えられると、鈴鹿・三重海軍航空隊、明野・北伊勢陸軍飛行学校からは特別攻撃隊が出撃、はるかなる雲の果てに散っていった。戦時体制下の内地も紡績工場はじめ、県立神戸(カンベ)中学などの体育館が軍需工場に、女性も学徒も根こそぎ軍需品生産に動員された。1945[昭和20]年6月沖縄戦に敗れてから、アメリカ軍の中小都市空襲は激しく、かつ間断なく行われた。桑名市街は91%、四日市市街は48%、津市街は73%が焼け野原となり、人々は日本の勝利を疑い、敗戦を予想するようになった。

■昭和(戦後)〜平成時代

 1945[昭和20]年8月15日、ながく苦しかった15年戦争は終わった。この間県民の戦没者は軍人、軍属を合わせ10万人にのぼった。占領軍が進駐し、県会議事堂に軍政部が置かれ、荒廃の中でつぎつぎ実施された諸改革に人々は自由と民主化の希望をもった。2度にわたる農地改革で自作地が64%から91%に増え、農民にはじめての笑(エ)みがこぼれた。伊勢神宮も国家神道禁止、政教分離の指令により国の保護から離れ、1973[昭和48]年には神宮司庁の手で遷宮が行われた。教育の民主化もすすめられ、新学校制度のもと三重大学・三重県立大学が新制大学として開学、「教え子をふたたび戦場に送るな」と三重県教職員組合が誕生した。地方自治体の財政力強化などの立場から町村合併・新住居表示も指導促進され、明治の1市18町317村は、平成の現在13市47町9村となり、歴史的に由緒(ユイショ)ある多くの地名が消えていった。
 1959[昭和34]年9月26日、瞬間最大風速60m以上を記録した「伊勢湾台風」が県下全域を襲った。死者1281名、被災世帯6万7000戸は災害史上未曾有(ミゾウ)のもので、災害対策の原点が強く問われた。
 1950[昭和25]年に始まった朝鮮戦争を契機に復興した日本経済は、めざましい高度成長をとげ、企業規模も巨大化が進んだ。四日市海軍燃料廠(ネンリョウショウ)跡に石油コンビナートが、鈴鹿海軍工廠(コウショウ)跡に紡績・化学・自動車工場が、津海岸に大造船所が、尾鷲に火力発電所が建設され、名張に大規模住宅団地が造成された。しかし急ピッチですすめられた経済優先の開発は、人々の生活を大きく変えた反面、豊かな三重の自然と貴重な文化財を破壊し、深刻な公害問題をひきおこした。「四日市ぜんそく」はわが国4大公害訴訟として国際的にも注目され、企業6社の社会的責任がきびしく追及された。
 一時、南島町は「原発問題」でゆれていた。伊勢・志摩・東紀州に1988[昭和63]年「総合保養地域整備法」[リゾート法]が摘用され、「三重サンベルトゾーン」構想が動き出した。今後は国際的視野にたった、未来にむけての新たな構想がすすめられてゆくだろう。しかしそれらは地域住民にさまざまな光と影を投げかけるに違いない。今まで歩んできた道を振り返りつつ、その一つ一つを問い直し、住民の真の幸せとは何かを考えてゆくことこそ大切である。


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【歴史上の偉人】
稲葉三右衛門 沼波弄山 佐佐木信綱 大黒屋光太夫 前川定五郎 飯沼慾斎 谷川士清 松尾芭蕉 観阿弥 荒木又右衛門 江戸川乱歩 松浦武四郎 本居宣長 三井高利 大谷嘉兵衛 村山龍平 浜田国松 尾崎行雄[咢堂] 度会家行 沢村栄治 御木本幸吉 九鬼嘉隆 伊勢三郎義盛 伊藤小左衛門 丹羽文雄 平忠盛 藤林長門守 服部半蔵 百地三太夫 石川五右衛門 長谷川次郎兵衛 小津清左衛門 尾崎一雄 西村幸生 門野幾之進 愛洲移香斎久忠 

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開設日
2007年11月8日

6014日間運営

カテゴリ
地域
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