南京戦では第10軍の第6師団・師団長
■中支那方面軍(松井石根・大将)
→第10軍(柳川平助・中将)
→上海派遣軍(朝香宮鳩彦王・中将)
■第10軍(柳川平助・中将)
→第6師団(熊本) 谷寿夫・中将
→第18師団(久留米) 牛島貞雄・中将
→第114師団(宇都宮) 末松茂治・中将
→国崎支隊(国崎登・少将)
→野戦重砲兵第6旅団
■第6師団(熊本) 谷寿夫・中将
→歩兵第11旅団(坂井徳太郎少将)
→歩兵第36旅団(牛島満少将)
→騎兵第6連隊(猪木近太中佐)
→野砲兵第6連隊(藤村謙中佐)
→工兵第6連隊(中村誠一大佐)
→輜重兵第6連隊(川真田国衛大佐)
■第18師団(久留米) 牛島貞雄・中将
→歩兵第23旅団(上野亀甫少将)
→歩兵第35旅団(手塚省三少将)
→騎兵第22大隊(小池昌次中佐)
→野砲兵第12連隊(浅野末吉中佐)
→工兵第12連隊(井沢新大佐)
→輜重兵第12連隊(川内益実大佐)
■第114師団(宇都宮) 末松茂治・中将
→歩兵第127旅団(秋山充三郎少将)
→歩兵第128旅団(奥保夫少将)
→騎兵第118大隊(天城幹七郎少佐)
→野砲兵第120連隊(大塚昇中佐)
→工兵第114連隊(野口勝之助少佐)
→輜重兵第114連隊(中島秀次少佐)
■国崎支隊(国崎登・少将)
→歩兵第41連隊(福山) 山田鉄二郎大佐
→独立山砲兵第3連隊(久留米) 月野木正雄大佐
※第18師団、国崎支隊は南京城内には入っていない。
【時系列】
1937年10月26日
大場鎮陥落。
1937年11月5日
第10軍、杭州湾金山衛に上陸。
1937年11月7日
中支那方面軍を編成。隷下部隊は上海派遣軍と第10軍
(上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線の東側までを作戦制限区域とする)
1937年11月15日
第10軍司令部、幕僚会議を開き、
「軍全力ヲ以ッテ独断南京追撃ヲ敢行スル」 ことを決定。
1937年11月16日
国民政府、重慶への遷都を宣言
1937年11月17日
第10軍柳川平助司令官、
「嘉興より南京に向かう追撃作戦指導要領」を決裁
1937年11月19日
・制令線の嘉興に達した第10軍第18師団、
柳川軍司令官の独断下令により、制令線を越え一路南京追撃開始
・参謀本部、南京進撃の事実を把握
・上海派遣軍第9師団(金沢)、蘇州を占領
1937年11月20日
・皇居内に大本営設置
・多田駿参謀次長、進撃に反対
・第9師団が蘇州を占領
1937年11月22日
中支那方面軍司令官松井石根大将、参謀本部に対して南京攻略を進言
1937年11月24日
・御前会議
・参謀本部、中支那方面軍の作戦制限区域を解除して
無錫−湖州の線を新たな攻勢限界線と指示
・唐生智が南京の防衛司令長官に任命される
1937年11月28日
多田参謀次長が南京攻略を決断
1937年11月29日
閑院宮参謀総長、南京攻略を諒解
1937年12月1日
大陸命第八号(南京攻略の命令)
1937年12月2日
蒋介石、ドイツ大使トラウトマンと会見し、日本の停戦案を受け入れる用意のあることを表明
1937年12月4日
・日本軍、南京防衛外郭陣地を突破
1937年12月7日
蒋介石ら首脳陣および政府要人や地方公務員等が南京を脱出
電話不通、電気水道が停止
中支那方面軍、「南京城攻略要領」を示達
1937年12月9日
日本軍、飛行機で南京城内にビラ(和平開城勧告文)を撒き、
国民革命軍に対し降伏勧告を行なう。
第16師団、紫金山にせまる
第9師団、光華門にせまる
第6師団、雨花台にせまる
1937年12月10日
総攻撃開始
1937年12月11日
第6師団と第114師団、中華門の手前、雨花台を攻撃
雨花台、中華門一帯を防衛していた88師ほぼ全滅
1937年12月12日
・南京城内に敗残兵が流入、略奪・放火
・城内の国民革命軍敗走、下関埠頭に殺到
・唐生智、南京脱出
1937年12月13日
南京陥落
1937年12月14日
・幕府山陥落(14,777人もの投降者)
・南京城内の敗残兵掃蕩を開始(16日まで)
1937年12月15日
第10軍、補助憲兵隊を組織
1937年12月17日
南京入城式が挙行される
1937年12月18日
故宮飛行場で陸海軍の合同慰霊祭
(上海から南京まで日本軍の損害は戦死21,300余人、傷病者は約50,000人)
1937年12月23日
陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復
1937年12月24日
第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し
南京難民区の兵民分離査問工作が開始され1月5日に終了
1937年12月31日
南京城内の電気、水道が復旧
1938年1月1日
「南京自治委員会」発会式
1938年1月15日
国民政府との和平交渉打切り決定
1938年1月16日
「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」声明発表
1938年3月28日
「中華民国維新政府」が中支那派遣軍の指導で南京に成立
【資料】
『南京戦史資料集』偕行社
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谷 寿夫(たに ひさお、1882年12月23日 - 1947年4月26日)は岡山県出身の大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。南京大虐殺(南京事件)の責任を問われ南京裁判において処刑された軍人である。
経歴
岡山中学校、東京府立四中を経て、陸軍士官学校卒(15期)、陸軍大学校卒(24期 恩賜)。
陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、イギリス駐在武官(1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、機密日露戦史をあらわす。
1935年、第6師団長(熊本)に親補される。
★1937年7月、盧溝橋事件時には保定を攻略。
1937年12月中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。
1939年、予備役となる。戦後、南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を引き渡され、南京裁判にかけられ処刑される。裁判において谷は、申弁書で、掃討戦は第16師団(当時の師団長は中島今朝吾)が起こしたものであり、第6師団は無関係と主張した。
だが、現在でも、中国側からは、南京裁判で処刑されたことで、南京大虐殺の責任者として、松井石根につぎ、知名度が高い。谷の上司である第10軍司令官の柳川平助、主力として南京掃討戦を行なった中島第16師団長も1945年に死去しており、松井石根につぐ責任者である上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王は皇族であり、不起訴となったため、生き残っていた谷に責任がまわってきたことは不運であった。
★加筆してあります
困ったときには