盛岡藩士、栃内理平の二男として岩手県上田村に生まれる。札幌農学校予科、攻玉社を経て、1886年海軍兵学校を卒業(13期生)した。1891年海軍大学校(丙号学生)を卒業し、日清戦争では金剛分隊長、旅順港水雷敷設隊分隊長、扶桑水雷長として従軍した。戦後に水雷術練習所教官となった。1897年に浅間回航委員としてイギリスに出張、浅間水雷長となり1899年に帰国。1900年に海軍省副官兼海相秘書官として山本権兵衛大臣に仕えた。
日露戦争には、武蔵艦長、八幡丸艦長、須磨艦長として従軍した。戦後には在英大使館付武官としてイギリスに三年半勤務した。この間にイギリス流の生活に傾倒し、私服はもちろんハンカチにいたるまでロンドンの一流ブランドのオーダーメイド品を身につけ、「海軍一のジェントルマン」の賞賛と「イギリスかぶれ」の批判を同時に受けた。1909年に帰国し同年に海軍少将・軍務局長となり、練習艦隊司令官、大湊要港部司令官、横須賀工廠長を歴任し、1914年海軍中将。さらに第2艦隊司令官、第1艦隊司令官、第4戦隊司令官、第3戦隊司令官、技術本部長を歴任し、1917年に海軍次官となった。次官時代、人力車に乗っていた際に、自動車と衝突して右目を失明する事故に遭っている。及川古志郎ほど有名ではないが蔵書家である。及川が漢籍なのに対して栃内は洋書。もちろん英和辞典は一切用いず読みこなした。
1920年海軍大将を拝命、第1艦隊長官、兼連合艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、軍事参議官を歴任し、1924年予備役に編入された。1932年3月に貴族院議員となったが、同年7月8日に盛岡市で講演中に倒れ、同地で死去した。