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漫才師 エンタツ・アチャコ

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詳細 2019年11月27日 17:10更新

■漫才師 エンタツ・アチャコについて

 昭和初期、「万才」は落語や浪曲といった伝統ある出し物の間をつなぐ色物とされていた。
内容も、歌や踊りを見せるもので、つなぎにしゃべる程度のもの、内容は下品で低俗と言われた。
その万才を、全国で誰にでも理解できる大衆芸能・「漫才(今日のボケとツッコミのしゃべくり漫才)」に大変身させたのがエンタツ・アチャコのコンビである。
彼らが「お笑い革命」に成功したのには理由があった。当時放送をはじめたばかりの「ラジオ」という新しい全国的メディアの普及と、新しい娯楽を求める「大衆」が都市部を中心に出現していたのだ。この新しい大衆に受ける新しい話芸、それがエンタツ・アチャコがめざした「漫才」だった。 

○横山エンタツについて(写真:右)
本名 石田 正見(いしだ まさみ)明治29年4月22日生まれ。
花菱アチャコと組み、現在の会話的漫才形態(しゃべくり漫才)を完成させた。
長男は関西テレビの元プロデューサー。長男の夫人は吉本新喜劇の中山美保。 二男は吉本興業に所属する俳優の花紀京。
横山ノック前大阪府知事は弟子で横山ノックの弟子が横山やすしである。
話はそれるが、やっさんは横山エンタツの孫弟子である。
代表作「早慶戦」。(横山エンタツ著「わが心の自叙伝」から)

○花菱アチャコについて(写真:左)
本名 藤木 徳郎(ふじき とくろう)明治30年2月14日生まれ。
昭和5年、横山エンタツとコンビを組む。
(花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」から)

○「万才」と「漫才」の二つの表記について
番組中で「まんざい」を「万才」と「漫才」という二つのテロップで表しています。これは現在、主に用いられる「漫才」という表記が、ちょうどエンタツ・アチャコが活躍した昭和初期から、彼らの活躍を受け、新しい言葉として作られたものだからです。だから、彼らが新しい万才を作り出す以前の「まんざい」には、それまで使われていた「万才」を使い、現在の「まんざい」及び彼らが作り出した「まんざい」、そして自叙伝などの抜粋に関しては「漫才」を使っております。さらに詳しいことは下記へ。

○「漫才」「万才」「万歳」「萬歳」の表記について
「まんざい」の表記は、主なもので上記の四つがあります。
数百年の歴史がある、正月などに門付けして街を回る「三河萬歳」「尾張萬歳」などのお祝い芸には「萬歳」の字が使われており、それが明治期に、舞台芸として扱われるようになって、「万才」「万歳」の字が使われるようになります。「万才」「万歳」は、様々な芸が含まれていましたが、大正末から昭和初期にかけては、多くは、三味線や鼓をもって歌を歌ったり、踊りを踊る音曲万才でした。エンタツ・アチャコがそれまでつなぎだけだった、「しゃべり」だけで行うまんざいを確立する頃から、「二人で行う漫談」という意味も含め、「漫才」という新しい字が使われ始めました。実際には大正から昭和初期にかけては、どの字も使われていました。「万才」から「漫才」へと変わる変遷期を扱ったこの番組では、「しゃべくり」以前のまんざいを「万才」、二人が目指した新しい「しゃべくりまんざい」や二人の自伝からの抜粋は、「漫才」と表記してあります。

○「しゃべくり漫才」
 現在、漫才といえば、「しゃべりで人を笑わせる」というのが、主流ですが、もともと「まんざい」は、歌をうたったり、おどったり、どつきあったり、乞食のマネをしたり、様々な芸の総称でした。
現在でも、楽器を使ったりする「まんざい」もあります。
エンタツ・アチャコは「まんざい」を確立したのではなく、「しゃべりだけで見せるまんざい」を確立したので、あえて「しゃべくり漫才」と番組冒頭で強調してあります。

○「万才」の地位について
伝統ある落語に対し、明治頃からはじまった漫才は、昭和初期、演芸界の中で扱いが低かったことは、様々な文献から伺われる。
「当時、吉本興業でも、落語家を「師匠」と呼んだのに、漫才師は本名か芸名かのどちらかに「さん」をつけて呼ばれたというし、出番も落語八に対し、漫才は一か二のあたりで、楽屋では小さくなっていたという。」
『漫才世相史 小島貞二著』
「漫才は、大阪の大衆芸能の中では歴史の一番新しい弟の娯楽で、できた頃は文字通り一番最低の娯楽で、そこから向上して来たのである。」『私は漫才作者 秋田實著』

○エンタツ・アチャコのコンビについて
エンタツ・アチャコの漫才師としてのコンビ結成は、昭和5年5月、解散は昭和9年9月です。
わずか4年あまりでしたが、その後、映画の中でだけコンビを復活し何本かに出演、その為、人々の印象に強く残っています。

○ラジオ放送80年について
大正14(1925)年にはじまった、日本のラジオ放送。今回はその黎明期に、ラジオによって全国の人に広まり、現在まで続くことになった「しゃべくり漫才」という大衆文化をラジオとの関係も含め描いています。

○大正11年のエピソードに関して
 エンタツ・アチャコのコンビ結成は、昭和5年ですが、アチャコの自伝によると大正11年に、アチャコが堀越一蝶一座という喜劇一座に入った時にはじめて出会っています。そこではコンビを組むということはありませんでした。ただ一回、全く打ち合わせも、練習もなく、急な舞台にたったことが、アチャコ自伝「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」にあります。

○当時の万才とは
いまのような舞台芸としての「万才」の元祖は、玉子屋円辰(たまごやえんたつ)といわれている。彼は、ご祝儀の「万歳」をやると、メインの芸として、得意の「河内音頭」を歌った。これ以来、様々な万才が出てくるが、大正から昭和初期、その大部分は、三味線や鼓をもって歌や踊りを見せる、音曲万才でした。

○エンタツの思っていたこと
「今の万才は、あまりにわい雑で下品である。
 日本中の老若男女が誰でも共感し、家族で笑える、
 無邪気な笑いをとる漫才がしたい」
※これは、後にエンタツと組む、漫才作家・秋田實(あきた みのる)などの著書、及び、晩年のラジオ番組のインタビューなどを受けた心情で、書籍からの抜粋ではありません。

○ミカンを投げられたエピソードについて
アチャコ自伝「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」アート出版発行にあります。当時の万才は、様々な芸がありましたが、どれも歌や踊りなど芸を見せるものでした。「しゃべるだけ」というのは芸として認められていなかったのです。

○その後のアチャコについて
アチャコとエンタツが出会ったこの一座は、この年解散します。その後、アチャコは喜劇一座を旗揚げしたり、相方を変えて万才を続けます。無声映画の物まねなどをして、人気を博しますが、舞台には三味線などを持ち込みます。後に作り出す、「しゃべりだけ」の革新さにくらべ、エンタツと組むまでの芸は、大きな意味でこれまでの漫才の範囲にはいるので、「これまでの漫才に戻ります」とコメントしております。写真の相方は、千歳屋今男(ちとせや いまお)でエンタツとコンビを組む前、そして、エンタツ・アチャコのコンビ解散後、アチャコがコンビを組んだ相手です。

○その後のエンタツについて
浅草での活躍、パーマ機のエピソードに関しては、横山エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編によっております。

○チャップリンの映画
本編中で使っているのは、『チャップリンの拳闘』1915年作品です。DVDでご覧頂けます。
淀川長治総監修『世界クラッシック名画100撰集/チャップリン作品集2』
発売元 株式会社アイ・ヴィー・シー

○パーマのエピソードに関して
エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編によっております。
どういった機械を販売したかは、定かではありませんでしたので、当時、実際にあったパーマ機をイメージとして使っております。
 
○ラジオの音源に関して
NHKのラジオ番組『芸と人』昭和38(1963)年に出演したときエンタツが昭和4年に万才を一度やめたときの心境を語った言葉です。
『いつまでも幕内家業しておってもうだつがあがらんよね、今ほど芸能人がいい時代なら、進んでやるんですけどね、芸能人あまり感心しません、その当時ね、だからなんとかしてかたぎの方にくっつこうという、その野心があったですね』。
 
○林がエンタツに声をかけたエピソードに関して
吉本興業社史「吉本八十年の歩み」(吉本興業株式会社発行)その他、林正之助(はやし しょうのすけ)氏がNHKのインタビューなどに答えた話しから描いております。ラヘビロクマえんきょうかい 流れ

○ゲスト 喜味 こいし(きみ こいし)さん
昭和2(1927)年生まれ。漫才師。
昭和15年に兄・夢路いとしと「荒川芳博・芳坊」の名でデビュー。
※子どもの頃の写真は、わかりやすいように「いとし・こいし」でテロップ表記しました。
その後、夢路いとし・喜味こいしのコンビで戦前・戦後のしゃべくり漫才を牽引してきた。
2003年9月、兄・夢路いとし他界。

○エンタツ・アチャコのデビューに関して
昭和6年、コンビ結成と書かれることもありますが、今回は二人の自叙伝により、昭和5年5月としております。
現在の大阪府大阪市天王寺区玉造元町にあった三光館(さんこうかん)という寄席でデビューしたといわれています。

○アチャコの心境
「今までだれもやったことのないことだから、
 どこにもお手本はない。
 私たちは毎日が勉強だった。」
 花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」アート出版発行から

○銭湯に通ったエピソードに関して
花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」に、しゃべくり漫才の修行として
『せっせと銭湯に通い、裸の人間の飾らない話題に耳を傾ける』とあります。
  
○こどもの内容の漫才
NHKに残されていたラジオの音源より、漫才『親と子』エンタツ・アチャコ

○ラジオの音源に関して
NHKのラジオ番組『芸と人』昭和38(1963)年に出演したときエンタツがこどもや家族のネタが多かったことに関して話した言葉です。
『自分は子どもがたくさんありまして、私も子煩悩ですから、まあ自分の近辺にありますから、実感が出てたように思いますね。』

○インタビューを受けて頂いた方
藤木吾朗生(ふじき ごろお)さん。花菱アチャコの長男。
お話の内容は、エンタツ・アチャコがコンビを組んだ頃、お互いの家族で奈良旅行に行ったら、後にそれが漫才になっていたということです。

○奈良の漫才
NHKに残されていた音源より、漫才『奈良見物』エンタツ・アチャコ。

○大阪駅に実際に行ったエピソード
エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編に、「大阪駅を漫才の舞台にするなら、実際に大阪駅に行き、何番線から何行きの列車が出るか確かめた」とあります。

○エンタツの回想
『どんなことでも実地に歩いて
 それを万才にとりいれるから、
 客はイヤも応もなく乗ってくる。
 空想ではないナマの面白さをねらった』
  エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編より。

○アチャコの振り返り
 『話のアウトラインだけを決めて、
  あとは舞台で芸をぶつけ合う。
  毎日が真剣勝負だ。
  次から次へとアドリブがでる、
  同じ話でも、昨日と今日の舞台では違う。
  そしてそれが積み重なって、
  だんだん洗練された内容になって行く』
  花菱アチャコ著「遊芸稼人(ゆうげいかせぎにん)」アート出版発行より。

○エンタツ・アチャコが嫁さんの漫才をしている映画
「水戸黄門漫遊記」(昭和13年)
監督 斎藤寅次郎
脚本 小国英雄
映像提供 東宝
 
○南地花月(なんちかげつ)とは
法善寺界隈にあった吉本興業の寄席。当時、数ある寄席の中でも最も格式が高いとされ、昭和初期、人気落語家がその出演のほとんどをしめ、万才師はほとんど立てなかった。

○ラジオ放送に関して
大正14(1925)年よりはじまった日本のラジオ放送。
昭和7(1932)年2月には聴取契約者数が100万件を越えた。聴取者がこの頃(昭和8年頃)100万人というのは、この契約者数から出した最低の数字で、実際には家族などが聞いていれば、その数倍の聴取者がいたと考えられます。

○松内アナウンサーに関して
松内則三(まつうち のりぞう)アナウンサー。
NHK(東京)のアナウンサー。スポーツ実況での語りが人気を博しました。

○漫才「早慶戦」をやってる映画に関して
「あきれた連中」(昭和11年)
監督 岡田敬 伏水修 脚本 永見隆二
映像提供 東宝

○桂 春団治について
初代・桂春団治(かつら はるだんじ)明治11年(1878)-昭和9年(1934)
大阪市南区生まれ。明治28年(1895)初代桂文我に入門。桂我都から春団治を襲名。
春団治は前にもいたが、この春団治の名があまりにも大きくなったため、今では初代となっている。

○春団治事件に関して
昭和5(1930)年12月7日。当時、所属芸人のラジオ出演を禁止していた吉本興業に内緒で、NHK大阪が桂春団治をラジオに出演させた。桂春団治は、落語「祝い酒」を演じた事が資料に残されています。

○吉本興業とNHK大阪の和解に関して
昭和9年5月4日。写真は、大勢写っている一枚目が、NHK側と吉本興行側の話し合いの様子。
2枚目で握手しているのが、当時の広江NHK大阪局長と林吉本興業総支配人。
「ラジオ出演後、春団治の寄席に多くの客が来るのを見て、吉本が考えを変えた」というのは吉本興業社史「吉本八十年の歩み」(吉本興業株式会社発行)によっています。

○ラジオ放送当日のアチャコの言葉
大阪朝日新聞 昭和9年6月10日版より 
『全国に聞いて頂くのですから、
 いつもなら頭を押さえて「ここが痛い」で
 わかるところを今日は「頭が痛い」と
 いわんといけません、
 いつものように笑って頂けますかな』

○その時
昭和9(1934)年6月10日、エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」がラジオ中継された日。
「しゃべくり漫才」がラジオによって全国で受け入れられ、新しい話芸「漫才」が確立された。
※ アチャコの自叙伝など、昭和9年8月と書かれているものもありますが、当時の新聞、
及び、NHK、吉本興業資料で6月10日で間違いありません。

○漫才「早慶戦」に関して
NHKに残されていた音源より、漫才「早慶戦」エンタツ・アチャコ。

○漫才作家・秋田實(あきた みのる)さんに関して
秋田實(あきた みのる)明治38(1905)年〜昭和52(1977)年。漫才作家。
エンタツ・アチャコが組んでいた頃から活躍をはじめた、漫才作家の先駆け。
いとし・こいしをはじめ多くの漫才師の台本を作り、漫才に大きな影響を与えた。
※エンタツ・アチャコの漫才にも影響を与えていますが、出会ったのが二人がデビューして一年半以上たつ昭和6年の暮れで、すでに「日常的なネタをしゃべりで笑わせる」というエンタツ・アチャコのスタイルは確立されていたので、今回は紹介しておりません。

○エンタツ・アチャコのコンビ解消について
昭和9年9月。アチャコが中耳炎で入院中にコンビが解消されます。
興行的利益を考えた会社が別れさせたとも、休みたくないエンタツが解消したとも言われますが、
諸説あり、どれも定かではありません。
 
○紹介したエンタツのラジオ番組
「気まぐれショウボート」昭和25年9月〜昭和26年
  
○紹介したアチャコのラジオ番組
「お父さんはお人好し」昭和29年4月〜昭和40年3月

○二人が出演したテレビ番組
NHK演芸番組 「土曜ひる席」(昭和42年4月放送)
  
○二人の他界
横山エンタツ 昭和46(1971)年3月31日死去。(享年74)
※ 享年を75とする資料もありますが、今回、自伝の誕生日明治29(1896)年4月22日生まれを根拠に使っておりますので、誕生日を迎えていないので、満年齢で74歳としています。
  
花菱アチャコ 昭和49(1974)年7月25日死去(享年77)
自伝の誕生日は明治30(1897)年2月14日。

○横山エンタツの言葉
横山エンタツ著「わが心の自叙伝三」神戸新聞学芸部編より。一部抜粋、補足あり。
「昔を思い出すと、
 ずいぶん向う見ずな事もした。
 バカなマネもした。
 しかし、ぼくはいつも、人間を忘れることはなかったと思う。
 それこそぼくの人間としての生き方だと自負している。」

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2005_06.html#02
http://www.yoshimoto.co.jp/ngk/ouyou/history/hi_2-03/
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0100.html

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2005年7月10日

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