69年に、ジェルマーノ・チェラントによって名付けられた前衛デザイン運動。
63年、フィレンツェ大学建築部学生の授業批判に端を発したものですが、影響を与えた要素としてはロンドンの建築家集団アーキグラム、ハンス・ホラインとワルター・ピッヒラーの著書、"絶対建築の表現"が挙げられる。
社会の変化に応じた新しい教育を求めたモダンデザイン、西洋近代社会への抵抗が大きく膨らんでいき、まずは身近な環境、五感と空気の関係をテーマに活動を開始された。
66年には、学生たちはアンドレア・ブランツィを中心とする"アルキズーム"、アドルフォ・ナタリーニを中心とする"スーパースタジオ"の2つのグループが形成され、U.F.O、ジグラット、9999などのグループが相次いで生まれた。
この運動の思想的リーダーとも言える役割を果たしていたのがエットーレ・ソットサスJr。その他にも、ガエターノ・ペッシェやウゴ・ラ・ピエトラが理念を同じくして活動。彼らの抗議運動は仲間を増やしながら更にエスカレートしていく。
70年代に入るとニューヨーク近代美術館主催のイタリア:ニュードメスティック・ランドスケープでも紹介され、国際的に知られはじめる。
同年、雑誌カサベラの編集長をしていたアレッサンドロ・メンディーニが加わり、ブランツィやソットサス、フランコ・ラッジらの理論展開の場となり、運動の思想的アジトとなる。カサベラに集まったのは、アルキズーム、スーパースタジオ、ソットサス、ペッシェなど。彼らは研究所"個人の創造性のための自由学校グローバル・ツールズ"を、73年に設立する。メンディーニの作品も機能性よりも詩的側面が強調され始め、攻撃性が更に増し、74年には木製椅子「ラッスー」を燃やすパフォーマンスで実用性を目的とするデザインの終わりを表明している。過激な理論を一方向に戦わせたこの運動は、74年のアルキズームの解散、75年グローバル・ツールズ閉校、メンディーニのカサベラ辞職によって終結される。