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禅と神の研究 コミュの存在とは何か

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管理人さんは長い文章をものすごく嫌うみたいなので、もし不適切だと判断なさるなら削除してください。
長い文章です。

プラトンは普遍的なものの「本質」をイデアと言った。
そして彼はそれを実在するものだとした。
その原点となったのはソクラテスの「定義」追求だろう。
ソクラテスは様々な個別的なケースについて「それは何であるか」と問い、その答として得られる「定義」によって存在世界を秩序立てようとした。
それを継ぐ者としてプラトンのイデアがある。
その意味でイデアとは「実在する定義(普遍的本質)」と定義できる。
プラトンのイデアはそのままキリスト教神学の論理の「よりどころの一点」となった。
そしてキリスト教では倫理的秩序さえもイデアを信じる立場によって初めて可能となった。
例えば父は<父>として、母は<母>として、子は<子>としてあらねばならぬ、といった具合に。

言語は現実の様々な事象を文節する。
例えば花は<花>で、机は<机>であるというふうに。
そこにはすでに無反省的、あるいは前反省的にではあるが比較と理解がある。
無反省的というのはつまりわれわれが花を見てそれを文節された<花>だと認識する時、
「 目立つ色だ。香りがする。 花びらがある。花弁がある。これは<花>だ。」
というふうに<花>の定義にそって順序よく理解するというのではなく、直感的に、花の本質などについてわざわざ考えることもなく、比較し区別し理解しているということである。

ものというものは比べることによってしか見えてこない。
これは真理だ。
理解というのは比較であり、区別である。
区別するというのは一般化するということであり、普遍化するということである。
だがそこで問題が起こる。
理解が普遍化において初めてなされるという性格をもつ以上、「個的なそのもの自体」は永遠に理解できなくなってしまうのだ。
実際の花を理解しようとすればするほど、実際の花からは離れていってしまう。
今目の前にある唯一無二のこのタンポポを指す言葉などはどこにも存在しない。
結局「タンポポ」だとか、「目の前の」だとか、「個別的な」だとかの普遍という名の文節があるだけなのだ。
文節を避けて、個物を見ようとすれば、世界はのっぺりとしたただの全体になるだろう。
真に「この花」について考えたければ、言語を使ってはならないというのならそれはそのまま「この花」を個物として見てはいけない、ということにつながる。
さあ、まったく困ったことに真に「個物」を見る、というのは絶対無分別のその「のっぺりとしたただの全体」を見るということに他ならないのだ。
もちろんだからこそプラトンはこの世には本当の意味での個物などない、と断じてしまった。
絶対無分別の世界なんてのは単に仮定の中にしかないのであって、そんなものは全くナンセンスだ。
個物があることを認めるなら、「文節」というもののない、その「絶対無分別の世界」を認めることになってしまう。

西洋で個的「本質」はすなわち絶対無文節の、全存在的な「本質」、というふうになるのはニーチェあたりからだろう。
のちにサルトルが嘔吐したもの=絶対無文節者を西洋で最初に論理化したのはおそらくニーチェである。
ニーチェは絶対無文節者の存在を確信するに至って、普通の人間の見る普通の現実、つまりは<普遍>によって文節された様々な個物に囲まれた世界、が瓦解するのを見た。
と同時に <普遍>(イデア)によって秩序立てられたキリスト教神学、存在のヒエラルキー、またその倫理的秩序をもが完全に無化してしまったのである。
えらいことである。
「今まできずきあげてきたものがぜんぶくずれちまったよ」
である。
絶対無文節の世界を確信するのなら、理性的であることさえ不毛であると思えてくるだろう。
理性はすべて意味文節の所産であるからである。
しかしそれでも、あえて不毛を行おう、というのがニヒリズムなのである。
少なくともニーチェは新しい論理的秩序を作ろうとしたし、そしてそれが究極的には徒労に過ぎないことも彼は知っていた。

さて。
仏教ではプラトンの言う「イデア」なんてのは本当は存在しないものとして、その実在性を否定している。
あらゆるものは「空」を背景に「縁起」によって相対的にのみその存在性を保つ。
先に「ものというものは比べることによってしか見えてこない」と言ったが、仏教的なニュアンスで言うと「比べるという行為だけがものの存在性を保つ」ということになる。
普遍的な本質などは無い。
存在論的にはこの世は「無」だ。
だから仏教にはキリスト教やイスラム教やユダヤ教で言うところの「神」など存在しない。
西洋では神の実在を否定することができないが故に、実際的には人間に認知することができない神の実在性の矛盾を説明するために論理学が成立し発達した(そこから派生的に「自然科学=サイエンス」が成立して結局「神」の実在性を否定したりしているあたりが切ない。アメリカでは未だに進化論を教えない学校があるって話だ。)。
仏教の存在論あるいは本質論はすぐに「無」に行き着いてストップして終了している。
論理学の発達もくそもないのである。
「先生、津波がやってきます。どうしましょう。」
「ああ、それは本質的には存在していないんだから心配するな。」
「先生、我々は濁流に飲まれて流されています。」
「ああ、そのようだね。」
「先生、このままでは死んでしまいます。」
「ではしっかりと死のうではないか。この津波と同じく我々の命も本質的には存在してないのだから。」
少なくともこのような態度からは自然科学など成立しない。
だがしかしなんということだろう。
そこには矛盾のないひとつの完璧な論理的態度があるのだ。
そんなことを言われてはおしまいである。
仏教の方から西洋の論理学を眺めたら、本当は実在しない「神」をあたかも実在するように見せるための悪あがき、ただの言葉遊びにしか見えないだろう。
仏教は「縁起」の存在論を徹底的な自己(あるいは心理)分析に向けることで思想の展開を図ったが、それも結局のところ「こういうふうに考えれば悩まないですみますよ」ということ以外言っていないように見える。
ある意味、仏教の目的とは論理や、論理的な思考の否定であるというのは乱暴だろうか。

ソクラテスから始まる西洋の論理学の基礎となる普遍的本質が実在することへの信念、あるいは逆に言って個物=絶対無分別者の実在の否定は、完全に仏教の世界観と逆立している。

オレはそういうふうに理解している。
学がないもんだからもしかすると致命的に間違った理解をしているかも知らんが。


で、問いだけが残る。
存在とは何だろう。

コメント(26)

ぜひとらまるさんあたりにズバッと斬ってほしいものだ。
とらまるさんはよくソクラテスも仏陀も同じように「悟った人」として扱うし。

仏陀もソクラテスも全く違うことを言ってるんですがね。

意味分別を肯定するか否定するか、というのは決定的な違いだと思いますよ。
思想の全くの基礎の部分ですから。

みなさんはどう思いますか。
ライアル・ワトソンいわく
「生命とは自然界においてごく例外的で些少な現象にすぎない」
「つまり死は生より自然な状態」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=20377
> 仏教の存在論あるいは本質論はすぐに「無」に行き着いてストッ
> プして終了している。
> 論理学の発達もくそもないのである。

因名なんてのは>発達<以前の段階だ,っていうの?
なら,発達した論理を持っていたのは,アリストテレースの論理学を受け継いだ文化でだけなんだが・・・

> 西洋では神の実在を否定することができないが故に、実際的には
> 人間に認知することができない神の実在性の矛盾を説明するため
> に論理学が成立し発達した

「神の実在を否定することができないが故に」というところをみる
と,おそらくは中世高・後期の西欧・中欧・南欧を中心に考えてい
る(ラテン神学圏)のだろうけど,たしかにかつていわれていたほど停滞一方ではないようだとはいえ,そんなに当時論理学が目覚しく発達したかな? 論理学が成立したのは確実にラテン=カトリック圏ではないし.
第二パラグラフから第三パラグラフへの移行もよくわからない.
イデアの話と言語分節の話ってまったく異なる,むしろ哲学的に
対立する二つの立場の代表的な思考法だと思うのだが・・・
> ある意味、仏教の目的とは論理や、論理的な思考の否定であると
> いうのは乱暴だろうか。

どの意味でも乱暴でしょうね.

仏教は,論理や論理的思考を超出して真如を直接につかむことを目指すが,その超出のための手段としては論理・論理的思考・その産物としての思想体系を重んじるし,そもそも,目的はそれらを否定することでも超出することでもなく,あくまで真如を覚することでしかない,と思われます.
>白飴姫さん

中世に十字軍の遠征などで開かれた東西の交通によってアリストテレス哲学がヨーロッパに紹介されて後、教会はアリストテリズムを信仰に反するとして自然学や形而上学を読むことさえ禁じていましたが、13世紀半ばくらいからパリ大学で正式に採用されました。
そこらへんからシゲルスやトマスやボナヴェントラ、オッカムやアベラルドゥスなどの活発な議論が始まり、それはそのまま中世の思想的な盛り上がりに繋がっていると理解しています。
きっかけはアリステトレスの「魂の普遍的単一説」や「世界の永遠性」などがキリスト教の神を否定するからです。
「神の実在を否定することができないが故に」巻き起こった議論だと思うのですが。

>イデアと言語文節の話ってまったく異なる

文節は本質を規定します。
イデアとは本質論です。
どこらへんがまったく異なっているのでしょうか。

>どの意味でも乱暴でしょうね

すいません。
これは乱暴でした。
ただ、白飴姫さんもおっしゃっているように、「超出して」「直接につかむ」というのは論理ではありませんよね。
私は仏教、というかことに「禅」が存在論的には意味文節さえも否定していることを言いたかったんですが、言葉が足りませんでした。
言語の意味指示機能はそれぞれの本質を規定します。
しかしそれは仏教的な存在論に違反するのです。
仏教は「本質」を認めません。
仏教的な考えでは我々が一般的に見ている世界は「本質」という虚構に頼った妄想の世界です。
ですから時に仏教は一般的に使われる言語さえも否定します。
例えば山が流れて川が止まるといった具合に。
言語の意味指示機能を解体(または再構築)することによって「無」や「縁起」の世界観を示すのです。


私はこのトピでキリスト教と仏教という異なった思想における存在論を示して、はてではいったい存在とは何であるか、と問いたかったのです。

また、時折見かける仏陀とキリストとソクラテスをごっちゃにしたような言質に不安を覚え、それぞれの思想を「存在論」というひとつのまな板に載せることでその違いやそれぞれの特徴をはっきりさせたかったんです。

が、あんまりみんな書き込んでくれませんね。
>6 スターさん
 「 中世に十字軍の遠征などで開かれた東西の交通によってアリストテレス哲学がヨーロッパに紹介されて後、教会はアリストテリズムを信仰に反するとして自然学や形而上学を読むことさえ禁じていましたが、13世紀半ばくらいからパリ大学で正式に採用されました。
そこらへんからシゲルスやトマスやボナヴェントラ、オッカムやアベラルドゥスなどの活発な議論が始まり、それはそのまま中世の思想的な盛り上がりに繋がっていると理解しています。
きっかけはアリステトレスの「魂の普遍的単一説」や「世界の永遠性」などがキリスト教の神を否定するからです。
「神の実在を否定することができないが故に」巻き起こった議論だと思うのですが。 」

>0における
「 西洋では神の実在を否定することができないが故に、実際的には人間に認知することができない神の実在性の矛盾を説明するために論理学が成立し発達した 」
についてのコメントですね?!

しかし,中世高期・後期において論理学の発達がなかったとは( カントのようには )いいませんが,そこにおける発達は所詮部分的・改訂的なものにとどまっていた,とわたしは認識しています.
アリストテレースやディグナーガが樹立した仕事と比べると,飛躍の程度ははるかに劣るのではないでしょうか? 少なくとも,中世カトリック圏の論理学の基本は,おっしゃるようにイスラーム圏とビザンツを通じてアリストテレースの諸文献が導入されたことが主因ですから,少なくとも逆に,>論理学の成立<は神と関係ないのではないでしょうか? 高々,中世カトリック圏においては,論理学の移入・定着だと考えます.

>>イデアと言語文節の話ってまったく異なる

「 文節は本質を規定します。
イデアとは本質論です。
どこらへんがまったく異なっているのでしょうか。」

言語分節によってはじめて存在の側が分節され,対象(本質)措定される,というのは,(フンボルトを除けば)言語論的転回以後( 即ち20世紀初頭以後 )の思考です.

対して,イデア論は,言語の分節などの有無に関わらず,それ自身として分節化された本質が独自存在している,という考え方です. 言語分節が先行するのか, 本質存在の分節が先行するのか,この点において,両者は全く相容れない二つの思想です.


「 私は仏教、というかことに「禅」が存在論的には意味文節さえも否定していることを言いたかったんですが、言葉が足りませんでした。 」

禅に存在論があるのかどうかは微妙だ,とわたしには思われます. 唯識あたりから既にその気があると思いますが,禅ではかなり露骨に認識論と存在論と実践論とが融合しあっていて,切り分けられないのではないでしょうか? そして,華厳でいう( というのは禅の思想的背景は華厳ですから )理事無碍の段階では意味分節すら否定されます(十牛図第八)が,そこから翻って,事事無碍では
(十牛図第九)言語分節も改めて肯定されるでしょう? 

「 言語の意味指示機能はそれぞれの本質を規定します。
しかしそれは仏教的な存在論に違反するのです。 」

この第一文は,言語の指示機能を分節化された対象を,他から切断して独自存在として指示するというフレーゲ的な言語論をとったときにはじめて生じる,誤った言語論に基づく議論です. 誤った( 対象実体化的な )言語論とは,仏教の考えは明らかに対立しますね.

「言語の意味指示機能を解体(または再構築)することによって「無」や「縁起」の世界観を示すのです。 」

そう,一度は解体するが,あらためて再構築することによって,大乗的・祖師的禅は,この世を否定媒介的にではあるが肯定するのです.


「 私はこのトピでキリスト教と仏教という異なった思想における存在論を示して、はてではいったい存在とは何であるか、と問いたかったのです。  」

キリスト教といっても,パウロスとギリシァ教父とトマスとキェルケゴールとティリッヒとでは全く違うし,仏教に到っては三世実有の説一切有部から,万物はアラヤ識の産物に過ぎないとする唯識まであるのですから,それぞれもっと限定していただかないと,議論がかみ合わないままに終わってしまう,とわたしには思われます.

「仏陀とキリストとソクラテスをごっちゃにしたような」

この三人はどう共通点を見つければいいのか,ちょっと想像できませんね. ソークラーテスとナーガールジュナなら言語批判という類似性が見つかるかもしれないし,ガゥタマ=ブッダをカントと重ねるのは宇井伯寿先生の有名な所説だけれど・・・ ちなみに,イェースースは何をいったのか,ほとんど不明――ただ,終末が近いこととメシアが到来すること,および当時の主流派ユダヤ教( サドカイ派,ファリサイ派 )への批判は主張していたらしい・・・
>この第一文は,言語の指示機能を分節化された対象を,他から切
>断して独自存在として指示するというフレーゲ的な言語論をとっ
>たときにはじめて生じる,誤った言語論に基づく議論です. 誤
>った( 対象実体化的な )言語論とは,仏教の考えは明らかに
>対立しますね.

フレーゲ的といったのはまずかったかもしれない。 フレーゲは確かに概念の明確性を主張したが,言語において重要なのは文( 命題 )の単位であり,それより小さい単位は任意に分析できるものでしかない,としている. 

ちょっと,フレーゲと仏教思想との対比には迷いがあるので,指示対象=個体 というプラトーンからイギリス経験論まで一貫して信じられてきた意味論,とは仏教の思想は明らかに対立する,という風に( ペンディングを入れて )訂正しておきます。
>> ある意味、仏教の目的とは論理や、論理的な思考の否定であると
>> いうのは乱暴だろうか。

> ただ、白飴姫さんもおっしゃっているように、「超出して」
> 「直接につかむ」というのは論理ではありませんよね。
> 私は仏教、というかことに「禅」が存在論的には意味文節さえ
> も否定していることを言いたかったんですが、言葉が足りませんでした。

ナーガールジュナでは,論理や論理的思考を否定するのではなく,論理的ディレンマ( まぁ しばしば、テトラレンマですね 正確には )に追い込むことによって,相手の世俗に於ける思い込みを壊す. ただ,これは言語の使用可能な領域の限界性を理解させること,そして,真如としての真如は,言語の使用可能な領域内にはないことを直覚させること,が目的であって,言語・論理それ自体を全面的に否定する非合理主義のではないです.

禅(臨済)の場合,ナーガールジュナのように,相手を論理で追い込んでいくのではなく,はなから矛盾もしくは非合理にしか日常的言語の立場からは思えない公案を案じさせることによって,日常からの超出・真如の直覚をなさせるので,一見システムが論理の否定に見えますが,そうではありません. 日常の人間が言語に投影している誤った素朴な意味論・指示論,すなわち対象は自存する( 実体である )=縁起しない・相依相関しない,という見方それのみを破壊するのだ,とわたしは理解しています. そして,実は言語の意味論は正しくは相依であり否定的媒介関係なのです.
うおお。

すごい。

すごく勉強なさってますね。

>しかし,中世高期・後期において論理学の発達がなかったとは( カントのようには )いいませんが,そこにおける発達は所詮部分的・改訂的なものにとどまっていた,とわたしは認識しています.
>アリストテレースやディグナーガが樹立した仕事と比べると,飛躍の程度ははるかに劣るのではないでしょうか? 
>少なくとも,中世カトリック圏の論理学の基本は,おっしゃるようにイスラーム圏とビザンツを通じてアリストテレースの諸文献が導入されたことが主因ですから,少なくとも逆に,>論理学の成立<は神と関係ないのではないでしょうか? 
>高々,中世カトリック圏においては,論理学の移入・定着だと考えます.


なるほど確かに論理学自体の成立には神は関係ありません。
おっしゃるとおりです。
ただ、論理学という学問がヨーロッパに定着する過程である種の好敵手として神学があったことは事実です。
また、中世以降においても論理学の発展の背景に「神」の問題が深く関わっていたのではないでしょうか。
私の知る限りではヨーロッパにおいてはほとんどの哲学者が神の実在について頭を悩ましています。
「神」の問題がなければ論理学もあそこまでのスピードで発展することはなかったのではないでしょうか。

中世においての論理学の発達は所詮部分的・改訂的なものにとどまっていた、という指摘はおっしゃるとおりだと思います。

>アリストテレースやディグナーガが樹立した仕事と比べると,飛躍の程度ははるかに劣るのではないでしょうか?
>高々,中世カトリック圏においては,論理学の移入・定着だと考えます.

などについても全く異論ありません。

>言語分節によってはじめて存在の側が分節され,対象(本質)措定される,というのは,(フンボルトを除けば)言語論的転回以後( 即ち20世紀初頭以後 )の思考です.
>
>対して,イデア論は,言語の分節などの有無に関わらず,それ自身として分節化された本質が独自存在している,という考え方です.
>言語分節が先行するのか, 本質存在の分節が先行するのか,この点において,両者は全く相容れない二つの思想です.

なるほど。明解です。
お恥ずかしい。
私の文章は両者を混同していますね。
おっしゃる通りです。
ただ、私はあくまでも本質を「あるもの」として思想を展開した西洋の歴史に対して、「本質」を「ないもの」であるとした仏教の考え方を対比させようとしていたんです。
西洋において「存在」と「本質」はセットで考えられるものであるが、仏教では必ずしもそうではない。
西洋において絶対無分別という考え方が生まれるのにはニーチェまで待たなければならなかった。
ということです。
いわば西洋における「分別」の存在論と仏教における「無分別」の存在論はあまりに違う、ということが言いたかったんです。

しかしご指摘のとおりイデアからそのまま言語文節の話に飛ぶのは論理の飛躍であり誤りです。
ご指摘ありがとうございます。

>禅に存在論があるのかどうかは微妙だ,とわたしには思われます.
>唯識あたりから既にその気があると思いますが,禅ではかなり露骨に認識論と存在論と実践論とが融合しあっていて,切り分けられないのではないでしょうか?

なるほど。
分かります。
私はまさに禅を「露骨で実践的なひとつの存在論」だと思っています。
もちろん精緻な体系としての存在論ではありませんが。
上手く論理立てて言うことができませんが、禅はものの「本質」をこそ否定しますが「リアルさ」を肯定しているように思います。
仏教の存在論への真正面からの実践的な取り組みが禅なのだと思います。
「本質」ぬきの流動的な存在文節を実践的に認証しようとするのが禅なのだと。

>そして,華厳でいう( というのは禅の思想的背景は華厳ですから )理事無碍の段階では意味分節すら否定されます(十牛図第八)が,そこから翻って,事事無碍では
(十牛図第九)言語分節も改めて肯定されるでしょう?

事事無碍は言語文節の肯定でしょうか。
また言語文節の肯定は本質の肯定でしょうか。
それぞれのものが「本質」を持っているのではなく、縁起的事態がまず経験的に成立し、その事態が意識に映る時、意識が言葉の意味を手がかりにそれぞれの「本質」を文節しだす、というような意味だと私は理解しています。
あくまでもものの「無自性」をこそ説いているのではないでしょうか。

>キリスト教といっても,パウロスとギリシァ教父とトマスとキェルケゴールとティリッヒとでは全く違うし,仏教に到っては三世実有の説一切有部から,万物はアラヤ識の産物に過ぎないとする唯識まであるのですから,それぞれもっと限定していただかないと,議論がかみ合わないままに終わってしまう,とわたしには思われます.

「本質」は虚構であるというのは般若経以来、ナーガールジュナの中観を通って唯識へ展開する大乗仏教の存在論のテーゼだと思います。
また、先にも言ったようにキリスト教に止まらず西洋においての存在論はニーチェ以前においてはあくまでも「存在」と「本質」はセットで考えられてきており、「本質」をないものとしたり「絶対無分別」について論じたりしているものはないと思います。
だから存在論をキーワードに仏教と西洋思想を同じまな板の上で論じることができるのでは、と思ったんです。
>「本質」は虚構であるというのは般若経以来、ナーガールジュナ
>の中観を通って唯識へ展開する大乗仏教の存在論のテーゼだと思
>います。

仏教に於いて「本質」が何を意味するかはわたしには今ひとつわかりませんが,「実体」ならばそれを否定するのは,般若思想以後の大乗主流の思考潮流だ,というのはその通りにわたしにはおもわれます.

>あくまでもものの「無自性」をこそ説いているのではないでしょうか。
あー,スターさんは「本質」で「自性」を意味されているのでしょうか?

>事事無碍は言語文節の肯定でしょうか。

事事無碍をいうには,事の一カテゴリである言語もまた肯定されねばならない筈です. つまり,否定的媒介を経て,事が肯定されるように言語分節もまた肯定される,このようにわたしは理解しています.

>それぞれのものが「本質」を持っているのではなく、縁起的事態>がまず経験的に成立し、その事態が意識に映る時、意識が言葉の>意味を手がかりにそれぞれの「本質」を文節しだす、というよう>な意味だと私は理解しています。

縁起的事態の経験的成立というのがよくわかりません.
また,事態が意識に映る,といった写像形式の客観―主観図式が華厳にあるでしょうか?

>西洋において「存在」と「本質」はセットで考えられるものであ>るが、仏教では必ずしもそうではない。
>西洋において絶対無分別という考え方が生まれるのにはニーチェ>まで待たなければならなかった。

ここか聞きかじりですが,カントはどうでしょうか? 真存在はあるいは物自体界であって,現象界内的存在者ではないかも知れませんが,物自体界は悟性範疇によって分別される已然の世界ですから「べったりした無分別」の世界ではないでしょうか?

トマスにおいても「すべての本質ないし何性は、その存在について何ごとも知解しなくても,知解されうるのである.・・・それゆえ,存在が本性ないし何性とは別のものであるということは,明らかであろう」De ente et essentia ?とあります. 「セットで考える」という語句でスターさんが何をお考えかはわかりませんが,少なくともトマスにおいて本質と存在が別個の何かであると考えられていたことは上記から明らかですね.
( ただし,引用は翻訳からなので存在がesseであるか否かは未確認です. )
またコプルストンからの孫引きですが「存在とは,それによって実体が存在者と呼ばれるところのものである」Contra inpugnantes Dei cultum II-54 「現実態と可能態の合成が認められる.・・・第二の合成はquod est(本質)とesse(存在),またquod est(本質)とquo est(存在)との合成と呼ぶことができる」ibid.とあります. 残念ながらessentiaはesseではないという字句はちょっと覗いただけでは見当たりませんが,おそらく,「存在は本質の領域に属さず,形相を存在させるところのものである」(コプルストン,『中世哲学史』,1970,p.365)というコプルストンの要約はessentiaにもおそらく妥当するのではないでしょうか? すると,トマスにあっては存在と本質はセットとはいいがたい,ということになりませんでしょうか?

いずれにせよ,スターさんの「セット」という言葉の意味を敷衍・説明いただきたく思います.
どちらかというとessentiaとセットなのはsubstantiaなんじゃないかと・・・
つづき

>ナーガールジュナでは,論理や論理的思考を否定するのではなく,論理的ディレンマ( まぁ しばしば、テトラレンマですね 正確には )に追い込むことによって,相手の世俗に於ける思い込みを壊す. ただ,これは言語の使用可能な領域の限界性を理解させること,そして,真如としての真如は,言語の使用可能な領域内にはないことを直覚させること,が目的であって,言語・論理それ自体を全面的に否定する非合理主義のではないです.

同感です。
私も仏教を「言語・論理それ自体を全面的に否定する非合理主義」とは思っていません。
しかし「空」を出されるともう話は終わっちゃうよなあ、というなんとも言えない感慨を持っています。
たぶんだから実践的で豪快な禅に惹かれているのかもしれません。

>禅(臨済)の場合,ナーガールジュナのように,相手を論理で追い込んでいくのではなく,はなから矛盾もしくは非合理にしか日常的言語の立場からは思えない公案を案じさせることによって,日常からの超出・真如の直覚をなさせるので,一見システムが論理の否定に見えますが,そうではありません. 日常の人間が言語に投影している誤った素朴な意味論・指示論,すなわち対象は自存する( 実体である )=縁起しない・相依相関しない,という見方それのみを破壊するのだ,とわたしは理解しています. そして,実は言語の意味論は正しくは相依であり否定的媒介関係なのです.

まさにその通りで、私の言った「論理の否定」は「すなわち対象は自存する( 実体である )=縁起しない・相依相関しない,という見方それのみを破壊するのだ」ということを言っていたんです。

本質が実存するということを言うためにああでもないこうでもないと悩む西洋といきなり本質はないものとして縁起の存在論を深化させていった仏教を対比した時、空に始まり空に終わる仏教の縁起の存在論はあまりにも異質です。
「ソクラテスから始まる西洋の論理学の基礎となる普遍的本質が実在することへの信念、あるいは逆に言って個物=絶対無分別者の実在の否定は、完全に仏教の世界観と逆立している。 」
とにかくこれが言いたいがために、分かりやすく説明でも入れようと思って前半部分の文章を書いたのですが、言葉の足りないところが多く、まるで仏教が非論理的であるかのように読めてしまいますね。
すいません。

しかし白飴姫さんもおっしゃっているように真如は論理を超えています。
縁起のみが論理なのです。
本質の実在について議論していた過去の多くの思想家達が見たら、きっと「ずるい」と思ったと思いませんか(笑)
まあでもきっとその思想家達の一部は縁起の論理に魅了されて、もっとユニークで活発な議論が起こったでしょうね。

なんにせよ一番誤解してほしくないのは、私が仏教を愛しているということです。
本論の方はちょっと逆説的にすぎました。
多くのご指摘ありがとうございます。
ぐわっ。

ものすごいスピードでレスが。


すいません。
私かなりの遅筆なもので、後日改めてレスをさせてください。

存在と本質の「セット」の話とか、すごくしたいんですけど。

仕事が忙しいのでレスをつけられのはもしかすると来週末くらいになるかもしれません。
しかしそれにしてもよく勉強なさってますね。
すごく楽しくなってきました。
マシンガンてのはファイアパワーはあるけど
フルオートで乱射すると照準は揺れるしすぐ弾切れするし
たいがいの弾はムダになる
2発か3発ずつ狙いを定めて撃つことが推奨されるので
セミオートという撃ち方もできるようになっている
やっぱり長文はよくないなーw
ひっかかりが多すぎて、いちいち問題にしてくともっと長文になるし。いちおうからまって展開されちゃってるわけですからね。

そもそも用語がね、「理性」くらいはいいけど「存在」とか「文節」とかいうともう「○○の××における」とか但し書きが必要でしょ。もっと特殊な用語もバンバン出てくるしw
重要なら数行ずつでいいから説明をつけたほうがいい。
もっと重要ならその言葉をテーマにしたトピを立ててほしい。

そういう風にしないとひとつの単語を各自が違う意味で使うことになる。通じない。
通じないのに長文ではねえ・・・。
タンポポや津波の話だけではいけないんですかね。
それだけでもかなり「揉める」と思うんだけどな。
バックボーンについてはそれぞれ塊として概略や単語の定義、参考文献なども明らかにして欲しい。

そういう書き方をするともっと長文にしてリンクでも張らないとひとつの「論」にならないでしょ。
今の「長文」は半端なんだよねえ・・・。
1トピックをひとりで書いていくくらいしないとまとまらないと思うんだけどなぁ。
でないと意味が薄い。たぶん誤解だらけになるだけ。
>スターさん

 本日,コミュニティ主の 雪男のつもり さんから「ヒステリックにすぎる」および「わたし〔 雪男のつもり さんを 〕中傷されるのは困る」との理由で当コミュニティからの退会要請がありました. この要請に従い,わたくしは当コミュニティを退会いたします. よって,以後スターさんからのレスポンスにも応答できなくなります. もし,コメントをご希望でしたら,わたくしの日記にコメントをつけるかもしくはE-mailを下さるようお願いいたします.
中傷というのは別トピの
「あなたがご存知ないだけではないのですか? 」
という部分ね。前にも似たようなことを書かれた気がするけど。あなたの足跡は記憶にない。あなたが私をご存じない=皮肉や根拠なき中傷ですから。
白飴姫さんは自分で作ったコミュがいくつもあるし、ほとんどひとりしか書いてない状態のようだし、こういう1対1のようなやりとりはそちらでなさればいいと思う。

上に書いたように、長すぎるのは困るし、長さ分の価値も認められない。一般向けに書かれていない。ひとりよがりすぎる。
このコミュはもっと間口の広いポピュラーなものにしたい。
で、存在とは何か。

「ある。哲学では実体と属性」
だそうですw

だから、なんでそれ(「存在」)を問題とするのか、ですね。
一般には「ある」ということでしかなく、それで済んでるんだから。済まさない理由・条件はなんなのか、ですよ。
なぜ存在とは何かを問うのか。なにを期待しているのか。

自分なりに勉強したり考えてみてどこに不足を感じるのかをまずまとめていただかないと。
どういう立脚点・視点なのかが分からない。

プラトンの話が存在論議にどう関わるかもあいまいだし、
いきなり「言語は現実の様々な事象を文節する」とか
ぶちかまされても困るw

「言語は」についてだけで言いたいことがたっっくさんある。
「文節する」なんてのはだれかの言い回しなんだろうから、その本の概略くらい説明してなぜ援用してるのかくらい書いてもらわないと、もう頓挫ですよ。先にすすめませんから。

そんなディテールはいい、結局・・・というものがあるならそこを書いてもらわないと始末、いや対処、いやご協力できません。
>ある意味、仏教の目的とは論理や、論理的な思考の否定であるというのは乱暴だろうか。

乱暴だろうなあ。
否定を目的にしたらすぐ終わるもんね。
目を閉じれば見えなくはなる。
破壊でなく建設や救済でしょう。
その過程や一部に「論理の否定」が現れることはある。
参考
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1035.html
高橋義孝さんが「こんな考え方」(講談社)の中で、死は死としてあるのでなくただ「ない」のだと書いていた。
死と無は表象困難だとドイツの哲学者はいったが、ちがうだろうと。死は生の一実質内容で年がら年中われわれにつきまとっている。そこでわれわれは生について考え込む、と。
生と死は対立しない。同じもののちがう呼び方にすぎない、というあたりはライアル・ワトソンの「生は死の異常事態にすぎない」に近い。
生死に対立するのは人間の思量を超えた無あるのみ、と結ばれている。
こういう風に演繹される
http://mixi.jp/view_community_item.pl?comm_id=9509&item_id=122463

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