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日本語しつもん箱コミュの助動詞「れる/られる」の接続について

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 助動詞(「いわゆる助動詞」くらいにお考えください)の「れる/られる」の接続に関して教えてください。
 下記のトピで、「れる/られる」の接続が話題になっています。コメント[67]〜[70]くらい。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=74250015
 発端はコメント[21]の下記の記述でしょうか。
================引用開始
五段とサ変が「れる」
上一、下一、カ変が「られる」

これ接続の基本です。
================引用終了

 コメント[68]に出てくる〈入試における「口語文法」〉は、いわゆる「学校文法」のことではないかと想像するのですが、正確なところは不明です。イチバンのポイントは、「られる」がサ変に接続するか否かだと思います。

 当方の考えはコメント[70]に書いたとおりですが、真相はナゾのままです。
「学校文法」ではこうなっている。
「日本語教師」の教科書ではこうなっている。
 ……といった解説があるとうれしいのですが。

コメント(18)

サ変について混乱しているようなので、そこを整理されるといいと思います。

以下、古い文献で申し訳ありませんが、手元にある「日本文法大辞典」(松村明 編、明治書院、昭和46年発行)から、「サ行変格活用」について引用いたします。
古い本なので、当然、最新の日本語学・言語学の知見は反映されていませんが、この内容に関しては問題ないと思いますので、ご参考まで。
なお、この項目を執筆されている山口明穂氏は古いタイプの先生で、主に古典文法の専門家ですが、信頼できる先生です。


以下引用
-----------
この活用変化を行う動詞は、古語では「す」、現代語では「する」のそれぞれ一語で、(略)
それぞれ一語であるが、「す」「する」ともに、他の語と複合して、
たとえば、「舞す」「物す」「理解する」「ヒットする」などのように、多くの複合動詞を作る

(略)

漢語と合してできたサ変動詞は、四段活用(現代語では五段活用)や上二段活用(現代語では上一段活用)に転じて使われるようになるが、
この傾向は室町時代頃に始まり、江戸時代には一般化したものと考えられる。
現代語においてみると、五段活用に転じて用いられるのは、「愛す」「辞す」「要す」のように一語の漢語と複合したもので、
上一段活用に転じて使われるものは、一字の漢語で活用語尾が連濁して「信じる」「感じる」のようにザ行になるもの、
および、一字の漢語で「察」「決」「接」のように語尾が「ッ」で終わるものである。

---------
引用終わり


上記によると、tobirisuさんが、引用元のトピで書かれている「愛する」「論じる」「発する」は、既にサ変活用ではないと考えられます。

純粋な(典型的な)サ変活用は、本来の「する」(古語では「す」)及び、他の活用形に転じたものを除いた「勉強する」「理解する」の類と考えるとすっきり整理できます。

なお、私はこれらのサ変動詞については、
「可能」の意味では、助動詞「(ら)れる」を用いずに、「〜できる」で表現します。(ex.「理解できる」)

「尊敬」・「受身」ではいずれも「理解される」で、「れる」が接続し、「られる」は用いません。
(「自発」は、いい用例が思いつきません。)


私は、日本語教育に関しては門外漢ですし、また、いわゆる学校文法とは違う立場をとる者ですが、
上記の内容については、学校文法に矛盾しない内容と考えます。
補足。

上記の「日本文法大辞典」より、現代語の「れる」「られる」、古語の「る」「らる」の「接続」の欄について、以下のようにありました。


引用(読みやすく整理して並べていますので、正確には原典をあたって下さい)
---------
・現代語
「れる」:五段動詞の未然形、サ変動詞の未然形「さ」につく。
「られる」:上一段・下一段・カ変の動詞の未然形、サ変の動詞の未然形「せ」につく。

・古語
「る」:動詞四段・ナ変・ラ変の未然形につく。受身の意味の「る」はラ変動詞にはつかない。
「らる」:動詞カ変・サ変・上一段・下一段・上二段・下二段活用の未然形につく。

----------
引用終わり


これによると、
サ変についていえば、古語においては「らる」に統一されていたのが、
現代語において、サ変の未然形「さ」には「れる」、サ変の未然形「せ」には「られる」はつくと、整理できるでしょう。

>>[2]

 コメントありがとございます。
 以前どこかでコメントをやり取りした記憶があるのですが、このコミュだったか、別のコミュだったか……。気になってしかたがないので、教えていただければ幸いです。

 まだ『日本文法大辞典』の原本にはあたれてません。申し訳ない。
 コメントを数回読んだ段階で、とりあえず疑問が3つあります。
 
1)「愛する」「論じる」「発する」は〈既にサ変活用ではない〉のでしょうか。
 Web辞書や手元の辞書を見る限り、「サ変」と明記されています。

2)「発する」の「受身」は「発せられる」では?
「可能」だとわかりにくいので「受身」で考えます。もし「発する」が五段になりきっているのなら受身は「発される」だと思います。当方の語感では、「発される」もアリですが、やはり本来の形である「発せられる」のほうが自然に感じられます。

3)いただいたコメントと、引用先のコメントの違い
 いただいた↑のコメントと、当方が引用先に書いた[70]のコメント(下記参照)の相違点が整理できません。ご指摘いただければ助かります。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

[70]
2013年07月16日 23:11
tobirisu

>>[66]

 いろいろ見てみると、サ変の接続は「れる」だけとしている人は多いですね。
 下記あたりもそうです。発言者は文法に詳しい人のはずですが……。
【ら抜きとそうでないもの】コメント[5]
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=801975&comm_id=35618
================引用開始
「れる」は五段動詞とサ変動詞に使います。
「られる」は上一段・下一段・カ変に使います。
================引用終了

 なぜこのような意見が多いのか疑問です。
 当方は下記を支持します。サ変の動詞の「れる」「られる」への接続はいくつかに分かれます。
【国文法まとめ れる・られる(助動詞)】
http://kokubunpo.jimdo.com/%E5%8A%A9%E5%8B%95%E8%A9%9E/%E3%82%8C%E3%82%8B-%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B/

「論ずる」の可能形は「論ざれる」か? それはないでしょう。「論ぜられる」もしくは「論じられる」でしょう。「論ずる」を文語と考えているんですかね。「論ずる」は口語で「論ず」が文語のはずです。
「発する」可能形は「発される」か?  
「反する」可能形は「反される」か? 

 少しずつですが、わかってきた気がします。
 現段階の分類。

1)する 可能形は「できる」
※「勉強する」などの熟語動詞(仮称)なども同様

2)愛する 本来の可能形は「愛せられる」(たぶん)。
※五段活用との混同(五段活用への移行?)が進み、「愛される」→「愛せる」になりつつある。

3)論じる 本来の可能形は「論ぜられる」(たぶん)。 
※上一段活用との混同(上一段活用への移行?)が進み、「論じられる」になりつつある。

4)発する 本来の可能形は「発せられる」(たぶん)。
※「〜ッする」「〜ンする」は五段活用化はしにくいとされるが、「反する」あたりは微妙かも。
>>[4]

こんにちは。

以前何度か、やり取りさせていただいたのは、こちらのコミュか、「日本語の乱れが気になる会」のどちらかと思います。
言葉の問題は好きなので常々楽しくコメント拝見していますが、自分の意見をまとめるのには時間がかかるので、なかなかコメントできません。どうぞ、よろしくお願いします。


さて、

1)「愛する」「論じる」「発する」は〈既にサ変活用ではない〉のでしょうか。 について

まず、[1]において、重大な引用間違いをしていました。
正しくは、「転じて」ではなく「転じても」で、2か所「も」が抜けていました。
お詫びして、以下に訂正します。
「も」の脱落箇所2か所については、< >をつけています。

----------
現代語においてみると、五段活用に転じて<も>用いられるのは、「愛す」「辞す」「要す」のように一語の漢語と複合したもので、
上一段活用に転じて<も>使われるものは、一字の漢語で活用語尾が連濁して「信じる」「感じる」のようにザ行になるもの、
および、一字の漢語で「察」「決」「接」のように語尾が「ッ」で終わるものである。

----------

あらためて、訂正したうえで、「日本文法大辞典」の内容を解釈すると、
「愛する」は、サ変、もしくは五段に転じて「愛す」、
「論じる」「発する」はサ変、もしくは上一段に転じている。
ということで、既にサ変活用ではないとした私の意見は、誤りでした。


手元にある「新潮現代国語辞典」には、以下のようにあります。
(日本国語大辞典があればいいのですが…)

・愛する:サ変(「愛す」(サ五)とも)
・論ずる:サ変(「論じる」の文語的表現)
・論じる:ザ上一
・発する:サ変


これらの語では、サ変と五段もしくは上一段の間で、揺れているということではないでしょうか。

なお、自分の語感としては、
「愛す」「愛する」が、サ変か五段か判断しようとすると、終止形か連体形でしか区別できないのですが、
普通「愛している」などと変化することが多いので、サ変が五段か内省しにくいです。
i.e.「誰よりも君を愛す」→「誰よりも君を愛している」が自然。
  「彼の愛する人」→「彼の愛している人」が自然。

「論ずる」は自分では使いません。使うのは上一段の「論じる」。

「発する」もあまり日常的に使わないので、「発す」(五段)と区別があまりつきませんが、
たとえば、「一言も発しなかった」(「一言も発さなかった」とも?)の尊敬の場合、
「一言も発されなかった」(五段?サ変?)、「一言も発せられなかった」(サ変)(なんか時代がかって聞こえますが)、
の両方使えると思います。
「一言もお発しにならなかった」と言い換えるのが、一番すっきりしますが。


ただ、いずれの活用としたところで、サ変の未然形「さ」には「れる」、サ変の未然形「せ」には「られる」がつく、
ということで、矛盾なく説明できると思います。


2)「発する」の「受身」は「発せられる」では?  について

あまり使わないので内省できずすいませんが、サ変の未然形「せ」には「られる」がつくということで、いいのだと思います。
「発せられる(受身)」の、日常会話での自然な文例があれば教えてください。

「尊敬」については、上記の通りです。


3)いただいたコメントと、引用先のコメントの違い  について

申し訳ありませんが、五段動詞以外のら抜きの可能動詞を合理的と認める立場なので、「可能」についてはコメントしにくいです。
サ変動詞の活用は古典語では

せ・し・す・する・すれ・せよ  でしたが

それが室町期に

せ・し・する・する・すれ・せよ に変化して


そして、今

 し・し・する・する・すれ・しろ ですよね

ところが、サ変動詞の一部は5段活用へ転じたんですね

愛す→ さ・し・す・す・せ・せ

愛する→さ・し・する・する・すれ・せ

一方で、サ変動詞の一部は一段活用化しました

案ずる→じ・じ・じる・じる・じれ・じろ(nまたはuで終わる一字漢字が語幹

である場合  例: 生じる 封じる  感じる 損ジルなど )

つまり、サ変動詞は五段化したものと、一段化したものがある。

それが、どんなことが原因なのか、何に誘引されたのかわかりませんが、

「あんずる」より「あんじる」の方が言いやすいという音の経済性かなとも

思いますが、文法は結局、その当時人々がどうしゃべったのかによって

うつろうものだと思われます。

日本語教育では、「案じる」は一段動詞として扱っています。

でも上級では、「案ずるより〜」も教えます。

「愛する」は五段動詞としてとらえて、「勉強する」のようなものを

サ変として扱いますね。



>>[5]

>1)「愛する」「論じる」「発する」は〈既にサ変活用ではない〉のでしょうか。 について
 よくわかりました。ありがとうございます。

>2)「発する」の「受身」は「発せられる」では?  について
 受身の例。
「臨終の間際に彼の口から{発された/発せられた}言葉は○○だった」
 辞書的には、「発せられた」が本来の形でサ変、「発された」が派生した五段でしょう。
 尊敬も同様です。
「発せられた」は「時代がかって」聞こえるかもしれませんね。本来の形は、往々にしてそういう印象になります。当方は「発された」にはそれ以上に異和感があります。

3)いただいたコメントと、引用先のコメントの違い  について
〈五段動詞以外のら抜きの可能動詞を合理的と認める立場〉でしたら、すべて「受身」の話と考えて大きな問題はないかと思います。
 いただいた↑のコメントと、当方が引用先に書いた[70]のコメント(下記参照)の相違点が整理できません。ご指摘いただければ助かります。
>>[7]

> 受身の例。
> 「臨終の間際に彼の口から{発された/発せられた}言葉は○○だった」

ありがとうございます。
その他、「発しられた」もありでしょうか。
現代語のサ変の未然形は、「さ・し・せ」があるので、ややこしいです。

なお、私は「発する」をあまり使いませんし、「れる」「られる」をつけるのにも無意識に忌避感があるのか、「発された/発せられた/発しられた」のいずれも少々違和感を覚えます。
この文脈なら、受身を避けて、能動態で表現すると思います。


3)いただいたコメントと、引用先のコメントの違い  について

「論ずる」「発する」「反する」を特定の表現でしか使いませんので、なんともコメントしにくいのですが、おおむね相違はありません。

ただし、一点、「愛せられる」には疑問があります。

古語では「愛せらる」が本来でしょうが、「る」「らる」が「れる」「られるに、「愛す(る)」が五段に変化する中で、「愛せられる」という形が存在したのかどうか、よくわかりません。
少なくとも、現代語では、「愛せられる」は使わず、「愛される」が普通ではないでしょうか。
可能動詞では、「愛せる」でしょうね。(ex.「もう誰も愛せない」)
>>[8]

>この文脈なら、受身を避けて、能動態で表現すると思います。
 その話はこの際関係ないと思います。
 
開戦の号令が発せられた(受身)
勅命が発せられた(受身)
言葉を発せられないほど疲弊していた(可能)

 いずれも古くさいので、当方は使いません。とくに可能の形は、迷わずに「発することができないほど」にするでしょう。問題は当方が使うか使わないかではなく、「発される」「発せられる」のどちらが適切かでしょう。当方は「発せられる」だと思います。

「愛する」はまだサ変動詞と認められています。
 そうなると、「愛する」の本来の受身(可能)として考えられるのは「愛せられる」か「愛しられる」じゃないですかね。二択なら、「愛せられる」でしょう(もちろん、これも自分では使いません)。
 これが五段活用との混同(五段活用への移行?)が進んで「愛される」になり、さらに
行かれる→行ける
ik-ar-eru→ikeru
 と同様に可能形だけarが落ちて
愛される→愛せる
ais-ar-eru→aiseru
 になったのだと思いますが。この移行に関しては別の考え方もあります。
http://mixi.jp/view_bbs_comment.pl?comment_number=8&community_id=56314&bbs_id=72783683
>>[6]

 途中までは、おっしゃるとおりだと思います。

>文法は結局、その当時人々がどうしゃべったのかによって うつろうものだと思われます。
 これも一理あると思いますが、一概に言えない気がします。
 このことを理由に誤用が幅をきかせるのはどうかと思います。

>日本語教育では、「案じる」は一段動詞として扱っています。
 それはそれでいいと思います。
 初歩段階では基本の形を抑えるべきでしょう。
 ただ、「案ずる」も辞書にあります。
 何より、「案ずるより産むが易し」という、使用頻度の高い諺もありますし。

>「愛する」は五段動詞としてとらえて、「勉強する」のようなものをサ変として扱いますね。
 そこまで行くと、当方には是非がわかりません。
 辞書にもサ変とのっていますし。

 そうなると、日本語教育では、サ変に接続するのは「れる」だけってことですね(しかも、可能は「できる」になるので除く)。
 o( ̄ー ̄;)ゞううむ
>>[12]

う〜ん。「誤用が幅をきかせる」ことに私は賛成しているつもりはないのですが。

ただ、文法は初めから「文法」が存在していたのではないと思われます。

人々の話す言葉を聞き取り、それを整備していったのが文法となったのでは

ないでしょうか。ですから、サ変動詞にゆれが多くみられるのも、

時代とともに、「口語」が優先した結果だと思います。

ご指摘のように、ことわざに文語表現がそのまま残っているものもあり、

指導の際には「むむむ」となりますが、それはそのまま丸ごと教えています。

たとえば、 「〜ざるをえない」(例:行かざるをえない)という表現で、

未然形接続(日本語教育ではナイ形)をするわけですが、これにサ変動詞を入れてみ

ますと、「訳さざるをえない」「科さざるをえない」はすんなりいきます。

しかし、「する」→「せざるをえない」のパターンもあります。

「供す」はどうでしょうか。「供さざる」「供せざる」どちらも言える気がします。

文法にのっとて教えたいのですが、使われている言葉が結局は強いのです。

サ変動詞恐るべし。
>>[13]

>「誤用が幅をきかせる」ことに私は賛成しているつもりはないのですが。
 ちょっと言葉足らずでしたね。申し訳ない。
「文法は結局、その当時人々がどうしゃべったのかによって うつろうもの」
 は一理あると思いますが、やはり一概には言えないと思います。ただ、それが「誤用が幅をきかせる」と結びつけたのは当方の勇み足ですね。

 当方がウンザリしている論調があります。
「誤用のほうが優勢になったら、それが正用」
「7割が誤用していたらもはや正用」
「言葉はかわっていくもの」
 いずれも一理あるのですが、(とくに若い世代が)こういう主張をふりかざすことにゲンナリしています。
 トピズレになるのでこれ以上はやめますが、そういう論調といっしょくたにしてしまった感があります。お詫び申し上げます。


 サ変動詞はやはり厄介な存在で、未然形が「さ・し・せ」と3つあるのは、その厄介さゆえなのでしょうか。
「〜せざるを得ない」ですか。
 この言い回し自体が古い印象があり、それだけ昔の形(本来の形)が使える気がします。
 コメント[4]に引用した考え方が援用できませんかね。

1)する→「〜せざるを得ない」
※「勉強する」などの熟語動詞(仮称)なども同様

2)愛する 本来は「愛せざるを得ない」(たぶん)。 全体に古い印象があるせいか、「愛せざるを得ない」もアリの気がします。
※五段活用との混同(五段活用への移行?)が進み、「愛さざるを得ない」になりつつある。
 おそらく「訳さざるを得ない」「科さざるを得ない」も、「訳せざるを得ない」「科せざるを得ない」もアリの気がします。

3)論じる 本来は「論ぜざるを得ない」(たぶん)。 
※上一段活用との混同(上一段活用への移行?)が進み、「論じざるを得ない」になりつつある。

4)発する 本来の可能形は「発せざるを得ない」(たぶん)。
※「〜ッする」「〜ンする」は五段活用化はしにくいとされるが、「反する」あたりは微妙かも。
「発される/発せられる」は「発される」に異和感がありますが、「〜せざるを得ない」の場合はは「発さざるを得ない」でも異和感がありません。「発しざるを得ない」もかろうじてOKでしょうか。理由は不明です。
「ルールに{反しざる/反さざる/反せざる}を得ない」も、3つともアリのような……。「反しざる」が少しヘンですかね。
>>[11]

>「愛する」はまだサ変動詞と認められています。

サ変動詞と認めるのは、それはそれで結構です。

ただ、サ変「愛する」の未然形には「さ」もありますから(ex.「愛さない」)、
「愛される」は、サ変未然形「さ」+「れる」と解釈できると思います。

古語では「愛せらる」だったのでしょうから、「愛せられる」が歴史的に正しいとお考えになるのはご自由ですが、そうおっしゃるご自身が使わない言葉が正しいといわれても、どうも説得力がありません。


> 問題は当方が使うか使わないかではなく、「発される」「発せられる」のどちらが適切かでしょう。当方は「発せられる」だと思います。
> 二択なら、「愛せられる」でしょう(もちろん、これも自分では使いません)。

日本語の母国語話者である(ですよね?)のtobirisuさんご自身が使わない表現を、なぜ「適切」とされるのか、私には、不可解です。
文法的に正しいかどうかを判断する場合(もしくは母国語話者に調査する場合)には、「自分で使わないけど、他人が使うのを読んだり聞いたりすればわかる」よりは、「自分で日常的に使う」のほうが、適切度が高いと、私は評価します。

これに関しては、tobirisuさんと私では、文法・言語に対する考え方・姿勢が違うのでしょうね。
話が噛みあわないのは、残念ですが、いたし方ありません。

>>[15]

 うーん。なんか誤解がある気がします。

>「愛される」は、サ変未然形「さ」+「れる」と解釈できると思います。
 それは「愛する」の五段活用との混同(五段活用への移行?)が進んだ結果ではないでしょうか。
 
 以下はトピズレだと思いますが、乗りかかった船なので……。
>そうおっしゃるご自身が使わない言葉が正しいといわれても、どうも説得力がありません
 当方は「正しい」と主張した気はありません。ご確認ください。
 自分では使わないが、本来の形は「愛せられる」では、と考えただけです。

>日本語の母国語話者である(ですよね?)のtobirisuさんご自身が使わない表現を、なぜ「適切」とされるのか、私には、不可解です。
 たとえば、「行く」の可能形は、本来は「行かれる」でしょう。それが現代では「行ける」が優勢です。
「行かれる」が本来の形で、現代でも間違いではありませんが、当方は使いません。いささか古い感じなので。コメント[7]に書いたとおり、〈本来の形は、往々にしてそういう印象になります〉。

 たとえば、動詞に「〜なそう」「〜なさそう」が接続する場合。
 本来の形は「行かなそう」でしょう。「行かなさそう」も許容だと思いますが、「間違い」と主張する人もいます。当方は、どちらも使いません。少し異和感があるからです。
「行かないようだ」「行かないらしい」「行きそうにない」などを使います。
 このように、自分では使わない「本来の形」はいろいろあると思います。いずれも「間違い」などではありません。

 中止形の「〜しており」と「〜していて」
 推量を表わす「〜であろう」と「〜だろう」
 などになるともっと微妙です。どちらも使われています。
 おそらく、どちらも前者が本来の形でしょう。そういう主張も聞いたことがあります。 
 当方はどちらも後者を使います。前者が堅苦しく感じるからです。同様の主張も聞いたことがあります。 
 だからと言って、〈「自分で日常的に使う」のほうが、適切度が高い〉などと主張する気はありません。どちらも「間違い」ではないのですから。極論かもしれませんが、単に好みの問題でしょう。
>>[16]

tobirisuさんのおっしゃる「本来の形」というのは、「歴史的に正統である」「由緒正しい」という感じなんでしょうね。
よくわかりました。
私の表現に失礼な点があれば、お許しください。

これについては、言語・文法を考える上で、「本来どうであるべき」か、「現状どうである」か、のいずれに着目するかの立場の違いだと思います。
私は後者の立場ですので、そこに行き違いがあるのでしょう。

言語学では、議論を明確にするために、歴史的変化に着目する観点と、現在(もしくはある一定の時点)の言語の姿に着目する観点を区別しています。
「本来どうであるべき」かを考える場合は、この2つの観点の両方が必要ですので、これらを混同しないよう注意が必要と思います。
これ以上は、トピずれするので、やめておきますが。


ただ、歴史的変化・正統性に着目するとしても、「愛せられる」という表現には、少々疑問があります。

おっしゃる通り、「愛する」のたぐいのサ変の五段動詞化が進んでいて、
これは[1]に引用した文献によると、江戸時代には一般化していたとのことです。
一方、古語の助動詞「る・らる」は、現代語において「れる・られる」に変化しています。

「愛する」の五段動詞化(未然形「愛さ」の一般化)と、「る・らる」→「れる・られる」の変化は、どちらが早かったのでしょうか。(もしくは同時進行だったのか。)

もし、「愛する」の五段動詞化が先に進行していたとすれば、
「愛せらる」→「愛さる」(五段動詞化)→「愛される」(「る」→「れる」)となります。
この場合、「愛せられる」という表現が、自然な表現として存在したのか疑問ですし、歴史的に正しい表現とは言えなくなります。

詳しく調査できる環境にないので、ネットで「愛せられる」の用例を少し検索しましたが、
明治以降・第二次大戦以前の文語口語が入り混じった文章がある程度でした。
これらの例は、執筆者本人が「愛せられる」を日常会話では使わないのに、
古語「愛せらる」から類推して、「愛せられる」を文法的に正しいと考え、使用している可能性がありますから、
安易に「愛せられる」という表現が自然に存在したとはいえず、検証が必要かと思います。

もちろん、変化の順が逆で、「る・らる」→「れる・られる」の変化が「愛する」の五段動詞化より先行していたのであれば、
「愛せられる」が自然に存在していて、歴史的に正しい表現なのでしょう。

ただし、これらの変化が同時進行であれば、「愛される」「愛せられる」のいずれが本来の歴史的に正しい表現なのかは、明言できないことになります。

このあたり、「愛する」の五段動詞化(未然形「愛さ」の一般化)と、「る・らる」→「れる・られる」の変化の時期について、
専門的な研究があれば、どなたかお示しいただければと思います。
>>[17]

>私の表現に失礼な点があれば、お許しください。
 別に失礼とは思いませんが、誤解がある気がします。

>私は後者の立場ですので、そこに行き違いがあるのでしょう。
 当方は「立場」など意識していませんが、最初から「現状優先」で書いています。
 本来はAであるが(もしくは「あると思われるが」)、自分はBを使う、という例をいくつもあげたつもりです。

>これ以上は、トピずれするので、やめておきますが。
 当方もそう思うので、控えます。
 すでにリンクを張ったように、下記のfontomanieさんのコメントが役に立つと思います。これを当方なりに噛み砕いたのが↑のコメント[4]です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1040398375

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