ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

風立ちぬ wind rises ジブリ コミュの 堀越二郎 <`〜´> 

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 
堀越二郎(ほりこしじろう、1903年6月22日‐1982年1月11日)は、日本の航空技術者。
東京大学宇宙航空研究所講師、防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授などを歴任した。

群馬県藤岡市出身。
藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科をそれぞれ首席で卒業し、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。
木村秀政、土井武夫らとは東大で同期であった。

航空技術者として三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行うが、むしろ零式艦上戦闘機の設計主任として有名。
戦前には七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)、戦時中は零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と数は少ないものの、後世に語り伝えられる名機の設計を手掛けた。
戦後は木村秀政らとともに YS-11の設計に参加した。
三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。
1963年から1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めた。
その後、1965年から1969年にかけて、防衛大学校の教授を務めた。
1972年から1973年にかけては、日本大学の生産工学部にて教授を務めた。

1982年1月11日死去。
享年78。

堀越二郎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E8%B6%8A%E4%BA%8C%E9%83%8E (CP:http://zhp.jp/c9I3)↑


好きなモノは? http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=74507811

『日本の航空技術100年展』 http://mixi.jp/view_event.pl?id=73721023

零戦 戦闘機 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73963884

↑2013/04/10...

コメント(21)

 
“幻の戦闘機の設計図見つかる"
 
群馬県藤岡市が保管していた飛行機の設計図が、戦時中、ゼロ戦の後継機として設計され、製造されなかった幻の戦闘機のものと分かり、藤岡市は当時の航空技術を知る貴重な資料として一般公開することにしています。
この設計図は、藤岡市出身の航空技術者で、ゼロ戦を設計したことで知られる堀越二郎の親類が8年前に藤岡市に寄贈したもので、市は専門家に調査を依頼していました。
その結果、設計図は、ゼロ戦の後継機として設計されたものの、製造されなかった幻の戦闘機、「烈風改」のものと確認されたということです。
藤岡市教育委員会によりますと、「烈風改」は、戦時中、堀越二郎が勤めていた三菱重工業が、アメリカの爆撃機「B−29」に対抗するため、開発を進めていたということです。
設計図は合わせて17枚あり、機体の先端部分や、エンジン付近のタンクなどの部品が詳細に描かれています。
設計者の堀越二郎は、ことし夏に公開される宮崎駿さんのアニメーション映画、「風立ちぬ」の主人公のモデルとされ、藤岡市は映画の公開に合わせ、7月中旬にほかの資料と共に設計図を公開することにしています。
藤岡市教育委員会文化財保護課の軽部達也課長補佐は、「航空機の資料は、戦後にGHQが破棄するよう指導したためほとんど残っておらず、この設計図は、当時の技術を知る非常に貴重なものだ」と話しています。

2013/03/26-04:14 NHK
http://megalodon.jp/2013-0326-1051-59/www3.nhk.or.jp/news/html/20130326/k10013449881000.html (CP:http://zhp.jp/SAmI )
 
小澤さとる「黄色い零戦」という本があります。堀越二郎が零戦を完成する話と特攻隊の兵士が故郷の上空を飛んで彼方に去っていく話と結びつけるものです。なかなかの作品だと思います。アマゾンで中古で手に入れました。
 
>>[002] ヨセフさん

小澤さとる『黄色い零戦』面白そうですね。^_ 
ぜひレビューを書いて、このコミュニティに掲載くださるとありがたいです。
 
 
以下のページから、このコミュニティのトップページにレビューを掲載する手続きがとれますよ。^_ 

http://mixi.jp/add_community_review.pl?id=2825616
 
>>[5]

ちょっとカッコ悪のがあるので削除して下さるとありがたい、しなくても良いけれど。
 
? ^_ 
まだトップページには掲載されてません。
削除はご自分の判断でできますよ。
 
>>[7]

やり方がよく分からないのです。
ここに掲載されているのをどのように削除するのですか。
 
(コメントの >>[004] を削除したい、ということですか?
もし、そうで、さらにインターネットのお使いの端末がパソコンかスマホなら、以下の手順です。

1.このトピックの「[4] 2013年05月03日 17:59」の文頭に四角いマークがあり、そこをクリックするとチェックマークが付きます。

2.このトピックの下のほうに、チェックしたものを削除するか問う箇所があり、そこで「削除する」というボタンをクリックすると削除されます。

ただし、一般にはコメントに返信が与えられた場合、文脈が成立するので、現在と将来の閲覧者のために削除はしないのがマナー、かなと。

今回の場合、レビューのページで既述の文章を再編集するといいのでは。
レビューが読めるページの下のほうか・どこか周縁を探すと編集を始めるボタンがあるはずです。)
 
 
“ワイルドキャットは何故撃たなかったのか”

1942年8月7日
ガダルカナル島で、歴史に残る、零戦とワイルドキャットとのドッグファイトがあった。
零戦のパイロットは坂井三郎。
ワイルドキャットのパイロットは ジェームズ パグ サザーランド。
坂井三郎は既に50機以上の航空機を撃墜していた凄腕パイロット。
サザーランドはボクシングで養った距離感を生かし、トップクラスのパイロットになった。
零戦は、広い太平洋を飛ぶために、軽量化されており、1000km先まで飛んで戦い、1000kmを飛んで帰ることができた。
ワイルドキャットが一回の給油で航行できる距離は380kmだったが、これは当時の平均的なレベルである。
しかし、零戦には大きな欠点もあった。
急降下性能が低く、何より恐ろしいのは無いに等しい防弾性能だ。
ボディはナイフで切れるほど薄くかった。
弾が当たればすぐに火の玉になったので、アメリカ軍からは“空飛ぶ葉巻”と言われていた。
大日本帝国軍の爆撃機が目的地に向かう間、零戦がそのサポートしていた。
しかし、ワイルドキャット部隊に見つかってしまい、攻撃を受けた。
その中でもサザーランドの操縦はずば抜けて上手く、たちまち零戦に目をつけられて集中攻撃を受けた。
ワイルドキャットは急降下が得意で、零戦は苦戦をしていた。
後から来た坂井が、零戦とやりあうサザーランド機を発見、その腕の良さに驚いた。
そして、坂井が応戦し歴史的なドッグファイトが始まったのだ。
エース同士の1対1のドッグファイト。
坂井の操縦する零戦がサザーランドが操縦するワイルドキャットを捕捉、 7.7mm弾を命中させた。
しかし、防弾性が高く、防火加工もされていたワイルドキャットは落ちなかった。
そこで20mm弾を命中させようとした瞬間、サザーランドが坂井の後ろについた。
ところがサザーランドは弾を撃たなかった。
何故撃たなかったのか?あるいは撃てなかったのか?
坂井がワイルドキャットの横に着いてコックピット内を覗いたら、そこには血を流して負傷していたサザーランドの姿があった。
坂井は止めを刺すべきか迷ったそうだ。
自伝には、故意に照準を外したと書かれていた。
坂井は飛行機だけは破壊し、サザーランドは脱出した。
サザーランドは拳銃を持って脱出したが、脱出の際に拳銃を無くしてしまった。
サザーランドは無事脱出できたが、そこは日本軍が支配する島。
日本軍に見つからないよう、ジャングル深くに逃げた。
サザーランドは怪我を負った状態で、日本軍とジャングルの獣や毒虫から、
丸腰で自分の身を守らなければならなかった。
そして、何とか反対の砂浜に辿り着いたが、酷い脱水症状で倒れ、倒木の影で眠ってしまった。
しばらくしてから目を覚ましたサザーランドは、現地人が近くにいたので、助けを求め、何とか生き延びることができた。
研究者は、何故サザーランドは坂井を撃たなかったのか、その真実を知るために、ガダルカナル島て調査を始めた。
サザーランドが操縦していたワイルドキャットの残骸を見つけ、エンジンを坂井に撃たれていたことが分かった。
しかし、それだけでは撃たなかった理由が分からない。
しばらく調査を続けていると、ワイルドキャットの12.7ミリ弾が見つかった。
これで、弾切れでないことが分かった。そしてさらに重要な事実が発覚。
12.7ミリ弾の雷管が破損していた。12.7ミリ弾の破損箇所と、7.7ミリ弾と一致。
装填装置が零戦の7.7ミリ弾を浴びていたのだ。
日本軍の 7.7mm弾が、サザーランドの翼を撃ち抜いていた。
それにより、サザーランドは弾を発射出来なかったのだ。
どの零戦の弾が撃ちぬいたのかは分かっていない。
サザーランドのワイルドキャットを撃墜した坂井は、別の敵機を見つけ、撃墜しよと接近した。
しかし相手は旋回機銃座を備えた爆撃機だった。マズイ!と思ったが既に遅かった。
坂井は被弾した。
射手の ハロルド ジョーズも坂井に命中した瞬間を見ていた。
坂井に弾が当たった瞬間、その衝撃で坂井は座席に押し付けら、前のめりになり、コクピットから身体が見えなくなったそうだ。
坂井は朦朧としながら零戦を操作しようとしたが、左半身麻痺していた。
何と、弾は坂井の右目の上から脳を貫通し後頭部から抜けていたのだ。
気絶しそうになるたびに坂井は傷口を触り、目を覚ました。
坂井は最期に自分の命を日本に捧げようと敵艦を探したが、途中で母親の事が思い浮かび、本能的に戻るよう死に物狂いで操作した。

http://www.tokaijiru.com/column/728 (CP:http://zhp.jp/IAN8 )↑


ゼロ戦エースパイロット坂井三郎氏を偲ぶ
http://www001.upp.so-net.ne.jp/vem10252/worldtour/sakai19.html (CP:http://zhp.jp/JBau )
 
 
“ジブリ最新作主人公(ゼロ戦設計者・堀越二郎)
「幻の名機 烈風」の設計図に込めた思い”

戦時中、世界一の性能を持つ戦闘機・ゼロ戦を生み、アメリカ空軍におそれられた設計者・堀越二郎。
今夏には主人公としてジブリ映画にも登場する。
本誌が入手した未公開の設計図や資料からは、冷静沈着な頭脳派というイメージとは違った、「美しさ」にこだわる彼の素顔が見えてきた。

天才的な人物には、往々にして風変わりなところがあるものだ。
ここで紹介する男性にも、やはり特異な性質があった。
自分が乗った客船の食堂のメニューをいちいちとっておく、布団を敷くときには必ず部屋の壁と平行になるようにしないと気がすまない―といった几帳面な性質である。

彼は、名前を堀越二郎という。
戦前〜戦中、「名機」と呼ばれた戦闘機の数々を設計し、日本の航空機の水準を世界一にまで高めた設計者である。
「ゼロファイター」という通り名でアメリカ空軍を震えあがらせた、「零式艦上戦闘機」いわゆるゼロ戦を設計したことでも有名だ。

7月20日に公開される、宮崎駿監督(72)のスタジオジブリ最新映画、『風立ちぬ』の主人公のモデルとなったことから、現在、彼の人となりに注目が集まっている。

本誌は、堀越の生地である群馬県藤岡市の歴史館と彼の遺族に協力をあおぎ、未公開の設計図や写真などを掲載する。
なかでも貴重なのは、実戦配備されることのなかった幻の戦闘機「烈風」の設計図である。
堀越の烈風へのこだわりや、これまであまり知られていなかったエピソードをもとに、「人間・堀越二郎」についてご紹介しよう。

〈恐慌が天才設計者を生んだ〉

堀越は1903年、ライト兄弟の飛行機が初めて飛んだ年に、藤岡市に生まれた。
少年誌の物語を通して飛行機の魅力にとりつかれていた幼少期から、明晰な頭脳を誇っていた。

「藤岡の旧制中学に通っていたころには、
『ほかの生徒に合わせていると自分に合った勉強ができない』といったことを先生にもらしていたようです」 (藤岡歴史館職員・軽部達也氏)

中学卒業後、東京の旧制第一高等学校(現在の東京大学1〜2年)に進学。
1924年には東京帝国大学の航空学科に進む。

「大学での成績がよかったので、三菱内燃機製造株式会社(現・三菱重工)から声がかかったそうです。
あまり知られていませんが、当時、三菱は恐慌の影響で業績が悪く、帝大出の優秀な人材を獲得、育成して挽回を図ろうとしたんです。
それが堀越を成長させました。
『もし堀越が(三菱のライバルである)中島飛行機に入っていたら、ゼロ戦は生まれなかっただろう』とまでいわれています」(軽部氏)

会社は1929年、堀越に、「支度金四百圓」(現在の約100万円相当)を託し、彼をヨーロッパ、アメリカに1年半派遣した。
航空機の最先端技術を学ばせるためだ。

歴史館に保存されている洋行時の資料からは、彼の几帳面で堅い性格がうかがわれる。
冒頭で紹介したとおり、利用した客船の食堂メニューに加えて、領収証も一枚一枚保存してあるのだ。

航空技術を学び日本に戻った堀越は、入社わずか5年で設計主任を任される。
海軍から要請された新型戦闘機の設計だ。

「抜擢人事だったと思います。
業績が悪かったからこそ柔軟な人材登用ができたんですね」(軽部氏)

三菱の人事は成功だった。
1932年に堀越が設計した「七試艦上戦闘機」こそ実戦に採用されなかったものの、1934年設計の「九試艦上戦闘機」(九試)は、日本製で初の世界水準の戦闘機として、中国戦線で活躍する。

「堀越はこのときから、『こだわりの人』としての顔を見せていました。
部下から上がってきた部品の設計図を何度でも突き返すので、『ああ言えば堀越』と呼ばれていたという逸話があります」(軽部氏)




〈ゼロ戦と急須〉

堀越の最も強いこだわりは、機体の美しさと機能を両立させることにあった。
1937年に設計を始めた「十二試艦上戦闘機」(後のゼロ戦)に、それが最もよく表れていると軽部氏は言う。

「エンジンの種類が決まると、堀越は、まずボディ全体のイメージを描き上げたのです。
これは一般的な手順とは違います。
なによりも流れるような美しい機体を実現させたかったんですね」

ゼロ戦で戦局を打開したかった海軍からは、不可能とも思える多くの要請があった。
長距離の飛行や時速500km超の速度を可能にする機体の軽さと、敵機を撃ち落とすための重装備という、相反する性能を求められたのだ。
軽部氏が続ける。

「これを実現するために、堀越は、九試で開発した沈頭鋲に加えて主翼のねじり下げなどの技術を開発します。
沈頭鋲は、機体を打ちつける鋲の頭を削って、少しでも空気抵抗を小さくし、機体を軽くする工夫。
ねじり下げは、翼にわずかな角度をつけることで乱気流を防ぐ工夫です。
こういった積み重ねで、ゼロ戦は速さ、航続距離、操作性など、どの点でも世界一の性能となりました。

堀越は3000枚の設計図をチェックしたといわれますが、最終的な調整は、計算ではなく手作業で行われたそうです。
のちの『メイドインジャパン』ブランドをほうふつとさせる話です」

その後、ゼロ戦は海軍の採用を受け、中島飛行機でも量産された。
中国戦線、太平洋で活躍し、「ゼロを見たら逃げろ」とおそれられることになる。

堀越の美と実用性へのこだわりは、戦後、日常生活のなかにも見て取れたという。
義理の娘である堀越伸子さんが語る。

「たとえば、急須ひとつとっても、注ぎ口が直角についているものは注ぎにくいと言って、少し手前に角度がついたものを『キレイだ』と言って使うんです。
機能美というんですか、そういうものを求める人でした」

今回、本誌が初公開した設計図は、1942年にゼロ戦の後継機として試作が開始された「烈風」のものだ。
実戦配備が間に合わなかったため、「幻の名機」と呼ばれる。

「この設計図を見ると、日付が終戦直前の昭和20年(1945)の6月とか7月頃になっています。
堀越は軍の上層部とやりとりをしていたから、日本が負けること、烈風の設計がムダになってしまうことは予想できていたでしょう。

それでも、彼は職人として技術の粋を結集し、こだわり抜いて設計に取り組みました。
集大成のつもりだったんでしょう。
エンジンが気に食わなかったので、海軍の方針に反対してエンジンを換えさせたというエピソードもある。
軍に一設計者がたてつくなんて、当時は考えられません」(前出・軽部氏)

こうして作られた烈風が配備されることはなかった。
堀越の長男である雅郎氏は、戦後、堀越が烈風について振り返っていたことを覚えているという。

「烈風が日の目を見られなかったことには後悔があったようです。
『最初から、あちらのエンジンを使っていれば実戦に出ることができたのになあ』とこぼしていました」

烈風の配備はかなわなかったが、しかし堀越の技術は現在も生き続けている。

「ねじり下げ、沈頭鋲といった技術は、現在でも全世界のほとんどの航空機で利用されています」(軽部氏)

堀越の美と実用性へのこだわりは今もなお、世界中を飛び回っているのだ。

2013/06/02 フライデー
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35974 (CP:http://zhp.jp/FAqT )
 
 
“ゼロ戦、封印の資料公開 22日から所沢で設計者の堀越二郎展”

所沢市並木の所沢航空発祥記念館で、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の設計者の堀越二郎(1903‐1982)の生誕110周年記念企画展が22日から9月1日まで開催される。

没後31年間封印されてきた貴重な資料を初公開。
ゼロ戦の設計上の工夫の軌跡をはじめ、あまり語られることのなかった堀越の人間像についても紹介する。
堀越の半生を描いた宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』が今夏上映されることもあり、注目を浴びそうだ。

同館では、世界で唯一飛行可能なゼロ戦52型を、米ブレーンズ オブ フェイム航空博物館から借用して8月末まで特別展示中。
このゼロ戦を設計した堀越二郎は群馬県藤岡市出身。
東京帝大航空学科を卒業後、現在の三菱重工業に入社した。
九六式艦上戦闘機、ゼロ戦、戦後はYS‐11など名機の設計を手がけたことで知られる。
1982年1月、78歳で死去。

終戦直後、堀越はGHQに焼却を命じられた航空機関係の資料を、都内の自宅や実家の蔵、屋根裏部屋に隠していた。
最近、長男の雅郎氏が調べたところ、ダンボール13箱に上ったという。
展示にあたって、航空宇宙工学が専門の鈴木真二東大大学院教授らが鑑定作業を行った。

三菱重工での航空機の設計に関連した資料をはじめ、精密な風洞模型の写真、ゼロ戦の開発過程における海軍関係者とのやりとりを記した手帳、テストパイロットとのやり取りを書いた直筆資料などを展示。
愛用の計算尺、文机、帽子など人間像をしのばせるものも。
また、幻の戦闘機「烈風」のパーツ図など未公開の資料も初公開される。

生誕110周年にあたる今年は堀越に関する企画がめじろ押し。
故郷の藤岡市では、同市歴史館で7月13日〜9月8日まで「堀越二郎の軌跡」展を開催。
7月20日から宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』が全国上映され、12月下旬にはゼロ戦の航空兵を描いた百田尚樹の『永遠の0』が公開される。

同記念館の白砂徹事業課長は「館内にはゼロ戦が展示されており、さらに設計者の堀越の生涯が多数の未公開資料と共に見てもらえば興味が一層湧く」と来館を呼びかけている。

問い合わせは同記念館(電話04・2996・2225)。

2013/06/21-14:15 埼玉新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130621-00010001-saitama-l11 (CP: http://zhp.jp/tCYX)
 
 
“ゼロ戦の生みの親…『風立ちぬ』主人公モデルの激動人生”

「父はゼロ戦の設計者として有名ですが、ゼロ戦はテスト飛行中に2人のパイロットが亡くなり、最後は特攻機として、多くの若者の命とともに散りました。
そのことを父は亡くなるまで悔いていました。
今回の映画にゼロ戦がほとんど登場しないのは、宮崎駿監督が父の心を深くくんでくれたからでは、と感じました」

こう語るのは、スタジオジブリ最新アニメ映画『風立ちぬ』で主人公のモデルとなった、堀越二郎の長男・雅郎さん (76)。

舞台は1930年代。
飛行機にあこがれる少年、堀越二郎は上京し、旧制一高から東京帝大の航空学科へ進学する。
関東大震災に遭い、そこでヒロインの菜穂子と運命の出会いを経験。
航空機製造会社に就職後は、初めて設計した七試艦上戦闘機を完成させる……。
当時の世相や震災の惨状などを背景に、堀辰雄の恋愛小説『風立ちぬ』を織り交ぜ、二郎の成長していく姿を描くフィクションで、これまでのファンタジックな宮崎アニメとは一線を画した作品といえる。

では、実際の堀越二郎とは、どんな人物だったのか?
1903(明治36)年、二郎は群馬県藤岡市の養蚕農家の二男として生まれる。
この年、ライト兄弟が世界初の有人飛行に成功した。
藤岡中学時代、勉強熱心だった二郎は授業の内容だけでは一高に入るのは難しいと感じ、学校の先生に直談判。
授業を免除され、自分で作ったカリキュラムをもとに、自宅にこもって学習していたほどだったという。

その努力の甲斐あって、一高、東大を首席で卒業。
念願の航空機製造会社に入社。
その後、1年半、最新の航空技術習得のために欧米に渡る。
そして1932(昭和7)年、海軍が航空機製造会社各社に発注した『七試艦上戦闘機』の設計主任という任務が、二郎に回ってきた。
妻の須磨子さんと見合いしたのもこの年だった。
1933(昭和8)年に長女、翌年に二女、そして1937(昭和12)年に長男・雅郎さんが誕生する。
が、その年から新たな『十二試艦上戦闘機』の設計に着手することに。
早朝に家を出て、帰宅は深夜という生活だった。
「日曜も出勤が多く、父と過ごした時間はほとんどなかったですね。
だた一度、3歳のころ、父が仕事で飛行場に呼び出されたとき『飛行機、見るか』と、連れていってくれたんです」(雅郎さん)

二郎が身を削る思いで設計した『十二試』は、海軍の零式艦上戦闘機として正式採用され、『ゼロ戦』と呼ばれた。
ゼロ戦は、第二次世界大戦で他国のパイロットから『ゼロに会ったら逃げろ』といわれるほどの高性能飛行機として、その名をはせた。

1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎える。
敗戦後に進駐したGHQ(連合国最高司官総司令部)は、日本人による飛行機生産を禁じたため、二郎は子会社の鍋などを作る製作所に出向となった。
いわば、“閑職”に追いやられた形だった。
それから10年後、ようやく国内の飛行機生産禁止が全面解除されることに。
戦後初の旅客機YS-11の生産が決まると、二郎も設計に参加した。
「設計者グループの重鎮ではありましたが、主役はすでに若い技術者の時代。
張り切っていろいろ口出ししては煙たがられる存在だったと思いますよ(笑)」(雅郎さん)

定年で三菱重工を退職後、二郎は、東大宇宙航空研究所などで教壇に立ち、後進の育成に尽力。
1982(昭和57)年1月、78歳で亡くなった。
飛行機に人生をかけた男は今、空の上で映画の完成を喜んでいるに違いない。

2013/07/16-07:00 女性自身
http://jisin.jp/news/2594/6084/ (CP:http://zhp.jp/lD4b )
 
 
〈『風立ちぬ』堀越二郎の研究資料と“失われた文書”〉

所沢の航空発祥記念館では6月22日から「傑作器零戦と人間・堀越二郎」と題した特別展を開催中である。

特別展では零戦の実物展示や記録映像の上映が行われるほか、堀越二郎に関する今回初公開の資料も公開されている。
そしてその資料の中に、堀越二郎が「空飛ぶ円盤」に関してしたためた一文がある。
この文章は、堀越二郎が通常使用している罫線入りの用紙に書かれたもので、記念館ではその写真版が「空飛ぶ円盤に関する原稿制作年未確認」として展示している。

■失われた3枚目…堀越二郎のUFO論

会場には用紙7枚分の写真しかないが、几帳面な堀越は、各用紙の右上に番号を振っているため、本来この文章は8枚のものであるが、3枚目がなぜか紛失していることがわかる。

その用紙の内容は、アメリカで起きたアーノルド事件(1947年アメリカで、 ケネス アーノルドが9機の未確認飛行物体を目撃した事件)に言及しつつ、アメリカ空軍が心理的な原因によるものと発表したなどの事項を紹介したうえで、航空機設計技師としての観点から円盤型航空機の実現可能性について考察したものとなっている。

原稿は鉛筆で書かれていたらしく、消しゴムで消した跡や付け加えた跡、誤字も何箇所かあり、決定稿ではないようだ。

内容についても、アーノルド事件の日付や状況が間違っていたり、アメリカの飛行機会社の名前の後に「?」を付けたりと、逐一資料に確認をとったものではなく、かなり記憶に基づいて執筆しているらしい。
それにしても堀越二郎が、当時「空飛ぶ円盤」と呼ばれていた物体、つまり現代のUFOに関心を持っていたことを示すだけでも、歴史的な新発見である。

やはりしかし、1番気になるのは“消えた3枚めの文書”である。

2枚目の最後の一文が「結局空飛ぶ円盤は次の12個のどれかに違いない訳だ。
最后の12番目以外は空軍報告『心理学上の物体』である」(原文ママ)と記されていることから、“心理学上の物体”以外の解釈がなされた“謎の12番目の報告”が書かれていたことがわかる。
「古い品ですので、すでに用紙自体がなくなっていた可能性が高いです。
けれども、この12番目の報告に“UFO研究における最重要事項”が書かれていた場合を考えるとほかの解釈ができますね。
文書が出まわることでアメリカの都合が悪くなる可能性もありますし、UFO研究に熱心なロシアが、極秘で日本から文書を奪った可能性もあり得ます」(UFOに詳しい人物)

この文書の作成年等詳細は不明であるが、文中に「本誌五月号−ジェット飛行機物語・航空原動機の話」という引用が出てくることから、1950年半ば頃のものではないかと推測される。
というのは、1949年〜1950年頃、少年文化社という出版社が『ロケット』という少年誌を発行しており、この雑誌の1950年3月号から「ジェット飛行機物語」という連載が行われており、5月号のサブタイトルが「航空原動機の話」だったのだ。
今回の円盤文書は、この続編のようなものということになるが、実際に何かの媒体に掲載されたかどうかは不明である。

また文中では、アメリカ空軍が公式報告書を発表し、「空飛ぶ円盤は心理現象と結論した」という部分もある。
堀越二郎の文書が1950年に書かれたとすれば、このアメリカ空軍の「公式発表」とは、1949年8月に公表された プロジェクト グラッジ報告と推定される。
実際この報告書では、空飛ぶ円盤は既存の飛行物体の誤認、あるいは集団ヒステリーによるものが大部分であると述べられている。
しかし、“アメリカの空軍が空飛ぶ円盤を心理的産物なりといふ証明をするために態々公式の長い報告書を発表したのは、世間の噂を静めて自分の研究を邪魔されずに進めるためだらうなどと穿った様な説もある位である”と記述するなど、この発表がどういう意図によるものかに関しては、疑問を持っていたようだ。

堀越は、本文の中で円盤型飛行機の実現可能性を、当時の航空工学に基づいて冷静に論じており、円盤型では人が乗る飛行機としては操作性の問題が生じるが、無人の飛行爆弾のようなものであれば円盤型でも可能としている。
またこの場合も、理想的な形は三角形の握り飯型であるとし、もしかしたらこの形の無人航空機の実験が既に行われている可能性も示唆している。
そして1989年末から翌年にかけて、ベルギーでUFO目撃が相次いだ際には、三角形のUFOが多数目撃されている。

(羽仁礼)
2013/07/30 ハピズム
http://happism.cyzowoman.com/2013/07/post_2813.html (CP:http://zhp.jp/KCAq )↑


『風立ちぬ』とは関係ないのですが..。(苦笑)
 
 
“『風立ちぬ』のモデルになった堀越二郎さんの子息、宮崎駿に感謝”

映画『風立ちぬ』の主人公・二郎のモデルになった零戦設計者・堀越二郎さんの子息・堀越雅郎(ただお)さんが、スタジオジブリ発行の小冊子『熱風』の中で、
「堀越二郎はいままでは1万人のマニアの中の世界だけの人間でしたが、『風立ちぬ』のおかげで全国区となり、1,000万人以上の方に知っていただけることになりました」と宮崎駿監督らへの感謝の思いを明かした。

同作は、堀越二郎さんと文学者の堀辰雄さんという同時代に生きた2人の人物をモデルに、1930年代の日本で飛行機作りに情熱を傾けた青年・二郎と、結核を患う薄幸の少女・菜穂子の出会いと別れをつづった物語。
劇中で二郎は、「美しい飛行機を作りたい」という夢に向かってひたすら真っすぐに生きた人物として描かれている。

“零戦の設計者”として知られる二郎さんだが、雅郎さんは
「(父にとって零戦は)必ずしも好きだとは言えない飛行機だったのだろうな」と明かす。
それは、零戦を作り上げるためにとにかく厳しい要求をされ、ひどく苦労をしたということ、試験飛行で尊敬するパイロットが亡くなってしまったこと、そして、最後は特攻というあまりにもつらい思い出がまとわりついた飛行機だからだという。

それ故、雅郎さんは「それを宮崎さんは本能的にパッとわかって、零戦に入る前で映画を終わらせたのだと思います。
すごい嗅覚の持ち主というか、直感の優れた方だと思いました」と宮崎監督の判断を称賛。
「(もし二郎さんが映画を観たら)『俺はちゃんと立派な人間に描かれているぞ』と言って、間違いなく喜んだと思います」と本作に対する思いをつづっている。

『熱風』はスタジオジブリが毎月10日に無料で配布している小冊子。
「憲法改正」を特集した先月号では、宮崎監督が「憲法を変えるなどもってのほか」と発言したことなどが大きな反響を呼び、多くの取り扱い書店で品切れとなったことから急きょインターネット上でPDF配信されたことでも話題を呼んだ。

(編集部・中山雄一朗)
2013/08/25-09:00 シネマトゥデイ
http://www.cinematoday.jp/page/N0055745
私が堀越次郎を初めて知ったのは、学研の雑誌に連載されていた「ホモ、ウォラント」という漫画でした。航空機の発達史を漫画で追いかけたメカ好きにはこたえられない作品でした。
 こういうメディアのおかげで新しい知識は入ってくるんですねえ。
ビールきのう飛行機模型仲間との月例会に行ったのですが、意外に「風立ちぬ」の評判がよくないんです。聞くと「堀越二郎とはあんな人ではない」とか。思い入れの強い方にとっては、食い違いが多いと感じられるのでしょうね。

ログインすると、残り4件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

風立ちぬ wind rises ジブリ  更新情報

風立ちぬ wind rises ジブリ のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。