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音楽図鑑〜After the 80'sコミュの80年代MTV傑作選

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いわゆるMTV(ミュージック•ビデオを流し続ける番組)は1980年代に誕生した。
音楽と映像が、互いにより革命的なものを作ろうと協力しあった時代だった。

ここではそんな中でも印象に残った作品や懐かしい作品をちょっとづつ紹介していきたいと思う。

コメント(44)

19 (Nineteen)は、1985年に、イギリス人ミュージシャン、ポール・ハードキャッスル(Paul Hardcastle)が発売したシングル曲。
ベトナム戦争とアメリカ人兵士のその後を主題とした。曲名の「19」は、アメリカのベトナム戦争従軍兵の平均年齢が19歳だったことを表している。

この曲では、主に、ABC製作のドキュメンタリー番組『Vietnam Requiem』でのニュースのナレーションや、サンプラーで拾った心的外傷後ストレス障害に悩む元兵士のインタビュー音声のリミックスのみが、使用されている(一部に女性コーラスがある)。この音声をシンセサイザーを用いたファンクテンポの曲と同期させている。

同時に製作されたビデオクリップも同じ番組の映像を繋いで編集されており、少々のテロップと何箇所かで写る星条旗とその前後程度しか加工されていない。

「19」は、1985年5月5日にイギリスのシングルチャート1位を獲得し、アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞した。アメリカでは20位にチャートインした。世界13カ国で発売された。日本では小林完吾による吹き替え版(エクステッド・ジャニーズ・バージョン)も発売された。

なお、ハードキャッスルはABCから映像と音声の無断使用で訴えられ、またマイク・オールドフィールドからは曲を盗作したとして告訴された。

Nineteen - Paul Hardcastle

http://www.youtube.com/watch?v=oSGvqjVHik8&feature=related


こちらは小林完吾による吹き替え版。ニュースの内容がよくわかります。
19- Extended Japanese Mix

http://www.youtube.com/watch?v=pGxhbJKTeFM

Duran Duran(デュラン・デュラン)は、イギリスのロックバンド。
1980年代前半のニューロマンティックといわれるムーブメントやMTVブームの火付け役。 バンド名はジェーン・フォンダが主演したSF映画『バーバレラ』(1968年)で登場する悪役「デュラン・デュラン(Durand-Durand)博士」より。

欧米では、フロントマンのサイモン・ル・ボンの人気が高かったが、日本では長身・長髪・細身のベースプレイヤー、ジョン・テイラーの女性人気が特に高かった。

* 1978年、ニック・ローズ(キーボード)、ジョン・テイラー(ギター)、サイモン・コリー(ベース)、スティーヴン・ダフィ(ヴォーカル)の4人によって結成される。ところが半年後にコリーとダフィが脱退。すぐに代わりのヴォーカルとしてアンディ・ヴィケットが加入する。そして、その年の暮れにロジャー・テイラー(ドラム)が加入。しばらくは、この4人で活動する。なお、ニック・ローズは、デュラン・デュラン結成時まで、キーボードの演奏歴がほとんどなく、取材に対して「自分はタイプライターを叩くのが上手だったので、キーボードもすぐに上達すると思った」と答えている。
* 1979年、ヴォーカルのアンディが脱退。
* 1980年、後任のベーシスト探しが難航し、ジョン・テイラーがベーシストへ転向する。そしてジェフ・トーマス(ヴォーカル)、アラン・カーティス(ギター)が加入しバンドは5人編成となる。ところが数か月後にジェフとアランは脱退。そして後任のギタリストとしてアンディ・テイラーが加入。しかしヴォーカル探しは難航しバンドはオーディションに踏み切る。そんな中、サイモン・ル・ボンがヴォーカルとして採用される。採用された理由は「ルックスの良さ」「魅力的な声」「歌が上手い」そしてオーディションを受けた人たちの中でル・ボンだけが「詩や曲を書き溜めたノート」を持参していたからである。曲も書けて歌の上手いヴォーカルとしてル・ボンはバンドに迎え入れられ、ようやくメンバーが固定される。
1981年2月、シングル『プラネット・アース』(英12位)でデビュー。

Duran Duran - Girls On Film

http://www.youtube.com/watch?v=gudEttJlw3s&feature=related


1983年「夜のヒットスタジオ」出演時のDuran Duran。(メンバー紹介つき)
完全にアイドルバンド扱いですな。

http://www.youtube.com/watch?v=bdqBwZMiINQ

 YAZOOはデペッシュ・モードを脱退したキーボード奏者、ヴィンス・クラークがヴォーカリストのアリソン・モイエ(2人ともイギリスのエセックス生まれ)と82年に結成したエレポップ・デュオ。
 彼らのデビュー・シングル「Only You」は全英で最高第2位を記録し、続く第2弾シングル「Don't Go」も、チャートの3位にまで浮上した。
 その後のアメリカ・ツアー中に米国のレコード会社"YAZOO"との混同を避けるため、デュオ名を"YAZOO"から"YAZ"へと変更。その間にリリースされた1stアルバム『Upstairs at Eric's』(82年)も、力強いメロディラインとモイエの表現力豊かなヴォーカル、当時の空気をいっぱいに吸い込んだ哀愁あふれるエレクトロニック・サウンドで賞賛された。その後も「The Other Side of Love」「Nobody's diary」といったヒットを飛ばすが、83年にはあっけなくユニットを解散。--以降、モイエはソロ・シンガーとして、またクラークはアッセンブリーを経てイレイジャーのメンバーとして、それぞれ活躍している。

YAZOO-Only You

http://www.youtube.com/watch?v=q9DOmlfICGw

YAZOO-Don't Go
「リクエストによる埋め込み禁止」のため、こちらをクリック。
プロモビデオでヴィンス・クラークがいい味出してます!(笑)      
       ↓
http://www.youtube.com/watch?v=FaHuzkyurC0

yopisound
 Godley&Creme(ゴドレイ&クレーム)はイギリスの音楽グループ。
 二人は元10ccのメンバーであり、プロモーションビデオのディレクターでもある。
 ポリスやヴィサージ、デュラン•デュラン、フランキー•ゴーズ•トゥ•ハリウッドなどのプロモーションビデオは、もはや芸術的な完成度である。


* ケヴィン・ゴドレイ (Kevin Michael Godley) 1945年10月7日 イギリス・マンチェスター出身
* ロル・クレーム (Lawrence Neil Creme) 1947年9月19日 イギリス・マンチェスター出身

 1960年頃幼なじみだった二人は"The Sabres"というバンドに参加、地元のユダヤ人集会所などで演奏活動を行う。1965年ケヴィンは同郷のグレアム・グールドマンのバンド"The Mockingbirds"に参加しレコードデビュー。しかし5枚のシングルを発表するもヒットを生み出せずにバンドは解散。解散後再びケヴィンとロルはコンビを組む。グレアムのマネージメントで1967年"Yellow Bellow Room Boom"名義でシングルをリリース。その後グレアムが元マインドベンダーズのエリック・スチュワートとレコーディング・スタジオ"ストロベリースタジオ"の共同出資者となったことから、スタジオミュージシャンとして出入りを始め、やがてエリック、グレアム、ロル、ケヴィンの4人でバンド活動を開始する。

 1969年ヤードバーズのマネージャー、ジョルジオ・ゴメルスキーの設立したレーベル "Marmalade"より、"Frabjoy & Runcible Spoon"名義でシングルをリリース。1970年にはロル、エリック、ケヴィンの3人でレコーディングした「ネアンデルタール・マン」が"ホットレッグス" 名義でリリース。全世界で200万枚以上を売り上げるヒットを記録するも以降不発に終わる。
 その後も4人は"Doctor Father""Fighter  Squadron""Amazon Trust""The New Wave Band"などとバンド名を変えながらシングルを次々とリリースし次のヒットを狙っていく。その前後スタジオミュージシャンとして、ニール・セダカ、オハイオ・エキスプレス、ラマセスなど数多くのアーティストのレコーディングを行った。

 1972年4人は、ジョナサン・キングのUKレコードから"10cc"名義でシングル「ドナ」をリリース。これが全英2位の大ヒットとなり以降バンドの活動は10cc名義が中心となっていく(74年以降は10ccに固定)。3枚目のシングル「ラバー・ブリッツ」で全英チャート1位を獲得、次々とヒットを飛ばす。
 1975年にマーキュリーレコードに移籍、「アイム・ノット・イン・ラブ」等名曲を発表するも、1976年に音楽性の違いから(公式にはギターアタッチメント"ギズモ"の開発のため)10ccを脱退。以降ゴドレイ&クレーム(ゴドリー&クリーム)としてレコードをリリースする。

 1980年自分たちのシングル曲「ニューヨークのイギリス人」でプロモーションビデオを監督。その後ポリス、デュラン・デュラン他のアーティスト達のビデオを手がけ、高い評価を受ける。1985年のMTV Video Music Awardsでは"Video Vanguard Award"を受賞した。
 一方音楽活動では1985年のシングル「クライ」がプロモビデオの高評価も伴い彼らの代表曲となった。このビデオの手法は、のちにマイケル•ジャクソンが「ブラック•オア•ホワイト」でちゃっかりパクっている。

1988年にコンビを解消。ロルは元バグルスのトレヴァー・ホーンの片腕として数多くのアーティストのレコーディングに参加。1999年に再結成アート・オブ・ノイズに正式参加した。ケヴィンはプロモビデオの監督を続け、U2、ポール・マッカートニーらの作品を手がけている。



「リクエストにより埋め込みが無効です」と出るので、こちらをチェックしてください。
      ↓
http://www.youtube.com/watch?v=YdKJBxWZdoI

バウハウス(Bauhaus)は、1979年にデビューしたイギリスのロックバンド。名前はドイツのバウハウス芸術活動から由来している。当初は「バウハウス1919」という名前だったが、コマーシャル的なアピールの為に、1年も経たずに「BAUHAUS」に改名。

ゴシックの元祖とも言えるバンドである。内容はかなり暗いが、音楽はパンク以上に激しい曲も多数あり、視覚的パフォーマンス、特に「PETER MURPHY」のステージング等は評価が高い。またシングルのB面は実験的なアプローチでDUBやサントラ風の楽曲、更には各々メンバーによるソロ的アプローチの「1・2・3・4」という前代未聞?の曲も存在しBAUHAUSの原点が垣間見られポストパンクのバンドでありながら、シュールレアリズム、バレエ等の要素を採り入れ演劇的なステージングでカリスマ的人気があった。デヴィッド・ボウイの"ジギー・スターダスト"やT・レックスの"テレグラム・サム"をカバーし、グラムロックの新たなる継承者として賞賛を受ける。

後期はピーター・マーフィーと他の三人との間における音楽性の相違によって仲違いを招き、1983年ついに解散に至る。その後、マーフィーはポール・ビンセント・ロウフォード、元ジャパンのミック・カーンと組んだ「ダリズ・カー」を経てソロ活動へ、他の三人は「ラブ・アンド・ロケッツ」を結成して再始動した。その後再結成して来日も果たした。

Bauhaus - Ziggy Stardust
数あるカバーの中でも最高にカッコイイです!

http://www.youtube.com/watch?v=6a_YQXFs7Ts

Bauhaus - Double Dare

http://www.youtube.com/watch?v=5z9djjD2XnM&feature=related

バグルス(The Buggles)はイギリスのバンド。

1977年、ジェフ・ダウンズ、トレヴァー・ホーンにより結成。二人は大のイエスファン同士で、イエスに憧れてバンド活動を開始する。
1979年にデビュー曲の『ラジオ・スターの悲劇(Video Killed The Radio Star)』が全英1位の大ヒットを記録。きっちりと計算された音作りのエレクトリック・ポップは、ニュー・ウェイヴの時代を象徴する一曲となった。

アルバム『プラスティックの中の未来』発表後の1980年、ダウンズとホーンの二人はそろってイエスに加入する(メンバーが一挙に脱退してしまい窮地に陥っていたスティーブ・ハウにグループごと吸収される)。
ところが、イエスは畑違いの二人を入れたことで従来からのプログレッシブ・ロックのファンから不興を買い、結果解散に追い込まれてしまった。
二人は再びバグルスとして1981年にセカンドアルバム『モダン・レコーディングの冒険』を発表するが、まもなく活動を停止した。
その後ダウンズはエイジアに参加し、ホーンは売れっ子プロデューサーとして一時代を築く(後の再結成イエスのプロデュースも担当しロンリー・ハートなどのヒット曲を制作)。

1981年8月1日12時15分、アメリカで開局したMTVが最初にオンエアしたミュージックビデオが、この『ラジオ・スターの悲劇』である。

The Buggles - Video Killed The Radio Star

http://www.youtube.com/watch?v=jSJ27TgBvJE



・クラッシュ(The Clash)は、1976年 - 1986年にかけて活動した、イギリス・ロンドン出身のパンク・ロックバンドである。セックス・ピストルズと並び称されるロンドン・パンクの雄でありながら、ステレオタイプのパンク・ロックの枠にとらわれず、レゲエやダブなどの音楽的要素を貪欲に吸収し、独自の個性を確立してシーンに大きな影響を与えた。

3rd『ロンドン・コーリング』は今までパンクをこき下ろしてきた英の音楽批評誌にも絶賛され、4thには三枚組の意欲作『サンディニスタ!』を発表。本国だけではなく米でも次代を担うバンドの一つとしての評価を確立する。

解散後、ジョー・ストラマーはソロとして活動したが、2002年12月22日にサマセット州ブルームフィールドにある自宅で心臓発作で死去。

ザ・クラッシュ/ロンドン・コーリング

http://www.youtube.com/watch?v=lotkzHsIuoA



ヘヴン17(Heaven 17)は、1980年代初頭にイギリスで結成されたシンセポップ・バンド。

ヒューマン・リーグを脱退したマーティン・ウェアーとイアン・クレイグ・マーシュが、並行して活動していたB.E.F.(British Electric Foundation)プロジェクトでヴォーカルを務めたグレン・グレゴリーを誘い結成した。名前の由来は、小説『時計じかけのオレンジ』の一節から取られている。

Heaven 17 - Geisha Boys And Temple Girls

http://www.youtube.com/watch?v=Edgjl5zPW6g&feature=PlayList&p=2323A295ECE39945&playnext=1&playnext_from=PL&index=2


ザ・ナック(The Knack)は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の、4人組のロック・バンド。

1970年代後期にロサンゼルスで結成。1979年、アルバム『ゲット・ザ・ナック』でデビュー。ビルボード6週連続1位を記録した。シングルカットされた「マイ・シャローナ」は世界的にヒットした(ビルボード5週連続1位、同年の年間チャート1位)。「ビートルズの再来」と謳われるなど、音楽性は高く評価されていた。が、当時のミュージックシーンは“ディスコブーム”が席巻していたこともあって、その後はヒットに恵まれず、一発屋のレッテルを貼られてしまった。(実際にはマイ・シャローナ以外にも2曲のビルボードTOP40ヒットがある)
【メンバー】
* ダグ・ファイガー(Doug Fieger、1952年8月20日 - )-リードボーカル/リズムギター
* バートン・アヴェール(Berton Averre、1952年12月13日 - )-ギター/ボーカル
* プレスコット・ナイルズ(Prescott Niles、1951年3月2日 - )-ベース

The Knack-マイ・シャローナ
http://www.youtube.com/watch?v=g1T71PGd-J0


エイジア(Asia)はイギリスのロックバンド。

1982年デビュー。メンバー全員が、既に世界的なキャリア/知名度を得ていたミュージシャンであったため、デビューの時点からスーパーグループとして注目された。「プログレッシヴ・ロックのエッセンスをポップスとして鏤めた3分半の楽曲」というスタイルを確立し、そのスタイルにそってリリースされたファースト・アルバム『Asia(詠時感〜時へのロマン)』は数ヶ月後には全米NO.1を9週連続キープ、全世界で1500万枚のセールスを達成。同アルバムからシングルカットされた『Heat Of the Moment』は全米ロックチャート1位、全米ポップチャートでも4位となり、商業的にも成功を納めている。アルバムデビューの時点のメンバーは、ジョン・ウェットン(vo.b/元キング・クリムゾン、ロキシー・ミュージック、U.K.)、スティーヴ・ハウ(g.vo/元イエス)、カール・パーマー(ds/元EL&P)、ジェフ・ダウンズ(kbd/元バグルス、イエス)。

Asia-Heat Of the Moment

http://www.youtube.com/watch?v=wlTvWvfEMxE

Asia - Only Time Will Tell

http://www.youtube.com/watch?v=-6GhodMhcik&feature=related

 ダイアー・ストレイツ(Dire Straits)は、イギリスのロックバンド。

 1976年ロンドンにて結成される。オリジナル・メンバーは、マーク・ノップラー(リードギター&ボーカル)、デヴィッド・ノップラー(リズムギター)、ジョン・イルズリー(ベース)、ピック・ウィザース(ドラム)の4人構成。
 ウィザースの友人が万年金欠状態のメンバーをからかって叩いた軽口を拝借して、「Dire Straits」("dire"は「ひどい、無残な、差し迫った」、"strait"は「断崖、苦境、困窮」の意)の名称に落ち着く

1978年に1stアルバム「Dire Straits」をリリース。ルーツ・ミュージックに独自の解釈を施した音楽に高い評価を付ける向きもあったものの、当時のトレンドである音楽ジャンルとは異質であり、直ちにチャート・アクションには反映されなかった。しかし、オーストラリアのラジオ局でファースト・シングルの「Sultans of Swing/悲しきサルタン」がヘヴィー・ローテーションされた頃から風向きが変わりチャートを上昇。
 アルバムは全米で2位、全英で8位を記録し、全世界で1500万枚を売り上げる。また、ボブ・ディランのアルバム参加やプロデュースで名を上げたノップラーは、早くもミュージシャンズ・ミュージシャン(同業者の中でも評価されること)として認知されるようになる。

その後、「コミュニケ」「メイキング・ムーヴィーズ」「ラブ・オーバー・ゴールド 」とコンスタントにアルバムを発表。主にヨーロッパでの人気を不動にする。

1985年に発表したアルバム「ブラザーズ・イン・アームス」では、スティングをフィーチャーしたシングル曲「Money For Nothing」の3DCG(当時としては最新鋭の技術であった)を取り入れたミュージック・ビデオが、MTVで大量にオンエアされた効果で、全米No.1を3週連続でキープする爆発的なヒットを記録。イギリス国内だけでも390万枚以上を売り上げるセールスを達成し、英国内での歴代アルバムセールスランキングでもクイーンの「グレイテスト・ヒッツ」(540万枚)、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(480万枚)、オアシスの「モーニング・グローリー」(430万枚)に次ぐ歴代4位を記録した(2006年11月時点)。

 ほとんどの曲をマーク・ノップラーが書いているが、とにかくマークのギターがカッコいい! ぼくはテクノファンだったが、このギターの音には心底しびれた。

Dire Straits - Sultans of Swing (悲しきサルタン)

http://www.youtube.com/watch?v=E2PCBx6s9SY

Dire Straits - Money For Nothing

「リクエストによる埋め込み無効」のため、こちらをクリックしてください。
当時はこれが最先端の3DCGだったらしい。(笑)
         ↓
http://www.youtube.com/watch?v=VOD805iAqjY

オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(Orchestral Manoeuvres in the Dark)はイギリスのバンド。略称はOMD。(直訳すると「暗闇で演奏するオーケストラ団」)アンディ・マクラスキーとポール・ハンフリースの二人からなる。

当時流行のシンセポップのユニットとして1980年にデビュー。「エノラ・ゲイの悲劇」がヒットする。
ドイツのシンセポップバンドであるクラフトワークから大きな影響を受けているが、よりポップであり「エレクトリック・サイモン&ガーファンクル」といった印象。

OMD-souvenir

http://www.youtube.com/watch?v=lbG491AgSes&feature=related

OMD - Forever Live And Die 1986

http://www.youtube.com/watch?v=54WLYP2PDzc&feature=related

ニルヴァーナ (Nirvana) はグランジを代表するアメリカのバンド。
ニルヴァーナは仏教用語で涅槃という意味である。

メンバーはカート・コバーン(Kurt Cobain ※カート・コベインが正しい読み)ボーカル・ギター/クリス・ノヴォセリック(Krist Novoselic)ベース/デイヴ・グロール(Dave Grohl)ドラムの3人。

1987年にニルヴァーナと名乗りシアトルを拠点として活動していたが、1994年4月5日、カート・コバーンが自宅で自殺したことで事実上の解散となる。メンバー全員(カート、クリス、デイヴ)の両親が離婚している事でも知られている。


1991年、ゲフィン・レコードよりリリースされた2ndアルバム『ネヴァーマインド - NEVERMIND - 』はアルバム・チャート1位を記録、MTVではシングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット - Smells Like Teen Spirit - 」が繰り返し流され、バンドと当時のロックシーン両方の流れに大きな影響を与えた。幼児が水中を裸で泳ぎ、紙幣に釣られるという印象的なジャケットも特徴で、パロディや服のデザインとしての使用も多い。

カートのヘロイン中毒という問題を抱えていたバンドは一時活動麻痺の状態となり、1992年にコンピレーションアルバムである『インセスティサイド - Incesticide - 』を発表することとなった。続く1993年にはニューアルバム『イン・ユーテロ - IN UTERO - 』を発表している。予想された程の売れ行きではなかったがアメリカとイギリスのチャートのトップに輝くなど依然商業的な成功を収めた。

しかしながら、巨大な成功から来る重圧に耐えられなくなり次第にドラッグにのめりこんでいったカート・コバーンは、自殺未遂や奇行が目立つようになり、ついには1994年4月5日にシアトルの自宅にてショットガンで頭を撃ち抜き、自殺。グランジ・ブームは急速に終焉を迎える。

ニルヴァーナの解散後、デイブ・グロールはフー・ファイターズ (Foo Fighters) を結成し、今なお第一線で活躍している。

Nirvana- Smells Like Teen Spirit

http://www.youtube.com/watch?v=fbsQKd9ELf4&feature=related

Nirvana - Lithium [Live]

http://www.youtube.com/watch?v=USZzH1L6nKU

チープ・トリック(Cheap Trick)は1974年にシカゴ郊外にあるロックフォード市で結成され、1977年にデビューしたアメリカのハードロック・バンド。
ライヴ・アルバム『チープ・トリックat武道館』がヒット作となり、日本武道館の名を世界中に知らしめたバンドとして有名である。

* ロビン・ザンダー(Robin Zander) - ボーカル
* リック・ニールセン(Rick Nielsen) - ギター
* トム・ピーターソン(Tom Petersson) - ベース ( - 1980、1987 - )
* バン・E・カルロス(Bun E. Carlos) - ドラムス
* ジョン・ブラント (Jon Brant) - ベース ( 1982 - 1987 )

リック・ニールセンとトム・ピーターソンは、Fuseというバンドのメンバーとして1969年にメジャー・デビューするが、商業的成功には恵まれず、一時はフィラデルフィアに拠点を移す。その後、リックとトムはイリノイ州に戻り、バン・E・カルロスやランディ・ホーガンと共にチープ・トリックを結成。しかし、ランディは間もなく脱退し、後任としてロビン・ザンダーが加入してラインナップが固まる。

1977年、デビュー・アルバム『チープ・トリック』発表。しかし、本国アメリカでは成功せず、その後2枚のアルバムもヒットしなかったが、日本では人気が高まっていき、1978年4月には、初の日本公演を行う。その時の模様を収録したライヴ・アルバム『チープ・トリックat武道館』(1978年)は、当初は日本限定企画だったが、本国アメリカで日本からの輸入盤が売れ出したため、1979年に本国でもリリースされ、バンドにとって初の全米トップ10入り(最高4位)を果たした。

1980年、ロビン以外の3人は、ジョン・レノン「アイム・ルージング・ユー」のレコーディング・セッションに参加。チープ・トリックが参加したヴァージョンは、ジョンのアルバム『ダブル・ファンタジー』には収録されず、後にボックス・セット『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表される。
同年発表のアルバム『オール・シュック・アップ』は、ビートルズとの仕事で知られるジョージ・マーティンがプロデュースを担当。しかし、同作を最後にトムが脱退。バンドはピート・コミタを迎えてツアーを行い、その後ピートに代わってジョン・ブラントが加入。トッド・ラングレンがプロデュースを担当した『ネクスト・ポジション・プリーズ』(1983年)等の意欲作を発表するが、セールス的には落ち込んでいった。1986年には、映画『トップガン』のサウンドトラックに「Mighty Wings」を提供。

1987年、トムがバンドに復帰。翌年には、アルバム『永遠の愛の炎』が全米16位のヒットとなり、同作からのシングル「The Flame」は、バンドにとって初の全米1位シングルとなった。

その後、バンドはワーナー・ブラザーズ・レコードに移籍し、テッド・テンプルマンのプロデュースによる『蒼い衝動』(1994年)を発表するが、同作は商業的には成功せず、バンドはほどなくワーナー・ブラザーズを離れる。以後、バンドはライヴ中心の活動に移行し、サブ・ポップからシングル「Baby Talk」をリリースした後は、Red AntやBig3といったインディーズ・レーベルから作品を発表。

Dream Police - Cheap Trick

http://www.youtube.com/watch?v=MjMCaw4qzjg


Cheap Trick - I Want You To Want Me (甘い罠)

http://www.youtube.com/watch?v=HBQ9dm7zaQU

ドナ・サマー(Donna Summer、1948年12月31日 - )は、アメリカ合衆国のポップ・ミュージックシンガー。

1970年代にジョルジオ・モロダーのプロデュースにより、ディスコ・ミュージックの第一人者として活躍し「ディスコの女王」(Queen of Disco)と呼ばれ、一世を風靡した。

2008年から2009年にかけて、シングル『I'm A Fire』、『Stamp Your Feet』そして『Fame (The Game)』が、3曲連続でビルボードのダンス・チャートで1位になったのは記憶に新しい。
これらのヒットにより、彼女は70年代、80年代、90年代そして2000年代の総てのビルボード誌のダンス・チャートにおいて1位に輝いた唯一のアーティストとしての新記録を達成し、『Fame (The Game)』は彼女にとって総てのビルボード・シングル・チャートにおける21曲目の1位となった。

Donna Summer - Hot Stuff( LIVE)

http://www.youtube.com/watch?v=wPlV2dzXWCw&feature=related

Donna Summer - I Feel Love

http://www.youtube.com/watch?v=Z-iQlC-HVs4&feature=fvw

ロキシー・ミュージック (Roxy Music)は、1971年にデビューしたイギリスのロック・グループ。

女子校の美術講師をしながら、陶芸の創作活動していたブライアン・フェリーは、キング・クリムゾンのヴォーカリスト・オーディションをエルトン・ジョン等と共に受けているが落選(この時合格したのはボズ・バレル)した。
しかしその際に、EG(当時のクリムゾンの所属事務所)に知られたことが後の活動に大きな意味を持っている。

1971年12月24日のファーストライヴで、以前クリムゾンのオーディションで自分を落としたEG関係者を打ちのめし、翌年2月14日にマネジメント契約を勝ち取る。
6月には1st.アルバム"ROXY MUSIC"、7月には1st.シングル"Virginia Plain"を発表。
当時グラムロック全盛のロンドンで、彼らは他のグラムロッカー達と、サウンドの特徴において全く共通点がなく、その異質ぶりはシーンで大きく注目された。
1st.アルバム"ROXY MUSIC"の特徴は、1990年代のピチカート・ファイヴが得意だった本歌取り、そして今日のDJが行っている「リミックス」を先取りしていたことである。古典的なロックンロールの典型パターンをループさせ、当時としては非常に斬新であるシンセサイザーノイズを被せた「Re-make/Re-model」は、今で言うリミックスに他ならない。

1973年3月には早くも2nd.アルバム"For Your Pleasure"を発表。「男装の麗人」アマンダ・レアが登場したジャケットが話題となり、よりダークかつ先鋭化した内容が注目を集め、英チャート上位に食い込む成功を収める。
このアルバムをリリースした後、ロキシーの音楽を考える上で転機とも言えるメンバー・チェンジが発表される。ブライアン・イーノの脱退である。元々イーノは効果音・エフェクト担当という非常にファジーなポジションであったが、当時の彼の人気は絶大で、フロントであるべきフェリーが「バンドに二人もブライアンは要らない」と言ってイーノをクビにしたとの説まである。

バンドは元カーヴド・エアのマルチプレイヤーである(キーボードとヴァイオリン)エディ・ジョブソンを加え、1973年11月に3rd.アルバム"Stranded" を発表。ヨーロッパ浪漫主義的方向を指向しはじめる。
イーノというある種の異物を排除した結果、当初のロキシーに色濃く感じられたプログレッシブ・ロック的と言える前衛性は薄れていく。

1974年11月、4th.アルバム"Country Life"発表。
1975年10月、5th.アルバム"Siren"発表。ジャケットに写っている女性モデル、ジェリー・ホールは、当時ブライアン・フェリーの恋人だったが、後年ミック・ジャガーと結婚。本作からの先行シングル「Love Is The Drug」は、全英2位・全米30位のヒットを記録し、一躍ロキシーの名を広めた。しかし、ツアー終了後にロキシーは一度解散。1976年発表のライヴ盤"Viva! Roxy Music"が、初期ロキシー最後のアルバムとなった。

1978年にロキシー・ミュージックは再結成。
1979年に復活作"Manifesto"を発表。イーノもジョブソンも不在のため、以前よりもポップな音作りに変化したが、退廃的な美学は不変であった。
1980年にアルバム"Flesh + Blood"を発表。本作からのシングル"Same Old Scene"は、映画『タイムズ・スクエア』で使われる。そして、1980年12月8日に凶弾に倒れたジョン・レノンを追悼するため、1981年にジョンのカヴァー"Jealous Guy"をシングルで発表。全英1位となった。

1982年、復活第3弾アルバム"Avalon"発表。かつての前衛的な色合いは、すっかり影を潜めたが、楽曲の充実度は高く、先行シングル"More Than This"は全英6位のヒットとなり、アルバム自体も全英1位を獲得。
その後、大規模なワールド・ツアーを行う。ヨーロッパではキング・クリムゾンを前座に従え(!)、1983年2月には、ロキシーとしては79年以来2度目の来日も実現。
その後、ライヴ・ミニ・アルバム"The High Road"を最後に、ロキシーは再び眠りについた。

Roxy Music - Same Old Scene

http://www.youtube.com/watch?v=tZW0BMyCeIo

Roxy Music - Avalon

http://www.youtube.com/watch?v=Lp4J5t4RdYY

マリアンヌ・フェイスフル(Marianne Faithfull 1946年12月29日-)はイギリス生まれの歌手・女優。

イギリス・ロンドン生まれ。父親は大学教授、母親はオーストリアの名門貴族の家系出身で、先祖がレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの血筋を引いている。
しかし家庭がそれほど裕福だったわけではなく、幼いころに両親が離婚し、マリアンヌは修道院で育つ事になる。

17歳の時にジョン・ダンバーと結婚。ダンバーとローリング・ストーンズのマネージャーが知り合いだったコネで、芸能界に入ることになる。
彼女のために用意された曲は、ミックジャガー作曲の「As Tears Go By」で、1964年に歌手としてデビューする事になった。
その後ポップ・アイドルとしての地位を確立し、その清らかな歌声とロリータ的な美貌で人気を博す。さらにジャン=リュック・ゴダールに見出され映画デビューも果たす。
その後ダンバーと離婚し、本格的にストーンズの恋人になる。

清楚なルックスと歌声で映画界からも声がかかり、ゴダール以外にも、アンナ・カリーナとセルジュ・ゲンズブールが主演のTV映画『アンナ』や、アラン・ドロン主演の映画『あの胸にもういちど』という作品でヒロインに抜擢。ドロンと不倫に身を投じる女性という重要な役どころを演じた。

1960年代後半、全裸でオーバードーズになって倒れているところを警察に見つかり、さらに全裸写真が新聞にまで載るなど芸能界を揺るがすスキャンダルに巻き込まれた。
この事件で、それまでの可憐で清純だったイメージを捨てざるをえなくなり、マリアンヌのアイドル生命は終わった。

当時、ミック・ジャガーと付き合っていたが、騒動で追い詰められ、流産。ドラッグに手を出し度も自殺未遂を繰り返したという。
マリアンヌを見かねたミックは、薬を止めさせようとしたがうまくいかず、結局二人は1970年に破局。
とうとうアルコール中毒になり、1960年代末期から1970年代半ばまで、マリアンヌは地獄のような時期を過ごす。実際にホームレス寸前にまでなったことがあったという。
かつての綺麗な歌声や可憐さの片鱗すらなく、長い低迷期から復活した1970年代後期の頃にはドラッグやタバコ、アルコールの影響ですっかりしゃがれ声になっていた。

しかし、このしゃがれ声と退廃的なムードが後期パンクロック全盛期にマッチしたのか、アルバム「ブロークン・イングリッシュ」で奇跡の復活を遂げる。

Broken English - Marianne Faithfull

http://www.youtube.com/watch?v=LoQILgFm3Gg

As Tears Go By-Marianne Faithfull

http://www.youtube.com/watch?v=3TN4N_1a8ic

【参考】アイドルだったころのマリアンヌ・フェイスフル/As Tears Go By

http://www.youtube.com/watch?v=FhPPJ5dolxU&feature=related

Gary Numanはイギリスのミュージシャン。
シンセサイザー、コンピュータを駆使したサウンドはエレクトロ・ポップと呼ばれ、OMDやヒューマン・リーグといったグループと共に次々とヒットを飛ばし、テクノブームを作り上げた。

ロンドンのハマースミスで生まれたゲイリーはポール・ガーディナーらとチューブウェイ・アーミーを結成し、パンクとクラフトワークの融合した世界を目指した音楽性で活動を開始。
セカンド・アルバム『レプリカス』が全英チャートを駆け上がる大ヒットとなり、ゲイリー・ニューマン名義で発表したソロアルバム『プレジャー・プリンシプル』も大ヒット。
レプリカントを連想させる無表情なのゲイリーのキャラクターと重なって、そのSF的なサウンドは一大ブームを巻き起こす。
一時はアルバム売り上げベスト10に3枚のアルバムがチャート・インし、『プレジャー・プリンシプル』はレッド・ツェッペリンの「イン・スルー・ジ・アウトドア」を蹴落として1位となった。
とくにシングル「カーズ」はイギリスのみならず世界的なヒットとなり、結果としてこうしたゲイリー(チューブウェイ・アーミー)の成功が、インディとしてスタートしたばかりであったベガーズ・バンケットの大きな土台を作ることになる。

ブームは去ったものの、一貫してイギリスでの人気は根強く、90年代以降になるとナイン・インチ・ネイルズ、マリリン・マンソン、スマッシング・パンプキンズといったアメリカの人気グループが、その影響やリスペクトを示し再評価の波が高まっていった。

Gary Numan-Cars

http://www.youtube.com/watch?v=Ldyx3KHOFXw

ソロデビュー前のTubewayArmy時代の映像。

Tubeway Army - Down in the Park

http://www.youtube.com/watch?v=K1EUxGZQoDU&feature=related

Supertrampは1970年にアルバム「スーパートランプ」でデビューしたイギリスのプログレッシブ・ロックバンド。
スーパートランプという名前は、1910年に出版されたW.H.デイヴィスの小説「The Autobiography Of Supertramp」から取られた。(Tramp とは"放浪する人"という意味。カードゲームのtrumpではない)

このファースト・アルバムはまったく売れなかったが、すでにブルース、ジャズ、プログレなどを取り入れたバラエティに富む音楽性を持っていた。
幾度かのメンバー・チェンジを繰り返し翌71年にセカンド・アルバム「消えない封印」を発表。
このセカンドでは、ファーストでみせた多彩な音楽性にプラスしてポップな面も現れ、ほぼ以降のスーパートランプ・サウンドを確立したが、当時は見向きもされなかった。
そして73年、またもや大幅なメンバーチェンジが起き、ホジソンとデイヴィス以外のメンバーが全員脱退。しかし、新たなメンバーは以降不動のラインナップとしてスーパートランプで活動していくことになる。

Roger Hodgson ロジャー・ホジソン/ヴォーカル、ギター、ピアノ
Richard Davies リチャード(リック)・デイヴィス/ヴォーカル、キーボード
Bob C. Benberg ボブ・C・ベンバーグ/ドラムス、パーカッション
John Anthony Helliwell ジョン・ヘリウェル/サックス、クラリネット、ヴォーカル
Dougie Thomson ダギー・トムソン/ベース・ギター

このメンバーでじっくり時間をかけリハーサルした彼らは、74年、サード・アルバム「クライム・オブ・ザ・センチュリー」を完成させた。
このアルバムでは、それまであまり表に出なかったホジソンのヴォーカルを大きくフューチャー。これが彼らの軽妙なサウンドにピッタリとはまり、アルバムは全英4位/全米38位の大ヒットとなり、ホジソンが唄った「ドリーマー」は全英13位と初めてのシングルヒットも記録。
翌75年には全英・全米ツアーも行い、間髪を空けずに4作目のアルバム「危機への招待」もリリース。このアルバムも全英20位/全米44位と好評を呼び、さらに人気を不動のものにした。
彼らは、全米進出を果たすべく76年の初めにアメリカへと移住。77年発表の移住後初のアルバム「蒼い序曲」は全英12位/全米16位の大成功を収めた。また、ここからのシングル「少しは愛をください」(Give A Little Bit)は、全米で15位まで上昇する大ヒットとなった。

彼らの次作「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、驚異的ビッグ・ヒットを記録する。
79年にリリースしたこの6th.アルバムは、なんと全米で6週間連続No.1(全英は3位)という金字塔を打ち立てる。シングルでも「ブレックファスト・イン・アメリカ」(全英9位)、「ロジカル・ソング」(全英7位/全米9位)などを次々とヒットさせ、世界各国で大ブレイクした。このアルバムでは、イギリス人から見たアメリカの姿をユーモラスに描き出している。

その後あまりの多忙さに疲れたのか、しばらく沈黙し、82年になってようやくニュー・アルバム「フェイマス・ラスト・ワーズ」を発表した。このアルバムは、全英6位/全米5位まで上昇。シングル「イッツ・レイニング・アゲイン」も全英26位/全米11位と、まずまずのヒットとなった。
ところが、この年まさかのホジソン脱退が伝えられた。ホジソンは脱退後84年と87年にソロ・アルバムを発表するものの、精力的にソロ活動するでもなく、いったい何故脱退したのか真相はまったく不明である。
残った4人のメンバーは85年になって活動を再開。が、やはりホジソンの抜けた穴は大きく、往年の輝きを取り戻すことはなかった。

Supertramp -Breakfast in America

http://www.youtube.com/watch?v=Jh2TJ2DAy_o&feature=player_embedded

メン・アット・ワーク(Men at Work)はオーストラリアのバンド。 1979年、メルボルンにて結成。

1979年にデビュー。1981年にアルバム『ワーク・ソングス(Business as Usual)』をリリース。アルバムの好評を受けて1982年に世界進出する。いきなり「ノックは夜中に(Who Can It Be Now?)」、「ダウン・アンダー(Down Under)」の2曲の全米ナンバーワンヒットを放ち、グラミー賞最優秀新人賞にも輝いた。

コリン・ヘイのひょうひょうとした歌声と、オーストラリアのことを世界地図の下側にあるから自虐的に「ダウン・アンダー」と表すユーモアセンスが受け、一時はオーストラリアのロックを指して「オージー・ロック」なる言葉も生まれた。

余勢を駆って次作の『カーゴ』もヒットするが、メンバーの脱退もあって後が続かず、1985年に活動を停止。ヘイはソロ活動に移行したが成功には至らなかった。

Men at Work-Who Can It Be Now?(ノックは夜中に)

http://www.youtube.com/watch?v=ho3Zd9fncKg

ジェネシス(Genesis)は、70年代はプログレッシヴ・ロックバンドとして名を馳せ、後に80年代を代表するポップバンドとして変容したイギリスのグループである。

【ピーター・ガブリエル在籍時】
ジェネシスは、イギリスのパブリックスクールの同級生であったピーター・ガブリエル(Vo.)、アンソニー・フィリップス(G.)、トニー・バンクス(Key.)、マイク・ラザフォード(B.)、クリス・スチュワート(Dr.)が在学中に結成したスクールバンドが母体となり、1969年にデビュー。

1970年、脱退したメンバーの代わりに、オーディションで選ばれたスティーヴ・ハケットとフィル・コリンズが加入。

初期のサウンドはアンソニー・フィリップスの力量によるところが大きかったが、新加入の二人のメンバーの個性が、バンドのサウンドを大きく変貌させる。そして3作目にあたる『怪奇骨董音楽箱』(1971年)でプログレッシブ・ロック・バンドとしての評価を確立。ピーター・ガブリエルの演劇性を持った独特のステージ・パフォーマンスもあって、ヨーロッパで大人気となる。
1975年、ガブリエルが『幻惑のブロードウェイ』ツアーの後に、プライベートな問題を理由に脱退。以降はソロとして活動しており、世界的な成功を収めている。

【フィル・コリンズ主導による黄金期】

その後は、3作目以降のドラマーであったフィル・コリンズがリード・ボーカルも担当し、よりリズムを強調した新しいプログレ・サウンドに変化する。

さらに、ギタリストのスティーヴ・ハケット脱退後は、ベーシストのマイク・ラザフォードがギターも担当するというトリオ編成となった。3人でレコーディングした1978年発表の『そして3人が残った』では、それまでよりポップス色を深め、アメリカでの人気を不動のものとする。
1986年の『インヴィジブル・タッチ』は世界的な大ヒットとなり、アルバムのタイトル曲「インヴィジブル・タッチ」は1986年7月19日付のビルボード・シングルチャートで全米NO.1となった。バンドにとってこれは最初で最後の全米No.1となった。
その翌週、ジェネシスを1位の座から引きずり落とし、全米No.1に輝いたのは皮肉にもジェネシスを脱退したピーター・ガブリエルの「スレッジハンマー」だった。

80年代の中盤からは、各メンバーのソロ活動が活発になる。特に、フィル・コリンズはソロ・アーティストとしてジェネシス以上の成功を収めた。バンドとソロ活動に加え、映画出演やプロデュース業もこなし、「世界で最も忙しい男」と呼ばれた。

1996年、フィル・コリンズが脱退を表明。1997年に新生ジェネシスとして『コーリング・オール・ステーションズ』を発表したが、アメリカでのセールスに恵まれず、その後1998年にバンドは活動を停止した。
2006年、フィル・コリンズ、トニー・バンクス、マイク・ラザフォードの黄金期のメンバー3人による活動再開と欧州ツアーが発表された。
2007年5月より「ターン・イット・オン・アゲイン・ツアー」を開始したが、2008年にフィルが「脊髄手術の後遺症で手の動きに支障が出ている」と発表。レコーディング、ライブからの引退を表明し、黄金期メンバーでの活動の可能性は完全になくなった。

演劇的要素が大きかった、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシス
Genesis - The Musical Box

http://www.youtube.com/watch?v=W35wtfcByIY






リズムを強調し、よりポップになったフィル・コリンズ主導時のジェネシス


Genesis - Invisible Touch
「リクエストによる埋め込み無効」のため、こちらをクリックしてください。
       ↓
http://www.youtube.com/watch?v=epOBenUjIHw

バースデイ・パーティ(BIRTHDAY PARTY)は、ニック・ケイブを中心とする、オーストラリアのオルタナティブ・パンクバンンド。
絶対にMTVからお呼びがかかるわけがない不協和音、ノイズ、グロテスク、といったロックの闇の部分というか汚物というか.....を寄せ集めて作ったような音が特徴。(笑)

名前の由来となった Harold Pinterの劇と同様、彼らの音楽はダークでありながらコミカルでグロテスクである。
80年から83年までという短い活動期間で、神経症患者を思わせるニック・ケイヴの絶叫ボーカルと攻撃的なライヴは、次世代のミュージシャンに多大な影響を与えたといえる。アルバム『サムタイムス・プレジャーヘッズ・マスト・バーン』でのエネルギッシュなパーカッション、「リリース・ザ・バッツ」や「ビッグ・ジーザス・トラッシュ・カン」での衝突する叫び声にリスナーは恐怖さえ覚えてしまうだろう。
彼らの音楽は、目を背けたくなるぐらい恐ろしく醜いのに、なぜか美しさを兼ね備えている。

BIRTHDAY PARTY- FRIEND CATCHER
http://www.youtube.com/watch?v=WTOd7UiH4tI&feature=related

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