Duran Duran(デュラン・デュラン)は、イギリスのロックバンド。
1980年代前半のニューロマンティックといわれるムーブメントやMTVブームの火付け役。 バンド名はジェーン・フォンダが主演したSF映画『バーバレラ』(1968年)で登場する悪役「デュラン・デュラン(Durand-Durand)博士」より。
YAZOOはデペッシュ・モードを脱退したキーボード奏者、ヴィンス・クラークがヴォーカリストのアリソン・モイエ(2人ともイギリスのエセックス生まれ)と82年に結成したエレポップ・デュオ。
彼らのデビュー・シングル「Only You」は全英で最高第2位を記録し、続く第2弾シングル「Don't Go」も、チャートの3位にまで浮上した。
その後のアメリカ・ツアー中に米国のレコード会社"YAZOO"との混同を避けるため、デュオ名を"YAZOO"から"YAZ"へと変更。その間にリリースされた1stアルバム『Upstairs at Eric's』(82年)も、力強いメロディラインとモイエの表現力豊かなヴォーカル、当時の空気をいっぱいに吸い込んだ哀愁あふれるエレクトロニック・サウンドで賞賛された。その後も「The Other Side of Love」「Nobody's diary」といったヒットを飛ばすが、83年にはあっけなくユニットを解散。--以降、モイエはソロ・シンガーとして、またクラークはアッセンブリーを経てイレイジャーのメンバーとして、それぞれ活躍している。
1980年自分たちのシングル曲「ニューヨークのイギリス人」でプロモーションビデオを監督。その後ポリス、デュラン・デュラン他のアーティスト達のビデオを手がけ、高い評価を受ける。1985年のMTV Video Music Awardsでは"Video Vanguard Award"を受賞した。
一方音楽活動では1985年のシングル「クライ」がプロモビデオの高評価も伴い彼らの代表曲となった。このビデオの手法は、のちにマイケル•ジャクソンが「ブラック•オア•ホワイト」でちゃっかりパクっている。
1977年、ジェフ・ダウンズ、トレヴァー・ホーンにより結成。二人は大のイエスファン同士で、イエスに憧れてバンド活動を開始する。
1979年にデビュー曲の『ラジオ・スターの悲劇(Video Killed The Radio Star)』が全英1位の大ヒットを記録。きっちりと計算された音作りのエレクトリック・ポップは、ニュー・ウェイヴの時代を象徴する一曲となった。
ヒューマン・リーグを脱退したマーティン・ウェアーとイアン・クレイグ・マーシュが、並行して活動していたB.E.F.(British Electric Foundation)プロジェクトでヴォーカルを務めたグレン・グレゴリーを誘い結成した。名前の由来は、小説『時計じかけのオレンジ』の一節から取られている。
1982年デビュー。メンバー全員が、既に世界的なキャリア/知名度を得ていたミュージシャンであったため、デビューの時点からスーパーグループとして注目された。「プログレッシヴ・ロックのエッセンスをポップスとして鏤めた3分半の楽曲」というスタイルを確立し、そのスタイルにそってリリースされたファースト・アルバム『Asia(詠時感〜時へのロマン)』は数ヶ月後には全米NO.1を9週連続キープ、全世界で1500万枚のセールスを達成。同アルバムからシングルカットされた『Heat Of the Moment』は全米ロックチャート1位、全米ポップチャートでも4位となり、商業的にも成功を納めている。アルバムデビューの時点のメンバーは、ジョン・ウェットン(vo.b/元キング・クリムゾン、ロキシー・ミュージック、U.K.)、スティーヴ・ハウ(g.vo/元イエス)、カール・パーマー(ds/元EL&P)、ジェフ・ダウンズ(kbd/元バグルス、イエス)。
1978年に1stアルバム「Dire Straits」をリリース。ルーツ・ミュージックに独自の解釈を施した音楽に高い評価を付ける向きもあったものの、当時のトレンドである音楽ジャンルとは異質であり、直ちにチャート・アクションには反映されなかった。しかし、オーストラリアのラジオ局でファースト・シングルの「Sultans of Swing/悲しきサルタン」がヘヴィー・ローテーションされた頃から風向きが変わりチャートを上昇。
アルバムは全米で2位、全英で8位を記録し、全世界で1500万枚を売り上げる。また、ボブ・ディランのアルバム参加やプロデュースで名を上げたノップラーは、早くもミュージシャンズ・ミュージシャン(同業者の中でも評価されること)として認知されるようになる。
1985年に発表したアルバム「ブラザーズ・イン・アームス」では、スティングをフィーチャーしたシングル曲「Money For Nothing」の3DCG(当時としては最新鋭の技術であった)を取り入れたミュージック・ビデオが、MTVで大量にオンエアされた効果で、全米No.1を3週連続でキープする爆発的なヒットを記録。イギリス国内だけでも390万枚以上を売り上げるセールスを達成し、英国内での歴代アルバムセールスランキングでもクイーンの「グレイテスト・ヒッツ」(540万枚)、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(480万枚)、オアシスの「モーニング・グローリー」(430万枚)に次ぐ歴代4位を記録した(2006年11月時点)。
1970年代にジョルジオ・モロダーのプロデュースにより、ディスコ・ミュージックの第一人者として活躍し「ディスコの女王」(Queen of Disco)と呼ばれ、一世を風靡した。
2008年から2009年にかけて、シングル『I'm A Fire』、『Stamp Your Feet』そして『Fame (The Game)』が、3曲連続でビルボードのダンス・チャートで1位になったのは記憶に新しい。
これらのヒットにより、彼女は70年代、80年代、90年代そして2000年代の総てのビルボード誌のダンス・チャートにおいて1位に輝いた唯一のアーティストとしての新記録を達成し、『Fame (The Game)』は彼女にとって総てのビルボード・シングル・チャートにおける21曲目の1位となった。
1973年3月には早くも2nd.アルバム"For Your Pleasure"を発表。「男装の麗人」アマンダ・レアが登場したジャケットが話題となり、よりダークかつ先鋭化した内容が注目を集め、英チャート上位に食い込む成功を収める。
このアルバムをリリースした後、ロキシーの音楽を考える上で転機とも言えるメンバー・チェンジが発表される。ブライアン・イーノの脱退である。元々イーノは効果音・エフェクト担当という非常にファジーなポジションであったが、当時の彼の人気は絶大で、フロントであるべきフェリーが「バンドに二人もブライアンは要らない」と言ってイーノをクビにしたとの説まである。
1974年11月、4th.アルバム"Country Life"発表。
1975年10月、5th.アルバム"Siren"発表。ジャケットに写っている女性モデル、ジェリー・ホールは、当時ブライアン・フェリーの恋人だったが、後年ミック・ジャガーと結婚。本作からの先行シングル「Love Is The Drug」は、全英2位・全米30位のヒットを記録し、一躍ロキシーの名を広めた。しかし、ツアー終了後にロキシーは一度解散。1976年発表のライヴ盤"Viva! Roxy Music"が、初期ロキシー最後のアルバムとなった。
1978年にロキシー・ミュージックは再結成。
1979年に復活作"Manifesto"を発表。イーノもジョブソンも不在のため、以前よりもポップな音作りに変化したが、退廃的な美学は不変であった。
1980年にアルバム"Flesh + Blood"を発表。本作からのシングル"Same Old Scene"は、映画『タイムズ・スクエア』で使われる。そして、1980年12月8日に凶弾に倒れたジョン・レノンを追悼するため、1981年にジョンのカヴァー"Jealous Guy"をシングルで発表。全英1位となった。
1982年、復活第3弾アルバム"Avalon"発表。かつての前衛的な色合いは、すっかり影を潜めたが、楽曲の充実度は高く、先行シングル"More Than This"は全英6位のヒットとなり、アルバム自体も全英1位を獲得。
その後、大規模なワールド・ツアーを行う。ヨーロッパではキング・クリムゾンを前座に従え(!)、1983年2月には、ロキシーとしては79年以来2度目の来日も実現。
その後、ライヴ・ミニ・アルバム"The High Road"を最後に、ロキシーは再び眠りについた。
Roger Hodgson ロジャー・ホジソン/ヴォーカル、ギター、ピアノ
Richard Davies リチャード(リック)・デイヴィス/ヴォーカル、キーボード
Bob C. Benberg ボブ・C・ベンバーグ/ドラムス、パーカッション
John Anthony Helliwell ジョン・ヘリウェル/サックス、クラリネット、ヴォーカル
Dougie Thomson ダギー・トムソン/ベース・ギター
このメンバーでじっくり時間をかけリハーサルした彼らは、74年、サード・アルバム「クライム・オブ・ザ・センチュリー」を完成させた。
このアルバムでは、それまであまり表に出なかったホジソンのヴォーカルを大きくフューチャー。これが彼らの軽妙なサウンドにピッタリとはまり、アルバムは全英4位/全米38位の大ヒットとなり、ホジソンが唄った「ドリーマー」は全英13位と初めてのシングルヒットも記録。
翌75年には全英・全米ツアーも行い、間髪を空けずに4作目のアルバム「危機への招待」もリリース。このアルバムも全英20位/全米44位と好評を呼び、さらに人気を不動のものにした。
彼らは、全米進出を果たすべく76年の初めにアメリカへと移住。77年発表の移住後初のアルバム「蒼い序曲」は全英12位/全米16位の大成功を収めた。また、ここからのシングル「少しは愛をください」(Give A Little Bit)は、全米で15位まで上昇する大ヒットとなった。
メン・アット・ワーク(Men at Work)はオーストラリアのバンド。 1979年、メルボルンにて結成。
1979年にデビュー。1981年にアルバム『ワーク・ソングス(Business as Usual)』をリリース。アルバムの好評を受けて1982年に世界進出する。いきなり「ノックは夜中に(Who Can It Be Now?)」、「ダウン・アンダー(Down Under)」の2曲の全米ナンバーワンヒットを放ち、グラミー賞最優秀新人賞にも輝いた。
名前の由来となった Harold Pinterの劇と同様、彼らの音楽はダークでありながらコミカルでグロテスクである。
80年から83年までという短い活動期間で、神経症患者を思わせるニック・ケイヴの絶叫ボーカルと攻撃的なライヴは、次世代のミュージシャンに多大な影響を与えたといえる。アルバム『サムタイムス・プレジャーヘッズ・マスト・バーン』でのエネルギッシュなパーカッション、「リリース・ザ・バッツ」や「ビッグ・ジーザス・トラッシュ・カン」での衝突する叫び声にリスナーは恐怖さえ覚えてしまうだろう。
彼らの音楽は、目を背けたくなるぐらい恐ろしく醜いのに、なぜか美しさを兼ね備えている。