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原始仏典コミュの止観2   (南伝18 P431−432他)

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増支部経典>四集

「比丘たちよ、これらは四法である。何を四とするのか。
 比丘たちよ、知ってまさに遍知されるべき法がある。比丘たちよ、知ってまさに断たれるべき法がある。比丘たちよ、知ってまさに修されるべき法がある。比丘たちよ、知ってまさに作証されるべき法がある。
 
 比丘たちよ、何が知ってまさに遍知されるべき法か。
 五取蘊である。比丘たちよ、これらを知ってまさに遍知されるべき法となす。

 比丘たちよ、何が知ってまさに断たれるべき法か。
 無明と有愛である。比丘たちよ、これらを知ってまさに断たれるべき法となす。

 比丘たちよ、何が知ってまさに修されるべき法か。
 サマタとヴィパッサナーである。比丘たちよ、これらを知ってまさに修されるべき法となす。

 比丘たちよ、何が知ってまさに作証されるべき法か。
 明と解脱である。比丘たちよ、これらを知ってまさに実証されるべき法となす。

 比丘たちよ、これらは四法である」
      南伝大蔵経18 増支部経典2 P431−432 の口語訳

遍知法  五取蘊         苦諦
断滅法  無明と有愛       集諦
修習法  サマタとヴィパッサナー 道諦
実証法  明と解脱        滅諦





「比丘たちよ、五支に摂受された正見には心解脱の果があり、心解脱の果の勝利がある。慧解脱の果があり、慧解脱の果の勝利がある。何を五とするのか。

 比丘たちよ、世に正見があり、戒に摂受され、聞に摂受され、論議に摂受され、サマタに摂受され、ヴィパッサナーに摂受される。

 比丘たちよ、これらの五支に摂受された正見は心解脱の果があり、心解脱の果の勝利がある。慧解脱の果があり、慧解脱の果の勝利がある」
      南伝大蔵経19 増支部経典3 P27ー28

論議:サーカッチャー
法談:ダンマサーカッチャー
戒が戒学、サマタが心学、聞と論とヴィパッサナーと正見が慧学に相当するのかも知れません。正見を中心にした五です。




次は止観と四タイプの人の関係です。先に少し訳語を解説します。

内に心サマタ:ajjhattaṃ cetosamatha、内心の止、内心の寂静
増上慧法ヴィパッサナー:adhipaññādhammavipassanā、adhi(増上)+paññā(慧)+dhamma(法)+vipassanā(観)、
            増上慧法観、増上(より優れた、さらに上の)慧による法の観察


「(九十二)

 比丘たちよ、これらの四人が世の中にいる。何を四とするか。
 比丘たちよ、世に一人の人がいる。内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。増上慧法ヴィパッサナーを得て、内に心サマタを得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。内に心サマタをも得ず、増上慧法ヴィパッサナーをも得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。内に心サマタをも得て、増上慧法ヴィパッサナーをも得る。
 比丘たちよ、これらの四人が世の中にいる。


 (九十三)

 比丘たちよ、これらの四人が世の中にいる。何を四とするか。
 比丘たちよ、世に一人の人がいる。内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。増上慧法ヴィパッサナーを得て、内に心サマタを得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。内に心サマタをも得ず、増上慧法ヴィパッサナーをも得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。内に心サマタをも得て、増上慧法ヴィパッサナーをも得る。
 
 比丘たちよ、このうち、内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得ない人は、比丘たちよ、内の心サマタに住して増上慧法ヴィパッサナーを修すべきである。彼は後に内に心サマタをも得て、また増上慧法ヴィパッサナーをも得る。
 比丘たちよ、このうち、増上慧法ヴィパッサナーを得て、内に心サマタを得ない人は、比丘たちよ、増上慧法ヴィパッサナーに住して内の心サマタを修すべきである。彼は後に増上慧法ヴィパッサナーをも得て、また内に心サマタをも得る。
 比丘たちよ、このうち、内に心サマタをも得ず、また増上慧法ヴィパッサナーをも得ない人は、比丘たちよ、それらの善法を得るために、増上の意欲(chanda)、勤、勇、および努力、および退転しない念と正知とを起こすべきである。比丘たちよ、たとえば衣が燃え、頭が燃える人がいるとき、その衣あるいはその頭を消すように、増上の意欲、勤、勇、および努力、および退転しない念と正知とを起こすべきである。まさにそのように、比丘たちよ、その人はすなわちそれらの善法を得るために、増上の意欲(chanda)、勤、勇、および努力、および退転しない念と正知とを起こすべきである。彼は後に内に心サマタをも得て、また増上慧法ヴィパッサナーをも得る。
 比丘たちよ、このうち、内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーをも得る人は、比丘たちよ、すなわちそれらの善法に住してさらに諸漏を尽くすために修行すべきである。

 比丘たちよ、これらの四人がいて、世の中にいる。



 (九十四)

 比丘たちよ、これらの四人が世の中にいる。何を四とするか。
 比丘たちよ、世に一人の人がいる。内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。増上慧法ヴィパッサナーを得て、内に心サマタを得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。内に心サマタをも得ず、増上慧法ヴィパッサナーをも得ない。
 比丘たちよ、また世に一人の人がいる。内に心サマタをも得て、増上慧法ヴィパッサナーをも得る。

 比丘たちよ、このうち、内に心サマタを得て、増上慧法ヴィパッサナーを得ない人は、比丘たちよ、増上慧法ヴィパッサナーを得た人に近づいてこのように言うべきである。『友よ、諸行はどのように見られるべきなのか。諸行はどのように取られるべきなのか。諸行はどのように観察されるべきなのか』と。彼は彼に見た通りに、知った通りに説き示すべきである。『友よ、諸行はこのように見られるべきだ。諸行はこのように取られるべきだ。諸行はこのように観察されるべきだ』と。彼は後に内に心サマタをも得て、また増上慧法ヴィパッサナーをも得る。

 比丘たちよ、このうち、増上慧法ヴィパッサナーを得て、内に心サマタを得ない人は、比丘たちよ、内に心サマタを得た人に近づいてこのように言うべきである。『友よ、心はどのように住まわせるべきなのか。心はどのように静まらせるべきなのか。心はどのように専一にすべきなのか。心はどのように定まらせるべきなのか』と。彼は彼に見た通りに、知った通りに説き示すべきである。『友よ、心はこのように住まわせるべきだ。心はこのように静まらせるべきだ。心はこのように専一にすべきだ。心はこのように定まらせるべきだ』と。彼は後に増上慧法ヴィパッサナーをも得て、また内に心サマタをも得る。

 比丘たちよ、このうち、内に心サマタをも得ず、増上慧法ヴィパッサナーをも得ない人は、比丘たちよ、内に心サマタを得、また増上慧法ヴィパッサナーをも得た人に近づいてこう言うべきである。『友よ、心はどのように住まわせるべきなのか。心はどのように静まらせるべきなのか。心はどのように専一にすべきなのか。心はどのように定まらせるべきなのか。諸行はどのように見られるべきなのか。諸行はどのように取られるべきなのか。諸行はどのように観察されるべきなのか』と。彼は彼に見た通りに、知った通りに説き示すべきである。『友よ、心はこのように住まわせるべきだ。心はこのように静まらせるべきだ。心はこのように専一にすべきだ。心はこのように定まらせるべきだ。諸行はこのように見られるべきだ。諸行はこのように取られるべきだ。諸行はこのように観察されるべきだ』と。彼は後に内に心サマタをも得て、また増上慧法ヴィパッサナーをも得る。

 比丘たちよ、このうち、内に心サマタをも得て、増上慧法ヴィパッサナーをも得た人は、比丘たちよ、すなわちそれらの善法に住してさらに諸漏を尽くすために修行すべきである。

 比丘たちよ、これらの四人がいて、世の中に存する」
         南伝大蔵経18 増支部経典2 P162−166

止観に関する最重要の記述です。

心サマタとは、cetosamathaですが、心を静止させるということです。戒や慧が静止したら、それは破戒であり、劣慧だと思います。samathaさせるのは、心です。

増上慧法観とは、adhipaññādhammavipassanāですが、これは「さらに優れた慧を生じさせるために法を観じること」だと思います。「観によって慧を修す」と以前、紹介したように観が慧を生み出すので、「すでに優れた智慧があってその智慧で法を観じる」という意味ではないと思います。ですから、増上慧法観とは、増上慧のために法を観じることが適切な理解だと思います。

南伝本文では、心に関することの一文が抜けていたので補いました。抜けているのはパーリ原文にある「心をどのように専一にすべきなのか」という記述です。

「心をいかに住まわせる・・・諸行はいかに見られる・・・」ところから、サマタとは「心の住・静・一趣・定」に関わることであること、ヴィパッサナーとは「諸行に対する見・捉・観」に関わることであることが明らかです。これを詳細に知るために先輩に質問しろという内容です。パーリ本文を引用します。 三人目の友への質問本文です。


‘kathaṃ nu kho, āvuso(友), cittaṃ(心を) saṇṭhapetabbaṃ?
Kathaṃ cittaṃ sannisādetabbaṃ?
Kathaṃ cittaṃ ekodi kātabbaṃ?
Kathaṃ cittaṃ samādahātabbaṃ?

Kathaṃ saṅkhārā(諸行) daṭṭhabbā?
Kathaṃ saṅkhārā sammasitabbā?
Kathaṃ saṅkhārā vipassitabbā’ti?


です。少なくとも心に関する後半の二文は、ekodiで一趣、samādhiで定ということが明らかです。従って、サマタは専一性(精神統一)とサマーディに関わってきていることがわかります。諸行に関する最後の文では、vipassanāの単語が用いられています。観はまさに観のようです。重要なのは観の対象が諸行であるということです。諸行とは五蘊のことです。従って、僕の中のヴィパッサナーの定義は「ヴィパッサナーとは、諸行を観じること」という
ことです。

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