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水流と水神コミュの宇賀弁財天

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『宇賀』は『うけ(食物)』の語源であることから「稲の霊」を意味する。
宇賀弁財天は宇賀神と習合した弁財天のこと。
頭の上に宇賀神を戴せていたり、人頭蛇身の女神、あるいは蛇体の姿をしている。
寺院に祀られている弁財天はほとんどが宇賀弁財天であり、
蛇身でない宇賀弁財天のほとんどが
八臂の姿であるといっても良いかもしれない。

古代インドの河神(女神)であるサラスヴァティー(Sarasvati)が
仏教、神道に取り込まれたもの。
八臂像は頭に宇賀神のほか、宝冠と鳥居を載き、
弓、矢、矛(ほこ)、鉄輪、羂索(けんさく)、鍵、宝珠、宝棒、
などの道具を持つ。
八臂像も市杵嶋姫のひとつの姿である。

《目次》
愛知県
●弁財天(秋葉山円通寺 弁天堂)=書き込み43/44

神奈川県
●海蔵寺(鎌倉市)=書き込み16
●銭洗弁天宇賀福神社(鎌倉市)=書き込み17
●弁財天(川崎市)=書き込み48/49

群馬県
●宇賀弁才天(冠稲荷神社 境内社厳島社)=書き込み45

埼玉県飯能市
●医王山薬寿院八王寺 弁天堂=書き込み31

千葉県
●弁財天(武雷神社 弁天宮) =書き込み50/52

東京都
●木母寺(墨田区)=書き込み41/42
●西光山 福寿院(中野区)=書き込み8
●蟠龍寺 弁財堂(目黒区)=書き込み11
●碑文谷厳島神社(目黒区)=書き込み20/21
東京都調布市
●弁才天尊(明照院 観音堂)=書き込み25/26
●宇賀弁才天(明照院 観音堂)=書き込み25/26
東京都東久留米市
●弁財天碑=書き込み23/24
東京都三鷹市
●弁財天尊(井の頭弁財天 弁天堂)=書き込み28/29

福島県福島市
●宇賀弁才天(土湯山興徳寺)=書き込み30

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&om=1&msa=0&ll=35.694872,139.67472&spn=0.096195,0.106087&t=k&z=13&msid=113844027188609943916.00000112f4ecdf967519d

コメント(54)

現在の大円寺には八百屋お七の墓と鎮魂の地蔵があるので、
勘違いしたのですが、
大円寺から燃え広がった行人坂火事は
八百屋お七が火付けした火事以後の大火であるとのことですので、
修正しておきます。
左の写真は神霊写真ですね(笑)
手前の左を向いている男の子の顔の部分だけがモノクロになっていて、
両側の人物は正常なカラーになっている。
同じ男の子の顔の下の方だけシアンの抜けたカラーになっている。
男の子の顔だけじゃなく、写真全面に帯になってれば光線ムラとか、
説明がつきそうですが??
この写真はデジタルですよね。
●碑文谷厳島神社 境内
東京都目黒区碑文谷6-9-11

碑文谷(ひもんや)厳島神社は碑文谷公園の中ノ島にある。
碑文谷公園には山羊や羊に触ることのできる小さな動物園があり、
ポニーに乗ることができるので、息子の幼児期に何度も行っているのだが、
当時は宗教施設にはまったく興味が無く、
大きな石鳥居が中ノ島に渡る橋の前に建っていたにもかかわらず(写真左)、
まったく記憶に残っていなかった。
10年ぶりに訪れた碑文谷公園は何も変わっていなかった。
厳島神社に直行すると、さすがに見た光景が蘇った。
中島に渡る太鼓石橋の欄干は朱というよりオレンジ色だ(写真中)。
拝殿はまだ新しい(写真右)。
境内入口の説明書きでこれは昨年11月、放火で
拝殿、本殿、社務所の3棟が全焼し、再建されたからであるとわかった。
物に向かってストレスをぶつけるしか無い状況の人間が
いるということなのだろう。
ここには極彩色の小さな八臂弁天像があったらしいが、
それは金庫に入っていたため、無事だったという。
この弁天像は800mほど東南にある円融寺にあったものを
嘉永元年(1848)に碑文谷村地頭(代官)神谷大夢正庸が
社殿落成のさいに奉献したものという。
創建は戦国時代とのことだが、
燃えた祠は800mほど東にある清水池の浮島から
移されたものだったようだ。
どういうつもりなのか、
弁財天像を守った金庫は本殿の横に裸で置いてあった。
火災の焼け残りの波のレリーフらしきものや炭化した木片は
やはり表面が炭化した材木で製作された壇に祀ってあり、
境内社の形で社の形で拝殿の隣に祀られていた。
それはそれでおしゃれだなと思った。
●碑文谷厳島神社 水脈環境
東京都目黒区碑文谷6-9-11

厳島神社の祀られたここ弁天池(碑文谷池)は
住宅街のど真ん中にあるにもかかわらず、いろんな動物がいる。
もっとも多いのが鴨。それに亀。太った鯉も。
そしてほかであまり見られないのがガチョウ(写真中)。
鯉にやるパンくずを狙った物おじしないパンパンに太った雀も。
決して人には寄ってこないが、ムクドリも飛んでくる。
シラカシ、クヌギ、コナラの茂った環境が野鳥に好まれるのだろう。
池にはボートも出ていて水はそれほどきれいとはいえない。
都内でボートの出ている池で水がきれいだったためしがない。
そこに森に囲まれた社殿が航空母艦のように浮かんだ厳島がある。
(写真右)

武蔵野台地の東南端に位置する目黒区には各所に湧水が多く、
弁天池は立会川の水源となっていた。
現在の弁天池は8462平方メートルというが
江戸時代にはずっと大きく、野鴨が豊富であったことから
将軍の鷹狩りの好適地として重用されたという。
以後は碑文谷村の村持(共有)の
水田灌漑(かんがい)用貯水池として活用された。
名主の指揮のもと、村人たちの手で、護岸・水門管理・草取りなど、
水が汚れたり、枯れたりしないよう
厳島に祀られた弁財天の祠の維持管理が行われてきた。

立会川は現在は暗渠化され、地表は遊歩道になっている。
●弁財天碑
東久留米市中央町5−9−6 弁天フィッシング

東久留米市にある弁財天碑を探して該当する住所を探した。
住所は落合川に面しているのだが、それらしきものは見当たらない。
撤去されたのかもしれないなと、そこにあった釣り堀の名称を見ると
『弁天フィッシング』とあった。
広い釣り堀で、
区画されたすべての堀に沿って、釣り客がびっしり居た。
ひょっとするとと思って釣り堀の建物に入って見ると、
そこは食堂になっていて、昼間から一杯やってるおっちゃんたちがいた。
おっちゃんたちに弁財天碑のことをたずねると、
台所内にいる小父さんを紹介してくれた。
小父さんはあそこにあるよと言ってガラス戸の外を指差すが、
釣り掘りは広いし、その向うには住宅街が広がっていて、
どこを指差してるのかわからない。
まごついていたら、その小父さんが弁天堂の前まで案内してくれた。
弁天堂は釣り堀脇の茂みの中にあった(写真左)。
ほかに石碑も建っている。
説明書きには嘉永2年(1849)の造立とあった。
弁財天碑は石柱の上に
男女、千両箱を積んだ大八車、人馬、稲と桶と男性、という
日常的な風景で富貴や豊作を表わした浮き彫りの受け台があり、
受け台にとぐろを巻いた蛇体弁天丸彫りがすっぽりはめられていた。
(写真中)
受け台石柱と弁天像はまったく違った石材が使用されている。
すばらしいものだった。
これまで、これに類するものは見たことが無い。
よく完全な形で残っていたものだ。
蛇体部分は黒っぽい石材が使用されており、
とぐろの下部はかなり磨耗しているが、頭部は完全に残っている。
網目状の模様や目もはっきり残っていた(写真右)。
弁財天碑の前にあったはずの紙垂や徳利が風で飛んでいた。
どうもあまり大切にされていないようだった。
●弁財天碑 水脈環境
東久留米市中央町5−9−6 弁天フィッシング

弁天堂脇には釣り堀(写真左)がある。
というよりは釣り堀の片隅に弁天堂があるのだが、
釣り堀は落合川に面していて、もともと池があったのだろうか。
弁天フィッシング横の御成橋から落合川を眺めると、
川床は80%以上が雑草で埋まっており、その合間を水が流れている。
(写真中)
下流にはパワーショベルが入っており(写真右)、
護岸工事をしているようだった。
●弁才天尊(明照院 観音堂)
●宇賀弁才天(明照院 観音堂) 境内
調布市入間町2-19-12

明照院は陵山(みささぎやま)という丘の上にある天台宗寺院だ。
そこに弁財天像があるというのでやってきた。
本堂は閉っていて見られないものの、
閻魔堂の十王像はすばらしいものだった。
観音堂(写真左)は中を見ることはできたものの、
かなり暗くて、あとで写真をチェックするまでは
何の仏像か、はっきり特定できなかった。
明照院の境内から脇に狭い登り階段があり、
そこを上がると社殿らしきたてものの裏側に出た。
それは糟嶺神社(かすみねじんじゃ)の社殿だった。
そこが陵山の頂上だ。
おそらく、神仏分離が行われる以前には
ひとつの場所だったのだろう。
糟嶺神社には

・糟嶺大神
・宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)
・菅原道真公

が祀られている。

帰宅してパソコンで観音堂内の写真をチェックすると、
観音堂内の左端に八臂の弁才天尊(写真左)、
右端に蛇体の宇賀弁財天(写真左)が祀られていた。
八臂の弁才天尊は頭上に鳥居が見えるから、
おそらく宇賀神が乗っていると思う。
蛇体の宇賀弁才天の頭部は遠すぎることもあってよくわからない。
ここの弁才天は近江の国竹生島弁財天の分影を勧請したもので、
境外の弁天山宇賀神堂に祀られていたものを
明治17年(1884)に堂内に移したもの。

本堂前に掲示してある由来所によると
明照院は大悲山明照院観音寺として室町時代(1532〜1558)に
開山法院秀海により創建され、万治元年(1658)に
ここ陵山に移転したとある。
●弁才天尊(明照院 観音堂)
●宇賀弁才天(明照院 観音堂) 水脈環境
調布市入間町2-19-12

明照院の門前に橋があり(写真左)、
下につつじが丘の甲州街道から表に表れている水路があるのだが、
水はほとんど流れていない(写真中。
この水路は180mほど南を流れる野川(写真右)に合流している。
このあたりは川床の土の堆積が多いが少し上流では水流幅も広く、
白鷺撮影のスポットになっている場所がある。
●弁財天尊(井の頭弁財天 弁天堂) 境内
東京都三鷹市井の頭4-1

井の頭池には何度も行っているが、
初めて弁財天を覗いたのは2005年の暮れだった。
赤い欄干の太鼓石橋を渡って中ノ島にある弁天堂前に出ると
弁天堂前の香炉の線香からは煙りが上がっている。
250mほど南東の住宅街には
『黒門』と呼ばれている黒い木製鳥居がある。

http://www.education.ne.jp/kyoiku-center-mi/bunkazai/bunm2i.htm

この黒門から井の頭恩賜公園入口までは参道両側には
明治期には杉の巨木が立ち並び、
昼間でも鬱蒼と暗い場所だったというが、
今では全部住宅街になっていて、信じられない。
“鳥居”と“香炉”のある神仏習合の場所だが、
地図には鳥居の記号で表記されているが、おり、
境内には七井不動尊もある。
本尊の弁財天像は延暦8年(789)の最澄の作とされている
八臂の宇賀弁財天のようだ。

境内は参拝客が引きも切らない感じだった。
ここの弁財天はそもそも人出の多い
井の頭恩賜公園を散歩をする人には
最大のポイントになる場所だから参拝者の多いのもうなずける。

社務所にはおばあちゃんが居た。
弁天堂は赤を基調にしたした建物で(写真左)、
本尊の弁財天を覗くのははばかられる雰囲気。
紫色の天幕には波に三鱗の神紋が白く抜かれていた。

翌正月明けに井の頭弁財天に行った時には
pm4:00ちょっと過ぎだったのだが、
なんとすでに門は閉まって居た(写真左)。
何人もの人が閉った門の前で残念そうな表情だ(写真中)。

さらに3月になって今度は井の頭池から流れ出している
神田川の水源、お茶の水井戸を見るために訪れたが、
やはりpm4:00を過ぎていた。
対岸から弁天堂と不動堂(右)を望む(写真右)。
こちら岸にはこぶしの白い花が咲き乱れていた。
●弁財天尊(井の頭弁財天 弁天堂) 水脈環境
東京都三鷹市井の頭4-1

井の頭にはかつてかつては八か所の湧泉があったが、
現在湧き続けているのは「お茶の水井戸」(写真左)だけだという。
ここも水量が少なくなったので
現在はポンプで汲み上げているとのことだ。
お茶の水井戸は弁天堂の西50mあたりの茂みと
井の頭池州を巡る通路に架かった橋に挟まれた場所にあり、
井の頭池と神田川の水源となっている。
「お茶の水井戸」の名称の由来は
徳川家康がこの湧き水でお茶をたてたことによるし、
この武蔵野一帯の「井の頭」の地名も現在の井の頭の水が
江戸の飲料水となっている
上水の頭(水源)であるということから「井の頭」と命名された。
この一帯は徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であり、
寛永6年(1629)に家光が訪れた際に
池のほとりのこぶし(辛夷)の木に
小刀で井の頭と刻んだという伝承がある。
その後、そのこぶしの木は焼失してしまい、
現在では石碑が建てられている。
1月の年明けも夕刻、お茶の水井戸前の井の頭池の畔のこぶしは
花を開きかけていた(写真中)。
木蓮科のこの花は鼻の良くない自分に匂う数少ない花のひとつだ。
匂いを感じるかどうかは匂いの強さではなく、
自分の場合、幼児体験に関係があるようだ。
匂いを感じる花は幼児期に実家の周辺に咲いていた花ばかりなのだ。
こぶしは生薬の一つで、風邪による頭痛や
鼻づまり(皮肉だ)などに効果があるらしい。
池には冬に多いと言うオナガカモが群れていた(写真右)。
この鴨はカルガモと違って身体の模様が
純白、漆黒の色を含めて明解でシャープで、美しい。
●土湯山興徳寺
福島県福島市土湯町

バイクで国道4号線(奥州街道=陸羽街道)から52号線で
土湯温泉に着いたのは午前中のことだった。
当日、土湯温泉では東鴉川が荒川似流れ込む場所で
イベントが行われていた。
その人だかりの奥に案内版があったので見ると、
山の上の方に『聖徳太子堂』がある事がわかった。
食堂が開くまで間があったので
聖徳太子堂を覗くことにした。
石段のすぐ下までバイクで入って、
強い陽射しを避けるために来ていた長袖のTシャツを
半袖Tシャツに着替え、山を登る準備をした。
かなりの急坂だった。
だが、予想に反して石段はそれほど長くはなく、
聖徳太子堂の前に出た。
聖徳太子堂周囲には種々の権現、山神、庚申塔などが祀られており、
おもしろい場所だった。
聖徳太子堂の裏面の石垣の上にはさまざまな石碑が並んでいたが、
そのもっとも端の山側に宇賀弁財天の石碑があった(写真左)。
石段を下ってくると、寺院内配置図があることに気づいた。
その寺院内配置図を見て初めて
そこが土湯山興徳寺の境内であることがわかった。
興徳寺から北に坂を25mほど下り、石段を降りると荒川が流れていた。
(写真中)
荒川の床は半分以上が石に被われているが、
水量は少なくはなく、水はエメラルドグリーンだ。
色は温泉の成分と関係があるのだろう。
手摺の石柱にすでに アキアカネ(写真右)が登ってきている。
アキアカネは田圃で羽化すると、
いっせいに高標高地に移動して夏を過ごし、
秋になるといっせいに里へ下り、生殖活動を行うトンボだ。
●弁財天 (医王山薬寿院八王寺 弁天堂)
●埼玉県飯能市南704

神仏習合の名残を色濃く残す飯能の竹寺。
駐車場から境内に向かって歩くと、
竹林に囲まれた石製の鳥居がある。
鳥居をくぐったすぐ脇に、緑色をした弁天池があり、
橋の架かる中程に弁天堂があった。

竹寺の祭神を祀る牛頭天王本堂と違って、
寂れた感じで、行事に使ったであろう朱の傘がそのまま放置されていた。
敷居を跨ぐのは躊躇われたので、入り口からの撮影。
殺風景な堂内である故に、真っ正面の小さな弁財天はとても存在感があった。
おお〜!
色もまだ、少し残っていて、
好さそうな弁財天像ですね。
この像だけのためににこの弁天堂は贅沢!
>Bossさん

書き込みありがとうございます。

国造り系の神に関わる名字の中でも 宇賀神は多い名字らしいですね。
『宇梶』も宇賀神からの転嫁でしょうね。
栃木県をツーリングしてると
『宇賀神』の付いた商店や会社が多いことに気づきます。

Bossさんが宇賀神に興味を持ったのは何か理由があるんですか?
>Bossさん

小学生時代に『宇賀神』という言葉にひかかったのは
Bossさん 個人か、先祖に特別な関わりがあったのかもしれないですね。
思い当たるものはないんですか?
いずれにしても良い体験でしたね。
読ませていただいてる方にとってはとても面白い話です。
ありがとうございました。

少林寺拳法のお師匠さんも氷室お滝場で滝行をした体験があるわけですね。
>Bossさん

>20代から続けてきた祭式と祓いは、今も毎日している

チャンネルはいつも開かれてるわけですね。
時たま、変な事が起きても不思議じゃないですね^^
●宇賀弁才天(木母寺)境内
東京都墨田区堤通2-16-1

2007.3.7p.m.4:05
隅田川沿いの木母寺に宇賀弁財天像を観に行ったが、
閉門時間のpm4:00を過ぎていたため見られなかった。
翌週10日、ふたたび訪問した。
pm1:45出発 pm2:30着。

木母寺の隅田川に面した側の門前にバイクを停めて、
境内に入ると、現代建築の本堂兼社務所の前に
カソリックの聖堂のようなモダンな堂があり、
中を覗くとやはり現代的な祭壇に大日如来が祀られていた。
檀家の人たちのための堂だった。
大日如来の背にはステンドグラスの美しい光が当たっていた。
大日如来信仰は1神教みたいなものだし、なんの違和感も無い。
木母寺は天台宗の寺院で、
謡曲などで知られている梅若塚のあることで知られている。
ぼくがいる間にも20名くらいのガイド付きの集団が梅若塚と
梅若山王権現堂を見学にやって来ていた。

境内の縁に沿って、多くの石碑が並んでおり、
『あまり人目につかぬ一角にこっそりと(笑)置かれている』と
運営していた庚申塔コミュニティーのメンバーが説明していたあたりを探すと、
ありました!宇賀弁財天。
人頭蛇体の丸彫り像を見るのは2体目だが、
やはり、一度もがれた頭部が接着されていた。

見学集団がこの弁財天も観てゆくのか観察していたが、
見ないで出て行った。

この宇賀弁財天を日記で紹介したところ、
さすがにその姿に体する反響は大きかった。
ヒンズー教の神々の姿を知っていればそうでもないが、
http://www.tnm.jp/gallery/search/images/max/C0050102.jpg

由緒を知らないで見た人たちの中にはショックだったようだ。
玉垣が隙間なく、二重にしてあるのは、
そういうことと関係あるのかもしれない。
日本人の多くが蛇を恐れ、中国人のように食べたりしないのは
蛇をトーテムとしている民族の末裔だからなのだろう。
●宇賀弁才天(木母寺)水脈環境
東京都墨田区堤通2-16-1

2007.12.16夕刻
中川に行った帰りに久しぶりに
木母寺の宇賀弁財天像を観に行った。
木母寺のすぐ西は隅田川が南北に流れているのだが、
河原には散歩道が整備してあるのに、
何故か現在は河原に出られないように
背の高いスチールの板が張り巡らされている。
この辺りは隅田川沿いに首都高速6号向島線が通っており、
堤通出入口があるのと、
やはり隅田川に平行して東白鬚公園が南北に延びており、
ホームレスの住居が建てられないようにしてあるようだ。
隅田川の様子を見るために、
隅田川に沿って南下すると堤防への出入り口があった。
その出入り口付近はホームレスの家が集まった部落のようになっていて、
飼い犬までいて、入りにくい雰囲気だったが、
そこを抜けて堤防の上に出た。
高速道路の下には廃品をうまく利用して構成された“住宅”が
どこまでも点在しており、
降りられなくなっている河原の散歩道にまで“住宅”が点在していた。
多くの“住宅”が屋根の押さえに
重くて転がりにくい自動車のバッテリーを並べているのが印象的だった。
河原の“住宅”は高速道路という“大屋根”が無いので、
どれも雨対策でブルー・シートを使用している。
堤防から上流を眺めると、
きれいなブルーのアーチ型橋梁を持った水神大橋が見えた(写真左)。
対岸には航空工業高専があるが、
その周囲に建設中のマンションのクレーンが見えていた。
向こう側が高所得者住居区域で、
こちら側が無所得者区域ということのようだが、
一番人気の隅田川沿いに「ホームレス」という名の
「ホーム持ち」たちが居住しているのは“矛盾”だ。
●秋葉山円通寺 弁天堂 境内
愛知県名古屋市熱田区神宮2-3-15

円通寺は“秋葉山”として知られ、
もともと、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奉齊した熱田神宮の中に
日本武尊を火難から救った秋葉大権現を祀ったのを始まりとした寺院で、
地図で見ると、
熱田神宮の矩形の敷地の南東の角にあたる場所に位置している。
ぼくの親父はいつも熱田神宮と秋葉山をセットで両参りしていたようだ。
幼児期にいちど、寒い日に連れて行かれて、
火渡りを見た記憶がかすかにある。

一昨年の年始に数十年ぶりに訪れたときに
弁財天が祀られているのに気づいたので、
機会があったら、秋葉山の東500mあたりを南北に流れる
新堀川を見ようと思っていたら、
新堀川沿いに買い物に便利な
スーパーマーケットと大工センターを見つけたので、
翌日、買い物のついでに円通寺の弁財天を見に行った。

円通寺にはいつも
白地に「秋葉三尺坊大権現」の墨文字の幟がはためいている(写真左)。
弁天堂(写真中)は本堂の右脇にあって、
堂内の厨子内に納めてあるが、
ここにやってきた時は2度とも厨子は開かれていた。
厨子内には脇侍の毘沙門天、大黒天、十五童子が納めてあるようだ。
弁財天は八臂ではないものの、
頭頂には宇賀神が乗っているように見える(写真右)。
●秋葉山円通寺 弁天堂 水脈環境
愛知県名古屋市熱田区神宮2-3-15

秋葉山円通寺の東側に面する、表通り226号線から
JRのガードをくぐって、新堀川に架かる新開橋に出てみた。
曇天で夕刻という事もあって、
川面は暗く、透明感はまったく無い。
流れは汐のせいなのか、まったく無く、鏡のよう。
名古屋港までは6kmほどあるのだが、
熱田神宮、円通寺のある一画は
古来から蓬莱島(ほうらいじま)と呼ばれており、
中世には半島も「嶋」と呼ばれていたから、
現在の堀川と新堀川に囲まれた地形を考えると、
伊勢湾に突き出た半島であった可能性もありそうだ。

写真左=新開橋から臨む上流
写真右=新開橋から臨む下流
●冠稲荷神社境内社 厳島社
群馬県太田市細谷町1番地

http://www.kanmuri.com/ka/jinjanituite/goannai/index.htm#itukushimasya
>赤城おろしさん

書き込みありがとうございます。
境内の東に流れている川は「蛇川」と言うんですね!
この厳島社は最近改築されたものですか?
弁財天像も新しそうですね。
●弁財天 境内
神奈川県川崎市高津区坂戸2-20-1

バイクで、409号線から南の住宅街の荒れた路地を抜け、
畑地に面した蛇行する狭い路地に入ってゆくと、御嶽神社の境内があった。
高津区坂戸には畑地が多く残っており、社殿の周囲には祠が見える。
御嶽神社に駐車場があったので、その中に愛車を停めた。
御嶽神社の杜全体を眺めようと、境内の入口にある鳥居の面した路地に出ると、
鳥居の向かい側に高さ2mほどの石製明神鳥居があり、その奥に祠があった。
(写真左/中)
鳥居脇には「弁財天」と刻まれた石碑。
小さな境内は路地に底辺が接する2等辺三角形で、
ふたつの辺は1.5mほどの塀で囲まれている。
境内にはほかに、低い灌木が生えているのみ。
祠内には開かれた厨子があり、空洞を持った蛇体の神像が祀られていた(写真右)。
●弁財天 水脈環境
神奈川県川崎市高津区坂戸2-20-1

弁財天の境内を囲む塀の外側に沿って、水路があり、全面に石板が被せてある。
(写真左)
この水路はそのまま弁財天前の路地をくぐり、
弁財天向かい側の御嶽神社境内に沿って流れ(写真右)、
その先の住宅街に向かっていた。
地図でその先を辿ると、
なんと、学生時代に蓋の無い状態を見たことのある水路だった。
水路は溝ノ口駅前を抜け、久地円筒分水から南下している堀につながっているようだ。
こちらが上流で、下流は第三京浜道路に向かっているが、
第三京浜道路を抜けると、その先は2車線の車道になっており、
その路面にはマンホールの蓋も見当たらない。
弁財天境内の北東300mあたりに用水が流れているが、
そこに合流している気配も無い。
●弁財天(武雷神社 弁天宮) 境内
千葉県山武郡九十九里町西野1157-2

九十九里浜から75号線で東金市へ向かっていると、
右側に石柱の立った、寺院風の入り口の前を通り抜けた。
確認するためにUターンして戻ると石柱には「武雷神社」とあった。
場所柄、タケミカヅチを祀ってある場所に思えるのだが、
文字は「武甕槌(タケミカヅチ)」でも「建御雷(タケミカヅ)」でもなく、
その折衷だ。

参道を進んでゆくと、参道は行き止まりで、左に折れており、
その手前の参道隣のマンションの敷地内側に、
武雷神社参道に向いた大きな祠があった。
参道と祠の間にはワイヤーネットの塀があり、
祭神不明のその祠には塀のこちら側からしか向き合えない。
神社が境内の一部を分譲したか、マンション経営をしているのかもしれない。

祠の前を通り抜けて、参道に従って90度左折すると、
正面に石製明神鳥居と最奥に拝殿が見えた(写真左)。
鳥居はかなり古びており、貫部分の石は鋼板で補強してある。
束には青銅製扁額が掛かっており、銅葺きの小さな屋根が着いている。
秋田藩主、佐竹義教が病気平癒を祈願し奉納した額だという。
境内には灌木が多いが、巨木は2本くらいしか無い。

境内には由緒書きが無く、拝殿も拝殿左脇の大きな社殿も祭神は不明。
ネット上の少ない情報では拝殿の祭神は
京都上賀茂別雷大神の分霊を勧請したと伝わっており、
建御雷説もあるというが、
拝殿右には賀茂氏と関係のある弁天宮があり、
武雷神社の東800mあたりには、
やはり賀茂氏と関係の深い熊野神社があるから、
別雷大神の方が信憑性があるのではないだろうか。
なお、建立は正徳年間(1711年〜1715年)だという。
弁天宮の祠は拝殿の右脇奥の沼の前に拝殿の方を向いて置かれていた。
(写真中)
宮大工の制作した祠ではなく、屋根はトタン葺きで、
扉は何者かがこじ開けようとしたらしく、蝶番が壊されていた。
中にはカラフルな陶器製の八臂の宇賀弁財天像が祀られていた(写真右)。
道路に近い場所でもないのに、砂ぼこりが積もっていたから、
誰も面倒を見る人が居ないようだ。
●弁財天(武雷神社 弁天宮)  水脈環境
千葉県山武郡九十九里町西野1157-2

弁財天像は良いものではないし、
池も降った落葉が水中で腐敗して汚濁しているが、
周囲は灌木で囲まれ、祠の脇の樹木は龍神を想起させる、良い樹木だった。
関東圏の弁天池の多くは水を循環させていなければ、
こんな感じになっていたり、いっそ、水を抜いているところが多い。
神社は落ち葉が多いから、池の清掃は大変そうだ。
武雷神社の本殿の裏手には用水が引かれている。

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