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水流と水神コミュの龍神

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水流にまつわる神であり、雷雨を呼ぶ神でもある。
蛇体像としてまつられることがあり、
中国の架空の動物、龍として、
竜巻、水、雲、炎、樹木などの自然物の中に見出されることがある。
仏典の竜王と習合して祀られる場合もある。


《目次》

愛知県
●金山龍神社(名古屋市 金山神社)=書き込み32
●白男桜竜神社 (愛西市立田町)=書き込み44/45
●長谷龍神社(清須市 堀江山 長谷院)=書き込み46/47
●枇杷島 黒龍神社 (名古屋市)=書き込み28/29
●柳ケ枝町 白竜神社(名古屋市)=書き込み24
●龍神社(名古屋市 茶屋後神明社境内社)=書き込み18/19
●?地御劔権白龍大神(名古屋市 緒畑稲荷大神 石碑)=書き込み16/17
●摂社柳龍神社(名古屋市 隅田神社)=書き込み30/31
●境内社龍神社(名古屋市 一之御前社)=書き込み25/26
●境内社高牟龍神社(元古井 高牟神社)=書き込み42/43
●境内社津賀田竜王神(名古屋市 津賀田神社)=書き込み21/22
●境内社水神社(名古屋市 豊藤稲荷神社)=書き込み38/39

神奈川県
●龍神(秦野市)=書き込み1

志賀県
●龍神舎(東近江市 太郎坊宮)=書き込み10/11

奈良県
●今木権現堂(吉野郡 泉徳寺)境内=書き込み12 /14

新潟県
●龍神(糸魚川市 弁天岩)=書き込み15

三重県
●大安町 白龍神社(いなべ市)=書き込み6/7
●白髭白宝龍神(桑名郡多度町 高峰神社)=書き込み40

和歌山県
●己神大龍王(和歌山市 阿字ヶ峰行者堂) =書き込み35


↓MAP
http://maps.google.co.jp/maps/ms?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&brcurrent=3,0x60037ca298161b55:0x3a8598f8914456bd,0&ie=UTF8&hq=&hnear=%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E5%B8%82%E8%83%BD%E7%94%9F&msa=0&msid=113844027188609943916.00000112a046390071041&ll=35.118399,136.180944&spn=0.013023,0.018604&z=16

コメント(47)

黒龍神社がございます。

http://asovino.net/magazine/n58_special_02.html

ここと、九頭竜川の川沿いにもう一つあります
福井市舟橋 という地名です。
> あきれすきゃんでぃさん

機会があったら黒龍神社、両方とも
ぜひ紹介してください。
●龍神舎(太郎坊宮)境内
滋賀県東近江市小脇町2247

桑名市からから息子とバイクのタンデムで421号線を辿り、
途中、太郎坊宮を見学するつもりだったのだが、
気付かずに通り過ぎてしまい、pm4:00 近江八幡駅に到着。
近江八幡で宿泊することにして、駅前からホテルを予約した。
日暮れにはまだ時間があるので、
駅構内の観光ガイドで地図をもらい、太郎坊宮に引き返すことにした。
案内によると、近江八幡駅から車で30分とのことだった。

421号線を引き返すが、表示が出ていないので、
何度か地元の人に道を聞いて、
やっと太郎坊宮の神体山、赤神山を見つけた。
一ノ鳥居は県道に面して街中にある。
実際には二ノ鳥居脇から太郎坊宮に近付いたのだが、
右中腹にある参集殿下までは車で行けると、
地元のおじさんが教えてくれた。

参集殿下の駐車場に愛車を停めて、下界を見下ろすと
すでに絶景で、眼下には水田が広がっている。
太郎坊とは鞍馬の次郎坊天狗の兄で、
この山に住み着いた精霊のようなものだ。
脇から参道石段に入り下を眺めるが、
階段があまりに長くて見通せない。
車道ができるまでは本殿まで上がるのは1日仕事だったことがわかる。
石段にはところどころ素木の大きな鳥居が密集していて、
ほかでは見たことのない特異な景観だ。
中腹からも急な石段が立ち上がっている。
どこが本殿かわからないが、とにかく登るしかない。
石段を登ると左右にいくつかの建物が建っている。
途中、水行場だと思われる水の落ちる池があって、
その池の上には龍神舎という名称の手水舎が設けてあった(写真左)。
手水桶の背後には自然石の祭壇が設けてあって、
金色の玉を持った銅製の龍神像が祀ってあり(写真中)、
そのさらに背後は岩崖で、その岩崖には注連縄が張ってあった。
(写真右)
おそらく岩崖から湧水があったと思われる。

さらに石段を上がると、
社殿の形式、装飾、その祀り方がかっこいいと表現するしかない、
稲荷社があり、
稲荷や龍神や天狗は
自然信仰に関わるものであることを実感させてくれる。
その場に最澄がやってきて山岳寺院成願寺を創建し、
修験の行場が開かれたのだ。
石段を登り切ると銅の鳥居があり、
全長12mの2つの巨岩、夫婦岩の幅50cmほどの隙間を抜けると
本殿に到達する。
説明板には岩境信仰発祥の地としてあった。
本殿前からはるか彼方に鈴鹿山脈が見えた。
●龍神舎(太郎坊宮)水脈環境
滋賀県東近江市小脇町2247

龍神舎の下は崖になっており(写真左)、
その崖の途中から1条の細い水が下の池に落ちている(写真中)。
龍神舎から池の水面まで10mほど、池の水深20cmほどだろうか。
おそらく水行場だと思われるのだが、
数匹の小さな鯉が放流してあるのはボウフラ対策なのか、
あるいは現在は水行場としては使用されていないのだろうか。
太郎坊宮のある赤神山は平地に急に立ち上がっている山だが、
その真南450mあたりを東西に中野大川が流れており、
赤神山と中野大川の間は水田地帯になっている。
●今木権現堂(泉徳寺)境内
●奈良県吉野郡大淀町1394

前日の夕刻、訪問した時、
泉徳寺山門前(写真左)の道路から見える
ガレ石を組んだ石垣の上に白壁、瓦屋根の建物が見え、
それが権現の祀られている堂だと思ったが、
道路から直接立ち上がる
一見、荒れた石垣を上がるとそれは仁王門だった。
日没が迫っていたので、急いで仁王門をくぐり、
山の中腹にある堂に向かった。
しかし、堂内はすでに真っ暗で何も見えなかった。
堂の前には道祖神、倶利伽羅竜王ほかの石造物。
これらを含めて、堂内の石造物も
備中の女性が永禄12年(1569)に奉納したものという。

明くる日am6:30 起床して大和八木(橿原市)のホテルを出、
再度、今木権現堂に向かう。
泉徳寺住職の杉藤良雅さんに案内されて、
石段ではなく、スロープで上がった。
石段で転落事故が起きたことで、スロープをつくったとのことだった。
権現堂の石段は両側には手すりが無く、視覚的に美しいものだ、
中央にはステンレスの手すりが付いて居るから問題ないと思えるのだが。

杉藤さんが権現堂(写真中)の正面観音扉を開いて光を入れると
正面には純白の玉砂利の敷かれた、
石を組んだ1mほど高くなった壇があり、
そこに5基の石造物が置かれていた。
ちょうど野外に置かれた石造物の環境ごと、
室内に持ち込んだ形になっていた。
石の保存状態を見ると、
かなり旧い時代から屋根の下に置かれてきたようで、
石材が白い生地に黒雲母がごま塩に入った御影石のせいもあって、
最近制作されたもののように見える。
その造形センスもモダンで、
室町時代後期に奉納されたものとはとうてい思えない。
5基とも共通した石材、造形の表情の優しさがが共通しており、
同じ石工の手になるものとわかる。

中央に祀られたのが役行者が祈り出したとされる
『蔵王権現』の浮き彫り石碑(写真中)で、
その左隣には役行者像二鬼像。
蔵王権現像右側にはやはり役行者とと縁の深い『龍神』
手足を持った蛇(水蛇龍)2匹が卍型に
交わっているレリーフ石碑(写真右)が祀られていた。

まるで、伏羲(ふっき)と女媧(じょか)=中国のアダムとエバ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/63/NuwaFuxi.gif/150px-NuwaFuxi.gif

あるいは
アスクレピオスの杖(西洋医療のシンボル/杖=生命、蛇=永遠)
http://www.dobutu.com/hospital/image/news/Bage.jpg

だが、
それぞれの頭の上には阿弥陀如来像と馬頭観音像が浮き彫りになっている。

阿弥陀=「無限の寿命をもつもの」
馬頭如来=生命を脅かす魔障の除去

を意味するから、意味的にもアスクレピオスの杖との共通点がある。
だが、この2仏と龍神の組み合わせはほかで見たことが無い。
こんな絡み合った龍神像は現実には初めて遭遇したが、
個人的に、ぼくの場合は夢の中でよく見るイメージでもある。
それは、夢の中で自分が片方の蛇になり、もう1匹と交わったまま
森の梢や枝を抜けて、疾走する夢だ。
●今木権現堂(泉徳寺)水脈環境
奈良県吉野郡大淀町1394

今木権現堂の北東50mあたりには
国道309号線に平行して
曽我川支流が流れているが、
曽我川支流の向こう側25mあたりには
大己貴命を主神とした今木甲神社(いまきかぶとじんじゃ)がある。
曽我川支流(写真左/右)は川床の半分以上が土の堆積によって雑草で覆われており、
水量も多くなかった。
●弁天岩 
新潟県糸魚川市能生(旧能生町)

岩上の灯台の下に祀られてあります。
山形県善宝寺の分祠のようです。
この岩には近くにある能生白山神社末社の厳島神社もあります。
●?地御劔権白龍大神(緒畑稲荷大神 石碑) 境内 
愛知県名古屋市緑区鳴海町三王山


名古屋の実家から妹夫婦の家に向かうために
笠寺観音西門から旧東海道を東に辿り、榎の大木のある一里塚を通って、
天白川を渡り、800mほど進むと、三王山(さんのうざん)という台地にぶつかる。
旧東海道はここから、この台地を迂回して南に折れ、
1.2kmほど南の鳴海宿に向かう。

笠寺観音から鳴海に至る旧東海道沿いの台地からは
縄文・弥生時代の貝塚、住居跡があちこちで見つかり、
かなり大きな前方後円墳らしきものもある。
縄文・弥生時代にはかなり良い場所であったろうと想像ができるような地形だ。

名古屋市内南部の平地から最初に立ち上がる三王山周辺の地図を
初めてじっくり見てみたのだが、
「螺貝」「白山」「滝ノ水」「丹下」「鹿山」「山ノ神」「熊ノ前」「八ツ松」
「大清水」「雷」「神ノ倉」「上ノ山」「赤塚」「大形山」
という、修験を示唆するような町名が並び、
明治維新の「神仏分離令」で廃寺となったと思われる
「清水寺」「光正寺」という地名も残っている。
現在、旧東海道沿いの山上には「鞍馬山功徳院」「光明寺」ほかの寺院が8院、
「鳴海神社」「緒畑稲荷大神杜」「鳴海城跡」が並ぶ。
鳴海宿には役行者を本尊とした、まれな寺院、金剛寺もある。
1.2kmほどの街道沿いに10院の寺院とは、
このあたりの人口密度からして、あまりに多すぎる。
日本各地からここにやってきて住み着いた集団がいたのだろうか。

ところで、ケヤキが山頂に立ち上がっている三王山北側には急な石段があり、
その途中両側に白赤でペイントされた
像高2mほどの大きな狐像があり(写真左)、
子供時代からこの前の急坂を通りかかるたびに、
不気味な場所だなと思っていた。
この階段を初めて登ってみたのはつい、2年前のことだった。
急な階段を上がってゆくと、上り切ったところに岩屋があり、
中を覗くと、天地30cmほどの不動明王像が浮き彫りにされた小さな石碑と、
稲荷神だと思われる石碑が祀られていた。
稲荷社に不動明王とは、修験に関わりのあるものだろう。
この稲荷社には聞いたことの無い神や龍神の名が刻まれた石碑がいくかあった。
いわく、

・荒千代龍王
■恭代姫之命
・熊安大明神

■?地御劔権白龍大神 

・黒龍大神(仲見行者)
■千代田大神(?善霊神)
・白龍大神(覚正行者)

■吉王九神
 麻利四天
 穴子

など、行者の名も見える。
龍神はメインの神名の両脇に刻まれていることが多いものだが、
?地御劔権白龍大神だけが石碑に単独で刻まれているのだが、
?の部分は割れて無くなっているようだ。
「劔」が含まれているところをみると、
草薙の劔を祀った熱田神宮と関係あるのだろうか。
あるいは不動明王の利劔を意味しているのだろうか。
この石碑の右隣には堂があって、そこには不動明王が石碑が祀られている。

岩屋は拝殿の裏面に背中合わせになっており、
拝殿の前面にまわると、賽銭箱は倒され、拝殿前面の格子が折られたりと、
かなり荒らされていた。
1月というのに、供えられた榊もひからびていたから、
面倒を見る人が居ないのだろう。
現在は周囲が開拓され、新興住宅街が取り巻いているから、
もともとの地元の人が居なくなっているのかもしれない。
拝殿は南向きで山頂は広くて整備された公園になっているが、
冬の平日だからなのか、人はキャッチボールをしている親子ふたりのみだ。
公園に出て緒畑稲荷大神杜の杜を振り返ると、
大きく育った2種類の常緑樹が拝殿に覆い被さっており、
いかにも、もののけが住み着くのによさそうな雰囲気だ(写真右)。
この山頂から西に南北に流れる天白川を臨むが、ビルの陰に隠れて見えず、
はるか彼方に平地からは見えない鈴鹿山脈が連なるのが見える。
真西は乗鞍岳あたりだろうか。
●?地御劔権白龍大神(緒畑稲荷大神 石碑) 水脈環境
愛知県名古屋市緑区鳴海町三王山

緒畑稲荷大神の西1.1kmのあたりに
ぼくが通った笠寺小学校がある。
小学校五年生時に屋外授業で
緒畑稲荷大神と笠寺小学校のちょうど中間点を南北に流れる天白川周辺に
鉱石拾いに行ったことがある(写真左/中)。
このあたりの天白川は水深が15cmほどしか無く、
川床(写真右)の砂は、シジミに適した環境だったようで、
何度か、バケツを持って採りに行ったこともある。
当時は山盛り採れたが、それから10年もすると、
シジミは採れなくなってしまった。

旧東海道が天白川を渡る橋が天白橋で、
最近になって、天白川の両岸に、役行者に関わる寺院などが
点在していることがわかってきた。
役行者には天河弁財天(龍神)を祈り出したという伝承があるように、
龍神は修験と関係のある場合がある。
●境内社龍神社(茶屋後神明社)
愛知県名古屋市港区新茶屋5

福田川の土手沿ういの細道を抜けて南向きの境内の入り口に回って、
境内前の道路の土手の下に愛車(中型スクーター)を止めた。
境内は自然石の上に玉垣を巡らし、樹木はほとんどが松という荒々しい雰囲気。
(写真左)
鳥居は石造の内宮源鳥居。
境内前の道路に向かって案内板が立っていて、それによると、
この水田地帯はかつて茶屋後新田(現、新茶屋)と言ったらしい。
ここの北250mを東西に旧東海道が通っており、「新田」と言うからには
以前は海だった可能性がある。
おそらく、旧東海道の海岸線に茶屋があったものと思われる。
茶屋後新田は低湿地のために、明治期になっても水害が多かったというが、
延宝5年(1677)に茶屋長似が堤築した時に、氏神として神明社を祀った。
これが神仏習合の三十番神社だったわけだが、
茶屋長似に関する情報は他には無い。
明治初年度になって神仏習合の三十番神社は許されず、
現在の伊勢皇大神宮の祀られた茶屋後神明社本殿の東側に移されたという。
明治初年度には茶屋後新田は関戸家の所有となったというが、
関戸氏は千葉氏の支族。
鳥居をくぐると、新しい敷石を敷きつめた参道が1直線に伸びており、
突き当たりの拝殿を藩塀(ばんべい)が遮っていた。
参道の両側はおもに松が並んでいる。
参道に沿って、左手に河原石で区切った一画があって、
瓦屋根の社殿があるが、それは秋葉神社だった。
拝殿は鉄筋で、正面のガラス戸と両脇の窓はアルミサッシ。
拝殿の左手は境内の輪郭に沿って高くなっており、
拝殿に向かって2基の祠が祀られている。
その手前が龍神社だった(写真中)。
祠に向かって大きな河原石が敷石として並べられている。
祠の規模の割には大きな石灯籠と社号標を供えている。
境内はかなり暗くなっていた。
●境内社龍神社(茶屋後神明社)水脈環境
愛知県名古屋市港区新茶屋5

愛知県北部から愛知県西部へ流れる日光川(にっこうがわ)は伊勢湾に注いでいるが、
その支流として福田川が港区を南北に流れている(MAP)。
幅15m、奥行き100mほどの茶屋後神明社は
福田川の東側の土手下に面して鎮座している。
水神社の祠の真後ろが福田川だ。
境内脇の堤防に上がってみると下流の日光川と合流する水門がすぐ先に見えた。
(写真中)
潮の逆流を防ぐためのものかもしれない。
このあたりは川岸もコンクリートで護岸されている。
●境内社津賀田竜王神(津賀田神社)
愛知県名古屋市瑞穂区津賀田町3-4

旧井戸田村でもっとも大きな神社が
現津賀田町(つかたちょう)にある津賀田神社(つかたじんじゃ/写真左)だ。
『瑞穂区の歴史』(山田寂雀著)によれば、
井戸田村は井戸田庄に由来する本井戸田村と北井戸田村から成っていたという。
『尾張国地名考』によれば、井戸田の「戸」は「所」からきているというから、
井戸田は「井戸のある所」という意味になる。
1822に成立した『尾張徇行記』によれば、
井戸田村は収穫の大部分が年貢で消えてしまうため、労働力が恒例的に不足し、
庄屋も山崎村(現南区)の庄屋が兼帯していた時期もあったという。
よく晴れた11月後期の週末、津賀田神社に向かった。
境内の西側の一部だったような場所に公園があり、
週末を家族たちが楽しんでいた。
公園の脇に駐車場らしきスペースがあったので、
バイクを停めるために入ってゆくと、
交通事故防止の祈祷のための駐車場だった。
邪魔にならないように、そのスペースを避けて愛車を駐車すると、
白装束に白袴で、
江戸時代の医者のような顔から胸までを覆う大きなマスクを着けた人物が
飛んできた。
女性で、どうも祈祷のためのユニホームのようだ。
バイクをここに停めてはまずいと言うので、境内周囲の路地に移動する途中、
入り口(写真左)が南向きであることがわかった。
短い石段を上がると、門入り口にある名古屋市教育委員会制作の案内によれば、
祭神は天照大神と仁徳天皇。
門をくぐり、石造の一ノ鳥居をくぐると、
クスノキなどのの巨木が立ち上がり、ここが古社であることを物語っている。
奉納された石灯籠も大きなものがある。
『社伝』によれば、かつては境内に松原が続いていたことから、
長森八幡ともいわれたという。
松原の存在は海岸線が近かったことを意味しているが、
中世には年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれた干潟・湿地帯が
井戸田村の南側に広がっていたものとみられている。
120m以上ある参道はほぼ南北に一直線に伸びている。
石造の二ノ鳥居、三ノ鳥居をくぐり、森を抜けると、拝殿前の広場に抜けるのだが、
三ノ鳥居の手前に左手に向かう短い枝道があり、
入って行ってみると津賀田竜王神が祀られていた(写真中/右)。
●境内社津賀田竜王神(津賀田神社) 水脈環境
愛知県名古屋市瑞穂区津賀田町3-4

津賀田神社『社伝』によれば、かつては境内に松原が続いていたことから、
長森八幡ともいわれたという。
松原の存在は海岸線が近かったことを意味しているが、
中世には年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれた干潟・湿地帯が
井戸田村の南側に広がっていたものとみられている。
津賀田町の西隣は天神塚のある白竜町となっているが、
かつて、天神塚の西北に蛸ヶ池(たこがいけ=田光ヶ池)があり、
そこから流れ出た水が津賀田神社の西北部を通り、
津賀田神社の東北部にあった萩山池に流れ込んでいたといい、
その水路に関る神と思われるが、
現在はその水路の痕跡はまったく無く、住宅と駐車場で埋まっている(写真)。
白竜町の北側に面する「田光(町)」の字意は豊かな水田風景をイメージさせ、
「蛸」からの転訛というのはおもしろいが、
やはり、海岸が近かったことを示唆している。
●柳ケ枝町 白竜神社
愛知県名古屋市瑞穂区柳ケ枝町3-10

11月下旬、晴天の週末、
井戸田町と白竜町の隙間にある柳ケ枝町(やながえちょう/旧井戸田村)に向かった。
白竜神社は意外なことに、白竜町ではなく、柳ケ枝町にあったが、
「白竜町」という町名は、かつて、そこに流れていた
「白竜大王の通り路」と呼ばれた水路に由来するものなのだろう。
白竜神社は津賀田神社の真西200mあたりにあった。
白竜町の一方通行の車道に面するお宅でそのありかをたずねると、
その車道の北側に面した境内の入り口はすぐにわかった。
向かい側の駐車場の入り口を避けて、車道に愛車を停めた。
車道に面した2軒の住宅の間に入り口があるが、
神社であることが認識できるものは社号票のみだった(写真左)。
白竜神社の幅4mほどの参道には入り口から白い砂利が深く敷きつめられていた。
奥に石造の内宮源鳥居が見える。
ジャクジャクという音を立てながら深い砂利を踏みつけながら
鳥居の前まで進むと、
鳥居のすぐ先にはごつい岩で組まれた石垣の段が立ち上がっていた。
段は二重になっており、その上に瑞垣があった。
本殿の背景に樹木は無く、アパートの壁が立ち上がっていた。
なんだか、海岸にいるような雰囲気だ。
鳥居と段の間の狭い狭間の右手に自然石に穴を穿った手水桶があったが、
その周囲には石庭のように大岩が配置されていた(写真中)。
9段の石段の脇に案内板が立っていて、風化して読みにくいが、

「4 白龍社
戦前この地帯一帯は蛸の池(田光ケ池)という大きな◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯都市化によって埋め立てられる◯◯◯◯伝説となっていた。池の主は白竜大王と呼ばれる◯◯◯(大蛇)の魂を鎮めるために祭ったのが白竜社である。
終戦後の一時期、堀田小学校の疎開先◯◯◯◯◯◯◯◯◯ある。
                         ◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」

とある。
石段を上がると、石垣の上に瑞垣で囲まれた神明造の本殿があった(写真右)。
銅板葺きの屋根はかなりすすけている。
本殿の向かって右側には別に石垣が組まれていて、稲荷社が祀られていて、
稲荷社の前には巨木の切り株があったが、かなりおおざっぱな切り残し方だ。
境内の巨木はことごとく伐採されたようで、切り株だけが残され、
1本も残っていなかったから、枯れたことが原因ではなく、
ことごとく切り倒されたようだ。
本殿の西隣に新築の家があったから、どうもそのことと関係がありそうだ。
ネット上に残されている、つい5年前の境内の写真を見ると巨木が繁っている。
白い砂利が敷きつめられ、石庭のように手水桶が設置されたのは
巨木伐採のためにとられた措置のようだ。
石垣の上から境内を見下ろすと石段脇に瑞垣で囲われた磐境があった。
●柳ケ枝町 白竜神社 水脈環境
愛知県名古屋市瑞穂区柳ケ枝町3-10

昭和60年発行の『瑞穂区の歴史』(山田寂雀著)によれば、
この神社の北側に蛸の池(たこのいけ=田光ケ池)があり、
この白龍神社が池の境域を示すもののようだ。
蛸の池は昭和12年ころから埋め立てられ、近所にあった天神塚も崩されたという。
蛸の池はボートが出たり水泳のできる憩いの場になっていたといい、
溺死者が出たことから、白龍神社が祀られたということだ。
蛸の池の水は東北にあった荻山池に通じており、
その水路が「白竜大王の通り路」といわれたようだ。
田光ケ池の名称は白竜町の北側に面した「田光町」に残っている(MAP)。
蛸の池の埋め立てと天神塚を崩すにあたって祟りがあったといわれ、
工事のトロッコの下敷きになった犠牲者が出たようだが、
この話は幼児期に聞いた記憶があり、ここの話だったようだ。
●境内社龍神社(一之御前社)
愛知県名古屋市瑞穂区平郷町5-13

2006年、正月三が日に一之御前社(いちのみさきのやしろ)に行った。
この時は2度目だった。
杜は坂道の途中にあり、尾張に多い丸石で組まれた石垣の上にあった。
境内は玉垣に囲まれ、入り口の7段しか無い石段の先に門がありその左右手前に
向かって右にムクノキ、左にクスノキの巨木が立ち上がっていた。
門をくぐって、さらに6段の石段を上がると正面に
瑞垣で囲まれた、トタン葺き屋根の祠があった(写真左)。
祠の背後の左右には白地に墨書きの幟が並んでいる。
幟は向かって右が「黒龍王大神」、向かって左が「白龍姫大神」。
祠の左右にはガラス窓を持った金属製の覆い屋(祠?)があって、
中には座布団が敷きつめられ、その上にとぐろを巻いた蛇体が納められていた。
(写真中)
座布団の上にはいっしょに卵が置かれているが、これもフィギュアなのだろう。
蛇体は白龍姫大神の幟の側は名前のように白蛇で、
黒龍王大神の側はちゃんと黒みがかった蛇になっていた。
それは龍神社だった。
一之御前社の拝殿は龍神社の真後ろにあり、龍神社を迂回して奥に進むと、
幟で目隠しされていたのだが、龍神社の祠の背後には
拝殿に向かって傾斜した古木があった(写真右)。
古木には案内が掲示されており、
この古木がこの龍神社の神体であることがわかった。
傾斜したのは伊勢湾台風が原因で、この古木の幹肌に神体が現れたという。

この時、撮影した(写真左)を整理していて、妙なことに気付いた。
(写真左)をよく見ると、
白龍姫大神祠側の旗が激しくはためいているのに、
黒龍王大神祠側の旗はまったく微動だにしていないのだ。
ここにやってきた時は静かな日で、祠の紙垂(しで)や榊の葉が
風で揺れていた記憶は無いし、じっさい写真でも白龍姫大神の幟以外は
風で動いているものが見当たらない。
白龍姫大神の側にだけ気づきにくい風の通り道があるのかも知れない。
だが、ちょっと不思議だ。
白龍のエネルギーだけが通っているような気のする画面だ。
●境内社龍神社(一之御前社)水脈環境
愛知県名古屋市瑞穂区平郷町5-13

一之御前社から250mほどの場所にある直會社(なおらいしゃ)は
丘の上に在るのだが、境内に手押しポンプのついた井戸があった。
それに、
ネット上で一之御前社内に湧き水があるというブログを読んだ記憶が結びつき、
一之御前社に湧き水を探しに出かけた。
門の前の向かって左の大クスの根もとにそれがあるという記憶があった。
しかし、境内に上がって、大クスの根本を見たが、それらしきものは無い。
広くはない境内をひととおり見るが、湧き水は見当たらない。
ただ、トイレのある場所が気になっていた。
そもそも、名古屋市内の神社でトイレがあるのは、
熱田神宮のような観光客の訪れるような大社を別にすれば、まれなことだった。
一之御前社の周囲で聞き込みをしたのだが、
一之御前社の向かいに住む女性が、トイレのある場所ではないかと言った。
ただ、この女性はこの地にやってきて3年半ということだった。
それで、トイレの周辺を見てみたところ、水路の跡を確認した(写真左)
水は枯れているのだが、ムクノキの根本を迂回するように
コンクリートで底が叩いてあり、自然石で縁取りがされている。
水路跡の源を辿ろうとしたが、視覚を幟と植木に遮られるので、
参道の石段を上がって、一段上の境内から覗き込んだ。
そこには石垣とムクノキに囲まれた円形をコンクリートで叩いた妙なものがあった。
コンクリート部分はそのまま水路部分に続いているのだが、
円形の部分が4つの3角形〜5角形でカットされており、地面が覗いていたのだ。
(写真中)
何だこりゃ?
あとは推測するしかないのだが、この4ヶ所から水が滲み出していたのだろうか。
ふたたび、下の境内に降りて、
目隠しのようになっている白龍姫大神と黒龍王大神の幟は(写真右)
この湧き水か、あるいはムクノキを龍神と見なしたものであることに気づいた。
水路跡はトイレの建物に遮られて途絶えているのだが、
もし湧き水があったとしたら、水は境内の下に落ちていたはずだが、
現在はトイレになっているので、下水の暗渠に続いているのだろう。
暗渠の無かった時代には境内前は西に下る坂道になっているので、
明渠として坂の下に流れていたはずだが、そうした痕跡はいっさい残ってはいない。
神社前をとおりかかった50代くらいの男性に境内の湧き水のことを聞いてみたが、
自分の子供時代には見たことがないとのことだったが、
直會社の井戸の話をすると、この地域は湧き水が豊富で、
井戸が遅くまで使用されてきたとのことだった。
それを聞くと、ムクノキの根本は埋め立てられた井戸だったとも思えるのだが、
井戸を埋めたりするだろうか。
それに(写真中)のカットされたコンクリートの意味がわからない。
確証をえるために、ブログで一之御前社の湧き水の情報を確認してみたのだが、
なんと、ブログに書かれていた湧き水のある一之御前社は
豊明市の一之御前社のことだった。
となると、名古屋市の一之御前社のムクノキの根本にあるものは???
●枇杷島 黒龍神社
愛知県名古屋市西区枇杷島2-25-8

バイクで名古屋城本丸方向から旧美濃街道を西に向かうと庄内川の堤防下に至る。
そこにはを示す旧枇杷島橋の素木の欄干の一部が
モニュメントとして設置されている。
隣に常夜灯があり、さらにその隣には「美濃路」の石造道標が立っている。
現在の枇杷島橋はここから150mほど下流に設置されており、
その橋を通る県道67号線が現在は「美濃路」と呼ばれている。
から現在の枇杷島橋に向かって40mほど走ると
右手の堤防の中腹に白い幟が立ち並んでいた。
黒龍神社は道路から立ち上がった石垣の上にあった(写真左)。
石造の伊勢鳥居が裏鬼門を向いている。
幟には朱の見慣れない神紋と「黒體龍王大神」の墨書き。
副管理人さとちゃんさんによれば、
孔雀王呪經には「黒帝大神龍王」、修験道では「北方黒帯大神龍王 」という
龍神名があるというから、

黒帝/黒帯=コクタイ=黒體

という転訛関係にあるのかもしれない。
神紋は3つの波紋を丸に収めたように見える。
http://p.tl/umhl

鳥居の前に掲示されている『御由緒記』にある社名は
「中島黒體龍王大神社」で、地図表記にある「黒龍神社」と違っている。
旧枇杷島橋は庄内川内の中州を中継して架けられたが、
その中州の地名を「中島」と言ったようだ。
さかのぼった慶安年間(1648〜1651)には「杷の洲」と呼ばれ、
そのころ五穀豊穣が祈願されたところ、
夢幻の中に神体が龍神となって示顕したことから、中島に社が創建され、
いらい360年余になるという。
杷の洲から現在地に遷宮したのは昭和21年(1946)のことだった。

中島には別に蛇の関る伝承がある。
寛政元年(1789)に御獄開山をした覚明行者が庄内川を渡ろうとした時、
降り続いた大雨のために橋が流失しており、
川端にたたづんでいると、金色の蛇体が中島の地に姿を消したといい、
覚明行者は中島黒體龍王大神社に大神を祀ったという。
黒龍神社の拝殿前に白頭金體龍王を祀った境内社があるが、
どうもそれが覚明行者が祀った大神らしい。
中島の地は庄内川改修により取り払われることになり、
昭和28年に現在の社地に遷宮されたという。

一ノ鳥居をくぐって、両側に幟が並ぶ参道に入ってゆくと、
参道は社務所の脇を抜け、石造の二ノ鳥居の前に出た(写真中)。
二ノ鳥居の先は狭いが広場になっていて、かたわらに
朱の鳥居と瑞垣を持った稲荷社と素木の祠が並んでいた。
稲荷社の朱の幟には「船玉稲荷大明神」という文字が抜いてある。
「船玉」とはkotobankuにはこう説明してある。

「ふな‐だま 【船玉/船霊/船▽魂】

1 航海の安全を守る神。住吉神(すみのえのかみ)・水天宮・金比羅権現などで、そのお札を船内に貼る。
2 漁船の守護神として信仰されている神霊。新造のとき、船大工が女性の毛髪や人形(ひとがた)・さいころ2個などを船の中央の帆柱の下などに、神体としてはめ込む。」

庄内川で操船した人たちが祀った稲荷社なのかもしれない。
素木の祠には「白頭金體龍王」の表札が掛っている。

拝殿は普通の民家のような棟入りの建物で、
軒にかかった扁額には「黒龍社」とあった(写真右)。
●枇杷島 黒龍神社 水脈環境
愛知県名古屋市西区枇杷島2-25-8

黒龍神社は庄内川の堤防にあるが、元は庄内川内にあった中州に祀られていた。
その中州は「杷の洲」「中島」と呼ばれたが、
現在は庄内川改修によって無くなっている。
枇杷島村が 尾張藩に提出した絵図(図版左)に表示されている中島には
2基の太鼓橋が掛っているが、これらは「枇杷島橋」と呼ばれ、
現在、この枇杷島橋の東の起点に最後の枇杷島橋の素木の欄干が
モニュメントとして残されている。
黒龍神社で参拝して参道を戻ると、社務所の横に脇道があった。
入って行ってみると、庄内川の堤防の上に出た。
上流側には現在名鉄の鉄橋が架かっており(写真中)、
下流側には県道67号線(美濃路)の通る、現在の枇杷島橋と、
その向こうにJRの鉄橋が架かっていた(写真右)。
●摂社柳龍神社(隅田神社)
愛知県名古屋市西区幅下2-20-19

1月下旬 晴れ。
三の丸に近い隅田神社のある幅下(はばした)に向かった。
ところが、隅田神社の地図の表記場所の前をスクーターで通過するも
神社らしき杜が見あたらない。
幅下の表通り歩道に愛車を乗り上げて、徒歩で探すと、
一見ゴミ溜めのような街角の一隅に石造の伊勢鳥居があった(写真左)。
鳥居の前に立つと、境内は幅2mほどの路地だった。
歓楽街なら、飲屋横町になってそうな路地だが、
鳥居のほかには車止めと石畳が、かろうじて、神社であることを証明していた。
「幅下」の地名は墨田神社の案内によれば、この地域が低湿地で、
台地上によくある上町に対する名称のようだが、

那古野=なごや→長野/名古屋

長野市南長野にも同じ「幅下」町名があり、
幅下に南面する那古野(なごの)と関係のある地名のようだ。
ところで、現在の地図を見たかぎりでは、15mほどある隅田神社参道は
裏路地に抜けている。
参道には珍しい諫鼓鶏(かんこどり)の石像があり、
先に進むと、左手に拝所が現れた(写真中)。
この狭い場所に石灯籠と狛犬があり、玉垣まで巡らせてある。
神明造の本殿は木瓜紋(もっこうもん)のついた鉄製の観音扉の奥にあった。
尾張で木瓜紋とくれば、スサノオだが、
案内板には須佐之男大神と迦具土大神となっている。
本殿から本殿正面の境内外の建物まで4m以内という
ギネス級の奥行きの浅い神社だ。
本殿の向かって左に摂社の柳龍神社の社が祀られていた。
このサイズには珍しくなった
平入りの檜皮葺(ひわだぶき) 屋根を持った社殿だった。

入り口に立っている案内板によれば、創祀は元禄初年(1688)だが、
当時この地域は農村で、この年、熱病の流行と火事があったことから、
須佐之男大神と迦具土大神が祀られたという。
隅田神社は幅下一町内の氏子だけで祀られている珍しい神社のようだ。
幅下は文政8年(1825)に畑地が開かれ、町屋になったが、
大雨で人家が西北の隅に流されたことで「隅田町」となったと、
説明されている。
しかし、そんなネガティブな出来事を名称に採用するだろうか。
個人的には「スミ」音は「住吉」を想起してしまう。
●江川 水脈環境
愛知県名古屋市西区幅下2-20-19

隅田神社の鳥居前の道路は江川線という6車線の道路になっているが、
この道は大正時代までは通称「江川」と呼ばれる用水路だったが、
現在は暗渠化されている。
(写真左):上流方向
(写真右):下流方向
●金山龍神社(金山神社)
愛知県名古屋市熱田区金山町1-16-19

「金山(かなやま)」は名古屋市の中心地「栄(さかえ)」に次ぐ副都心だが、
そこにある金山神社が町名の由来になっているという。
堀川から八熊通り(29号線)を320mほど東に向かい路地を左に入ると、
正面に金山神社の杜が見えた(写真左)。
社内には楠の巨木が立ち上がっており、社頭に石造の伊勢鳥居が見える。
路地に入って、ふと、右のトタン壁にある看板を見ると、
金山神社特有の看板が出ていた。

「銃砲刀剱類のお祓いを致します 金山神社」

路地は金山神社社頭でL字に折れ、西に向かっていた。
社頭から一ノ鳥居、二ノ鳥居と棟入りの拝殿が一直線に並んでおり(写真左)、
奥行きはさほど深くない。
参道脇に掲げられた『社記』によれば、祭神は以下。

主祭神:金山彦命(カナヤマヒコ)
相殿神:金山姫命(カナヤマヒメ)  天目一筒命(アマノマヒトツ) 
    石凝姥命(イシコリドメ)  天津眞浦命(アマツマウラ)etc.

由来と歴史は以下。

「社地は熱田神宮修理の鍛冶職であった尾崎氏宅跡で実に尾張鍛冶の発祥地とするところである。
今より約六百年前の応永年間(1394〜1427)に尾崎善光が勧請して神社を創建した。
熱田神宮の境内社として年中両度の祭典には同神宮の祢宜が奉仕した。
徳川末期に至って金物商の信仰が起り金属業界の有志が集って金栄升栄の二講を結び社殿の造営を勧進した。」

金山神社は熱田神宮のほぼ北800mあたりにあるが、
「熱田神宮の境内社」とある。
金山神社が熱田神宮の境内社であったとすれば、
意外に境内の規模が大きくないことも納得がいく。
境内に出入りしていた神頭前にあるマンションの年配の男性に声をかけると、
現在は無住の神社となり、町内でお守りされているとのことだった。
拝殿の西奧に進むと、本殿と並んで金山龍神社が祀られていた(写真中)。
金山龍神社は玉垣で囲まれ、入り口に灯明台がある。

名古屋市内の中央を南北に流れる堀川は1610年の名古屋城築城開始に際して、
築城のための資材運搬を目的として
庄内川から伊勢湾の間に掘削された水路だった。
金山神社前から堀川に通じる八熊通りの通る住吉橋から下流を見下ろすと 、
水量は豊富だが流れは穏やかだ(写真左)。
金山彦命・金山姫命といえば、宮城県の金華山黄金山神社ですね。
>雪月花さん

関東圏の方ならご存知だと思いますが、
海外では川崎の金山神社(若宮八幡宮境内社)が知られていて、
その原因は“かなまら祭”にありますね。
●己神大龍王(阿字ヶ峰行者堂)
和歌山県和歌山市加太

阿字ヶ峰行者堂への登り口は
加太淡島神社前から加太街道で250m以内の場所にある。
淡島神社からバイクでそこに向かっていると、
淡島神社前では小雨だった雨が本降りになってきた。
阿字ヶ峰行者堂のある山の麓に着いた時には雨は激しくなっていた。
麓にある「役行者堂」石標の前に愛車を停め、
あわてて石段の上にある観音堂の庇の下に、雨宿りのために駆け込んだ。
いよいよ台風12号の影響が表れだしたのだ。
30分ほど東向きの庇の下にいる間に、雨は小降りになってきた。
おそらく、この日は
晴れ間と雨が波状的にやってくるのだろうと予測していたので、
この日の高温多湿で汗だくになる雨具は使わず、雨宿りでしのぐつもりだった。
山の上にある役行者堂には前回、行っているのと、
途中に雨宿りできる場所が無いので、今回は断念し、
前回、撮影仕損なった観音堂の隣にある龍神社を撮影した。
その銅板葺き屋根・平入りの社殿(写真左)の扉は格子で、
中に白い提灯のあるのが見えている。
中を覗き込むと、提灯には「己神大龍王」と墨書きされていた。
社内には2基の祠があって、右側の小型のガラス窓付きの祠内には
とぐろを巻いて鎌首をもたげた、蛇体のシルエットが見えていた(写真中)。
観音堂前から見下ろす加太港の向こう側の山並みには雲がかかっていたが、
明るかった(写真右)。
●鹿八大龍王神(身玉山大定院皇勅院 大竜山堂)
愛知県豊明市沓掛町小廻間

身玉山大定院皇勅院は勅使池(ちょくしいけ)の南岸にあった。
5月の下旬の午後、日射しが強く、猛暑の中、
勅使池(ちょくしいけ)の南岸を東西に通っている無舗装の道を西に向かっていると、
新しい石造明神鳥居の前に出た(写真左)。
鳥居は南向きで、鳥居脇の生け垣には
白地に「鹿八大龍王神」と墨書きされた幟が1本立っている。
幟には朱のドラゴンボールを握った3本の指「玉掴み龍爪」(http://bit.ly/MYRUQY)の
神紋も付いている。
社頭額には「皇勅院」とある。
鳥居の奥(北)に勅使池の水面が見えている。
鳥居をくぐると、広場になっていて、
右手(東)に西向きの屋根とその軒下以外はすべて丹色に塗られた
本殿(?)「大竜山堂」(写真中)があり、
反対側の左手(西)には楠の巨木が伸びており、
その根本に大岩が置かれているのが目に着いた。
広場の中央にはコンクリート造の水桶に入った地蔵菩薩、
広場の北側には清龍霊神石像、豊川稲荷小祠、不動明王石像などが、
南向き一列に祀られている。
本殿(?)に向かう導線になるような参道は見当たらない。
大竜山堂は瓦葺入母屋屋根に向拝屋根をつないだ建物で、正面に縁側と階段を持った、
名称通り神殿というより、堂といったほうがよい建物だった。
そもそも西向きの堂は真言宗を暗示しているのだが、
屋根とその軒下以外はすべて丹色に塗られている。
そして、利休鼠に塗られた破風には白龍の浮き彫りが装飾され、
すぐ上の軒下には 密教を現す法輪のマークが、
これも浮き彫りになっている(写真中-左下)。
ガラス格子越しの堂内は紅赤色で統一され、調度品のすべてが限りなく寺院風だが、
正面には鏡が置かれており、仏像は無く、神社風だった(写真右)。
鹿八大龍王神(身玉山大定院皇勅院 大竜山堂)水脈環境
愛知県豊明市沓掛町小廻間

勅使池(ちょくしいけ)は豊明市最大の溜め池。
バイクで勅使池の東岸に着くと、
そこから北に向かって池沿いに整備されたばかりの車道が延びているので、
そっちに向かった。
200mも走ると、勅使池の東岸に広がった駐車場に出た。
池沿いには池の中にまでせり出したデッキや通路が設置されていて、
葦越しに勅使池を眺めることができるが(写真左)、
この池、エレキングのシルエットのような複雑な形をしていて(航空写真中)、
どの場所から池を望んでも、この地域最大の池には見えない。
池の複雑な輪郭は、この地が複雑な地形をしていることを現している。
そして、その複雑な形から、勅使池の西岸の一部は名古屋市内に面している。
勅使池の南部は埋め立てられているようだ。
駐車場に立てられた「勅使池の築造の歴史」によると、

「満水面積は約23ha。伝承によると、大永8年(1528)、左中将経広卿という人が後奈良天皇の〈勅使(天皇の使者)〉として、愛知郡東郷町の裕福寺へ派遣された際に。この池を造ったとされ。以来〈勅使池〉と呼ばれるようになったといわれています。(以下略)」

とある。
裕福寺とは豊明市の東に隣接する愛知郡東郷町の
浅間神社脇の茶苦煎池(ちゃくせんいけ)のすぐ南側にある古寺で、
現在は浄土宗寺院だが、境内に弘法大使や不動明王が祀られているところからすると、
役行者の祀られた浅間神社と習合していたものと思われる。
ところで、勅使池のデッキの一部は屋根付きで、
ウッド製の大きなテーブールがあるので、
ノートパソコンを広げたおじさんや、子供たちを引き連れた女性が居た。
水位は低い時期らしく、
デッキの下にはミツガシワ(http://bit.ly/QCe2Ar)が繁茂しているが、
水は干上がっている。
(写真左)の葦の中の塚は角石を積んで土を盛ったものらししいが、
古墳の情報は無いから、花でも植えるつもりか。
ここから北岸に向かう通路は、まだ整備中で立ち入れなくなっているので、
愛車で入り口まで戻り、みんなが車を停めている入り口脇の空き地に愛車を停めた。
ここから南は堤防で、その上は歩行者専用通路になっている。
勅使池にやってきたのは池の縁にあるだろう大石を見て回ろうと考えたからだった。
しかし、予想に反して護岸工事のされている池の周囲は整理されており、
石碑類は見られるものの、自然石の大きなものは、まず見当たらなかった。
勅使池の周囲を1周するには半日かかりそうだったが、
池の東岸を南部に向かって200mほど歩いたところ、
池脇に一般道があるのが見えたので、引き返して愛車にもどり、
バイクで勅使池の南岸に向かった。
一般道からみると、池の堤防は6mくらいの高さがある部分もある。
一般道から池の南岸の道路に入る場所があったので、そちらに入った。
堤防はそこまでで、そこから西に向かう池の岸は、なだらかな土手になっている。
東岸ほどの規模ではないが、南岸にもデッキがあって、デッキの下には葦が茂っていた。
(写真右)
(写真右)内の左手のデッキの向こう側の森の中に皇勅院は存在する。
●日女龍神(豊藤稲荷神社境内社水神社) 
名古屋市緑区作の山町180

1月下旬の午後、豊藤稲荷神社に到達したが、
豊藤稲荷神社は新海池(にいのみいけ)の南東170mあたりの
名古屋市緑区作の山町の丘陵上(旧・朝日山)に位置していた。
新海池側から社地に接近すると、
社地の北西側に境内に上がってゆく舗装路があったので、そこを登ったところ、
左手に拝殿を見ながら、内容不明の記念館の前に出た。
記念館の前に駐車場が並んでいたので、愛車はそこに入れ、社頭を観に行った。
社頭は南西向きで、
そこからまっすぐ、ゆるやかに下ってゆく参道が伸びていた。
参道の両側は空き地にしてあるが、
ここに桶狭間の戦い時、織田信長の兵3,000が集結したという。
当時の桶狭間の場所は特定されていないが、
現在の「桶狭間」はここから2.7km南南東に位置し、
桶狭間方向を物見しながら兵が集結するには絶好の場所だ。
石造明神鳥居の奥50m以内に朱の拝殿が見えている(写真左)。
改めて鳥居をくぐると、境内は特に参道が設けてあるわけではなく、
全面に砂利が敷きつめてある。
右手に朱の鳥居を持った境内社群が設置してあった(写真左)。
正面の拝殿は山の上の吹きさらしにあることもあって、
伊勢湾台風などでたびたび被害を受けてきたといい、
現在は堂々たる鉄筋造になっている。
この神社の創建は江戸時代だというが、
豊藤大明神の奉斎は和銅年間(708年〜)に始まったといい、
この周辺に人が多く住むようになるまで、
ずいぶん時間がかかったことになる。
拝殿で参拝して境内社群に戻り、小さな朱の鳥居をくぐると、
小型の銅板葺流れ造で韓紅(からくれない)の木部を持つ水神社祠と
同じく小型の銅板葺流れ造で朱に塗られた天鈿女社祠が
同じ銅板葺流れ造の屋根を持った覆い屋に納められていた。
水神社の扉の前には素木の三方に乗せた、
二匹の白蛇が絡まってとぐろを巻いた焼き物が置かれている。
表札には祭神として以下の2柱が掲示されていた。

・日女龍神(ひめりゅうじん)
・高オ神(たかおかみ)
●日女龍神(豊藤稲荷神社境内社水神社) 水脈環境 
名古屋市緑区作の山町180

2月上旬の午後、
豊藤稲荷神社の南東の麓120m辺りに境内社の水神社に関係があると思われる、
扇川の支流になっている用水路流れていると知り、それを観に行った。
作の山町の丘陵上から扇川の支流に下ってゆく道はかなりの急坂で、
目的の水路はずいぶん深い谷だったことがわかった。
水路自体も深さは4m近くあり、
見事に疑似石垣のコンクリートで護岸されていた(写真左/中)。
河床も同様で、コンクリート製の大型樋といっていい水路で、
砂土も全く溜まってなく、ゴミも見えず、生活用水は流し込んでいないようで、
おそらく雨水を流すのが主目的の、みごとな設計になっている。
偶然なのか意図的なのか水神社の背中はこの水路の方を向いている。
地図上ではこの水路の上流は
北に位置する旭出小学校の北側で消滅しているので、
旭出小学校の地下は貯水池になっている可能性があるようだ。
水路は暗渠になっていても、暗渠のある道は
碁盤の目に整地した周囲の道を無視して、蛇行していることから、
その地下に暗渠があることが推測できる。
おまけにその路地は旭出小学校の北側から東に方向転換し、
唐突に両側に細い遊歩道の付いた並木道になり、
その地下に暗渠が続いていることは確実だと思わせた。
その遊歩道付きの路地は450m近くゆるやかに連なり、
そこから二股に別れ、
片方は500mあまり北西にある
新海池(にいのみいけ/写真右)に向かっているようで、
旧坂を登るかたちになり、碁盤の目になった住宅街に吸収され、
暗渠も、おそらく碁盤の目になった道路の地下を通っているはずだった。
新海池の余分な水は南にある朝日山を迂回して、
こちら側の暗渠を通って、扇川に流れ込んでいるようだ。
その日は水源は新海池だと判断したのだが、
後で、もう一方の道を地図でチェックしたところ、
300mあまり先に上朝日出公園があり、そこにも池があることがわかった。
2月の中旬に、朝日出公園の池を見に行った。
二股に別れていると推測した本流の方をたどり、
東に向かってゆるやかな坂道を登って行くと、
上朝日出公園(名古屋市緑区旭出)に到達した。
この公園の北東部の住宅街あたりがピークになっているようだ。
その530mほど南東には別の用水路があり、やはり、扇川に流れ込んでいる。
上朝日出公園は四方を住宅街に囲まれた方形の公園だが、
通常の名古屋市内の住宅街内の公園の倍くらいの面積があり、
公園内に丘と凹地があり、凹地に護岸された池がある。
この池が豊藤稲荷神社下の用水路と暗渠でつながっているようだ。
●白髭白宝龍神(多度町 高峰神社)
三重県桑名郡多度町柚井

ゴールデンウイークの初日 晴れ
甥と、三重県の多度山に登るために多度町に向かった。
山頂まで徒歩で1時間20分ほどで到達。
高峰神社の脇に出た。
社殿は鉄筋造棟入りの本殿のみで、南南東を向いている。
正面の石段下の社頭に回った(写真左)。
石段の下に石造伊勢鳥居があり、
鳥居の先の参道の西側は針葉樹の並木になっている。
ここ多度町の高峰神社境内に案内書きは見当たらないが、
多度町史には高峰神社の祭神は「白髭白宝龍神」とされているようだ。
他で聞くことのない神名だが、「白髭」に、
この地方に祀られている猿田彦大神の別名
塩土老翁(シオツチノオジ)が隠されているのを感じる。
それはサルタヒコの別名であり、記紀で言えばスサノオ、
または海上から望める山に祀られる、オオヤマツミのことでもある。
スサノオはイザナギ、イザナミの御子神だから龍神でもある。
多度山は海に突き出した岬であった時代もあり、海上から望める山であり、
オオヤマツミの別名なら、多度山山頂に祀られていても不思議ではない。
この高峰神社は昭和期に入ってからの創建で、 由緒は旧くない。
高峰神社のすぐ東側に 展望所があり、名古屋市街北部が正面に眺望できるが、
(写真右)の手前から

       多度山麓=〈海津市〉水田地帯
      その向こうに〈揖斐川〉(いびがわ)
揖斐川と長良川に挟まれた〈海津市〉(かいづし:岐阜県)
            〈長良川〉
     長良川に沿って〈木曽川〉
木曽川の向こう岸に広がる〈名古屋市街〉

多度山麓には木曽三川と呼ばれた3つの流れが集まり、
「輪中(わじゅう)」と呼ばれた高潮・洪水による水害を防ぐための
堤防の輪で囲われた地域が存在した。
●巧一龍神・八萬龍神・古井龍神(元古井 高牟神社境内社高牟龍神社)

6月の初旬 晴れ
バイクで今池(旧・元古井)に向かった。
南向きの社頭は広い路地に面していた。
路地に面して石造明神鳥居があり、
すぐ奥に銅板葺屋根を持った木造の藩塀があった。
鳥居の脇には路地に向かって教育委員会制作の
『元古井(もとこい)伝説地』の案内板が立てられていた。

「昔、このあたりは常世(とこよ)の草香島(くさかじま)と呼ばれ、あちこちか
 ら清水が湧き出ていたところで、後に井となり、元井戸の地名の起こりと
 なったといわれ、その跡が今も神社の境内に残っている。
 〜以下略〜                             」

藩塀の先には拝殿に向かって1直線に石畳の参道が延び、
途中、西に向かって枝道の参道がのびており、
その2本の参道に沿って西に向かって誘うように
青地・白地をギザギザに区切った幟が並んでいて、
青地部分に以下3柱の龍神の名が白抜きされている(写真左)。

・巧一龍神
・八萬龍神
・古井龍神

西に向かう参道の北側に南向きに屋根と柱だけの大きな拝所があり(写真中)、
その奥の石段の上に東側に高牟龍神社、西側に北野天神社が祀られていた。
高牟龍神社は銅板葺流れ造素木の拝殿で、正面以外が玉垣で囲まれていた。
(写真右)
この拝所のすぐ西側には高牟神社の入口がもう1ヶ所あり、
そこからこの高牟龍神社に参拝に訪れる人が多いようで、
この龍神社は高牟神社より人気があるようだった。
●巧一龍神・八萬龍神・古井龍神(元古井 高牟神社境内社高牟龍神社)
水脈環境

高牟龍神社の隣には銅板葺棟入りの南向きの手水舍があった(写真左)。
その手水舍には独立した参道が南に向かって伸びており、
その参道脇に「元古井発祥の地」と刻まれた号標が立てられている。
社頭に掲示されていた案内板にあった
「その跡が今も神社の境内に残っている。」とはこの手水舍のことにようだ。
かつてはここから沸き出していた水で、手を清めていたことが想像できる。
手水舍の屋根の下は南北に二分されており、南側は吹きっぱなしの手水舍、
北側は扉の無い部屋になっており、脇に回って中を覗いてみると、
井戸だったようで、現在は水を汲み上げるためのポンプ室になっており、
埃を被っていた。
この手水舍の北西部分に方形のプールがあって、
そのプールでは20匹近い緋鯉が泳いでいた(写真右)。
手水舍で組み上がられた水はこのプールに利用されているようで、
水は循環されていた。
●巧一龍神・八萬龍神・古井龍神(元古井 高牟神社境内社高牟龍神社)
愛知県名古屋市千種区今池1-4-18

6月の初旬 晴れ
バイクで今池(旧・元古井)に向かった。
南向きの社頭は広い路地に面していた。
路地に面して石造明神鳥居があり、
すぐ奥に銅板葺屋根を持った木造の藩塀があった。
鳥居の脇には路地に向かって教育委員会制作の
『元古井(もとこい)伝説地』の案内板が立てられていた。

「昔、このあたりは常世(とこよ)の草香島(くさかじま)と呼ばれ、あちこちか
 ら清水が湧き出ていたところで、後に井となり、元井戸の地名の起こりと
 なったといわれ、その跡が今も神社の境内に残っている。
 〜以下略〜                             」

藩塀の先には拝殿に向かって1直線に石畳の参道が延び、
途中、西に向かって枝道の参道がのびており、
その2本の参道に沿って西に向かって誘うように
青地・白地をギザギザに区切った幟が並んでいて、
青地部分に以下3柱の龍神の名が白抜きされている(写真左)。

・巧一龍神
・八萬龍神
・古井龍神

西に向かう参道の北側に南向きに屋根と柱だけの大きな拝所があり(写真中)、
その奥の石段の上に東側に高牟龍神社、西側に北野天神社が祀られていた。
高牟龍神社は銅板葺流れ造素木の拝殿で、正面以外が玉垣で囲まれていた。
(写真右)
この拝所のすぐ西側には高牟神社の入口がもう1ヶ所あり、
そこからこの高牟龍神社に参拝に訪れる人が多いようで、
この龍神社は高牟神社より人気があるようだった。
●白男桜竜神社
愛知県愛西市立田町ギロ

年末 曇天
東海道七里の渡しの脇往還である佐屋街道を辿っている過程で、
木曽川用水の一つである海部幹線水路(あまかんせんすいろ)を
北から南に辿って、愛西市(あいさいし)に入り、
木曽川堤防下に集落のある「船頭平」(立田町)という場所に到達した。
そのすぐ北には地図に「白男桜竜神社」という
非常に気になる社名が表記されていたからだ。
「船頭平」とは、いかにも木曽川沿いといった名称だ。
船頭平の北の水田の中に森があった。
無舗装の農道を東に入ってその森に向うと、50mほどで神社の社頭に出たが、
それは南向きの社頭を持つ八幡神社だった。
村社レベルの神社としては規模は大きいのだが奥行きは浅く、20mあまりだ。
ここは船頭平と同じ立田町(たつだちょう)で、
「ギロ」という地名の水田地帯だった。
「ギロ」という地名は愛知県内に9ヶ所存在するという。
「ギロ」に関しては柳田国男が『地名の研究』の中で
意味不明としているというが、
琵琶湖周辺の沼のことを指す滋賀県の方言だとする説や、
「岐路」が訛ったものとする説、
「粘土」のこととする説があるが、
立田町のギロの場合は
「岐路」が訛ったものとする説は当てはまらないと思われる。
ところで、白男桜竜神社はこの八幡神社の境内社だったのかと思ったところ、
八幡神社の東側に平行するようにコンクリート舗装された参道が
奥の石造伊勢鳥居に延びていた(写真左)。
鳥居越しに銅板葺きの小さな本殿が覗いている。
奥行きは隣の八幡神社より少し深く、25m以上ありそうだ。
入口と鳥居前の参道両側には松が植えられている。
両社の前の道の撮影の邪魔にならない場所に愛車を停めて参道に入った。
枯れ草の間を北に延びる参道を進み、鳥居をくぐると、
左手に「白男櫻竜神社」と刻まれた社号標が立てられていた。
鳥居の奥の地面は生け垣を避けてコンクリートで叩かれ、
その上に社号標の先から本殿の石段付の基壇に向って
幅1mほどの参道が敷かれ、基壇の上には銅板葺流れ造の本殿が祀られていた。
(写真中)
本殿の東脇には頂に大きな板碑を建てた塚があったが、
興味を惹かれない内容の板碑だったらしく、内容の記憶が無い。
その板碑よりも、その板碑の前に参道の方を向けて設置された
小さな方の板碑に刻まれた碑文の内容の方が重要だったからだ。
それはこの地に白男櫻竜神社が祀られた由来が書かれたものだった(写真右)。

「立田干拓の一大池沼を古来平瀬川と云ふ池の主神を白男櫻竜神と申溥ふ」

参道両側のプールは白男櫻竜神が住処としたこの地の一大池沼を
象徴として残したものだった。
この碑文からすると、「ギロ」は「沼」沼のことを指すとする説が有力だ。
「白男櫻竜神社」の読み方は情報が無く不明。
●白男桜竜神社 (水脈環境)
愛知県愛西市立田町ギロ

立田町のギロは木曽川の東岸堤防から80m以内。
辿っていた海部幹線水路(あまかんせんすいろ)からも240mほどの場所の
水田内に位置しており(写真左)、
本殿の背後には根本を残して刈り取られ、水を抜かれた水田が広がっていた。(写真中)。
気付くと、白男桜竜神社参道の両側には
長方形にコンクリートで枠取りしたプールのようなものが設置してあり、
プール内はどちらも、涸れた茅で覆われ、水は干上がっていた(写真右)。
●長谷龍神社(堀江山 長谷院)
三重県清須市桃栄3-80

3月の上旬、津島街道(上街道)の起点となっている
新川橋西交差点(愛知県清須市土器野)から街道を辿り、西に向かった。
住宅街の中を700m ほどたどると、
途中、北北西に向かう枝道の奥に深い緋色の建物があるのが目に入った。
そちらに向かうと、瓦葺の仁王門の前に出た(写真左)。
路地はこの仁王門の前で右に折れ、北東に向かっている。
愛車を路地沿いに停めて、仁王門の石段を上がると、
門の右側の柱に掛かった看板には「堀江山 長谷院(ちょうこくいん)」とあり、
向かい側の柱に掛かった看板には
「尾張西国三十三観音霊場第二番札所」とあった。
密教寺院のようだ。
仁王門をくぐって参道に降りると、右手にさまざまな石仏が並び、
その奥には天保5年(1834)に寄進された、
この寺院でもっとも旧い建物と思われる多宝塔が
石垣の上に立ち上がっていた。
石垣の高さは3m以上あり、この石垣の高さからすると、
この西200m以内に南北に流れている五条川が
氾濫を繰り返していた時代の建物であると想像したのだが、
2013年までは長谷院の西280mあまりの五条川の河川敷に渡された
「法界門堰」(MAP中)と呼ばれた堰があって、昨年まで毎年、
台風シーズンともなると、急激な増水による堰決壊の不安があったという。
堰を設けたのは農業用水を確保するためだったのだろうが、無用の長物となり、
2014年になって、ついに撤去されたらしい。
派手な仁王門といい、観音霊場となっていることといい、
密教寺院と思われる記号の多い長谷院だが、元文3年(1738)に焼失しており、
そのほぼ100年後の天保3年(1832)に再建されているが、
再建したのは浄土宗の僧侶、誓阿普観上人(せいあふかんしょうにん)だった。
現在も、長谷院は浄土宗寺院となっている。
仁王門の正面奥40m以内に大きな本堂があるが、
この本堂も高い石段の上に設けられている。
仏教関係の設備や石造物は境内の西側半分にまとめられており、
境内の東側半分の敷地には神明社の拝殿を中心とした神社の施設があった。
神明社は長谷院とは別の入口を持っているのだが、
長谷院と神明社の間には仕切りは一切無く、神明社の鳥居も、
入口ではなく入口と拝殿の中間点に設置されていた。
この神明社拝殿と長谷院本堂の廻間に
「長谷龍神社」と墨書きされた額を掲げた桧皮葺流れ造の旧い社を収めた
覆い屋があった(写真右)。
長谷院と長谷龍神社の「長谷(はせ←はつせ〈泊瀬〉)」は
改宗前の長谷院が
真言宗 豊山派の総本山「泊瀬寺」に由来した寺院だったものと想像できる。
ここに龍神が祀られているのは五条川と関係があるものと思われるが、
情報が見当たらない。
●長谷龍神社(水脈環境)
三重県清須市桃栄3

長谷院を出て、愛車で五条川との間にある住宅街を迂回し、
五条川の堤防下に出た。
そこは袋小路になっていたので、愛車を堤防下に停めて、
枯れ草で覆われた堤防の土手を上った。
堤防上には軽四輪車ならすれ違えるほどの道幅の道があるのだが、
通る車はまったく見当たらない。
堤防上から上流側の河川敷側を見下ろすと、
堤防の土手には紅葉した萱が繁殖していた(写真左/MAP中)。
この対岸には「上萱津(かみかやづ)」という地名があり、
「萱津神社(かみかやづじんじゃ)」という神社も存在する。
反転して川下の方を眺めると、
萱はこの部分で倍以上広がった河川敷に繁茂していた(写真右)。
その部分で川幅も広がって、中洲が存在するのが見えるのだが、
地図では中洲は表示されていず、西岸の河川敷に含まれ、
川幅は逆にそのあたりから狭まっている(MAP中)。
戦国期の津島街道(上街道)はその狭まった場所で
五条川を渡っていたと思われる。
この辺りには条里制の遺構が残っており、
「五条川」という名称はそのことと関係がありそうだ。

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