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彦根藩主(井伊家各藩の物語)コミュの三代藩主・井伊直澄

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寛永2(1625)年〜延宝4(1676)年

井伊直孝の五男
母は側室・石居氏(石井吉兵衛(後の元政上人)の娘)
父親の名前は子孫の方から教えていただきました。

本来なら兄・直滋が井伊家を継ぐべきところを直滋が出家したために彦根藩内は騒然とし、直孝の病もあって急に世子に任命されたのが直澄でした。
本人が望む望まないは別として、部屋住みからいきなり藩主候補になってしまった人でしたが、直孝没後は三代藩主としてその政務をしっかりとこなしてゆきます。

幕閣においても、四代将軍・徳川家綱の治世で下馬将軍と呼ばれた酒井忠清と共に大老を務めています。
通常1名が定員になっている大老職にこの時は2名就任している事から、もしかしたら忠清の横柄さから、その目付のような形の就任だったのかもしれませんね。
このまま、大老就任中に病没し、その後の将軍継嗣問題で忠清が失脚する事から、もし直澄がもう少し生きていたら違った歴史を見る事ができたかもしれません。


性格はとても穏やかで、温和だったと伝わっています。
また、自分を藩主にしてくれた父・直孝にとても感謝していたとか・・・


400年祭のHPにはこんなエピソードが紹介されています。
“ある日、直澄は徳川光圀の伴として、四代将軍・家綱の茶会に参じたことがあった。将軍が直々に点てた茶を水戸のご老公様が召し上がるのを側で見るのが役目である。当然、直澄自身が一滴たりとも口にすることはない。
ここで事件が起こる。家綱は茶を点てるのに慣れていなかったのか、一人では飲みきれない量をご老公に出してしまった。今さら引っ込めるわけにもいかない。出された光圀も天下の将軍が出してくれた茶を残すわけにもいかない。場は一瞬にして不穏な空気に包まれた。
そこに進み出たのが直澄であった。
「将軍様がお点てになったお茶など勿体無くて頂戴する機会はございません。ご老公様、もしもお飲み残しであるようなら、是非拙者にも賜れないでしょうか」
光圀は胸をなでおろし、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ったという。光圀が将軍の点てた茶を残すという無礼も、大量に作りすぎたという家綱の恥も、直澄の一言で回避されたのである』と。
う〜ん、もしかしたら第二の水戸黄門にもなり得たような機転の良さですね。

藩主としては、いつも倹約に心がけ武具が新調されても自分で使う事は無く櫓に入れて次の代に引き継いだそうです。
また、近江牛の奨励を行い近江牛の味噌漬けは全国の諸大名や将軍などに贈られる品となりました。


父・直孝が亡くなる時に遺言として
「直澄は生涯妻を娶らず、跡目は直時(直孝の四男)の子・吉十郎に継がす事」と残した事を厳守し正室を持たず(でも、側室は居ました)、自分に子がありながらもその子を無視して吉十郎を世子としたのです。

直澄は、その性格から彦根藩に豊かな生活をもたらした人でした。

コメント(3)

なかなか逸話の無い方なので大変勉強になります。
井伊家が幕末まで、同じ国に存続していくのは、この様な厳格な教えを律儀に守り遂行していく方達が多かったからなのでしょうか?

また、幕閣間(特に保科正之)とは、面白いエピソード等は無かったのでしょうか?
>ぴすけさん
直澄は本当にエピソードの少ない人なんです。
水戸光圀との絡みが残っているだけでも奇跡かもしれません。

直澄が父・直孝の遺言を厳守した事が、後の代まで井伊家がこの遺言を守る基になったあたりは評価されるべきかもしれませんね。

幕府内ではどれほどの交流があったのか?
僕自身では調べ切れていないのが現状ですが、会津藩とは同じ溜之間詰めとして個人的な交流はあったとおもいますよ。
母親の石居氏は元政上人の姉だそうです。

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