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真田十勇士コミュの筧氏

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筧氏について、知っていることがあればどしどしお願いいたします。
どっかの書物にこんな人出てたよ〜でもOKです♪
どんな些細な情報でもお待ちしております♪






筧十蔵 1573〜1615年

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金六郎、掛飛十蔵、政右衛門ともいう。
真田家臣の筧十兵衛虎秀の長男として生まれる。父筧虎秀は敵の包囲を潜り抜け城門を丸太で突き破るという大胆不敵な戦功により、一介の足軽から家来持ちの武将に出世したという。筧虎秀は真田幸隆・真田昌幸父子に仕え重臣であった。長男の筧十蔵は種子島銃を所持し、その腕前はかなりなものであったという。 筧十蔵も海野六郎兵衛や望月六郎兵衛らのように真田幸村に仕えた荒小姓であり、最古参の1人である。真田幸村からの信頼も厚く、地味ながらも篤実な人柄の狙撃隊長として、十勇士の一翼を担っている。
天正13年(1585年)真田幸村が人質として春日山城、海津城に赴く際、それに小姓として従う。
天正14年(1586年)真田幸村の対北條攻めに従軍。僅か14歳にして初陣、鉄砲隊を率いて敵軍を迎撃する。
天正17年(1589年)真田幸村の小田原攻めに従軍。
天正18年(1590年)真田幸村が人質として大阪へ赴く際、それに小姓として従う。その後も真田幸村とは行動を供にする。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際は、真田幸村とともに西軍につき、上田城に籠る。真田家の鉄砲隊将として徳川軍撃退に大きく貢献し、戦功をあげている。関ヶ原合戦での敗戦後は、一時は九度山に赴くが、由利鎌之助とともに諸国の情勢を探るために旅に出る。主に西国を遍歴して、情報収集に携わった。
慶長19年(1614年)大阪の陣では真田幸村のもとに馳せ参じる。筧十蔵41歳である。真田丸の攻防戦では、筧十蔵の鉄砲隊と望月六郎兵衛の大砲が大いに活躍し、徳川軍を翻弄した。
元和元年(1615年)大坂夏の陣では、銃弾を撃ち尽くし、祢津甚八郎らとともに壮絶な討死をしている。
『真田三代記』では、豊臣秀頼、真田幸村の薩摩落ちに従っている。立川文庫では真田幸村、真田大助を守ってともに薩摩に向かい、生き延びている。だが、これも海野六郎兵衛らと一緒で、主君とともに討死していることが筧十蔵自身にとっても本望なのではないだろうか。銃という飛び道具の名手で腕前はかなりのものというのだから十勇士のなかでは珍しい。麾下に30名もの鉄砲の名手を揃えた猟師組を持ち、百発百中の狙撃隊として活躍する。『水滸伝』でいう弓の名手小李広花栄の役割を担う人物といえるだろう。筧家については真田譜代の家臣ではなく、元々は豊臣恩顧の大名蜂須賀家の家臣だったとも、筒井順慶の家臣筧孫兵衛の長男とも、豊後国富来2万石の城主の嫡男ともいわれ、様々な説がある。

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