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原始仏典コミュの中部経典 第118経 『念息経』2 四念処・七覚支・明解脱

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(『原始仏典【第七巻】中部経典④』春秋社 P168から)



[「四つの注意力の確立」の完成]
「また、比丘たちよ、出入息観をどのように養成し、どのように強化すれば、『四つの注意力の確立』が完成するのか。
 比丘たちよ、比丘が長く息を吸いながら『わたしは長く息を吸っている』と知り、長く息を吐きながら『わたしは長く息を吐いている」と知り、短く息を吸いながら『わたしは短く息を吸っている』と知り、短く息を吐きながら『わたしは短く息を吐いている』と知り、『全身を感じ取りながら息を吸おう』と練習し、『全身を感じ取りながら息を吐こう』と練習し、『身体の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習し、『身体の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習するとき、比丘たちよ、そのとき比丘は[身体という]世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察している。比丘たちよ、呼吸というものは身体[を構成する要素]のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は[身体という]世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察しているのである。
 比丘たちよ、[84]比丘が『喜びを感じながら息を吸おう』と練習し、『喜びを感じながら息を吐こう』と練習し、『安楽を感じながら息を吸おう』と練習し、『安楽を感じながら息を吐こう』と練習し、『心の活動を感じながら息を吸おう』と練習し、『心の活動を感じながら息を吐こう』と練習し、『心の活動を鎮めながら息を吸おう』と練習し、『心の活動を鎮めながら息を吐こう』と練習するとき、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、感覚を感覚として観察している。比丘たちよ、呼吸にしっかり思いを凝らすことは、感覚のうちのひとつであるといえる。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、感覚を感覚として観察しているのである。
 比丘たちよ、比丘が『心を感じ取りながら息を吸おう』と練習し、『心を感じ取りながら息を吐こう』と練習し、『心を喜ばせながら息を吸おう』と練習し、『心を喜ばせながら息を吐こう』と練習し、『心を集中させながら息を吸おう』と練習し、『心を集中させながら息を吐こう』と練習し、『心を解き放ちながら息を吸おう』と練習し、『心を解き放ちながら息を吐こう』と練習するとき、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、心を心として観察している。比丘たちよ、注意を怠っていたり、意識していない場合は、出入息観を養成しているとはいわない。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、心を心として観察しているのである。
 比丘たちよ、比丘が『無常を観察しながら息を吸おう』と練習し、『無常を観察しながら息を吐こう』と練習し、『離欲を観察しながら息を吸おう』と練習し、『離欲を観察しながら息を吐こう』と練習し、『滅尽を観察しなが息を吸おう』と練習し、『滅尽を観察しながら息を吐こう』と練習し、『放棄を観察しながら息を吸おう』と練習し、『放棄を観察しながら息を吐こう』と連取するとき、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、事象を事象として観察している。かれは、欲や不快感が[85]除かれるのを智慧によって見て、正しい仕方で静観している。それゆえ、比丘たちよ、そのとき比丘は世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、事象を事象として観察しているのである。
 比丘たちよ、出入息観をこのように養成し、このように強化すれば、『四つの注意力の確立』が完成する」

[「悟りにいたるための七つの支分」の完成]
「では、比丘たちよ、『四つの注意力の確立』をどのように養成し、どのように強化すれば、『悟りにいたる七つの支分』が完成するのか。
 比丘たちよ、比丘が世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、身体を身体として観察しているとき、かれには注意力が生じてゆるまずにいる。比丘たちよ、比丘に注意力が生じてゆるまずにいるとき、比丘には『注意力という悟りの支分』(念覚支)が始動している。そのとき比丘は『注意力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『注意力という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして注意力を保ちつつ、[観察の対象になっている]その物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する。比丘たちよ、比丘がこうして注意力を保ちつつ、その物事を智慧によって調査し、吟味し、検討するとき、比丘には『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)が始動している。そのとき比丘は『物事の解明という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『物事の解明という悟りの支分』は完全に展開する。
 物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する人には、努力が始まってたゆまずにいる。比丘たちよ、物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する比丘に努力が始まってたゆまずにいるとき、比丘には『努力という悟りの支分』(精進覚支)が始動している。そのとき比丘は『努力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『努力という悟りの支分』は完全に展開する。
 努力を始めた人には混じりけのない喜びが生じる。比丘たちよ、努力を始めた比丘に[86]混じりけのない喜びが生じるとき、比丘には『喜びという悟りの支分』(喜覚支)が始動している。そのとき比丘は『喜びという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『喜びという悟りの支分』は完全に展開する。
 喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜びんでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動している。そのとき比丘は『安らぎという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『安らぎという悟りの支分』は完全に展開する。
 身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな比丘の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。そのとき比丘は『精神集中という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『精神集中という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして集中している心を正しい仕方で静観する。比丘たちよ、比丘がこうして集中している心を正しい仕方で静観するとき、比丘には『平静という悟りの支分』(捨覚支)が始動している。そのとき比丘は『平静という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『平静という悟りの支分』は完全に展開する。
 比丘たちよ、比丘が世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、感覚を[感覚として観察しているとき、かれには注意力が生じてゆるまずにいる。比丘たちよ、比丘に注意力が生じてゆるまずにいるとき、比丘には『注意力という悟りの支分』(念覚支)が始動している。そのとき比丘は『注意力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『注意力という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして注意力を保ちつつ、観察の対象になっているその物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する。比丘たちよ、比丘がこうして注意力を保ちつつ、その物事を智慧によって調査し、吟味し、検討するとき、比丘には『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)が始動している。そのとき比丘は『物事の解明という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『物事の解明という悟りの支分』は完全に展開する。
 物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する人には、努力が始まってたゆまずにいる。比丘たちよ、物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する比丘に努力が始まってたゆまずにいるとき、比丘には『努力という悟りの支分』(精進覚支)が始動している。そのとき比丘は『努力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『努力という悟りの支分』は完全に展開する。
 努力を始めた人には混じりけのない喜びが生じる。比丘たちよ、努力を始めた比丘に混じりけのない喜びが生じるとき、比丘には『喜びという悟りの支分』(喜覚支)が始動している。そのとき比丘は『喜びという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『喜びという悟りの支分』は完全に展開する。
 喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜びんでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動している。そのとき比丘は『安らぎという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『安らぎという悟りの支分』は完全に展開する。
 身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな比丘の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。そのとき比丘は『精神集中という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『精神集中という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして集中している心を正しい仕方で静観する。比丘たちよ、比丘がこうして集中している心を正しい仕方で静観するとき、比丘には『平静という悟りの支分』(捨覚支)が始動している。そのとき比丘は『平静という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『平静という悟りの支分』は完全に展開する。
 比丘たちよ、比丘が世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、]心を[心として観察しているとき、かれには注意力が生じてゆるまずにいる。比丘たちよ、比丘に注意力が生じてゆるまずにいるとき、比丘には『注意力という悟りの支分』(念覚支)が始動している。そのとき比丘は『注意力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『注意力という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして注意力を保ちつつ、観察の対象になっているその物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する。比丘たちよ、比丘がこうして注意力を保ちつつ、その物事を智慧によって調査し、吟味し、検討するとき、比丘には『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)が始動している。そのとき比丘は『物事の解明という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『物事の解明という悟りの支分』は完全に展開する。
 物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する人には、努力が始まってたゆまずにいる。比丘たちよ、物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する比丘に努力が始まってたゆまずにいるとき、比丘には『努力という悟りの支分』(精進覚支)が始動している。そのとき比丘は『努力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『努力という悟りの支分』は完全に展開する。
 努力を始めた人には混じりけのない喜びが生じる。比丘たちよ、努力を始めた比丘に混じりけのない喜びが生じるとき、比丘には『喜びという悟りの支分』(喜覚支)が始動している。そのとき比丘は『喜びという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『喜びという悟りの支分』は完全に展開する。
 喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜びんでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動している。そのとき比丘は『安らぎという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『安らぎという悟りの支分』は完全に展開する。
 身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな比丘の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。そのとき比丘は『精神集中という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『精神集中という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして集中している心を正しい仕方で静観する。比丘たちよ、比丘がこうして集中している心を正しい仕方で静観するとき、比丘には『平静という悟りの支分』(捨覚支)が始動している。そのとき比丘は『平静という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『平静という悟りの支分』は完全に展開する。
 比丘たちよ、比丘が世界に対する欲や不快感を除き去って、熱心に、意識し、注意しながら、]事象を事象として観察しているとき、かれには注意力が生じてゆるまずにいる。比丘たちよ、比丘に注意力が生じてゆるまずにいるとき、比丘には『注意力という悟りの支分』(念覚支)が始動している。そのとき比丘は『注意力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『注意力という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして注意力を保ちつつ、[観察の対象になっている]その物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する。比丘たちよ、比丘がこうして注意力を保ちつつ、その物事を智慧によって調査し、吟味し、検討するとき、比丘には『物事の解明という悟りの支分』(択法覚支)が始動している。そのとき比丘は『物事の解明という[87]悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『物事の解明という悟りの支分』は完全に展開する。
 物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する人には、努力が始まってたゆまずにいる。比丘たちよ、物事を智慧によって調査し、吟味し、検討する比丘に努力が始まってたゆまずにいるとき、比丘には『努力という悟りの支分』(精進覚支)が始動している。そのとき比丘は『努力という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『努力という悟りの支分』は完全に展開する。
 努力を始めた人には混じりけのない喜びが生じる。比丘たちよ、努力を始めた比丘に混じりけのない喜びが生じるとき、比丘には『喜びという悟りの支分』(喜覚支)が始動している。そのとき比丘は『喜びという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『喜びという悟りの支分』は完全に展開する。
 喜んでいる人は身体も安らぎ、心も安らぐ。比丘たちよ、喜びんでいる比丘の身体が安らぎ、心も安らぐとき、比丘には『安らぎという悟りの支分』(軽安覚支)が始動している。そのとき比丘は『安らぎという悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『安らぎという悟りの支分』は完全に展開する。
 身体が安らいで幸せな人の心は集中する。比丘たちよ、身体が安らいで幸せな比丘の心が集中するとき、比丘には『精神集中という悟りの支分』(定覚支)が始動している。そのとき比丘は『精神集中という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『精神集中という悟りの支分』は完全に展開する。
 かれはこうして集中している心を正しい仕方で静観する。比丘たちよ、比丘がこうして集中している心を正しい仕方で静観するとき、比丘には『平静という悟りの支分』(捨覚支)が始動している。そのとき比丘は『平静という悟りの支分』を養成する。そのとき比丘の『平静という悟りの支分』は完全に展開する。
 比丘たちよ、『四つの注意力の確立』をこのように養成し、強化すれば、『悟りにいたるための七つの支分』が完成する」

[悟りの智慧と解脱の完成]
[88]「比丘たちよ、『悟りにいたるための七つの支分』をどのように養成し、どのように強化すれば、悟りの智慧と解脱が完成するのか。
 比丘たちよ、いま比丘が遠離に支えられ、離欲に支えられ、滅尽に支えられ、放棄へとつながる『注意力という悟りの支分』を養成し、[遠離に支えられ、離欲に支えられ、滅尽に支えられ、放棄へとつながる]『物事の解明という悟りの支分』を養成し、[遠離に支えられ、離欲に支えられ、滅尽に支えられ、放棄へとつながる]『努力という悟りの支分』を養成し、[遠離に支えられ、離欲に支えられ、滅尽に支えられ、放棄へとつながる]『喜びという悟りの支分』を養成し、[遠離に支えられ、離欲に支えられ、滅尽に支えられ、放棄へとつながる]『安らぎという悟りの支分』を養成し、[遠離に支えられ、離欲に支えられ、滅尽に支えられ、放棄へとつながる]『精神集中という悟りの支分』を養成し、遠離に支えられ、離欲に支えられ、滅尽に支えられ、放棄へとつながる『平静という悟りの支分』を養成する。
 比丘たちよ、『悟りにいたるための七つの支分』をこのように養成し、このように強化すれば、悟りの智慧と解脱が完成する」
 世尊はこういわれた。比丘たちよ、は感激して世尊のことばを讃えた。


      『原始仏典【第七巻】中部経典④』春秋社 P168-176

コメント(12)

こんにちは。
この内容を読んで『原始仏典【第七巻】中部経典?』の購入を決めました。
七覚支法の詳細をじっくり書籍で読んでみたいと思ったからです。
まさか辞書のような厚さの本が届くとは思いませんでした。

ざっと読んだ感想は、七覚支法というのは定に入ることができるほど瞑想に熟達した人(さらにいうと四念処を会得した人)が、定に入った後、さらにどのような瞑想をすべきかというもので、定に入ったことすら無い自分には、あこがれの存在である、ということです。
七覚支がもっとも詳細に記述されているのは、『南伝大蔵経16下 相応部経典6』(大蔵出版)の「覚支相応」のところです。要望があれば、口語にして引用します。

七覚支を「遠いもの」と受け取らないでください。三十七道品はすべて目の前に、今すぐに、そこにあるものです。「定覚支」が別個であるのに、他の覚支がどうして「三摩地に入る必要がある」のでしょうか。定覚支は確かに三摩地に入ります。しかし、他の覚支は三摩地に入る必要がまったくありません。

SFC会長さんのコメントの意図を承知していますが、「修行を困難なもの、瞑想上級者のものとみなさんが勘違いしないために」これを書いています。僕は「不死に導く三十七道品の修行が特権者や瞑想上級者だけの所有物になることをとても警戒」しています。それは多くの人の原始仏教の修行に対する「やる気をそぐから」です。

特に、「念覚支」はいますぐ実践できます。身でも受でも心でも法でも好きなものを念じて、それを遠離依止修習法に沿わせればそれが「念覚支」です。たとえば、「この念を、遠離を基礎とし遠離に向かわせよう、離貪を基礎とし離貪に向かわせよう、滅尽を基礎とし滅尽に向かわせよう、そして最終的に完全に捨てて放棄する方向へこの念を傾けよう。身であろうと受であろうと心であろうと法であろうと。要するに、手でゴミを捨てるようにではなく、また自殺をすることによって自分を捨てるのではなくして、何であろうとそれについての心の執着・渇愛・貪り・喜びを徹底的に捨て去ろうと念じる」、それが「念覚支」です。

覚支の義は、それが「悟りに導く」ということです。「悟り」とは「不動心解脱の自覚」です。「もはや二度と生まれることはないと私は自ら知る。なぜなら・・・」という智慧による解脱のことです。七覚支は、その解脱に導きます。要するに、「一切の渇愛を完全に滅し、一切の執着の完全放棄に達し、それは不動であると自覚すれば」それが「悟り」です。

ですから渇愛と執着を捨て去るために念じるならば念覚支、渇愛と執着を捨て去るために考えるならば択法覚支、渇愛と執着を捨て去るために努力するならば精進覚支、渇愛と執着を捨て去るために喜ぶならば喜覚支、渇愛と執着を捨て去るために静かにするならば軽安覚支、渇愛と執着を捨て去るために集中するならば定覚支、渇愛と執着を捨て去るために無関心となり捨てようとするならば捨覚支なのです。

「修行は誰でもできる簡単なもの」です。「執着を捨てよう、執着を捨てよう」と朝から晩まで、人が一年、二年、十年と念じ続ければ、間違いなく解脱し不死となります。それは念覚支だからです。捨てようとしているという観点から見れば捨覚支です。「執着を捨てよう」という想いに慣れて集中したらそれが「定覚支」です。「執着を捨てよう」と努力しているのだから精進覚支です。執着が減ったことを喜べば、あるいは執着を捨てる修行自体を喜べば、あるいは執着が捨て去られた境地を考えて心が喜べば、それが喜覚支です。執着を捨てるために身体を静かに心を静かにするならばそれが軽安覚支です。「覚支は一切の執着を捨て去ることに向けられた七つの心のはたらき」であると認識してください。「一切行奢摩他、一切依定棄、愛尽、離貪、滅、涅槃に向けられた七」という方がより正確ですが。

三十七道品は誰でもたどることができ、ブッダが決して論争してはならないと言った修行方法です。それは決して「在家ではできない」と言われてはならないし「その修行の再現は不可能だ」と言われてもいけません。僕が責任をもって言いますが、三十七道品は「在家でもできる」し、「その修行の再現は可能」です。財を惜しむことと法を惜しむことが説かれていますが、そこでは法を惜しむ方が財を惜しむよりひどいと記述されています。

仏教業界は「三十七道品」の修行方法を独占し、惜しみ、安価で手に入るようにはしていません。法を惜しむ動機は言わなくてもわかると思います。その玄人のみが独占している三十七道品の修行方法を明らかにするために僕は引用を続けています。

みなさんに疑問があるならば、僕は答えようと思います。でも、質問されないかぎりは何を書けばよいか僕にもわかりません。質問がある方は書いてください。あるいはそれは他の人も聞きたいことかも知れません。それならば、功徳も積めて一石二鳥三鳥ですから、よろしくお願いします。

SFC会長さんは、ご購入されたんですね。素晴らしいです。とてもよいことだと思います。
「神足相応」がそろそろ終わるので、今度は少し長いのですが「覚支相応」を頑張って引用してみようと思います。三十七道品の修行方法もバリエーションの分だけ簡潔にまとめてみたいとも思っています。
ぺこちゃんさん

いつも法施ありがとうございます。

最近、引用される文献は、自己に対する注意力に焦点が当てられていると思います。

注意力はあらゆる宗教的体験に関わってくる事柄だと思います。

私が「念処経」の存在を知ったのは21歳頃に平河出版社から出版されていたジェイコブ・ニードルマンの「宇宙意識」という本に書いてあったことがきっかけでした。

それから、大学の図書館で原始仏教の本を漁っていたら、「念処経」を見つけ、他の仏教文献には見られない、現実の修行方法を具体的に書いてある文献であると思いました。それから、「止観」について深く学んでいきたいという思いが生じました。

今回、私も原始仏教7巻を購入し、届くのを待っているところです。

なんせ、住んでるとこが田舎で、このようなすごい本を売っているところがないため、ペコちゃんさんに教えてもらわなければ、買わずに済ませてしまうところでした。

ところで「四念処」について詳しく書いてあるのはどの文献なのでしょうか?今までに書き込みされたかもしれませんが、わからないため教えていただきたいと思います。
早速のコメントありがとうございます。

Aさんも購入されたんですね。素晴らしいです。

具体的な修行方法は引用した「大念処」「大念身」「大念息」がもっとも詳細で具体的で明白な修行方法です。僕もそれを今やってます。

「四念処」はやはり、「念処相応」がある『南伝大蔵経16上 相応部経典5』(大蔵出版)がもっとも詳細です。「大念処経」と「念処相応」「アヌルッダ相応」を読めば、「四念処」に関する知識は十分だと思います。

三十七道品を実践する上では『南伝大蔵経』の16上巻と16下巻が非常に有益です。八正道に関する「道相応」、七覚支の「覚支相応」、四念処の「念処相応」、五根の「根相応」、四正勤と五力はほとんど無内容ですが、それを補ってあまりある内容です。文語が問題ない方は、おすすめの二冊です。

僕は長部・中部・相応部・増支部と律蔵の全てを読みましたが、結局、「四念処」と「念身」と「十六念息」を実践しています。もうすでに引用したあれです。「念身」は四念処の「身念処」に相当しますし、「十六念息」は四念処に包括されます。ですから、僕はあらゆる修行方法を検討した上で結局「四念処」に帰ってきました。

三十七道品の第一である四念処、その第一である念身。僕はその重要性を思い知らされるばかりです。最近では、バカの一つ覚えみたいに念身をやっています。単に身体を念じるだけです。それに疲れたら、長く呼吸するのを自覚するのをやってみたり、内臓を見たりしています。

実践は地味ですが、ものすごい成果です。「身を念じる修行を続けるとどうなるだろうか」と僕は実践中に考えます。「身を念じることを続ければ、念は簡単に身に行くようになるだろう。常に身に念があれば、それは言ってみれば、ゲームにおいて時間が経ってゲージがいっぱいになると一撃の攻撃力があがるようなもので、身への念が常に留まり続けることによって、心を向けたいところに向けられる。そして、確かに学校で成績が悪い人間というのは、念がどこに行っているかというと自分の執着や不安の方向に飛んで行っている。しかし、努力しないのにいい成績の人間は念が散らずに目の前にあるから、先生の言うことを聞き漏らさない。念がある分だけ、自由がある。念がある分だけ、力がある。念がある分だけ、進歩ができる。念を無限に修すれば、進歩スピードはマックスになる。念身は、いわばゲームにおける最大HPやステータスの力や体力に相当する。神通が生じればそれは最大MPに相当する。あるいは、念身は経験値を何倍にもしてくれる特殊アビリティに違いない。仮に、無限に念身をマスターし、念受・念心・念法をマスターすれば、自分の意志力はどれほどだろうか。限りなく、強靭で強大で圧倒的な意志力を常に維持し続けることができるに違いない。いわば、蟻や蚊の意志よりも象やクジラの意志力の方が大きくて強いようなものだ。多分、その意志力はこの肉体から溢れでて周囲1メートル、修行すれば周囲3メートル、いや無限に修行すれば、今までにない自己感覚が生じるに違いない。よし、仮に今生で解脱しないにしても、莫大な念が常に身にあることによって、人よりも記憶力がよくなり、運動神経がよくなり、仕事もできるようになり、気後れせず、注意深くなり、洞察力もアップするに違いない。思うに、念身、四念処は人間の全能力の底上げの修行法なのだ。自分のステータスを四念処の経験値を積んでアップさせていくことは楽しいことだ。修行を楽しむことはよいことだ。もしその念を、執着の完全放棄に向ければ、それは念覚支だ。念覚支があれば、七覚支は発動する。七覚支が発動すればいずれは心も解脱し、智慧によっても解脱する。なるほど、三十七道品の最初である四念処は確かに七覚支第一である念覚支に直結する。念身を得るものは不死を得るとはよく言ったものだ。三十七道品の第一である四念処、四念処の第一である念身。実に三十七道品は完璧な教育制度だ。ゴータマはすごい」と。
解脱は案外、身近なので気軽に求めていって欲しいと思います。付き合ってた人と別れたとき、その人への未練を断ち切ることは「その人からの解脱」だと思います。ですから、長い間付き合って来た、外の世界と自分という内の世界への未練を断ち切ればそれが「解脱・涅槃・不死」ですから、別に自殺したり、この世界から出て行く必要があるとか、永遠に想受滅に入っていろとかそういうわけではないですから。内外への執着を捨てるだけでも解脱しますし、見えるものと見えないものへの執着を捨てるだけでも解脱しますし、過去未来現在への執着を捨てるだけでも解脱します。要するに、執着がゼロになれば解脱するわけですから、あとは「無意識にひそむ執着を徹底的に知り尽くす念力」、完全な自己制御力、克己力を獲得するだけです。自分の心を完全に制御すれば、そこに解脱があるわけですし、要するに「自分に勝てればそれが終わり」だと思います。「自分に勝った自分って何なの」とか「自分に勝った自分にも勝たなきゃいけないわけ」とかそこまでメタに遡りません。自分が自分に勝てばもう勝てるわけですから。大梵天も魔王も帝釈天も四天王も転輪王も世界は支配しますが、自分は支配できてないところを聖弟子は達成する。自分に克つには、やはり念力、それを得るにはやはり四念処。ゴータマはすごいです。

阿羅漢は単に心を征服したに過ぎないので、外見は単なる凡人です。練習していないなら、けん玉やお手玉もできないと思います。進歩は速いと思いますが。

でも、あれですね。原始仏教の修行は、外見に成果がまったく現れないので周囲の理解とか称賛が得られにくいです。周囲というのは主に家族ですが。戒律と言っても、生き物を殺したり、盗んだり、不倫しないというのは、普通の人もやってることなのであまり評価の対象になりません。嘘つかないとか仲間割れさせないとか怒鳴らないとかもまぁ、最近まるくなったよねぐらいで。智慧が発達して弁舌たくましくしても、興味ない人には苦痛でしかないですし。もし原始仏教の修行が外見でわかったら、確かにゴータマをみんな崇めるはずですから、やはり、ゴータマでさえ「はげ沙門」呼ばわりですから、弟子だったらなおさら「宗教野郎」とか「変人」とか「怪しい」とか思われても仕方ないですね。評判や人の目を気にすることは法念処によって克服すべきですね。

買われた本は確かに辞書みたいに大きいですが、いい本です。『原始仏典【第七巻】』は、教えの総体が語られている部分が多くて実にいい内容です。『原始仏典【第三巻】』もおすすめです。サーリプッタの教義の集成があるので、原始仏教の教えの全体像が簡単にわかりますから。長部も中部もどちらも最終巻が一番、熱いと思います。

とてもいい買い物をされたと思います。「念処相応」もおいおい引用していきたいと思います。
私も“四念処”の実践には大変な利益をもらっています。

周囲の賞賛が得られにくいということですが、私の場合、今までがよほど酷かったようで、妻に“明らかに変わった、良くなった”といわれています(苦笑)

普段の行動もそうですが、私のように形を作る仕事の場合、明らかにスキルがアップしました。

“念”、すごいです。

私はようやく原始仏典二巻を読み終わりそうです。
“大念処経”もすごいですよね。(笑)

三巻もとても楽しみになりました。
パケんじさんは、周りが反応するほど修行の成果があるようで、すごいです。まだまだ僕は慈心や念身が足りないようですなので、集中的に取り組みたいと思います。

三巻はいいです。また引用したいです。引用したいものが多すぎますね。
いやいや、いい年をして恥ずかしい限りですが、本当に元が酷かっただけだと思います。もう私の成分の九十パーセントはエゴによる怒りで出来ていたと思うほどです。(苦笑)

ペコちゃんさんのスタート地点はおそらく私よりもずっと高い位置なんじゃないでしょうか。
これからも良いお手本とさせていただきます。

いつかここのコミュニティが縁で原始仏典に出会えた人達で“結集”をもてたらいいですねぇ。
面白そうですね!それならますます修行に打ち込まないといけませんね(笑)
ペコちゃんさん

四念処の文献おしえていただき、ありがとうございました。
まずは原始仏教7巻を読んで、必要性を痛感するようになったら、南伝大蔵経購入を検討しようと思います。

それまではペコちゃんさんの引用された四念処を読んでいきたいと思います。

ペコちゃんさん、法施の功徳をかなり積んでいると思います。今後も応援していますので頑張ってください。
Aさん、応援ありがとうございます。みなさんのコメントを励みにやる気出して続けていきたいと思います。

相応部経典の三十七道品の記述をできれば綺麗に全引用していけたらと思っています。

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