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原始仏典コミュの相応部経典の解説

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『南伝大蔵経』(大蔵出版)における相応部経典の解説を僕が口語にして引用しました。学界の定説として参考になると思います。

僕の個人的な見解は「四諦八正道三十七道品など中心教義の法数は、ゴータマ自身の体系化によるもの」と考えていますので、学界の「長部や中部の分別思弁が加わったものに対して、相応部こそが最も生き生きした経典群」という見解とは異なります。もしも、そのように「最も生き生きした教訓的な経典」だけを仏説に帰すならば、確実に修行方法がわからなくなるからです(岩波文庫の経典選択では修行方法がわかりません)。最高の智慧を成就するゴータマが「自分の教えを整理することができない」などということはありえません。ですから、僕は学界の説は仏教を「素朴道徳論」に引きずり下げようとしていると思っています。一方で、本当の意味で分別思惟が加わった小部経典や論蔵、蔵外経典などはその「煩瑣教理」によって仏教を「ブッダの教え」から「長老の教え」に変質させてしまっています。なぜなら、そのような「煩瑣教理」を確かにゴータマは説いていないということを「パーリ三蔵を伝持してきた上座部自身が明らかにしているから」です。従って、「上座部仏教」という名前の通り上座部仏教は「長老仏教」「長老教」です。

「素朴道徳論」も極端、「長老仏教」も極端です。根本教理である四諦八正道三十七道品にもとづいて、「苦しみの消滅という明確な目標」と「三十七道品という具体的な修行方法」に依拠することが正しい仏教理解だと考えます。

また、学界は「九部経(sutta,geyya,vyākarana,gāthā,udāna,itivuttaka,jātaka,abbhutadhammma,vedalla)は分派後の設定」と言っていますが、僕はそうは考えません。むしろ「九部経は、ゴータマ自身による教えの九分類」だと考えます。ゴータマが「教えは長いもの、中ぐらいもの、関連づけたもの、法数に分類され、それを学びなさい」と言う道理がありません。なぜなら、「四無礙解」を成就した如来こそが「経蔵と律蔵の創作者」であるからです。従って、文の分量や関連づけなどはゴータマにとっては自在で固定的なものとする利益がありません。四部は、弟子たちが暗誦と記憶の便宜を計っての分類であると見るのが適切です。従って、ゴータマが生きていた頃は、自ら「九分経を教えとして学びなさい」と言っていたと思います。九分経は、四無礙解を成就した如来にとっても、それらはすべて個々別々の内容だからです。




 律蔵>経分別
    犍度部
    (附随)

 経蔵>長部経典
    中部経典
    相応部経典>1有偈篇 『神々との対話』『悪魔との対話』(岩波文庫)に全収録
              根本教義を「偈で表現したもの」が多い
          2因縁篇 根本教義の十二縁起など  岩波文庫未収録
          3犍度篇 根本教義の五蘊など    岩波文庫未収録
          4六処篇 根本教義の六処など    岩波文庫未収録
          5大篇  根本教義の三十七道品など 岩波文庫未収録
    増支部経典
    (小部経典)





「     相応部総説         赤沼智善


 サマンタパーサディカーのP27には、「相応ニカーヤとは、天相応などに含まれる暴流経などの7762経のことである」とあり、善見律毘婆沙(大正蔵24、P676a)の訳はこれに相当しアッタサーリニーのP25も全くこれと同じ古来の伝説を載せている。これによって我々の知りうることは、スリランカ上座部が伝えてきたパーリ語相応部は、註釈家ブッダゴーサ(仏音)の時代、即ち紀元5世紀にすでに現存のものと全く同じ形のものであったということであるが、もとよりそれ以前の相当の時代にまで、この原形を遡らせることが出来るであろう。しかし、そうであるならばこの現形はいつ頃出来上がったのか、それ以前の形はいかなるものであったかは、容易ではない問題である。

 現存の漢訳の雑阿含50巻(大正蔵2、P1)は、有部宗が伝えたものであることは明らかであるが、世親の倶舍論に引用されている雑阿含は、現存の漢訳雑阿含の文に一致するし、さらに遡って龍樹の智度論に引用される雑阿含も左のように現存漢訳雑阿含に一致しているところから見て、龍樹が引いたところの雑阿含が有部系の雑阿含であり、有部系の雑阿含が龍樹所引のような相当な形を具えていたとすると、スリランカ上座部系のパーリ文相応部も、龍樹時代にすでに原形にかなり近い形を取っていたものと想像することができるであろう。

 さらに遡って婆沙論所引の雑阿含経の文でも同様に言われるようだが、そうすると四部四阿含ともに紀元前の相当遠い年時までかなり現存形に近い形のそのままで押しのばすことが出来るようである。思うに、いわゆる第一結集のいて、法と律との持母的なものが結集され、それ以降は加速度的に経典数が増し、最初、最も原始的な、そうして長部、中部に見るような法相の組織、分別思弁のいまだ加わらなかった最も生き生きした教訓的な経典群が、その内容に相応して組々に分類されて、これが相応部(雑阿含)となり、また法数的に分類されるものは、これをその一群として分類し編纂されて、増支部となり、それとともに分別思弁が加わり、その上、法相的に組織された長経は長部、中部としてまとめられ、この五部四阿含の編纂は分派以前、すでに仏教教団の尊い財産として伝持され、分派とともにその部派的な色彩が加わり、またその各部各阿含の内部の編纂の形式も変わってきたものでないかと思われる。

 学者によっては五部四阿含の編纂以前、九部経十二分経の編纂があり、それが母体となって後に五部四阿含とまとめられたとする人もいるが、これは反対に考えられないでもない。五部四阿含という風に編纂された後(もとより今のように整った、また大きな形ではないが)、教団内において、ことに分派後の教団内において、教権としての聖典に対する批判が起こり、その教権の範囲資格を決定するために、九部経、十二分経ということが言われるようになったものではないかと思う。一度、九部経、十二分経の形でまとめられ、後にそれを解体して五部四阿含としたものとは考えられないようである。

 五部四阿含の中では、前述のような事情があるから、相応部(雑阿含)、増支部が最も原始的であって、誦しきたれば共に突々としてブッダに面接したてまつるの感がある。増一阿含は、後時の変化の甚だしいものがあるからこれから除外されなければならない。ことに相応部はブッダに対してあたかも、孔子における論語のような地位にあるものと言われているものであり、従って一大仏教の母体であると言っても差し支えないであろう。

 相応部は5品56相応7762経を含むものであり、各相応は各巻の巻頭にそれぞれ解説があるから、それに譲り、ここではその名目だけを出して置こう。

(有偈篇、因縁篇、犍度篇、六処篇、大篇の目次の記述がある)

 これに対して有部宗所伝の漢訳雑阿含経は、その現形が訳出後、中国において非常に崩れたものであり、姉崎、椎尾の両博士、および呂徴氏などによって、その原形に復させようと非常な努力を払われたものである。組織は瑜伽師地論85(大正蔵30、P772c)有部雑事39(大正蔵24、P407b)に示されており、瑜伽師地論では大別すれば、能説分、所説分、所為説分の三に分かれ、さらに内容よりして、蘊・界・処相応、縁起・食・諦相応、念住・正断・神足・根・力・覚支・道・入出息念・學・証浄等相応、依八衆説衆相応と四分されるとし、有部雑事では蘊品、処界品、縁起品、声聞品、仏品、聖道品を挙げているが、その後に若経与伽他相応者として、その後に脱略があって不明であるが、これは偈品であろうと思われる。恐らく、瑜伽師地論にしても、有部雑事にしても、大体の要目を挙げたので、内容目次を順序をもって挙げたものとは思われない。

 なお、漢訳中に別訳雑阿含20巻(大正蔵2、P374)と、わずか27経を含む雑阿含経(大正蔵2、P493)とがある。後者は失訳であるが、紀元222-280の呉代の訳出とされ、出三蔵記集三に挙げる25経が大体この経典一巻の内容をなしているなどのことが、姉崎博士の研究によって明らかにされ、恐らく四阿含中のものの別行経であろうが、何の部派のものか不明である。またこの「雑」は他の「雑」の相応を意味するに対して、これは「雑砕」すなわち、小を意味するものであろう。前者も失訳であるが、秦代の訳であることは、その経中に「秦言」とあるところから考えられることであり、倶舍稽古の法幢はこれをもって飲光部所伝の雑阿含であろうと言っているが、その証拠とするところは必ずしも当たらず、また憶測の勝っているものもあり、そのまま用いることはできない。しかしまた飲光部のものでないとも言い得ないのである」

    『南伝大蔵経12 相応部経典1』(大蔵出版) 総説P1-8

                                                              

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