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日本的霊性コミュの日本辺境論

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内田樹(たつる、と読む)センセの『日本辺境論』がベストセラーになっている。奥付を見ると2009年11月初版となってるけど、今もどこの本屋でもたいてい平積みされている。ボクも本屋で横目で見ながら気にしつつ、ようやく買ったけど横目で見ながら手を出さず…で、ようやく断続的だったけど読了した。ボクの買った版は2010年12月の24刷で、確かによく売れているようだ。しかし、これだけベストセラーになっていながら、果たしてどれだけの人が最後まで読み、この本のメッセージをきちんと受け止めたのか、正直言ってボクは疑問だ。

内田センセは今風のざっくばらんな語り口で、まずは「はじめに」でこの本を書いたこと、そしてこの本に対して想定される反論について<言い訳>を連ねる所から始める。これは、ネット上で「仁義なき戦い」が繰り広げられるネット時代を反映した語法だろう。その言い訳のひとつに、この本の内容は、すでに先人たちによって書かれていることで「新味」はない、というのがある。確かに、「辺境」というこの本のタイトルにもなっているキーワードも梅棹忠夫からきている、と著者自身も隠さず書いている。しかし、それならなぜ新味のない内容を、あらためて繰り返すのか。内田センセの言によれば、(そしてこれが結論の一つでもあるけど)それは「日本人とは何か」という問いを、常に問い続けなければならないということ自体が、ほかならぬ<日本人>の心性であるから、ということになる。

内田センセは、この本のコンテンツは、「「辺境人の性格論」は丸山眞男からの、「辺境人の時間論」は澤庵禅師からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売り」と冒頭(p3)で<日本人>的に(笑)謙遜して書いている。しかし、これらの出典とその組み合わせ、そしてそこからの展開は独創的かつ説得力があると思う。そして、レヴィ・ストロースやハイデガー、ラカンなどが、さらりと引用されたりもしていて、フランス現代思想の専門家であるとともに、能や合気道という日本の伝統的身体技法に知悉されている、内田センセならではの複眼的思考による明快かつ重要なメッセージがちりばめられている、とボクは思う。

それでは、日本人論の先人たち(主に丸山眞男、山本七平)の考察に基づく、<日本的心性>とはどういうものなのか。内田センセは最初に、自分の主張を要約するものとして梅棹忠夫センセの次のような文章を掲げている:
「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。(…)ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
 おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。」(p21)

こうして、「中華」vs「辺境」という関係性から出発した日本は、中国の表意文字をそのまま輸入した漢字を「真名(まな)」(「本当の名」)、日常の日本語を表すために作った表音文字を「仮名」(「仮の名」)と呼んだ…、この構造がいま現在でも続いているわけだ。つねに、外から来たものが真実であり、基準となり、自分自身では基準を作りだして提案することができない… 最近のボクのテーマでもある自然科学批判の流れでいうと、日本人はパラダイムの中では最先端の業績を出せるけれど、パラダイムを超えた、つまり新たなパラダイムを提供し、パラダイム転換をもたらすような成果を出せない、という面があるとすれば、それもこういう枠組みで説明できる。

内田センセは、国歌「君が代」が明治時代にイギリス人やドイツ人の関与で成立した経緯(歌詞は古今和歌集の賀歌から取られた)などを示し、日本(のもの)の起源について知りもしなければ、問おうともしないという点で、右翼も左翼も同列だと断じる(もっとも内田センセはせっかくの機会なのに「日の丸」の経緯については書いていないのが残念)。たとえば、アメリカ人やフランス人は、それぞれ現在の自国の拠って立つ根拠(独立戦争やフランス革命)を、ことあるごとに参照する。「じゃあ、日本もそうすればいい」と言いだすと、それ自体が西欧の真似ということになる…という循環構造が、結局は日本の特徴だというややこしい話になる。

しかし、内田センセの一味もふた味も違うところは、日本のあり方はそういうマイナスの面に陥ることもあるけれど、プラスの面がある、と考えるところだ。たとえば、いまや時代劇や時代小説の中でしかお目にかかれない(でも、NHKの大河ドラマも含めフィクションとして日本人はこよなく愛してるようだ…笑)、武士道や大和魂というものと、日本独自の「道」としての芸事との関係を辿り、そこにすぐれて「学ぶこと」の方法が見出せることを指摘したりする。

また、それは内田センセが「「機」の思想」とよぶものにつながっていく。いまこの瞬間に「達成」すること、「ここがロードスだ、ここで跳べ」への跳躍、これを日本で初めて問いとしたのが親鸞だったと指摘する(はからずも、阿部謹也センセも親鸞のことを、日本的な「世間」の構成要素である「呪術」をただ一人否定した人だと言っている)。また、禅の思想を血肉とした武道(武士道)は、「無敵」になるために、「敵を作らない」という高等戦術(内田センセは「時間意識の変成」という)を編み出した。親鸞の浄土真宗と禅宗の両方とも、内田センセも引き合いに出している鈴木大拙が「日本的霊性」を代表する2本柱として挙げているものだ。

内田センセは数々の重要な指摘をしてくれているけれど、そのなかで一番重要なメッセージは、これらすべての日本的なるものは、日本人にとって根源的なものであり、歴史的必然性を有するのではないかということ、そしてそれゆえにむげに否定するのでもなく(否定すれば逆に無意識のうちに捕われてしまう)、また無条件に肯定するのでもなく、否定的な面も肯定的な面もあわせて優しくユーモアを持って肯定しようよ、ということではないかと、ボクは思う。日本的なあり方に対して、「「なるほど、そういうものか」と静かに事態を受け止めて(…)できる限り価値中立的で冷静な観察を行う」(p245)という態度。

内田センセはこの本の中で、カント、ヘーゲル以来の西洋哲学批判(p199-209)を行うなかでハイデガーも槍玉にあげているけど、センセの勧める態度は、ボクはハイデガーのGelassenheitとつながるところがあるのではないかと思う。Gelassenheit(ゲラッセンハイト)というのは、古い理想社版の「ハイデガー選集」以来「放下(ほうげ)」と訳し習わされているけど、辞書では「冷静」「落ち着き」「泰然自若」なんて訳語が載っている。ハイデガー自身は、自然科学批判において自然科学の技術やその成果に対して同時にYesとNoをもって向うことと説明している。ボクは「超然」という訳語がいいんではないかと勝手に思っているけど…

ボクの解釈では、こういう態度の基本には、事態や対象を対象化して捉えたとしても、それをすぐに肯定か否定か(敵か味方か)の二者択一によって分けたり、その分類に固執してしまうのではなく(これでは<主‐客>の図式から余計に抜け出せなくなる)、対象を見ている自分の意識、自分の対象に対する見方そのものを意識するという態度があると思う。そうすれば、把握した対象(現象)を含めた<自分の意識>を言語化し、他者に説明することができる。内田センセも、自らの「辺境性」について意識した上で「おのれのローカリティを足場にして「こういうのも『あり』ということにしてはいただけませんか?」ということを国際社会に向けて申し上げたい」(p210)と書いている。内田センセはレトリックで自虐的な書き方をしているけど、これが、これからの日本人に必要なresponsibility(応答能力、説明能力)だと、ボクは思う。

最後に。内田センセは、近年の日本人論の代表的論客と言える(先にちょっと触れた)阿部謹也センセの書いたものにはいっさい言及していない。阿部センセの<世間論>は真実をついているとボクは思うけど、ボクは内田センセのほうに軍配を上げざるをえない。それは、世間の根源をさらに追及して中国文化の受容にまで遡り、はたまた武士道‐大和魂や、禅や親鸞を例にあげながら、日本的あり方の肯定的側面を冷静に描き出したことによる。これは(阿部センセには申し訳ないけど)世代の差によるのかもしれない。内田センセの柔軟さはまた、合気道を実践していることなどからもきているかもしれない。「意識を意識する」うえでの身体技法(禅でも、あるいはオイリュトミーでも)の重要さを、ボクは改めて感じている。それは古今東西を問わず、人種も国も超えた、すぐれて<霊性>に至る方法ではないか。

日本には宗教がない、日本人には宗教がない、という言い方がされる。ボクは思う、日本には宗教は要らない、日本には霊性がある、と。

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