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ポル・ポトコミュのポル・ポト

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■その生い立ちおよび革命
 サロット・サルは、仏領インドシナの一部Prek Sbauvで農家の9人兄弟の8番目として生まれ、カンボジアのコンポントム州で育った。1949年に無線工学を研究するため奨学金を受けパリに留学した。留学中に彼は共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。このグループはフランス共産党と呼ばれた。彼は1953年にカンボジアへ帰国し、フランス語教師として働いた。

 当時、フランスのインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっていた。この活動の中心はベトナムにあったが、さらにカンボジアとラオスに波及した。サロット・サルはベトミンに参加したが、ベトミンがベトナムのみを重視し、ラオスおよびカンボジアに関心がないことを知った。1954年にはフランスが仏領インドシナを去ったが、ベトミンはさらに北ベトナムへ引き下がった。そしてノロドム・シアヌークは選挙を実施した。シアヌークは退位し政党を組織した。彼はその人気と威嚇を使用して共産主義の反対勢力を一掃し、議席をすべて獲得した。

 ポル・ポトはシアヌークの秘密警察を避け、12年を地下活動で費やした。1960年、カンボジア共産党中央常任委員を経て、1962年に書記に就任した。1960年代の終わりに国家保安長官のロン・ノルが、カンボジア共産党に対する残忍な処置を講じた。カンボジア共産党は後にクメール・ルージュとして知られ、同党の武装組織はポル・ポト派と呼ばれた。1967年にポル・ポトは中華人民共和国に支援されて政府に対する武装蜂起を始めた。

 1970年以前にカンボジア共産党はカンボジア政治の些細な勢力だった。しかしながらシアヌークがベトコンに支援されていると見なされていたため、1970年にはアメリカ合衆国が支持するロン・ノル将軍がシアヌークを退けた。

 抗議してシアヌークは、ポル・ポトの側へ支援を行った。同年、米国大統領リチャード・ニクソンは、南ベトナムと隣接するベトコンの拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を命じた。シアヌークの人気とアメリカ軍のカンボジア侵攻は、ポル・ポト側に有利に働いた。また、ロン・ノル政権は都市だけしかコントロールできなかった。

 ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア爆撃なしではクメール・ルージュが政権を握らなかったかもしれないことが主張された。ウィリアム・シャウクロスは、彼の1979年の著書『Sideshow』でこの点に触れている。

 1973年のアメリカのベトナムからの撤退と同時に、ベトコンはカンボジアを去った、しかし、クメール・ルージュは戦いを続けた。国土に対する管理が維持できずロン・ノル政権はすぐに崩壊した。1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領し、ロン・ノルはアメリカへ逃亡した。5月12日にカンボジア領海でクメール・ルージュ軍は米国商船マヤグエース号を拿捕した。(マヤグエース号事件)

 ノロドム・シアヌークは1975年に復権したが、すぐに自身が急進的な共産主義の同僚と同列にされていることを理解した。彼らは君主制を回復するシアヌークの計画に興味をほとんど持たなかった。

■民主カンプチア
 1976年前半までにクメール・ルージュ強硬派はシアヌークの道化を許容できず、彼を自宅監禁した。既存の政府は崩壊し国家元首としてのシアヌーク王子はその地位を追われ、カンボジアは共産主義の共和国、民主カンプチアになった。キュー・サムファンは初代大統領になった。

 1976年5月13日に、ポル・ポトが民主カンプチアの首相に就任し、社会主義者の掃討を始め、国家の改造を行った。米軍の地方への爆撃はその人口を減少させ、対して都市の人口を増加させた。1976年直前にプノンペンの人口は100万以上までに増加した。

 クメール・ルージュが権力を獲得した時、彼らは、都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させた。私財は没収され、教育は公立学校で終了した。ポル・ポト政権は政治的反対者に弾圧を行った。プノンペンは飢餓と病気、農村への強制移住によってゴーストシティに変えられ、何千もの政治家および官僚が死んだ。ポル・ポトが「完全な兵士」として賞賛した地雷は、地方に広く埋設された。ポル・ポト政権下での内戦およびベトナム軍の侵攻による死傷者数は議論されている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万とした。ポンチャウド神父は230万とするが、これはクメール・ルージュが政権奪取する以前の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万、アムネスティ・インターナショナルは140万、アメリカ国務省は120万と評価した。 キュー・サムファンおよびポル・ポトは当事者による過小評価であるが、100万と80万をそれぞれ評価した。CIAは5万から10万と推測した。

 1978年後半ベトナム軍がカンボジアに侵攻、クメール・ルージュ軍は敗走しポル・ポトはタイとの国境へ逃れた。1979年1月にベトナムは、粛清をさけてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン傀儡政権を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分はもし離脱しなければ告発されるという恐れによって動機づけられた。ポル・ポトは、戦闘を続けるために国の西部の小地域を保持した。以前にポル・ポトを支援した中国は‘懲罰行為’としてベトナムに侵攻し中越戦争が起こった。

 ソ連に敵対したポル・ポトはタイおよびアメリカから支援された。アメリカと中国は、ヘン・サムリン政権のカンボジア代表の国連総会への出席を拒否した。現実的政治での影響で、アメリカはポル・ポトを直接および間接的に支援した。ポル・ポトはその思想に毛沢東思想の変形を採用した。クメール・ルージュは完全な平等主義の土地均分論を考え社会主義の中間段階を回避し、原始共産主義の達成を目指した。ポル・ポトが反ソビエトだったので、アメリカ、タイおよび中華人民共和国はベトナム支持のヘン・サムリンより好ましいと考えた。

■余波
 アメリカは直接的、間接的にポル・ポトとソ連に対する彼の敵意を支援した。また、ポル・ポトとシアヌークおよびソン・センの間の反べトナム同盟を促進することを試みた。ポル・ポトは、この終了を求めて公式に1985年に辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党リーダーとして支配的影響力は継続した。

 1989年、ベトナム軍はカンボジアから撤退した。ポル・ポトは和平プロセスとの協力を拒絶し、新しい連立政権と戦い続けた。クメール・ルージュは1996年まで政府軍を寄せつけなかったが、軍が堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。

 1997年にポル・ポトは政府との合意を行なうために彼の長年の側近ソン・センを処刑した。しかしその後、自身がクメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって逮捕され、生涯の自宅監禁が宣告された。1998年の4月にタ・モクは、新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。伝えられるところによれば、1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死んだ。遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺したものと見られている。

 遺体は古タイヤと一緒に焼かれた。

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