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ジャコメッティーコミュのジャン・ジュネ

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矢内原がポーズ中に唯一アトリエに入った人物。
入ったというより、強引に乱入したそうだ。

年譜
『公然たる敵』より訳出。

1910−1942
 ジャン・ジュネは1910年11月19日、パリに生まれる。父は不明。彼は7ヶ月で、母によって生活保護局に遺棄される。アリニー・アン・モルヴァンの職人の家に預けられる。カソリックの教育をうけ、公立小学校で学ぶ。優秀な生徒で、学業成績はトップ。しかし、13歳のとき養父母のもとを去り、職業訓練校に入る。冒険と旅を夢見て、わずか十日で脱走。拘留される以前に、度重なる失踪と軽犯罪の結果、14歳で彼はメトレー感化園での最初の収容生活を経験し、成人するまで過ごす。
園を離れるために、18歳で兵役前に軍隊に志願し、入営する。近東の部隊での勤務を希望し、ダマスカスの陣地に駐屯する工兵部隊に配属され、そこで11ヶ月過ごす。翌年、新たに志願してモロッコの植民地部隊で19ヶ月過ごす。幾度かの順調な兵役志願と6ヶ年の軍隊生活ののち、1936年に軍を脱走。追跡を逃れるべく、フランスを離れる。1年間、偽造旅券を携えてヨーロッパ中を放浪。逮捕、監禁、強制退去が繰り返され、イタリア、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ポーランド、オーストラリア、ドイツ、ベルギーを横断する。
1937年7月、パリに帰還すると7年の空白によって、脱営、放浪、旅券偽造、そして主に窃盗など12の容疑の対象となる。

1942−1964
1942年秋ジュネはフレーヌ中央刑務所に投獄される。同時に最初の詩集『死刑囚』が自費出版される。同じ年に『花のノートルダム』、翌年には『薔薇の奇蹟』をともに獄中で執筆する。この時点で「終身禁固」に相当したのだが、裁判を前にジャン・コクトーがみずから介入する。1944年3月14日、自由の身となり、そのわずか前にポール・モリヤンとロベール・デュノエルによって『花のノートルダム』が秘密出版される。
編集者マルク・バルブザの尽力で、ジュネは内輪の出版の枠から徐々に漏れていく。1945年から1948年のわずか3年たらずで矢継ぎ早に3本の小説(『葬儀』、『ブレストのケレル』、『泥棒日記』)、詩集、バレエ(『アダム・ミロワール』)そして3本の戯曲(『死刑囚監視』、『女中たち』、『スプレンディッド』)を書く。コクトーとサルトルによって打ち出された作家の請願書のおかげで、遂に共和国大統領の最終的恩赦を獲得する。彼はもはや監獄に戻ることはない。丁度、同じ年ジュネは執筆をやめ、6年に渡る沈黙に入る。さらにサルトルの『聖ジュネ 演技者と殉教者』の出版が追い討ちをかける。この危機の間、演劇が一時的な解決の手段を提供することになる。1955年から1961年の間、ジュネは3本の戯曲(『バルコン』、『黒人たち』、『屏風』)を書いて世に問う。それらは現代の劇作法の最高の地位を占めている。彼はまた簡潔であるが、重要な芸術についてのエッセイを書く。それは友人アルベルト・ジャコメッティに捧げられ、最も特記すべき芸術論のひとつとなっている。

1964−1986
1964年3月12日、アブダラの自殺を知って以来、ジュネは遠大な計画―7幕からなる巨大な戯曲群に数年間取り組む。アブダラは若い曲芸師で、ジュネは彼のために『綱渡り芸人』を書いた。深く動揺したジュネは文学を放棄する決心を身近な人々に伝える。1966年4月、パリで『屏風』の制作と『ロジェ・ブランへの手紙』の出版を宣言するが、その甲斐もなく激しい抑鬱期を経験する。1967年5月、遺書を作成するなり、睡眠薬を多量に摂取したため、イタリアの国境の町ドモドソラのホテルの自室で意識不明で発見される。
1967年12月22日は新しい時代の始まりである。彼は一種の現実に生きられた再生として極東への旅行と日本での滞在を計画する。帰国して彼は68年5月の数々の事件と蜂起した学生の熱気に驚愕する。最初の政治的論考であるダニエル・ションベンディへのオマージュを発表。さらに3ヶ月後、アメリカの雑誌『クーブリール』によってシカゴの民主党大会に招かれる。ジュネが合衆国に赴くのはこれが最初で、ベトナム戦争に反対するアメリカの左翼の大きなデモに加わる。パリで彼はますますアルジェリアやモロッコからの移民の問題に関心を深め、積極的に数々のデモで活発な役割を担う。
ジュネにとっての政治的に最重要な年は1970年であろう。2月25日、黒人の自治のために闘うアメリカの半軍事組織ブラックパンサー党の代表者が支持を依頼、ジュネは請願書に署名することを拒む、が直ちにブラックパンサーのために合衆国で行動を伴にすることを提案する。3月1日から5月2日までの2ヶ月間、彼は集団のなかで生活をともにし、疲れも知らず縦横にアメリカ中を移動し、大学あるいは報道陣のまえで夥しい講演を行う。同年10月20日、パリのパレスチナ解放機構代表の提案で、彼はパレスチナ人のキャンプを訪れるべくヨルダンに赴く。彼はそこで一週間過ごす予定であったが、6ヶ月間留まることとなる。11月初め、ワダトのキャンプでヤセル・アラファトと会見。アラファトは彼に自由交通権を認め、パレスチナ人の受難劇の記録を世界に伝える手助けをすることを求める。
中東での4つの滞在の期限にジュネはヨルダン当局に逮捕され、1972年12月23日、国外強制退去となる。合衆国入国のためのビザの、ヨルダンでの滞在禁止によりジュネはフランスに折り返し、彼の主な住処となるパリに戻る。
約十年間、絶え間ない移動にもかかわらず政治活動は衰えない。マスコミに多くの論説を発表し、1974年3月の大統領選挙の際には監獄情報グループに接近することを決意する。アメリカの黒人受刑者やパレスチナ人に関する全集を実現するべく遂に作家たち(ジャック・デリダ、ファン・ゴイチソーロ、ピエール・ギュヨタ、ジャック・アンリック、フィリップ・ソレルらを含む)の説得を試みる。同時に1970年代初めにパレスチナ人キャンプやブラックパンサーの傍らでの滞在を詳細に語った著作の執筆に着手する。この作業は幾度も放棄され、再開され、14年後に『恋する虜』発表に結実する。
この本を書き上げる希望を失っていた時期に、ジュネは他の計画に惹かれもした。すなわち1976年から1978年、若いモロッコ移民のパリでの最初の一日を詳細に描く『夜が来て』と題する映画のシナリオの推敲に打ち込む。ところが撮影前日、ジュネは説明もなく計画の続行を放棄。3年後にも同じ事が繰り返される。ジュネはメトレー感化園の幻想的物語に捧げられた映画を撮るための契約に署名。1年以上シナリオに打ち込んだのち、実現を前にして、またしてもたじろいでしまう。
1979年5月、ジュネは喉頭癌を患っていることを知り、治療を開始。かなりの体力を消耗しながらも治療により数年の余命を得る。
1982年9月、ジュネは再び中東を訪れる。この月の16、17日サブラとシャティラのパレスチナ人キャンプで虐殺が行われたとき、偶然ベイルートに居合わせる。悲劇の証人となったジュネは、久々に筆を執り、彼の政治的テキスト中最重要の『シャティラの四時間』を執筆。
数ヶ月後、1983年7月、ジュネが居を構えるモロッコで、パレスチナ人とアメリカ黒人についての本の覚え書きと草稿を集め、まとめ、推敲を始める。病が新たに進行しただけになおさら、彼はこれからは休みなく働くことになる。
ジュネは自分が本に書いた地域と人々に再会するべく、1984年7月、ヨルダンに最後の再訪をする。1985年11月本は完成。ジュネはパリに戻り、『恋する虜』の草稿を編集者に託す。
1986年3月、初稿ゲラ刷に長い校正を加えた後、十日間モロッコに行き、パリに戻るとステファン・ピション通りのジャックス・ホテルに宿を取る。ジュネは自分の本の第二稿を受け取り、読み直しを始める。彼は1986年4月14日から15日にかけての夜に死亡。
4月25日、希望によって、ジュネはモロッコのタンジェ近くのララシュの小さなスペイン人墓地に埋葬される。墓地は海を睥睨する断崖の上に位置しており、市の監獄と連れ込み宿に挟まれている。
1985年5月26日、ガリマール社より『恋する虜』出版。

ジャン・ジュネ コミュ二ティです♪
http://mixi.jp/view_community.pl?id=323031

コメント(3)

強引に乱入する横暴な人物というイメージでしたが、ジャンもすばらしい芸術家でした。
断片で人間を判断してはいけないとつくづく感じました;

人数が増え、本当に喜んでいます。
1ヶ月保つのか不安だっただけに、感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも宜しくおねがいしますm(__)m

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