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カント(Immanuel Kant)コミュのカントの著作どれから読んだらいいですか。

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どうもはじめまして。いま手元にカントの「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」「道徳形而上学の基礎づけ」があるのですが、カント初心者なぼくはどれから読むべきでしょう?やっぱり「純粋理性批判」でしょうか。

コメント(41)

あと、カントの場合 挿入句はあとから説明のために書いていて,冗長だったり趣旨が変わってたりして帰って混乱まねきやすいから、飛ばせ、と教わりました。

あと、原・渡辺訳には手をださないほうが。 あれ、ほとんどドイツ語で読む人が文法を確認するために傍らにおいておくような直訳です。 
まずは、「道徳形而上学原論」と「プロレゴメナ」を。それと「啓蒙とはなにか」。あるいは「永遠平和のために」も時局を照らし合わせると感動的な名編です。いずれも岩波文庫にはいっています。間違っても、カントの解説書などに手を出すのではなく、時間が掛かってもカントそのものの文章に取り組むべきです。入門書だの解説書だのはあやしいものです。
ちなみに、「純粋理性批判」にせよ、「実践理性批判」にせよ、それほど難解ではありません。時間はかかるかもしれませんが、取り組めばそれなりに得るものがあります。どちらも素晴らしい本です。訳は岩波文庫の篠田英雄のがいい訳です。
純粋理性批判は読んだことないですが、永遠平和のために は論文で使いました〜。なかなかいいかもしれません。
純粋理性批判は篠田訳を学部生の頃必死で読みましたが、なんか論理的に混乱することが多かったです。
それから院生になり原書で読むようになったらそのわけが分かりました。篠田訳はカントが使ってる単語を、勝手に文脈の解釈で別の言葉に変えたり、ある同じ単語をなんと5種類も違う日本語に変えて訳しているのです。驚きました。いくらなんでもあれはないでしょう。
自分で訳していて、前に自分がなんとこの単語を訳していたか忘れているのでしょうか。正確さに欠け過ぎます。
かつてハイデガーがカントが使っていた単語一つから、その時代と現代との概念のずれを見事に取り出して新しいカント解釈をしてみせましたが、そこからみれば何とも杜撰な訳です。
とはいえ、じゃあ初心者がどの訳を読むべきかは難しいですが。ぼくは手ごろな岩波文庫の篠田訳を一人で読んで格闘し、混乱した経験があります。
やはりカント学者が書いた入門書から入り、平行して興味の湧いたカントの著作を原書でひも解くのが正解ではないでしょうか。理論哲学に関心があれば『純粋理性批判』を、倫理学、美学、政治学、人間学、、、いろんな入りかたがあると思いますよ。ドイツ語ができなければ、正確な訳をしている方を読むべきです。たとえそれが直訳であっても。
ちなみにカント学者以外の別の研究者の描く「カント哲学」は、たいてい誤解、曲解が多く、偏見を生むだけなのでさけた方がいいでしょうね。その場合の「カント」は、乗り越えられた過去の哲学として扱われるのが落ちです。
カントを原書で読むのは大事なことです。僕自身、カント読みたさにドイツ語の基礎を学び、三批判書を手元においていますが、多忙を極める生活のなか、実際原書にあたるのはいつになることかというのが実情です。
翻訳に不備があるのは百も承知ですが、はじめてのひとが、大筋をつかむにはやはり翻訳に頼るしかありません。研究書とドイツ語の原書で、、などといっていたら、カントは一部の専門家の占有物になってしまうでしょう。これほどの愚はありません。カントの哲学は万人に開かれており、今こそカントの哲学が読まれてしかるべき時代はありません。僕の読んだ限りでは、岩波文庫の訳は僕のような門外漢にも十分に分かりやすく懇切を極めたものでした。さしあたっては、これで十分と心得ます。
あ、どうも、興味深い話をありがとうございます。
ところでぼくに関していえば、いま手元にあるのは以文社の宇都宮芳明訳のものです。この訳はどうでしょう・・・?
やっぱり「純粋理性批判」から読もうかと考えております。これが時代的には一番はやいんですよね・・・?
三批判では一番早い,という以上に,外界認識という(倫理判断や美的判断と違ってその存在が確実そうな)判断を扱っているので,構図はわかりやすいです−−議論を追う事は恐ろしく難しいですけど・・・
チョモランマさん
ハイデガ−の著作は『存在に関するカントテーゼ』で、言及した単語はレアリテートです。篠田さんはこれをいろんな日本語にしていますが、カントの時代この単語は現在のように「現実性」の意味はなく、むしろ「事物性」という意味に近いものでした。それがどういう解釈の違いになるかは、ハイデガ−を読んで下さい。
青い鳥さん
おっしゃる通りです。手軽な文庫で読むのが、普通に読む人には最適ですね。ただし、誤訳に苦しんだら原書にあたるのが大事です。
「若きカントの思想形成」とうい本がおすすめです。人間カントが好きになりました。もっとカントを読んでみたいと思わせてくれる本です。カントの原点も確認できると思います。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326150289/qid%3D1117969847/250-1201494-4649012
篠田訳は本当にひどいので、平凡社の全集に納められている訳で読まれるのをお勧めします。急がば回れ、です。「永久平和のために」なんて短いのでよいのではないでしょうか。個人的には第三批判が好きですが用語法に慣れるまでに少し時間がかかるし、好きになるには少々歯ごたえがあると思います。

批判三作はゼミの授業でも一学期に原書20ページも進みませんでした。68歳で退官直前の教授でさえ「人生で2巡か3巡できたらいいのです。読んでるときはほんとうに幸せですね」とおっしゃっていました。そういう類の読書になるので、「わかった」という境地に達するには多少の根気が要るとおもいます。

コツをつかむまでにすこおし、時間がかかるのです。
初めて書き込みます。
『純粋理性批判』に関しては、平凡社ライブラリー(原祐さんの理想社版全集訳を、ワタナベジロウさんが訂正したもの)の三巻本が廉価だし良いと思います。私見ですが。一般的には「世界の大思想」の高峰一愚訳が名訳とのことですが、原訳は直訳ですし、ドイツ語との付き合わせがしやすいように感じます。直訳なので、誤訳もすぐにわかりますし(笑)。
ちなみに日本で出ているカント全集は理想社版と岩波版の2つだと思いますので、HALさんの平凡社版は記憶違いではないかと。
なお、最近出た岩波全集版『純粋理性批判』(アリフクコウガク訳)は日本語がめちゃくちゃなのでおすすめしません。宇都宮さんの訳はまだチェックしていませんし、評判も聞いていませんが、どうなんでしょうね。

カントは一度に5つくらいのことを同時に考えているような思想家なので、『純粋理性批判』の、いや三批判書のほぼ全てのセンテンスに彼の思想が凝縮されているといっても過言ではないと思います(だから、全体がわからなければ部分がわからないし、部分がわからなければ全体がわからないというパラドキシカルな難解さがありますが……)。逆にいえば、この思考の密度をとりこぼすと〈教科書的な〉カント解釈、たとえば「時間・空間というスクリーンの向こうに物自体があって…」とか「色眼鏡図式」といったツマラナイ解釈にしかなりません。もしもこうした理解で満足したいならば、原典にあたる必要がないし、そもそも読んだことにはならないと思います。カントの認識論はスクリーン・モデル、色眼鏡モデル、「素材の加工」モデル(外界から素材を受け取って、頭の中でそれを加工するという認識モデル)では決してないし、少なくともカントが問題にしていたのはそうやって認識論を〈語れる〉ことの可能性、〈語られた〉認識論の普遍妥当性の基礎付けだったのですから、この二重三重に絡み合う思考の密度を味わうことが、批判書の楽しみではないかと個人的には思います。

カントに限らず、哲学書を読むことの意義が自分の思考を変えていくことであるならば(もちろんこれが全てではないけれど)、1ページに4・5時間かかってでも〈必死にくらいつく〉ことが重要ではないでしょうか。カントの本を〈とりあえず読み切る〉ことよりも。なので、これはあくまでも個人的な意見ですが、とりあえず『純粋理性批判』を哲学辞典なり広辞苑を片手に読み始めてしまう、というのが一番よいのではないでしょうか?
とくに『純粋理性批判』という本は、ヘーゲルの『精神現象学』のように〈最後の最後にカタルシスが得られる〉類の書物ではないので、(これもまた人によると思いますが)初学者ならば感性論と演繹論(A版・B版)をしっかり読むだけでもかなり勉強になるはずです。

いちおうとれぜげさんの質問に答えたつもりでしたが、すでに「純粋理性批判から読み始める」って答えておられましたね(笑)。長々とすみません。
ちなみに、細かなところの不正確さに目をつぶれば、僕はドゥルーズのカント論(『カントの批判哲学』、中島盛夫訳、法政大学出版局)が非常に面白いと思っています。「カントの破壊力」というテーマ(?)にもぴったりです。。。
僕はカントを読みたいが為に哲学を学び始めました。哲学史に関する本を数冊読んで、それから哲学史上のキーパーソンの伝記/思想概説みたいな本を何冊も読んでいって、カントに辿り着いて、取り組みました。
カントの著作を当たる前に
「カント - その生涯と思想」
アルセニイ・グリガ(法政大学出版局)
を読んでおきました。
カントの著作は原著に当たるほど根性無いので全て邦訳で、
人間学(岩波
判断力批判(岩波
純粋理性批判(平凡社ライブラリー
道徳形而上学原論(岩波
実践理性批判(岩波
という順番で読んでいきました。
これは先に挙げたカントの解説書に習った順序です。
哲学に取り組んでだいたい3年ぐらいかかって辿り着いたでしょうか?まだまだ勉強不足なのですが、それでもおぼろげながら何かが掴めたような気がします。
カントの認識は当時のものとしてはすごかったとおもいます。理性だけですべて認識しようとすると二律背反になるというのはそのとおりなのであり、言葉や論理の重要性を知るとともにそれだけではいけないということがよくわかるとおもいます。わたしたち人間はいつでも協力しあって大きなひとつのことを成し遂げていくというそういう存在なのだろうとおもいます。
10年以上前に大学に入ったばかりの時にカントを読みました。哲学に興味のありそうな友人5人ほどに声をかけて、最初にプロレゴメナ、それから第一批判、道徳形而上学の基礎付け、第二批判、第三批判という順番です。3年くらいかけたでしょうか。寝ても起きてもカントという時期もありました。あ、全部邦訳です。もちろんドイツ語(電子データ)は手元に置いて、ですが。

第一批判の訳はいろいろありますね。当時お金がなかったので仲間も原訳(全集しかなかったのですが今は文庫化されているようですね)には手を出さず、篠田訳か天野訳で、私は天野訳の方が良い(わかりやすい)という意見でした。宇都宮訳があるのなら、それが一番おすすめだと思います。篠田訳でも注意して読めばわかると思います。第二批判の時は訳注付きを買ってずいぶんお世話になりました。

第一批判の解説書でよいものが今は出ているのでしょうか?名前は出しませんがある解説書が当時新書で出て、さっそく目を通しいくつか間違いを見つけて憤慨して手紙を書いた記憶があります。わかりやすさは諸刃の剣とはこのことかと思いました。
第二批判は薄いし宇都宮訳なら十分理解できると思いますが、第三批判については法政からでているドゥールーズの解説は、あれだけ読んで読書会に出ていたメンバーがきちんと議論についてきていました。
ただそれでも第三批判の後半(目的論)については今でもわからないところがあり、もし時間があればもう一度読んでみたいと思います。あの部分だけはそれ以前の理解をふまえていてもわからない部分があるように思うのですが。

私は現在はシュライアーマッハーを研究しており、カントには批判的な立場です。しかし考えてみればカントを知っているからこそ今の立場に立っているわけで、否定的ではありません。
ところで、カントの文章はまだがんばれば日本語になりますが、シュライアーマッハーは不可能だと思います。まあシェリングよりましかと思いしこしこ取り組んではいますが。
そうそう。uedさんがちらと触れているドゥルーズ『カントの批判哲学』の、カント屋さんの間での評判は如何なのでしょうか? 三批判を短すぎるくらいにまとめてある点と、やはりドゥルーズに読みを引っ張られる印象が付きまとうと云う点に関して、何か読む上での注意点などあればご教示願いたいです。
僕個人的な印象で述べれば、カント三批判の入門本としてなかなか整理されていて読み易い本だと思います。
>>ドゥルーズ
私もカント屋の評価を知りたいです。私のかつての仲間は一人残らず今別の分野を研究していて、最近の研究成果はまったく知りません。
初めまして。僕はカント哲学を専門で勉強している者です。
僕が思うに、『第一批判』(理論哲学)を専門に読まれるのでしたら、『プロレゴーメナ』と平行させて読むことをお薦めします。また、『第二批判』(実践哲学)でしたら『人倫形而上学の基礎付け』を先に読まれる方が良いと思います。個人的に『人間学』はおもしろいです。
国際関係を勉強しているのですけれども、私が最初に読んだのは「永遠平和のために」でした。中3年の時のことで、もちろん言ってることサッパリでした。(笑) でもなんだかんだいって、学部時代最初の発表でもこの本、そして縁があってのことか、いまは国際関係学を院で勉強しています。

この著作は国際関係学において現在のコスモポリタン主義(代表格がメアリー・カルドーさんですかね)の「先祖」たる人のひとりにカントが位置づけられ、また正義論なんかでもやはり同じくコスモポリタン主義の見方の一環にカントを置いているようです。

研究・関心分野にもよるかと思いますけど、カントは基本的に普遍主義ですね。
はじめまして。今年度哲学科を卒業する予定です。
哲学書は、自分の気の向いたものから読むのが良いのではないでしょうか。デカンタ・キースさんと同じようなアドバイスは卒論担当教授からいただきました。
カントの哲学書のなかで個人的に読みやすいと思ったのは道徳形而上学原論だったと実感しています。それとあわせて、実践理性批判、人倫の形而上学の基礎付けを読まれると理解が深まると思います。その中で、どうしても純理の知識は必要になるので、そのときに純理を開くのも手段の一つかと思います。

好きなというか、関心のあるものから読むのが良いのではないでしょうか。ちなみに、私は翻訳されたものしか手にしてないです。ドイツ語が好きならば原書に当たるのが楽しいかもしれませんね。
すいません。

トピック違いかもしれませんが、カントの有名なコトバで


奥さんが怖いカントが
『結婚とは…』

とか

悟りを開いてるときに奥さんが反対で怒って、

『何とかの後には雷がつきもの』
とかの詳しいコトバ知りたいんですけど誰か教えてくださいあせあせ(飛び散る汗)

初心者ですいません台風
カントは生涯独身ですよ。妻はいません。
私の知る限りおそらくそれはソクラテスの言葉です。
調べてみたら他の人もソクラテスの言葉として以下の言葉を紹介しています。

「雷の後に雨が降るのは当然だ」
「若き君たち、結婚とは実に素晴らしい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得たら哲学者になれる」

http://www.sioji.com/archives/411495.html
『純粋理性批判』を英訳で読むとしたら
どの翻訳がよいのでしょうか?
>Dionysos様

Norman Kemp Smith の名前はどこかで聞いた覚えがあります。
早速探してみます。
ご回答有難うございました。
この動画はカントの定言命法の理解に役立つと思います

http://www.nicovideo.jp/watch/sm6257814
 カント理解はやはり「純粋理性批判」なしには不可能だと思います。
 わたしははじめの3分の1だけ読んで大学のリポートを出したことがありますが、翻訳は原訳がベストで、篠田訳は困りもの。もちろん原文にあたるのは必須のことだと思いました(というか原文でないと理解不可能だとおもいます)。カント流のドイツ語のニュアンスを読み解くのに相当苦労しましたけれど。
 「哲学する」のではなく「哲学書をよむ」だけの数ヶ月間でしたが、終えた時にはそれなりの充実感がありました。参考書はたくさん読みましたが、意外なことにもっとも役立ったのは当時流行のドゥルーズでした。流行を嫌い、頑迷なことでしられる京都の某大学の教授陣もそれなりに納得してくれました。20年以上前のことです。
 どなたかがおっしゃっている通り、研究には一生かけても洞窟の中という哲学者ですので、幅広い分野から慎重にお選びになるのがよかろうと思います。最近では中島義道さんの本が面白く、指針の一つなるのかなと思います。
1766年にカントが書いたエッセイ『形而上学の夢によって解明されたる視霊者の夢』は、その後の10年の沈黙を経ていかにして『純粋理性批判』へと結実したか、『純粋理性批判』はいかなる観点から読むべきなのかを考える上でとても重要ではないでしょうか。
>>[39]

岩波文庫の篠田先生の訳文は確かに読んでいて疑問に感じられる所もちょこちょこありますが、
それでもその向こうにやはりカントの雄弁を感じずにいられません。
おっしゃるように『純粋理性批判』はやっぱり素晴らしい書ですね。

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