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青年海外協力隊のための協力隊コミュの正義感あふれる青年たちへ

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ある青年が青年海外協力隊へ参加しようと親の反対を押し切って頑張っています。

その青年は自分は間違っているのだろうか悩み、私はその相談にのってあげることにしたのですが、皆さんにも是非一緒に考えてほしいと思い、ここにも掲示させてもらうことにしました。

私らの年寄りは、心配が先立ってしまい彼だけでなく青年一般に対して「止めた方がいい」などと言いたくなりますが、青年たちが困っている人々のために自分が出来ることをやろうという気持ちや、世界中の命を救うために何か出来ないかという願いを持っていることは分かります。

しかし反対に「若いのだから青年海外協力隊へどんどん参加したほうがいい」などと無責任なことも言えませんので、その青年には以下のことだけ進言させてもらったのです。

また多くの青年たちが、その正義感から、また人々の救うために何か出来ないかということで、ボランティアをかってでようとしています。ここでもそのような方たちにも是非考えていただきたいことがありますので、ボランティアの問題も含めて進言したいと思うのです。


さて、話は飛ぶようですが、私たちの誰にもと、人と人類の前にある問題は、個人的な生活上の問題と地球的な規模の問題があります。 それは上のような青年海外協力隊が取り組む「問題」のことですし、また学校での試験「問題」のことでもあり、広い意味の全ての「問題」のことなのです。

ですからまた、私たちを苦しめている「問題」といえるものは地球上(地球は宇宙と切り離せませんので宇宙も含まれますが)にある問題であり、それらの問題以外はないのです。

そこで、私たちの目の前にあるその小さな生活に密着した問題と大きな全ての人間に関係する問題は、同時的に解決しなければ、あるいは大問題を解決しなければ、それらの小問題(若い方が抱える個人的個別的問題と青年海外協力隊が取り組む問題など)は解決できないという関係にあるのだと、まずは進言します。

(なぜそう言えるのか、そのことをもう少し深めたい方は私の日記の「大嘘の構造」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=497311776&owner_id=7769186 を参考にしてください。)

青年海外協力隊などに参加しようとしている青年たちには、そのことを是非頭の片隅に置いてもらいたいのです。

というのも問題というものは、例えばA地点にある問題を解決するとB地点で同じ問題が起き、そのB地点の問題を解決すると、先のA地点で同じ問題が再度起きるといったことがおこる場合が多いいのです。

よく海外の支援活動や援助活動などで、あとからその援助活動の失敗が明らかになるようなことがあるのは、そのような問題というものの原理や原因があるからでしょう。「貧困問題の解決のために」と経済援助をすると、現地の政治家と影の私兵集団(暴力団)や企業経営者・役人が裏の人脈を作り、

その援助金をかすめ取り、現地人を強制的に搾り取る彼らの人脈や構造が拡大するだけで、かえって彼らだけが栄え強大になり、貧困は拡大するなどということになっているわけです。

またある青年海外協力隊員などが、現地の部落や村落などのA地点にある問題に関わった方は、A地点の問題が解決すれば成功だとするのです。万々歳ということになり、現地の方たちや周りの皆さんからよくやったと賞賛されることになるのです。

ですがその方は、次のB地点の問題に取り組み解決しようとするときにはすでに居ないのですし、ましてA地点で同じ問題が再発したときにも、さらにその方は居るはずがないのです。

勿論その方が現地A地点で一生生活を共にするなら別で、それらの時間的な経過、つまり歴史を知り問題が別なところにあり、また別な問題へと移ろっているだけであり、問題は解決していないのだということがわかるはずなのです。

そうすることで全体的な大きな問題があることを知ることができ、また全体的な大きな問題の内容を知ることができるわけです。

若い時は目の前の小さな問題に取り組むべきですが、また人の誰もが自分の目の前の個別的で小さな問題に取り組まざるをえないし、その目の前の問題を解決せざるを得ないのですが、

社会と世界にある大きな問題に取り組み解決しなければ、例えばA地点の日本や先進諸国で問題解決しても、それと同じ問題が地点Bのアフリカ・南米・アジアで起きることになり、そうして日本でもアメリカでもヨーロッパ諸国でも(貧困)問題が解決していないことを知るのです。

問題が起こるのには、問題が起こるべくして起きている関係性や、問題の背後にそれなりの原因があり必然性や因果関係などというものがあるのです。

それら世界や人の全体問題を理解している人々たちは、その根本的問題を貧困だといっているわけです。また貧困と不可分にある愚か(教育の貧困、底識字率・無知など)が原因だとしているわけです。

そうしてアフリカ・南米・アジアを植民地支配をした先進諸国の植民地主義を克服することが、それらの国々と民族を救うことができ、問題が解決できるのだといっているわけです。



さらに、青年たちのなかには自分がやりたいのは、青年海外協力隊などといった大それたことではなく、無理せず自分ができるボランティアぐらいだという方もいるでしょう。そのような方たちにも例えを足し進言しましょう。

世の中には「偽善」ということがあります。偽善ということが世の中と人の中にあることは、誰も否定しないでしょう。

ところが、その偽善を言ったり、やったりしている人は、自身では偽善だとは考えてはいないものです。なぜかといえば、偽善だと知っていたり自覚していればそれを止めて、この世の中に偽善というものはなくなるはずだからです。

ですから偽善というものが世の中にあること自体が、その偽善をやる本人自身では偽善だとは知らず、その自覚はなくて、考えてもいないことを現し証明しているのです。


さて、現代はボランティア流行りですが、日本の伝統では「ボランティア」などという言葉はなく、そのような活動を慈善活動などといい、そのうち驕り高ぶった「施し」は人間がやってはならない行いとして、厳しく戒められているものでした。

つまりそれは偽善だからで、親切ごかしで困っている人を騙すことになりその方たちを卑しめ、貶めることになるからで、日本の伝統的な倫理観ではそのような施しの慈善活動は戒められていたものなのです。

さて私たちの目も前には生活に密着した問題があるため、それら生活に密着した問題を解決しようとして、PTAや様々な子そだて支援の運動や生協運動・地域安全運動・地域保全と美化運動・自然環境と保護運動・働く現場での助け合い運動として労働組合運動などなど、様々な助け合いの運動や活動もあります。

それら私たちの生活に密着したコミュニティー(集団や共同体)に参加する多くの方たち中には、時どき自分の「優しいお母さん」「優しい叔父さん」「いい人である」ことを確認するために、その運動に参加しているような方がいます。

またそのような運動体や集団や団体、またそれら電脳世界のコミュニティーでは、参加メンバーが話を楽しみ、何かを学ぶために話し合うことを目的にしている人たちもいます。つまり自分が話を楽しみ、自分が知識を身につけたり、賢くなりたいために、それらの運動に参加している方がいるのです。

つまり、それは自分のため、自分が何らかの利害得失のために、やられているわけです。さらにそれらは子どもの問題や教育問題・生活問題などなど、子供の姿を借りたり人助けの名目を借りて、お母(お父)さんや大人たちが楽しむための、楽しむことを目的にして、また自分の自己満足のためにそれらの運動や活動に参加する方たちといえるのです。

(「自己満足のため」という中身には、名誉欲・功名心などもありますし、経済的なもの、また様々な価値観の利害得失もあります。自分が賢くなるためという知的欲望もあります。性的満足などもあります、美しいものや芸術的価値などを我が物にしたいという欲望もあります。皆さんも様々にある自己満足を考えてみてください。)

実際例えば、多くの学級や学校で子供たちがイジメや不登校・引き篭もりなどで苦しんでいます。そして実際多くのPTAがあります。そのPTAでは、そのように苦しんでいる子供たちを尻目に、そのPTAのお母さん(やお父さん)たちがPTAのバレーボール・合唱サークル・手芸の会・親父の会などで楽しみ、お母さんたちだけが喜々として活き活きしているなどというケースがおおく見受けられるのです。

これらのお母さんたちは、子供の姿を借りて、お母さんたちが楽しむための、楽しむことを目的にして、PTAの運動や活動に参加しているといえるのでしょう。

全国の多くの学校にPTAがあるのでしょうが、果たしてそれらのPTAは子供たちのためのPTAとなっていて、イジメや不登校・引き篭もりを問題を解決させているのでしょうか、残念ながらイジメなどが改善されない事実や自殺する子どもと事件が頻発している事実を見るなら、偽善のPTA運動やボランティアなるものがいかに多いかご理解いただけるでしょう。それらは偽善の運動、苦しむ子供たちを救わず、人助けにならない、自己満足の騙しの運動や活動となっているといわざるをえないのです。

またそれをイジメ問題だけに限って見ても、特に心優しい教師や、スクールカウンセラー、精神科医や臨床心理士・父母・女や男たちが、自身の親切心からイジメ被害者の子供を救うのだとして、またボランティア意識で相談活動を行ったり、ミクシー内にある様々な該当コミュでも相談活動を行ってもいます。

あるいは相談活動やカウンセリングを行って、イジメ被害者生徒を守るのだと称して、被害者の子供はイジメ集団がいる学級には行かない方が良いだろうと、被害者の子供を学級から離しをやり、

また保健室登校や校長室登校にさせたり、あるいは学級を換えさせ、学校さえ換えて、あるいはフリースクールを紹介して、自身の主観ではイジメ被害者を守っているつもりになっているのです。ですが、そのようにして、イジメ被害者を友達と切り離し、子供遊び集団から排除し、学級と学校から排除して行政的社会的教育から切り離し、排除しているようなことが起こっているのです。

また、それら錯誤した偽善の人々が、フリースクールなどを作ったり運営したりもして、イジメ被害者を友達と子供遊び集団や地域から切り離し排除してもいるのです。

つまり子供のイジメ加害集団がイジメをやって被害者の子供を排除しているのに(つまりその心身ともの嫌がらせや攻撃をして排除の活動をすることをイジメというのでしょう)、そのうえ更に錯誤したそれらの大人たちが、自身の主観の「良心」と「心優しさ」に溺れて、イジメ被害者の子供を子供の遊び集団から排除して、それらの大人たちがイジメに加担し、それらの大人たち自身がイジメそのものをやってしまっているのです。

そのような排除のイジメをやる者たちを突き動かしているものが、錯誤した主観的「考え」であり、錯誤した自己満足の「親切心」であり、自分の「心優しさ」であり、驕った「施し」のボランティア意識であり、偽善の慈善活動なのです。そうして、そのような誤った考えと心を持った私たちであり、教師であり、カウンセラーであり、臨床心理士や精神科医・福祉士・人権擁護委員・弁護士法曹関係者・など・などなのです。

現代はボランティア流行となっていて、そのような心優しい女や男たちが、また青年たちが多く見受けられるようになっているのです。

ここにお集まりの若い方たちや皆さんは、そのような主観的で錯誤した考え方、良心・心優しさ・驕ったボランティア意識などは持ってはいないでしょうか。

私たちはイジメ・不登校・引き篭もり・教育問題・幼児虐待問題・貧困問題・老人介護・身障者支援・ホームレス・貧困など・などの「問題」についての正しい考えや認識を持っているでしょうか、イジメが起こる原理や構造や原因について正しい見方や考え方をもっているでしょうか、今一度考えてみる必要があるでしょう。

偽善というものを知っている者は偽善を止めるように、イジメというものがどういうものか分かり、イジメを自覚している者は、自らイジメを止めるのでしょう。幼児虐待を知っている者は幼児虐待をやらないのでしょう。自分の利益のための植民地主義とその非人間性を知っているものは、植民地主義をやらないのですし、その利益をもたらす原理をしっているものは、様々な植民主義を開発し様々な嘘を振り撒くのです。

問題というものを知っている者は、問題活動を止めるように、問題を解決するのでしょう。テスト問題を知っている者が問題を書き、出題でき、 テスト問題の問題内容を知っている者が正解を書けるし、正解を出せるのでしょう。間違う問題を起さないのです。

そこで進言の結論なのですが、青年海外協力隊に参加した際には、またボランティアに参加した際には、いいやその前から、各生活地点の小さな個別問題に対応できるよう、私たちは実用の真実の学問と実践の学問を学びつつ、大問題を捉える哲学や経済学・政治学・歴史学・法学・芸術なども勉強する必要があるでしょう。

そういった意味で、問題を解決して人々を救う活動は今でもできるし、やらなければならないでしょう。

私たちのような老人でも、現代の青年や少年たちより以上に、子供のときに決意した父や母を助け、世界の人を救おうという願いと希望を、今でも真面目に諦めずに長期間探求している者もいるわけです。

度々言っていることですが、私は錯誤と愚かをやめなさい、イジメをやめなさいと声を大にしていいます。

またイジメられている子供や自殺に救いを求めざるを得ない子供たちに成り代わって、大人たちの愚かをやめてくださいといい、その愚かから発生する人を卑しめ、貶める「イジメをやめてください」と人々に訴えます。

悲劇と悲惨を生む原因である、人が物事を正しく見れず、考えられず、正しい行動ができないことについては、さらにそのため愚かなことすることになっている原理については、私の日記の
「大嘘の構造」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=497311776&owner_id=7769186
を。

さらに私たち人類に提起されている大(地球規模的な)問題を解決するための手立てとして、「21世紀の新しい国家機構と国際機構とは」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=769775469&owner_id=7769186を。
「学問をどう学べきか、学ぶ活動はどうあるのか、」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=776762144&owner_id=7769186

参考材料に加えて下さい。

のその他の私の日記記事も、人々を救うための参考材料に加えて下さい。

コメント(48)

えびさん ご意見有難う御座います。

度々申しわけなく、またあり難くおもいます。また同じお答えと話しをしなければならないことを、悲惨に思います。

私がボラティアや慈善活動・人を助ける活動に参加したかどうか、それらは、なぜ私がその人助けの問題をいえるのか、そのコト自体をみれば、理解できるし結論は出ていることではないでしょうか。またそのことは、トピ本文で話していることです。

自分の偽善を反省し、自分の愚かを反省したから言えるのではないでしょうか。

そうして反省した極地が、人は日々人々に貢献(人助け)しようとしているのだし、労働し活動しているのだし、つまり「生きている」ということだと、理解したのです。

ですから人(他人)に貢献していない人はいませんし、そういう人は生きてはいないということなのです。

人助けをしていない人というものはありえないのです。

子どもたちの笑顔でさえ、それは大人たちを励まし生かし頑張らせる、子供の活動なのです。人助けの活動です。

勿論それを感じず、分からない人々もいるのですが。

ですから、だれがそれを理解できないかも、すでにご自身で表明しているのです。

えびさんには、申し訳ないと思います。しかし私の責任ではありません。

そこから、誰が物事を言わなかった方がよかったのか、自分の中で物事を言えばよかったのかも、ご自身でその答えを出しているのです。

私の話が真実かどうかを考え見るのではなく、まったくえびさんご自身の主観で、自分の主感と主情で気に食わない、言い方が好きではないなどと感じて、驕り昂ぶった、自分が善だと思う偽善を言ったりやったりしたのは、またこれからもするのは、誰か、もうその事実はご自身で明らかにしたのです。

私たちは真実かどうか見て、真理の教えは学び、真理には真摯に素直に従いましょう。
 先に述べたとおり、偽善であるかないかを議論するのはあまり意味が無いと思います。
 私は行動と、結果あるのみだと考えます。
 しかし、ミケランジェロさんの仰る通り、結果というのはどこで計るかによって全く違うものになる可能性を孕んでいて、一言で良い・悪いを言えるものではないです。
 二年の任期中に良い結果が出せなかったと思っていても、三年、四年後に思わぬ発展を遂げる可能性もあります。

 とはいえ、最初に述べられたように…
 "例えばA地点にある問題を解決するとB地点で同じ問題が起き、そのB地点の問題を解決すると、先のA地点で同じ問題が再度起きるといったことがおこる場合が多いのです"
 このように、人一人の力ではどうにもならないようなうねりの中に投入され、自分の行動の無力さや無意味さを感じさせられることがあるのも事実です。
 
 しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉があるように、一見無意味に見える行動が後になって、思わぬうねりになって帰ってくる可能性があることも、誰にも否定できないです。
 そこが、ボランティアと呼ばれている活動の、良いところではないですか。
 
 青年海外協力隊について言えばこの制度は、隊員にも隊員の派遣を要請している国の人にも、一つのチャンスであることには変わりないと思います。
 ただ、活動をするに当たっては、善意が空回りして相手国の人に対してありがた迷惑にならないように、気をつけるべきです。
くぼっちさん

有難う御座います。また申し訳ありません。

幾度も言いったことを、再度同じ内容でお応えしなければならないことを残念に思います。

笑えるか笑えないかは、各自の主観の問題でしょう。各自のまったくの勝手な感覚の問題なのです。上に述べてきたことは客観です。

現代の人々の多くにあることですが、主観と客観を区別できない方がいて、互いの話が上手く伝わなくなってしまい、人間関係がストレスがたまるものになっています。

また実際に様々なコミュを見ても分かるように、主観と主観のぶつかり合いで言い争いがたえません。さらにその主観と主観それぞれの同調者があつまり、集団対集団の争いになっています。

それはまるでアフリカの部族間紛争と同じような状態になっているのです。アフリカの部族間紛争では政治的対立や経済的利害関係や宗教対立・生活習慣のちがいなど、さまざまな対立要因がありつつも、その根元にある問題がその主観で勘違いして互いに互いを決め付けところにあるのでしょう。

客観的理性的に見れば自分たちを困らせているおのが何であるか明らかなことなのに、主観に陥って錯誤しているために、自分の身近にいる異物としての相手を決めつけ、差別しあい、互いが敵と定めて、殺し合いまですることになっているのでしょう。

植民地支配する国が、支配地民族間のそのような対立を仕掛け利用して漁夫の利をえる手法は、インド・アジア・アフリカ・南米でも広く見られる事実でしょう。

南北格差といわれるもの、アフリカ諸国の貧困や飢餓・自然破壊などの問題の背景には、現代日本の多くの方が持つその主観に溺れてそこから抜け出ようとしない、共通した問題があるのではないでしょうか。

是非真剣に検討してください。

最後に、これを読んでいる皆さんにもお願いしますが、同じことを何度も繰り返しお話しても、しかも真面目にお答えしても仕方がありませんので、これ以降真面目なお話でない限りお答えしかねますので、ご了承ください。

以下は、しのさん という方がトピ本文とこれまでの皆さんとの話を読んだうえで、私に送ってきたお便りと、私のその返事ですが、これを読んでいる真摯な方たちへ参考にしていただくために、しのさんご本人の了解と理解を得て、私が転載することになりました。

しの

日 付 : 2008年05月
件 名 : 突然すいません

初めまして。突然メッセしてすいません。青年海外協力隊のコミュで、ミケランジェロサンのトピを見て今回メッセさせて頂きました
コメントとして書くか迷いましたが、他に見ている方もいて、なんとなく気が引けてしまったので、直接メッセという形にさせてもらいます。

さて、トピの内容についてなのですが、正直言いますとなんだか良く分からないケド、不快に感じました。しかし、それだけで終わらせる気にもならず、何度も何度も読ませて頂いたと共に、ミケランジェロサンの日記もいくつか読ませてもらいました。

その感想なのですが、最終的にはミケランジェロサンの言っている意味が分かり(不充分かもしれませんが)偽善にならない為に世の中を知る事、自分を客観的に見る事の大切さを知りました。
コメントの中にも有りましたが、あのトピは『行くな』と言っている訳ではなく、きちんと自分の中で考え、活動を行っていくべきだと言う事なんですよね?中には、モチベーションを下げる様な…と言う方がおられましたが、それでモチベーションが下がるのならば、行く必要はないと思いました。また、ミケランジェロサンの言っている事は、協力隊に参加していなくても、実戦していかなければならない事であると感じました。

協力隊に参加する方は、それなりに専門分野を持っている方ですし、私も看護師として働いています。これは、私の話なので、専門分野を持った方々がみんなそうだと言う事ではないのですが、どうしても専門分野の勉強に偏りがちで、なかなか他を見ようとせず…と言うか、見る余裕がなくなってしまいます。専門分野を極める努力は必要ですが、それだけではいけないなと思っています。


次に、大変無知で失礼な話かもしれないのですが、コメント欄にあった三愛サンらが書いたコメントに対するやり取りについてなのですが。笑っていると書いたミケランジェロサンの言葉に、笑ってはいないと書いた方々がいますよね?その方に対して、ミケランジェロサンは『客観的』に見れていないと書かれているのですが、他の方同士のやり取りを見た第三者の考えは、客観的に見た考えではないのかと、私は感じたのですが、違うのでしょうか?他の方であっても、感情的であり先にコメントされた方に対する仲間意識的なものがあると思われるから、『客観的』に見ている事にはならないのですかね?

きっと、ミケランジェロサンに対して反対意見を言った方々は、私が初めに感じた不快感のようなもののままで終わってしまっていて、文章を冷静に理解する事をやめてしまったのではないかと思います。


長文、更には何が言いたいのか分からなくなってしまってすいません。またたまに日記をのぞかせて頂くと思うので、よろしくお願いします

しのさん
日 付 : 2008年05月11日 13時16分
件 名 : 愛のために
しのさん
真摯に私の話を検討いただき、またそのお便り有難う御座います。

まずは「不愉快に感じた」ことについてお応えします。

まず前提ですが、私は真実を言わざるをえないために、再度「不愉快に感じ」させることになりますがご了承ください。もし真実と真理を理解する方がこれを読んでいたら、私がペテンをいい偽善をいっていることを見抜き笑うだろうから、遠回しな言葉を言うわけにはいかないのです。

さて、その「不愉快に感じた」感情は、それを感じた方のもので、私の感情ではありませんし、他の人たちの感情とその主観でもありませんし、客観的な人間的人間の感情ではありません。

ですからそれはその方の主観です。

そうして本来の人間(客観的人間のこと)とは、謙虚であり他人の言うことを聞き(相手の意見を無批判に受け入れる意味ではありません、ただ話し合い聞き合うこと、当たり前な常識のこと、つまり本来的ではない人はその常識ができないということ)、それを客観的科学的な教えから判断して、正しい感覚や感情や考え方を持とうとする方のことです。

つまり捻くれや決め付けを嫌い、排除して、つまり自分の主観(よく人間というものを知らないのに、分からないのに、理解もしないで、その主観で「人の言動」に対し「不快」だと決め付けること)を疑い、排除する人のことなのです。

下へ続く
上からの続き

それはつまり「不愉快に感じた」方は、それができない捻くれている人であり、真実と真理の言葉に対し、「不愉快に感じた」者(者のことであり人ではない)なのであり、その人の真実と真理を理解しない者のことなのですし、人の真実と真理を実行しない者のことなのですから、人ではないのです。

「不愉快に感じた」しのさんに対しても「人ではない」などと無礼な言い方となってしまいましたが、次の話を聞いていただければ、無礼を承知の上でも、事実と真理を言わなければならない大切さを理解いただけるでしょう。

そこで次に「客観的」ということに付いてですが、

客観的という言葉にも多様な意味があります。

さきのように「人ではない」といっても、勿論生物学的には、さらに動物学的には、加えて医学的には、それらの分類ではヒトであることは間違いなのです。ですが、それは人そのものではなく、人ではないのです。

ヒトが生きている現実では、つまり現実と実際の人は、人の生活と社会にいる人のことで、それら諸社会科学的に見たヒトと、先の自然科学的に見たヒトも合わせて、実際のヒトを捉えられるのですし、そうして人を正しく見られて、考えられて、正しく判断でき、正しく行動(活動も仕事も)できるのです。また正しい感性・感受性・正しく「不愉快に感じた」などということができるのです。

つまりそれが客観的な人間の姿なのです。そのように深い意味での「客観」「客観的」があるのです。

しのさんがいう「多くの方たち」という意味も確かに客観的なのですが、人ではない者たちがいくら集まっても、つまり主観的な方たちが集まっても、そこに仲間意識があろうがなかろうが、それは人と人間的人間ではないのです。

つまり一般がいう人間と、客観的学問的(自然科学・社会科学、未科学、全部の学問を合わせて見える、またそうある)にいう人間とでは違うのです。

ところでしのさんのお便りの中で

「その感想なのですが、最終的にはミケランジェロサンの言っている意味が分かり(不充分かもしれませんが)偽善にならない為に世の中を知る事、自分を客観的に見る事の大切さを知りました。
コメントの中にも有りましたが、あのトピは『行くな』と言っている訳ではなく、きちんと自分の中で考え、活動を行っていくべきだと言う事なんですよね?中には、モチベーションを下げる様な…と言う方がおられましたが、それでモチベーションが下がるのならば、行く必要はないと思いました。また、ミケランジェロサンの言っている事は、協力隊に参加していなくても、実戦していかなければならない事であると感じました。」とあります。

そのことについても、マズは「感想」や「感じました」では不十分で、私が言っていることは真実かどうかなのです。

しのさんが感じたかどうかではないのです。さらにですから「モチベーションを下げる」方も、それは主観ですから真実以前の問題で、私の話はモチベーションを下がるかどうかの問題とはまったく関係ないのです。

まさにそのような方には、自分勝手にモチベーションを下げてもらい、そうしてまずはよく考えてもらい、考えなしに協力隊や慈善活動をやらないでいただきたいのです。ですからそのような方たちには「行くな」「偽善となる」「悪なのだ」といっているのです。

さらに、ですからしのさんも仰るとおり、人間の生き方として(つまり客観的人間のこと、人間的人間のこと)、自分の生き方として、いつでもどこでも、片時も忘れず、人々を救うこと、真実を見極めること、愛と幸せと真実を求めて、それらのために実践していかなければならないということです。全ての人がそうしているはずですし、そうしなければならないのです。

それを自覚している人は、「行きなさい」といっているのです。

そうしてさらに高度に自覚したなら、人(世界中の)が生み出す全ての問題を解決するために、それはまた同時に人が困っている問題なのだから、「人が困っている問題を解決するために」ということであって、

そのような人間の問題(客観的人間の問題、つまり人間が問題を生み出し、その問題で困り苦しみ、その問題を解決させる、という人間の問題)を解明しなければならないことを自覚し、その人間の真理を人間に伝えなければ成らないことを知るなら、無闇に「行ってはならない」ことを知るのです。

人々が困って悩み苦しんでいる問題と、その原因は別なところにある(人間の中にある)ことを知り、「行っても」無意味を知るのです。

というのも、人々は、全ての人は、親と恋人やわが子を愛していると言い、自分を愛して欲しいと言っています。

下へ続く
上からの続き

テレビでも小説でも映画などでも、音楽CDでも、多くの作家・歌手が愛を歌っています。しかし愛が無いからこそ、そのように訴え、歌い、話し合い、求め、愛を知らないから互いに裏切り、裏切られているのでしょう。

そうして不幸(問題)を自ら導き出しているのでしょう。

全ての人が自分の人生の中で、今でも父母と兄弟・妻や子供たちを、「愛せるか」「愛しているのか」「人間的なのか」「そもそも愛と何か」などなど、その責任と真実の姿を追及しています。

自分の一生をそのために捧げているのです。

人間的人間は、自分の命の全てをわが子に捧げ、わが同胞(人間)にささげ、そのためにできるだけ長く生き、全霊を捧げて、死んでいくのです。

そのように生き死んでいくのが、また死んでいるのが実際の客観的人間です。人間的人間です。

人類はすべて、全員が、そのようにして生きてきたのです。これから生まれてくるだろう人と人類全員がそのようにして生きて行くのです。愛するもののために生き、活動しているのであり、自分のために生きているのではないのです。

政治家も官僚も国家国民のためにといいます。それは嘘ではないのです。
企業の社長は、人々のために社会に貢献するためにといいます。それは嘘ではないのです。
ジャーナリスト報道人も、人のため真実をといいます。それは嘘ではないのです。
商店主は皆様のご要望に添うためにといいます。それは嘘ではないのです。

医者も看護師も教師も農民も漁民も、全ての職業と産業に働く人々は、家族のため、人々のため、社会のため、といいます。それは嘘ではないのです。

戦争で人々を殺し傷つける軍人たちさえも、国民のため人々のために、その敵たる悪を懲らしめるのだというのです。それは嘘ではないのです。

皆な、主観では人々のために愛のためになのですが、客観的には悪をやっているのです。

悪だからこそ、そのようにして人間が活動し仕事をして作っている、その人間の社会と世界は崩壊しつつあり、人々のためにと活動する人類全体が、その人間の社会と世界を崩壊させているのです。客観をわすれたヒトが、文明と自然を崩壊させているのです。

ヒトは私どもが言う、それら人と社会と世界と自然と宇宙の真実の姿を見ず、それを伝える声を聞かないのです。実際にここでも、事実を伝える話を聞かないのです。

主観と客観いうことについて、
「偽善者」http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30631220&comment_count=6&comm_id=6152の私の書き込みをご一読下さい。

専門・専門性ということについては、私の日記の
「日本国民の『先進国総白痴化』の原因」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=504664304&owner_id=7769186
「大嘘の構造」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=497311776&owner_id=7769186

再度、主観と客観の問題については
「フッサールの現象学について」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=688654810&owner_id=7769186
「自分らしさ・女らしさ・男らしさて何?」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=289576451&owner_id=7769186
「自分らしさ・女男らしさて何?(2)」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=333261050&owner_id=7769186



人々が錯誤し愚かをやっているからこそ、様々な社会問題を生み出し、拡張している原理については、
「方法論の問題の質問に応えて」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=491434385&owner_id=7769186を参照してください。

アジア・アフリカ・南米の問題と、不幸に見舞われている世界中の人類を救うためには、さらにそれら私たち人類に提起されている問題を解決するために、
「21世紀の新しい国家機構と国際機構とは」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=769775469&owner_id=7769186
をご一読ください。
人々と人類が救われ、愛と幸せと真理を得るための主要問題とその答えが、ご理解いただけると考えるのです。

下へ続く
上からの続き


皆さんは、ご両親を愛していますか?、お子さんを愛していますか?、ご主人や奥さんや恋人を愛していますか?、愛する「人々のために」なにをしようとしていますか?

しのさんへ私からのお願い
青年海外協力隊など人々を救う福利の問題は、以上のような深い意味と内容の広がりがありますので、それらまた、上に案内する私の日記で検討している問題でもありますので、是非しのさんの今回のお便りを、青年海外協力隊コミュに掲示していただけないでしょうか、私の今回の返事も、たった一人の方のためのものにならずにすむのです。

まさに「人々のため」のものにするために、多くの人々の混乱とその悩みを救うために、その人生を救い過ちや罪を犯させず有意義なものとなるために、人々のその愛と父母と子供たちと恋人と夫婦を救うために、是非しのさんのお便りと私の話を、掲示できるようにしていただきたいのです。

よろしくご検討ください。

愛が人々に行き渡りますように、愛が人々を包み込みますように、

しのさんへ
                          ミケランジェロ





しの

日 付 : 2008年05月
件 名 : 大変申し訳ないのですが…

お返事ありがとうございます、返事が遅れてしまいました

そして、ミケランジェロサンからのコミュに載せて欲しいというご提案なのですが、載せる事は良いんですけど、私は物理的・技術的な理由で自分が送ったメッセージをコピーする事が出来ません。なので、もしミケランジェロサンがパソコンで、コピー可能であればお願いしたいのですが…。ご面倒なお願いをしてしまってすいません。

私がメッセージを選択したのは、私の書いた事が誰かを不愉快にしてしまうのではないか。と考えたからです。また、私は自分の考えを文章にして伝えるのが下手であると言う事も理由の一つです。しかし、私の送ったメッセージがどうであるかは別にして、ミケランジェロサンのお返事は皆サンに読んで頂きたい物でした。なので、その為に必要であれば使って頂く事は大歓迎です


そして、不愉快であったとメッセージに書きましたが、それは一通り読んだ初めの感情であり、何度も繰り返し読む事により、その感情は無くなって、ミケランジェロサンにメッセージを送ったのです。とは言っても、ミケランジェロサンの文章を読んで不愉快に感じたかどうかは、重要ではないと言う事も分かっています。そして、自分自身が人間的人間であると思っている訳でもありません。そうでない部分の方が多かったと、自分で感じています。今回、ミケランジェロサンの文章を読み、考え、そしてこうしてメッセージのやりとりをした事を生かし、実践して行きたいと考えています。


ミケランジェロサンの提示してくださった日記についても、すぐに読む事は出来ないとは思いますが、読ませて頂きたいと思います

しのさんと私の話のやり取りは以上です。

最後に皆さんへのお願い。
しのさんは大変気配りをなさっていて、「私が書いた事で誰かを不愉快にしてしまうのではないかと考えています」ので、ここに訪れる真面目に検討していただける方に検討をお願いしていますので、是非しのさんへ無闇な口論を仕掛けるようなことのないようにお願いします。
>ある青年が青年海外協力隊へ参加しようと親の反対を押し切って頑張っています。
>その青年は自分は間違っているのだろうか悩み、

”やればわかる。やらなきゃわからない。”と思うのですがダメでしょうか??

何がしたいか、で、手段としてピッタリなら青年海外協力隊で挑戦すればいいのでは。。と感じました。わーい(嬉しい顔)
しのさん のじ〜さん Fleaさん 
有難う御座います。
上のトピ本文とずれないように、皆さんのコメントにお応えしようと思いますので、それぞれに関係する内容となります。是非全部をお読みください。

しのさん 有難う御座います。
しのさんのところには、いやがらせはいっていないでしょうか、私は心配していますが、もしあったとしても、愚かな決め付けの言葉だけなら、一々に反応して腹をたてないようにしてください。そうして愚かは人の常(私たち全部が)なのですから、許してあげてください。
私も上の本文で嫌味をいったつもりはありませんが、しかし真実が苦言になるということは古来から言われていることですし、本当のことです。ですから不快を感じる方たちは、その真理をある程度受け止めているはずなのです。そうして真実の言葉も、自分の愚かな決め付けで自分の中で「不快」を導き出すわけです。
ですから私が上のトピで言っていることが真実であることを知るなら、自分で生み出した自分の中の「不快」は消えるわけです。
その「不快」は真実とは関係ない、自分で作り上げた主観(主感や主情・主意・利己心など)なのです。

自分で作り上げた主観で、相手を決めつけ攻撃するのが人の常で、世界中の人々が喧嘩や争いを起こすことになっているのでしょう。その人々の喧嘩や争いの複合的な結果として、青年海外協力隊の援助が必要となる「問題」を生み出している原因なのでしょう。

のじ〜さん
有難う御座います。
”やればわかる。やらなきゃわからない。”これは真実です。重要な真実です。
ですが人類はすでにそのことを第一義的な真実であることは知っていて、それでも「問題」(上のしのさんのお応えでも書いた問題のこと)を起し問題を解決できないから、つまり「やってもわからない。」ということがあるから、トピ本文で言っているようなことが起こるわけです。また次のFleaさんが言うような「真実は分からない」という人も出てくるわけです。
そうして、ここでもお伝えしなければならないのは、自分の主観の範囲で“やればわかる。やらなきゃわからない。”と、人々がいっている限りトピ本文で言っているような問題が起こるわけです。また次のFleaさんが言うような「問題の真実は分からない」という人も事実いるわけです。

下へ続く
上からの続き

ですから のじ〜さんは、自分が(主観=主感や主情・主意・利己心など)「何がしたいか、で、手段としてピッタリなら青年海外協力隊で挑戦すればいいのでは。。と感じ(主感)ました。」という主観の範囲を出ないことになっているのでしょう。社会で使っている言葉の意味を理解しようとしないで、いつまでも自分の解釈に閉じこもっていると、人は成長しないのではないでしょうか。人が成長せず事実が見えないところから「問題」をおこすのでしょう。

Fleaさん
有難う御座います。

真理や真実に対する懐疑主義や不可知論などがあることは知っていますが、それはやはり主観主義の間違いでしょう。Fleaさんがお話ししていることは、現代には流行っている主観主義の司令塔の理論でしょう。まあその話をここで長々しても仕方がありませんので、真実と真理をそのままお伝えして「主観主義の司令塔の理論」が間違いであることを指摘しましょう。

というのも、真実と真理というものは、人類が徐々に獲得してきているもので、今現在獲得している真実と真理があり、これから未来に獲得するだろう真実と真理というものは、今は獲得できていないのです。

人類はそのようにして真理を獲得してきたのですから、また科学や学問を進めてきたのですから、人類が発生したときから学問や科学があったのではないのですから、その事実を無視して、真実や真理は分からないのだと「主観で決め付け」(上の しのさん の応えで話したこと)ても、世の中の現実と事実とは関係なく、まったくの別物なのですから、一切無意味なのです。

現代の大学や学者や研究者が、今流行の論理実証主義や分析哲学などをいって、「真理は分からないのだ」と決め付け、その自分で研究活動と教育活動をして、自身が何のために研究活動をしているのかと自問すると、「真理は分からなからだ」と一巡した考えを繰り返すことになっているのです。

つまり自らの主観の考え方の中で、自分の頭のなかに作っている思考迷宮に閉じ込められているのです。そうして、くしくも上の のじ〜さん が言うような、「やればわかる。やらなきゃわからない。」といい、説明が完結しているように錯覚することになっているのです。

真実と真理というものは、人類が徐々に獲得してきているもので、今現在獲得している真実と真理があり、これから未来に獲得するだろう真実と真理というものは、今は獲得できていないのです。だから人類は、研究活動を進め、人々を救うとしているのです。

つまりこの客観的事実を絶対的に認めないこと、またその主観に固執すること、さらにその無意味を、自らが実証しているのでしょう。

そのような主観に固執しているような「汝自身を疑う」ニヒリズムの懐疑主義と、「汝自身を疑い」自分の誤りを直すデカルト的な科学主義的懐疑主義とは根本が違うのです。
すみません。私が成長していない為、ミケランジェロさんのおっしゃっている事の5%くらいしか理解出来ないのですが、文頭の”ある青年”さんは何をしたくて迷っているのですか?
以前から、ここのトピックの話題が気になっていたので、コメントさせてください。

ミケランジェロさんが言いたいことというのは、とても簡単に言うと、「人のためにと思ってやっていることは、実は自己満足でしかないかもしれない。目の前にある問題は、実はもっと複雑であるから、学問をしっかりと勉強した上で、考え直してほしい。」と理解していますが、大丈夫でしょうか?ということは、ミケランジェロさんがトピックを立てた目的は、人のために働きたいと思っている人たちに、もっと勉強した上で考え直してもらうということですよね?
しかし、このトピックを立てたことによって、その目的は果たせているでしょうか?ミケランジェロさんは自分と違う考え方の人に対して、侮蔑するような印象を与えることで、会話から追い出しているように感じられました。他にも、そういう人は多いのではないかと思います。それは、目的とは異なることです。
ミケランジェロさんなら、真実を並べることが、必ずしも受け入れられることにつながらないことは、わかっていると思います。だとしたら、もう少し表現方法に気をつけたほうがいいのではないでしょうか?
Fleaさん のじ〜さん 88ちゃんさん

88ちゃんさん 始めまして。

そうしてお三方、
私のトピとここでの話を検討いただいていることは有難く思いますが、電脳世界で「荒らし」などといわれる争いが起こる原理は上に幾度か言いましたし、

主観で不快や不愉快を感じる問題についても、それは私の主観ではないこと、まして客観でないことなどなど、説明しました。

また客観的にあることの必要性もすでにお話しました。

同じことを質問されても、それに対し私が説明しても、客観ということを絶対的に無視するのだと固執して方たちに、「理解」ということがありえるのでしょうか。客観的には、主観主義はそれは有り得ないと示しているし、教えているのですから、私もそう確信するのです。

他者や客観を理解するつもりがない人に、つまり真実か嘘か、正邪善悪・非理曲直・美醜清濁・深浅広遠・などなど全てを決めるのは自分だ、自分の主観だと絶対化している人に、

他人がいくら説明しても無駄であることは、自身が証明していることなのですから、私はこれ以上説明する責任も酔狂(分かっていながら遊びで付き合う)もありません。

ご自身で、何故質問するのか、懐疑活動(思考活動)をするのか、もう一度反芻してみてください。

同じ話をして、上の あきちゃんさん や おしょうさん や しのさん のように理解する方と、理解できない方と、理解しない方がいるのではないでしょうか。

理解できないという人は、他人の話を真摯に聞いて、それでも理解できない方なのですから、話し手はその質問に対し説明する義務や責任があるでしょうが、

「理解しない方」つまり、自分の本心(主観)では、相手の話を絶対理解しないぞと決め、その自覚はないにしろ、うわべでは真摯に話を聞いている素振りを見せているだけという質問では、何回説明しても何年説明しても、理解しないことはすでに決まっているのです。

自分の主観に固執し、相手の話を理解しないのだということだけは当初より決めているのですが、ただ本人には自身がそのように考えていることの自覚がなかったり、自覚していて意図的にその本心を隠して、

話のなかに突っかかれる細部を見つけ、その細部につっかかり、営々と説明しても営々とつっかかり、話し合いがこじれ、荒らし・争いが起こるということになるわけです。

こうして何度もお話しても主観に固執する方が絶えませんので、また「荒らし」となり皆さんが不愉快になるのも非生産的なだけですので、上にご案内した
「偽善者」http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30631220&comment_count=6&comm_id=6152の私の書き込みを転載させてもらうことにします。



上のトピ文でも言っているのは、自分の考え(主観)は正しいと慢心するところから、他人の意見に耳を傾けず、従って「驕り昂ぶる」こととなり、「偽善」というものになるといっています。

誰でもが自分の頭で物事を考えますので、誰も主観からは脱出することは出来ませんが、そこにある問題を自覚すると、物事について客観的に考えなければ、主観から脱出できず主観から発する一切の考えや話し合いや、また文章や本は、さらに行いは、無意味なものとなるのだということが分かるのです。

そこで、主観と客観ということについて、私がいつも皆さんに理解していただけるよう話している例えをここでも紹介しましょう。

私たちは誰でもが日々努力して、より良い生活に向かって前進しようとします。昨日より今日、一歩でも前に進もうとして生活と人生を送っていています。子供たちも日々努力して(体育など不得意を克服しようとしていますし、深夜勉強などして)前進し成長しようとしています。

さて、そのような時に私たちは自己中心的(主観的)に、自分の前を「前」(前進・成長とか)としたら、自分が反対の後ろに向き直った時点で、今まで前だった方が後ろになり、後ろだった方が前になることになります。

つまり自己を中心に置いて主観的に見たり考えていたら、前も後ろも、右も左も、発展も成長も判別できず前進できないのです。前に進んでいるつもりで後退しているということが起こるのです。

地球上の東に向かって歩みはじめ船に乗って進み、東に進んでも「東」という位置、所はないのです。概念的に太陽と地球の関係で東西南北を決め、定めて、人類の客観的共通概念としているために、さらにそれを万民が認めているために、東西南北があり生活に役立っているのです。

ですから先人たちは主観を廃し、客観的である必要を主張し、客観的に「前」とはどういうことか、「東西南北」など、言葉の意味内容と概念を明らかにしているのです。

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歴史的に前後がわかるのだし、また客観的な目的・目標があって前後がわかるわけです。さらにその他の客観的で科学的・学問的な基準があて、前後や真偽・善悪・美醜清濁・非理曲直なども判別できるわけです。

つまり客観的で科学的・学問的な偽善・驕り昂ぶり・など、そのほかの一切の概念や基準や価値観があって、それらも判別できるのです。

また「判別できる」ということは「理解できる」「理解できた」ということなのです。

ですから客観的で科学的・学問的な基準とは関係ない、一切の言葉・概念・主観の話は無意味であり無駄なのです。「判別」も「理解」もできないのです。

さらに主観に固執している皆さんはご注意いただきたいのは。

主観主義者は、自分の心の奥底の本心では、話し相手に対し「馬鹿野郎」だとか「クソ野郎が」だとか、「知ったかブリやがって」だとか、「上から目線で」、「言葉遣いのいちいちが気に食わない」、

「不愉快な野郎だ」だとか、「長話をするな」「ウザイ」「キモイ」などなどと、それぞれが自分勝手な印象と決め付け(主観)で、本心では相手を口汚く罵っているのですが、表面上は社交辞令を言って、ウソも方便といっては甘言を言い相手を誤魔化しているのです。

つまり偽善を言っているのですし、まさに主観に固執する主観主義者は、互いにそのような偽善をし合うことになっているのです。

その表面に表す言葉と、隠れて表れない本心は違うのです。

本心では相手を蹴落とそう、自分が上位に立とう、金や財産は自分のものだ、自分だけの利害得失を考えているのですが、表面上の言葉ではその本心を悟られないように、

アナタとは友達だ、互いに分かり合える、通じ合える、友情だ、愛だ、恋だ、アナタのために、父や母を愛し父母のために、愛する恋人や家族のために、子供たちのため、人々のため、などなどと言っているのです。

主観主義者は、互いがそういう関係にあること、そのような関係をやめようとはせず、改めたり壊そうとはせずに守って、相手を攻撃し、自身も攻撃され、攻撃し合っているのだということを自覚しましょう。

あっちこっちのコミュで確認できるように、主観主義者は、すでに自分の主観主義を認め、それでも固執して改めようともしていないのですし、偽善も認めているのですし、それも改めようともしていないのですし、相手から偽善を言われ、またやられていることも、互いに認め合っているのです。

そのような主観と客観の違いと問題を人類が自覚したのは、「コペルニックス的転換」(「コぺ転」といわれている)があった大凡500年も前のことなので、地球から宇宙を見ても正しく理解できないことを知ったのですが、

歴史の「前後」が分からないと21世紀になってもそれを理解できず、後退し続け、文明は野蛮に戻ってしまうのです。

ですから現代では文明の崩壊と危機(地球の温暖化など)が叫ばれ、多くの識者が国家崩壊を指摘しているのは嘘ではないのです、それらは虚構ではなく客観的事実なのです。

聖書もバベルの塔の話しで、人々が言葉が通じ合えず、文明が崩壊するのだと忠告しています。仏教でも餓鬼(ガキ)をいい、自分に溺れることの悪を忠告しています。

「日本国民の『先進国総白痴化』の原因」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=504664304&owner_id=7769186
をご覧下さい。

以上が「偽善者」コミュで私が書き込みしたものですが、

くしくもこの間に中国で地震が起き、死者5万人ぐらいになるだろうとされています。

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中国政府・行政当局者が先頭に立って「命の救済」「被害者救済」をいい情報公開をやっていますが、はたしてオリンピック開催問題、チベット問題、人権問題を背後に抱えて、それは表面的な言葉だけで、また表面的パフォーマンスだけのことなのか、それが主観的か客観的なものか、偽善なのか、国民のための政治なのか、現実の推移が明らかにすることでしょう。

しかしとはいっても、注意して頂きたいのは、その人間が持つ錯誤思考の問題とその結果として起こる問題(人間と社会の)現象と、実際に地震が起きている(自然現象の)こと、その「命の救済」「被害者救済」をすること、そのためにこそ真実の情報公開し人々に伝えなければいけないこと、それらを混同してはいけないのでしょう。

私たちはすぐ現場まで飛んで行って、微力でも命を救ってあげたいし、尽力できるはずで、そのことと頭の中の錯誤の問題を混同してはいけないのでしょう。

(だからこそ人が現実を見れず、混同し、錯誤している問題をいっているのですから。)

さらにしかし、それらの客観的な事実や全体的な実際を理解できなかったり、ともかくそれらを絶対的に認めないのだとする人々が実際に多くいて、

天災にそなえての防災と福利、人心の文明化(命を大切にして人権を守ること)・近代的生産(人間が必要とする一切の物を生み出す力、科学を信じず活用できないため近代的生産、)が進まないのです。

そうして天災の被害を大きくしているのですし、人災の問題を引き起こしてもいるのです。
教えて下さい。 冷や汗

文頭の”ある青年”さんは何をしたいのですか?
それを聞いてあげましたか?

3行くらいで大まかにでも教えてくださると私にも理解できるかも知れないのですが、それではダメですか?

そもそも何をしたいかというのはこのトッピックで考えるべき事では無いのでしたらごめんなさい。

僕も、自分なりに努力して、ミケランジェロさんの考えを理解しようとしています。その上で、ミケランジェロさんの考えは間違っているとは思いませんし、同意できる部分も多いです。
僕が言いたいのは、表現方法に気をつけた方がいいのではないかということです。客観的であり、真実に基づいた話をすれば、否応なしにミケランジェロさんのような表現になるのでしょうか?相手の気を害さない工夫はできないものでしょうか?
間違った考えの人や、話を受け入れる気の無い人は、議論に参加しなくてもよいと言ってしまっては、伝えるべき相手に伝わらないように思います。
こんばんは。当コミュニティーの管理人のPuffing-Usukeです。
久々にコミュニティーをチェックしたらこのようなやり取りがあることに驚きました。多忙ゆえですが、ミクシーを見る機会がなく、管理人として私の責任感の欠如に深くお詫び申し上げます。
さて、ミケランジェロさんにお伝えしたいことがあります。以上のようなやりとりは、正直協力隊を考える上で大事なことを述べていらっしゃると思います。しかしながら、しばしばご指摘があるように、匿名性の高いインターネット内のやりとりでも、あくまでも「人間」関係です。何度も言いますが、あなたのおっしゃられてることは確かに協力隊に参加される方が気付き、考えながら、常に自分に言い聞かせなければならないことです。そういった点では感謝していますし、他に参加しておられる方も色々学ぶことが多いと思います。しかし、あなた自身が書き込む以上、また他人に理解を求めるのであれば書き方をもう少し考えていただけませんか??
あなたでなければ書けない内容ですし、理解しようとしている方もいらっしゃいます。私自身はあなたの書き込んでいることがあなたの主観じゃないにしても、主観だとしても、書き込む以上あなたがもう少し書き込むことの責任を感じ、皆さんに配慮して下さい。
あなたがこのコミュニティーで情報を発信するのであれば、ぜひご協力ください。お願いします。
Puffing-Usukeさん

有難う御座います。
お話は分かりました。

またトピ本文や皆さんとのやりとりを読んでいただき有難う御座います。

さてPuffing-Usukeさん 

せっかく真面目に読んでいただいたようですが、今一度お読みいただけたら、もう少しちがった書き込みになっただろうと想像して残念に思います。

Puffing-Usukeさんから伝えられ、お願いされ、質問された以上、それに返答するために言わざるを得ないことになりましたが、再度おなじことを言うことになります。是非ご一考願います。

私がトピ本文や皆さんとのやりとりで言っていることは、誰彼個人の人格について論評したり批判しているのではないでしょう。人間の、人間一般の性質(Puffing-Usukeさんがいう「皆さん」と「考慮」より、大勢のかたを「考慮」した人間一般の性質)について、またその問題点についていっているのです。

ですからこれも何度か言っていることですが、人間一般に耳の痛いこと、苦言を言われていることですから、多くの人間である方が不愉快を感じることは当然なことではないでしょうか。ちなみに私もここで云う人間一般であり、自分への自己批判自己反省でもあるわけです。

この不愉快に感じる方が多くいる「書き方」「言い方」の問題は、確かに人は、そうして人間一般は全ての人を考慮(考慮するということは、一般化するということでもあるのでしょうが)して、

誰もが抵抗感を感じない完璧な「言い方」をしたり「文章」を書くなどということはありえないことですが、しかしそのことは正しいとはいっても、誰もが常に他者を考慮しつつモノを言い、文章を書くべきでしょう。

そのような意味で、トピ本文や皆さんとのやりとりで「不快」になる問題は、「言い方」にあるのではなく、より、取り上げている人間一般の人間性質の問題に由来するのではないでしょうか。

というのも、すでに上で「言い方」の問題を述べ始めましたが、この私の「言い方」が悪い、直すべき問題点は、これという基準があるのでしょうか。

Puffing-Usukeさん よもやPuffing-Usukeさんが文章の「書き方」と「言い方」を示すから、それに従えというのではないでしょう。

(もしそうなら、それは主観でしょうと、お伝えしなければなりませんし、それは独裁《独りで裁定すること》であり、横暴・我が侭・独りよがり・自己中心主義・利己主義など・などだと言わざるをえないでしょう。)

それともなにか皆さんが従うべき、人間一般が従うべき、客観的な、誰も不快にならない、誰も抵抗感を感じない(抵抗感を感じないということは、感じ入ることがないということであり、得るものがないということでもあるでしょう)「話の仕方」「言い方」「文章の作り方」は果たしてあるのでしょうか。

Puffing-Usukeさんがいう、多くの方が不愉快にならない「書き方」「言い方」を是非教えてください。トピ本文でこのように直したら多くの方が不愉快にならない「書き方」「言い方」となるだろうという、例文を示してくださるとありがたいのです。

しかし伝えるべき内容の意味が変わってはこまりますし、文章が長くなっては、長文だと叱られますのでそれも困ります。もし教えていただけるなら、これほど客観を言う私ですから、正しいことと真実に、真摯に、謙虚に、本心から従います。

またついでに是非、それはご自身の主観で言っていることなのか、どうかも、自問自答して下さい。

また小説家が文章読本だとか文章の手習いだとかいって研究していますし、言語学・コミュニケーション論・論理学などもありますので、勉強してみてください。

私がお勧めしたいのは、文章読本・文法・言語学・コミュニケーション論を煎じ詰めてたどり着くのが、結局は考え論じる思弁の学である「論理学」だとおもいますので、是非論理学も勉強してみてください。

上手に合理的に思弁するための学である「論理学」は、古代ギリシャから現代まで何世代にも渡って研究活動が受け継がれている、人間一般に必要なものです。人間一般に必要ないものは、歴史の中で忘れさられてしまい、研究が引き継がれたりはしないものでしょうし、学問として成立しないのです。

論理学が教える「客観的」思弁方法の真理を確認してみてください。

Puffing-Usukeさん もうお分かりでしょうが、そうしてこれを言わないほうが良いのかも知れませんが、私の良心からすると、Puffing-Usukeさんやこれを読むだろう多くの方にとっても、事実をはっきりとお伝えしなければ、それは何も言っていないことであり、かえって真実をぼやかし言いくるめることは嘘となるのですから、

下へ続く
上からの続き

また私はその嘘と真の論理学的意味を自覚しますので、またそれら人としての責任、トピたてた者として、またコミュニュケーションの主意(この「主意」は主観ではなくオモナ意味の語義です)や、嘘を「発信」し「協力」してはならないことを自覚しますので、言わざるをえないのですが、

論理学的根拠のない「言い方」云々なるものは、主観でしかないのです。それが「偽善」になる関係は、幾度か説明したことですから、もう説明しないことにします。

現実世界でも電脳世界でも、真理を判断するのではなく、相手のその「言い方」が「気に食わない」といって争いや「荒らし」が起こっているのです。

「気に」というのは自分の気持ちであり主感であり主観でしょう。「言い方」も自分が感じているこであり、多少の知識があれば自分の「考え」であり、それは主観なのです。

主観は意味が無いと何度かいいましたが、「言い方」「気に食わない」そこから生まれる「争い」「荒らし」も、それらは何も生み出さず、そのこと自体が無意味なのです。

ところで、コミュ(コミュ一般であり、このコミュだけのことではありません)というものの、目的は何でしょうか。

これを読むだろう他の方もご自身でコミュ管理をしている方もいらっしゃるでしょうから、Puffing-Usukeさんだけでなく、是非確認してみてください。

コミュといわれる人の集まりと、その「人間関係」を設ける目的は、真実と真理を探究したり、真実と真理の苦言を聞き、確認し合うためのはずでしょう。

それとも甘言を言い合い確認し合うためなのか、またそれらは関係なくただ自分が話したいから、話を楽しみたいから、日記のように自分に語りかけ自分を確認したいから、真理の苦言を言うものを攻撃したいから、甘言を言うものを守りたいからでしょうか。

まあ、人が集まれば各自はそれら様々な目的を持っていることでしょし、青年海外協力隊も人の集まりで、各自の個人目的は主観の範囲ですから様々あるのでしょうが、果たして団体としてその目的はどうあるのでしょう。

また上のトピ本文でも言ったようにPTA(もコミュです)の父母たちのように、話しを楽しむのも間違いではありませんし、そのほかの目的も直ちに間違いだ改めるべきだ、と性急に責められるものではありません。

だがしかし、それらは人間が言語活動・話し合い活動・意思伝達活動・認識活動などをする目的は、真理と愛と幸せのためだという第一義があて、それが揺らがずにある場合に限り、各個人の主観的な目的が容認できるのでしょう。

人間関係を考える私たちは、その絶対的なモノと派生的なモノの主従関係を取り違えないように、確認してみる必要があるでしょう。一言で言えば、人々が集まる目的は、また人々が話し合う目的は、人々のためなのです。

つまり、人間活動(言語活動は人間活動の一部)は、人々のため、人々に真理と愛と幸せを伝え、導き合うためにあり、人々を救うためにあるのです。

人間活動(生産活動・経済活動・政治活動・法活動・文化活動・歴史活動・生活活動・生殖活動・研究学術活動・宗教活動・など・など)の一切が、人々のため、子供たちのため、人類の福利のために行われているのですが、

しかし人々は不幸です。

年間自殺者が3万人もいます。アジア・アフリカ・南米の多くの人々が飢え貧困・争い戦争・不条理・など・などに苦しんでいますし、命を失っているのです。

ですから、コミュ管理する者の「責任」は真理と苦言を言うものを守るためにこそあり、甘言や耳さわりのいいことを言い合う場と、場の雰囲気と空気(各自の主観で感じるもの)を守るための「責任」ではないのです。

「責任」とは、そのよな意味内容があるのではないでしょうか。

「責任」という言葉だけではなく、様々な言葉と概念・論理は、主観に陥っていれば一切が無意味なのです。無意味どころか錯誤した人間活動(言語活動は人間活動の一部)は、人々を嘘に導き、錯誤に導き、不幸にするのですし、不幸にしているのです。

それを自覚する私は、Puffing-Usukeさんから指摘されたように、言葉をつつしみ、様々を考慮して、お願いされたことを反省して、一済の言葉と概念を常に総点検したいと思います。

真面目で真摯な皆さんも、またPuffing-Usukeさんも、自分が話し、書き、言う、言葉と概念と論理を「責任をもって」総点検してみてください。

真の意味の「責任」やその責任を自覚した上にある「真摯」や「真面目」「偽善」などについても、私たちが「協力」して「探求」しましょう。

ミケランジェロさん、分かりました。
今はそれしか言えません。それしか言えない私はまだ未熟で一般論の領域から出ませんので、ミケランジェロさんに、このトピックの行方を委ねます。しかし、このコミュニティーの管理人が私である以上、独裁ではありませんが、常に対応は私に委ねられていることもご承知下さい。あなたが、問題が起きたときに逃げ出さないだろうことは重々承知ですが、万が一問題がエスカレートし、収拾がつかないとき、然るべき対応はあなたに代わりとらせて頂きます。そのようなことは、あなた自身の想定の範囲内であるはずです。
ぜひ、ここから本当に正しい真の世界への活路が開くことを期待して、しばらく見守らせて頂きます。


自分の主観で他人の主観を押しのけようとしているだけにしか見えないなぁ。
大局的に見ること、局地的に見ること。
状況により使い分けることが一番ではないかと。

偽善を偽善やと判っててやってることを、あちきは否定しないし。
それで救われる人が居るのなら。
全員が救われないのならやらないほうがいいっていう考えよりも、
たとえ少数でも救われるほうがいいという考えの持ち主なので。

あちき一人が道に落ちているごみを拾っても、
ごみを捨てる人が居なくならない限りはごみは道に捨てられ続けると知ってても、
自分が気になったごみを拾うようにすれば、少なくともそこはきれいにできるからね。
できる範囲のことを自分がしたいと思う範囲でやればよいのではないかと。
Puffing-Usukeさん  Fixさん

返事が遅れ申し訳ありません。またご意見ありがとう御座います。

Puffing-Usukeさん Fixさん お二方への返答がすこし混ざることになりますが、ご両人とも、それぞれの話としてご一考お願いしたいと思います。

さて、Puffing-Usukeさん
貴方が当コミュニティーの管理人でいらっしゃることは分かりました。また私は「問題が起きたときに逃げ出さないだろうこと」「万が一問題がエスカレートし収拾がつかないとき」私の責任であることも、分かりました。

そこで、度々同じことを言わざるを得ないことになりますが、その「責任」というものの問題だと前回もお話したのです。
責任という一般的な意味が(責任という言葉だけでなく言葉一般が)理解されていないことが、問題なのです。すでに話したことですし、また長話をするわけにもいきませんので、別な例え話しで説明すれば、もしここに神のような全知全能な者がいて、真実と真理を話、愛と幸せの道を示しているとしましょう。

そういった場合、私たちはそのような客観的真理(神のような絶対的真理をいう絶対者)をいう者に「責任」を言いますか?。誤り多い人間だからこそ、その言葉と主張や教えが間違いであったときその「責任」を言うのでしょう。

話し教え伝える活動も人の活動ですし、海外協力隊での活動も、まさに活動です。その活動が間違いであったとき、その「責任」や「偽善」が言われるのでしょう。上のトピ本文はそのことを話しているのです。
客観の真実と真理を話し、愛と幸せの道を示す活動に対し、その責任を言うのは、その客観と主観を分別できないが故の、その真実と真理と錯誤を判別できない、錯誤そのものでしょう。
だからこそ、上の本文でも皆さんとの話でも、主観は偽善ともなる錯誤ですよ、間違いですよ、とお伝え(客観を)しているし、独りよがりの主観の活動であれば海外協力隊での活動も、それが善意の活動であっても、間違いなのですよとお伝えしているわけです。つまり責任が問われていますよと、言外にお伝えしているのです。

ところで、その責任というものを理解せず勘違いし錯誤すると、責任ないものを「排除」するということが起きます。コミュニュティー一般によくあることですが、ある共同体で「迷惑」をかける者や集団となじまない者などがいると、その者を集団的に、しかもそのうえ管理「責任」者の名の下に、「排除」することが起きます。電脳世界の共同体のあちらこちらでも、アクキンだとかいって人とその発言を「排除」しているのを見ます。

ですが私たち人は、錯誤を改め真理を尊重し愛と幸を求める人間的人間であろうとするなら、つまり客観に忠実であろうとするなら、そのような「排除」はするべきではないでしょう。
それは上の本文でもイジメとなると話しました。しかし「排除」はするべきではないといっても、それは原理的原則的な人間的態度をいっているのであって、次に述べるFixさんが言のような、「大局的に見ること、局地的に見ること。状況により使い分けることが」必要な場合もあるのです。
そのことも前回でも話しましたが、またトピ本文のPTAの話もしましたが、人が話し合う大前提と大目的は愛と幸せと真理のためで、自分が「話を楽しむため」「満足感(自分の)を得るため」などという目的(つまり自己中心的な目的のこと、主観主義的態度と問題のこと)は、その原理的原則的な大前提があってはじめて許容されるものとなるといいましたように、

この排除問題についても「人を排除してはならない」という人間的大前提代原則があって、「時と場合によって人が排除されても仕方がない」と許容される場合がある、そういう関係にあるわけです。

その一々の時と場合の説明は不可能なのですが、おおよそのような大原則の原理があるので、特に架空現実の世界である電脳界の共同体では、「人を排除することがあってはならない」とするべきはずなのでしょう。

ですから、Puffing-Usukeさんや私たちは、そのことを勘違いしないことが、その勘違いは錯誤のことですから、錯誤したことをやらないことが、つまり愛と幸せと真理を示すことが、責任者の「責任」であり、その「責任」のことであり、人々の錯誤を改めさせていくことが、そうして教導することが「責任」者なのです。私はその責任を自覚しているのではないでしょうか。

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ですからまた、分かりやすく別な例えで言いますと、人間的人間は、人間界から個人の命を「排除」する「殺人」や「死刑」や「戦争」は反対するべきだし、そのような「排除」の態度を改めるべきでしょう。

さらに、そのような「人間について錯誤」して重大犯罪を犯す人は、人間社会から「排除」され、隔離され、教導されるべきでしょう(これも時と場合の違いの一例です)。

そのうえさらに、人一般にある錯誤によって犯す「アヤマチ」については、その過ちを犯した者に対し、人々と社会によって愛と幸せと真理(客観)を教導されるべきでしょう。ということです。
(ちなみに重大犯罪の裁判で判決文の常套句となっているのが、「あまりにも自分勝手な犯罪」「あまりにも自己中心的な犯罪」「身勝手な行い」などとされています。つまり主観的・主観主義は錯誤や過ちや犯罪の温床となる問題でもあるのです。)

ですから、私も人として錯誤をやりますので、客観を学び自らの態度を改めようとしていますし、自らのアヤマチの態度を改めようとしている人間的人間であるなら、その間違いは訂正されうるのですからその間違いは許容されるべきですから、私は他人のそれ(主観に陥る錯誤)もすでに許容しています。

人は錯誤をやりますのでその自らの態度を改めて、自分の錯誤を自分で「排除」するべきなのです。主観で何が悪いと自分の主観に固執し改めようとはしない者の主観主義は、自らを蒙昧に閉じ込め、自らと人々の愛と幸せと真理をはばむものとなるのでしょう。

Puffing-Usukeさん 貴方は「主観」「客観」「責任」「排除」「死刑」「量刑」「愛」「幸せ」「真理」等など、そうして「偽善」というものを、どのように理解していますか。
貴方には、またこれを読む方たちにも、貴方には「愛する者」がいますか。ご自身で考えてみてください。



次に、さてFixさん

私の少年期から青年期まで、貴方の話と同じように考えていましたので、私は貴方の話を理解できます。
そこで何度も言い恐縮ですが、貴方の話は主観の話です。

「自分の主観で他人の主観を押しのけようとしているだけにしか“見えないなぁ。”」といっているように、そのようにしか「見えない」のは貴方個人の、貴方の眼球を通した、貴方の個人の見え方なのです。つまり主観なのです。

「少数でも救われるほうがいいという“考えの持ち主”なので。」というのも、“考えの持ち主”は貴方個人の考え方のことで、それを主観だといっているのです。
そのような貴方と同じような主観主義を良しとするなら、他の人も自分の勝手で見たり考えていればいいことでしょうし、またそういった主観を他人には押し付けてはならないものなら、そのような他人も押し付けてはならないのでしょう。

つまり貴方は他人と話し合う必要はまったくないはずなのです。各自勝手な主観的な考えではだめだとするなら、貴方も自分勝手な考えは改めればいいことでしょう。単純なことです。それらのことを自分の主観の中で混乱しているだけでしょう。


あとゴミの話も、貴方の意見は一見するとあまりにも当然な、誰の目で見ても道徳的・良心的な善良な意見であって、つまり私が言う「甘言」であって、また甘言という言葉が私が勝手に作った言葉ではなく客観的にあるように、その甘言をまた偽善ともいえるように、上のトピ文章で話し説明している内容そのもののことです。

そうして、同じことを何度話しても、最初から他人の言うことを理解しようとしない態度(つまり主観主義)の人は、いかなる他人・達者・客観の説明も受け入れはしないのですから、他人である私が、貴方にそれを説明してもぬかにクギでしょう。
Fixさん話そのものが、私に質問や疑問を言うものであっても、また私がそれに応えても、貴方はそれを聞くつもりがないのですから、貴方がそれを聞かず、考えないことは、私の問題でも「責任」でもないのです。

またFixさんの話は、皆さんに向かって言っているものだとしても、それは一見正しく見えるものですからその甘言を鵜呑みにする人は多くいるでしょうが、甘言はアヤマチに引き込むための偽善でしかないのです。

つまりFixさんだけでなく主観主義者一般は、そのような主観主義を隠した主観の話を、自分がしたいからしているのであり、自己満足のために「自分の主観を他人の主観に押しのけようとしている」だけなのです。

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そのような方は、自身が他人の話を聞くつもりがないことを、自分を誤魔化さずに、はっきり見る必要があるでしょうし、そういった自身の内面を見られない問題、内省や反省ということをしない問題を整理する必要があるでしょうし、それら自分を言いくるめる主観を自覚する必要があるでしょう。

一般的に言えば自己中心主義は、自分の見え方・考え方・行いが絶対であり、他人は見るに値しないし、聴くに値しないものです。

貴方の主観と主観主義に固執する度合いがどれほどかは分かりませんが、自己中心主義は自分が絶対だから、他人に自分の意見を絶対的に押し付けるのです。

また主観主義者は自分が絶対だから、相手の話を聞くつもりがないのに「偽善」の言葉では「聴くつもりがあるから聞いているのだ」などといい、相手に質問するのです。
他人や話し相手はたまったものではありません。

私のような話相手が一生解説したとしても、その意見内容は聞つもりがなく聞いてはいないのに、そのような「偽善でも良いではないか」といい、いくらでも「話を聞いている」と偽と善を言ったり、実際に偽善をやるのですから、何の意味もないのです。

つまり各自の主観は、人の分だけの主観的見方と意見と話と感情があり、当初より客観を否定しているのだから、他人の意見と話と感情が客観的に正しいかどうか分別するつもりがないし、そういった客観的真実と真理を求める話し合いとはならないのです。

それとはまったく別な、まったく関係ない話し合いをしているのですから、それを知る私たちは、そのような話に延々お付き合いするわけにはいかないわけです。


ごみを拾い片付ける話と考え方についても、それを言っても無駄になるでしょうが、これを回りで読んでいる方に向けてもお話ししておくことにしましょう。

といっても、トピ本文でお話してことで同じことをお話することになりますが、「A地点の問題が取り除かれ解決したかのように見えても」と話しましたように、それと同様に目の前のゴミを、気が付いた時に、その場面だけゴミを片付けたら、長期間ゴミ問題が解決したのではないし、ゴミで不快にならないで済んだのではないのです。

つまり「問題」一般が起こる原因(ゴミを捨てた者の「責任」)が明らかになり、問題が解決「排除」されたのではないのです。

それは自分の(個人の主観では)目の前では、ゴミがなくなり解決したように見えるという主観に陥ったが故の錯覚なのです。
海洋投棄で海がゴミや汚染物質で汚れている時、それを「気付いた者が片付ければ良い、皆がそうすれば海は綺麗になるはずだ」と考え、またそのように見る、その善良で道徳的な主張は、主観主義的な間違った見方であり考えと主張なのです。

海を汚す側は永遠とゴミを捨て、ゴミを片付ける側は永遠と片付け、だからこそそうして自然と海は綺麗になるから、海を汚す側は永遠とゴミを捨てても問題はないし責任を問われることはないのです。

アフリカ・南米・アジア諸国の貧困問題も同様な原理で起き、永遠と解決されないでいるのでしょう。

ホームレスを社会の汚い「ゴミ」にしか見ない者が、ホームレスを目に見えないように片付けたからといって、貧困問題が解決したのではないのです。社会ルールを馬鹿真面目に守っていたら損だから、自分の経済的損にならないように自分勝手に捨てたものが、ここでいうゴミなのでしょうし、ゴミ問題を生んだ原因(主観主義)なのでしょう。

企業が自分勝手な理由(経済的損得や儲けがでないから)で馘首リストラして、そのうえ行政が財政難だからと行政側の勝手な理屈で福祉援助をやらずに、さらに他の原因(「怠け者だから」とか「社会不適応」「無責任」だとかの決め付け・偏見・差別など「錯誤」で)もあって、社会から排除することで、ホームレスが生まれる「原因」となっているのに、

そのホームレスを見えないように片付けたからといって、それらの原因が明らかになり、解決するものではないのです。


Fixさんの主張する良心的で道徳的な甘言は、客観的学問的道理のない道徳的倫理的な理屈であって、結局は権力・企業・強いもの・独裁者・我が侭・一人よがり・犯罪者が優遇される(犯罪者の人権は守られるが、被害者の人権は守られないというような)考え方なのです。

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Puffing-Usukeさん、
話が飛びますが、ですから主観主義者に固執する者に対し、私が返答しないからといって、それは私の責任の範囲ではないのです。それは主観主義者に固執する者が自分自身を見て考え検討する客観と客観的定規を持たないために、自分が分からなくなるという自らが導き出した、自らの責任なのです。

自分というものを見たり考えてりする、客観という手段・道具・基準・定規を持たない者は、主観も客観も分からないし、自分も分からないし、他人も分からないし、そういう「人」というものも分からないし、責任という言葉も意味内容も分からないし、偽善も・協力も・人の愛も幸せも真理も、「自分らしさ」も「女らしさ」も「男らしさ」も分からないのです。

それらの言葉の客観的な意味が分かる方は、特に愛という言葉の意味を、自分の中で説明してみると、自分が分かるでしょう。

結論を言いますと、

トピ本文でお伝えしていることを、ここでも再度話していることになりましたが、人々のための活動(ボランチアもそうですが、見ることも話すことも考えることも、文章を書くことも活動です)をしながら、是非ご自身を省みてほしいのです。

全ての人(政治家も経済界人も官僚も)は、我が子のため、我が父母のため、家族のため、親族のため、地域のため、会社のため、国のため、それら人々のために、それらは自分のためにもなるから、活動し仕事をしているし、また世界中の人々のために海外協力もしているのです。

そのようにして人間が人々のために社会を作り、国を作り、人の世界を作っているのです。しかしその人々が錯誤して主観に陥り、人を知っているつもりで人を知らないため、その思考活動である意図が、その善意が偽善となり、またその甘言によって、さらにそのような人々の物事を動かす実労的な活動によって、悲劇が絶えない社会と世界となっているのでしょう。

主観と客観の違いがわからない多くの方に、つまり客観を知らないために自身を見られない人々に、ここで私がその一人ずつの質問に応え話することはできませんし、そうして指摘してもそもそも自己絶対で他人の話は聞き入れるつもりがない方たちなのですから、私の返答はまったくの無意味でしょう。私はその無意味はしかねるわけです。

是非皆さんも、ご自身は他人の話を聞くつもりがあるのかどうか、自問自答してください。

もし聞くつもりがあるとしたら、果たして自分は他人の話の正邪善悪を判断できるのかどうか、その判断基準や知識・経験をもっているのかどうか、ご自身で問うてください。

それらの客観的判断基準や知識・経験をもっていないとしたら、果たして他人の話を聞けるものなのかどうか、自問自答してみてください。
あちきは自分が主観で考える人だということを隠したことはないですよ?
主観主義という言葉があるのはこの書き込みを見るまで知りませんでしたが。
言いがかるのはやめてくださいね。

次は個人攻撃ですか?

ここに書き込むまでは客観で、書き込んでしまえば主観なのですよ。
自分が客観と考えてることも、それこそ客観でみれば、
その人の主観にしか見えないわけで。
客観と主観の意味なんて辞書を調べればわかるし、
辞書が間違っているというのなら、それはそれでかまわんのやけどさ。

でもって、自分が人に対して指摘していることが
自分の発言をすべて覆してる事実に気づいてくださいね。

なんしか客観主義って人の考えを排除するのね〜(笑)
ってことで、言葉遊びに疲れてきたから逃げときますです♪
言葉遊びという表現はあちきの主観ですので、気にしないでくださいね。
一応、ここをチェックしてるので、呼び戻すなら呼び戻してくだされ。

主観だろうが、客観だろうが、自分の尺度を持つことは必要ですね。
それを絶対的なものだと思わず、いろんな尺度があるんやなぁと、
認めればいいのではないかな。
まぁ、それゆえこの世は平等ではなく、いろんな問題があるのですが。
改めて見ると、色々と考えさせられるトピです。

包括的にやりとりを見て、是非みなさんが現時点で自分に出来る「客観視」をしてみて下さい。
Puffing-Usukeさん、

理性あるご理解を戴き、ありがとうございます。

上の本文と皆さんとの話も月を経て、当コミュの品性を落とすような口論や荒らしとは、もうならないでしょうし、ここを訪れる方の参考まで再度お話させてもらいますが、

上の「パワーあるか、ないか、魅力あるか、ないか」も、それを話している個人の理解する主観の「パワー」であり「魅力」なのでしょう。

物理的「力」や独裁的「強権」のことを言っているのでしょうか。他人を無視した押し付ける力のこと、偽善のという言葉の偽や騙しを善と言いくるめる力のことを言っているのでしょうか。

人々を救う力のことでしょうか。その力は嘘を広める力ではなく、その真逆の真実や真理を広める力なのではないでしょうか。

このような意見をいう方一般にお願いしたいのは、そのように言うご自身の考え方を、是非考えて点検してもらいたいと、同じ事を言い、お願いしなければいけないのでしょう。

次の方の「長すぎる」も、その長短や大小などを測れるのは、客観的な国際標準器の定規や時計や{歴史学」や機器(国際共通な学問と、そのシステム・機関・機器)を持たないと、一切は主観で無意味なのです。

その人間と社会と自然や宇宙を正しく捉えるための、学問や科学の話のは別な機会にしたいと思います。  

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