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チェダゼミナールコミュの荒巻の続世界史の見取り図

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ジョン王・・・12世紀末イギリス国王に即位。最悪の王。戦争のため国民に重税を課した。そこで1215年、マグナカルタ(大憲章)が出された。これが憲法のことのはじめ。憲法は支配者に対して「〜しないでください」という意味を持っている。つまり、支配者の権力を抑制するためのもの。
イギリスの憲法は世界で唯一、憲法が成文法ではなくて慣習法の国。マグナカルタ以来の慣習(伝統)の総体がイギリスの憲法そのものとなる。これを慣習法(コモンロー)という。なお、憲法は成文法であったとしても、その本質は慣習法となる。それは、憲法=コンスティチューション(Constitution)という言葉から分かる。語源はラテン語の「国柄」を意味する。国柄とは、長い歴史の中からしか生まれてこない。つまりイギリス王は権利の章典(憲法)を認め、議会優位が確立している。このように王がいながら憲法もある国を「立憲君主制」といい、王といえども法律には拘束されるということになる。

農奴・・・奴隷との違いは人身売買されないこと。

ジェントリ・・・地方行政を担う存在として王権を支えていく一方で、議会にも進出して王権を抑制する役割を担った。

ばら戦争・・・百年戦争終了後1453年の2年後から30年間にわたり繰り広げられたイギリスの内乱。王位を巡ってランカスター家とヨーク家が争ったもので、両家の家紋がそれぞれ「赤バラ」と「白バラ」だった。

下院(かいん)・・・衆議院 上院・・・参議院

イギリス海軍・・・絶対主義下のイギリス王家は、海賊を軍隊としていた。スペインの無敵艦隊(アルマダ)を破ったドレークやホーキンズといった人物は、海賊の頭領である。

ステュアート朝・・・スコットランドから迎えられたジェームス1世が即位。ジェームス1世は王権神授説を掲げ、マグナカルタ以来続く国王と議会が共同で政治を行うイギリスの伝統を無視することを意味した。そこで議会は「あんたはスコットランド出身だろうから知らないだろうが、イングランドでは税を課す場合、課される側の同意が必要なんですよ」と要求した。これを権利の請願(1628年)。

日本の君主(天皇)には、選挙権もないし職業、移転などの自由はない。

ピルグリム=ファーザーズ・・・1620年にメイフラワー号に乗って北米のプリマスに植民。

ピューリタン革命・・・革命後1649年から60年まで、イギリスには国王がいなかった。イギリスの長い歴史の中で共和制がとられたのはこの時代だけ。しかし革命の後には必ずといっていいほど独裁者が登場する。自らを護国卿と名乗ったクロムウェルです。1653年には議会も解散する。またクロムウェルはカトリックのアイルランドを攻め、植民地にもしている。

アイルランド・・・ローマ帝国の支配下にも置かれなかった地域。人口は379万人だが、世界全体では7000万人以上のアイルランド系の人たちがいるとされる。どうしてそんなに国外に出て行ったのかというと1845年からの「ポテト飢饉」。主食であるじゃがいもの不作から、3年間で100万人が死亡し、数十万人が他国へ移住していった。主な移住先となったのがアメリカ大陸である。

トーリー党・・・後の保守党  ホイッグ党・・・後の自由党


ハノーヴァー朝・・・ステュアート朝の次。新国王のジョージ1世がドイツ領邦の一つのハノーヴァーから迎え入れられたためこう呼ばれる。ドイツ出身のため彼は英語が苦手です。そのためイギリスの国政には距離を置いていました。だから、内閣の首班=首相が必要だった。初めての首相といわれるのがホイッグ党のウォルポールです。彼は選挙でホイッグ党が負けた際、国王の信任が厚かったにもかかわらず辞職した。「やはり、議会の多数党が内閣を作るべきです」といって。これが「内閣は国王にではなく、議会に対して責任を負う」いわゆる責任内閣制(議院内閣制)という新しい伝統がイギリスに生まれた。

名誉革命後の議会における構成員のほとんどが大地主で、選挙権を持つものは全人口の1%にも満たなかった。

内閣=狭義(きょうぎ)の意味での政府

リヴァイアサン・・・旧約聖書に出てくるモンスター ホッブズのリヴァイアサンに出てくる自然状態とは国家(政府)が存在しない状態。この中で「万人の万人に対する闘争」が起こる。

ルソー・・・社会契約によって作られた共和国がいいと主張。王は要らないといった。

平等の定義・・・貧富の差までなくそうとする「結果の平等」と、チャンスは平等に与える「機会の平等」の二つがある。チャンスは平等に与えるのが資本主義、結果も平等にするのが社会主義。平等の思想を突き詰めればそれは共産主義思想に行き着く。

中央集権国家・・・官僚と常備軍が必ず必要。

フランス革命・・・イギリスのマグナカルタのときと同じく、課税問題が革命の発端となる。
フランスの民衆はルイ16世を嫌っていたわけではない。むしろ「国民の父」というイメージを持っていた。しかし1791年のヴァレンヌ逃亡事件でルイ16世が国外へ逃亡しようとした。国民はこれを裏切り行為ととった。フランス革命後も何度も革命が起き、今のフランスは第五共和制となっている。

ロベスピエール・・・民衆と結び、下層民衆にまで国民としての権利が拡大。財産のあるものが自由なのではなく、財産がないものにも自由を与える。これが民主を意味する。このようにしないと革命は終わらない。ロベスピエールは下層市民に民主を植え付けたスターではあるが、のちにやはり独裁者となってしまい、結局処刑された。これを1794年テルミドール9日の反動という。ロベスピエールの失脚により国民公会は解散し、以後権力の集中を避けるために、行政は5名の総裁で担われたので、総裁政府の時代と呼ぶ。

愛国心・・・他者と違う自分たちという概念を優越感として受け取ったとき、愛国心が生まれる。つまり地方分権では国としてまとまりがないので愛国心は育たない。そのため外国との戦争でも負けてしまう。ナショナリズムが大陸ヨーロッパに広まったことが、ナポレオンが残した次の時代における最大の影響。ナショナリズムの思想が忠誠心・愛国心を持った国民軍を生み出した。ナポレオンによる大陸制覇は、この国民軍の活躍を抜きにしては語れない。かつての軍隊とは移民などの寄せ集めで、国のために戦うといった考えはなかった。そのため戦争は長期化していた。

ナポレオン・・・クーデターで政権を奪った。こうして成立した統領政府によってフランス革命は事実上終結する。ナポレオンは1805年にトラファルガーの海戦でイギリスに敗北したものの、同年のアウステルリッツの戦いではオーストリアとロシアを、1806年のイエナ=アウエルシュタットの戦いではプロイセンを破る。1807年までにほとんどの大陸ヨーロッパを制してしまった。
 彼のエジプト遠征はイギリスとインドの交通路に圧力をかけるのが目的。ナポレオンもロベスピエールと同様に下層市民(農民)を味方につけることで支配を安定させている。いつの世も独裁者は物言わぬ民(サイレントマジョリティー)によって支えられている。

エスニー・・・地域ごとの生活習慣。

ナショナリズムの考えの下19世紀前半にラテンアメリカが多数独立を果たしたが、イギリスはラテンアメリカを自国の市場にすることを目論み、独立運動弾圧に手を貸すことを拒否した。

オランダ・・・カルヴァン派(プロテスタント) ベルギー・・・カトリック

プロイセン憲法・・・ベルギーの憲法を模範としている。そのため、大日本帝国憲法はベルギー憲法の孫コピー。プロイセン憲法は欽定憲法である。欽定憲法とは君主が憲法を作るものである。したがって、立憲君主制となる。欽定憲法で共和制ということは原理的にあり得ない。

民主・・・無産者が参政権を要求すること。自由には財産所有の自由の意味がこめられている。
社会主義思想と「民主」には深い関係がある。そのため社会主義国の名称には「民主」という言葉が付帯していることが多い。ただし厳密には社会民主主義(社民)と社会主義は別物。社会主義とは共産主義を目指している途中、つまり過渡期にある状態を示している。共産党は議会(複数政党制)を否定している。

7月革命と2月革命・・・後に起きた2月革命(1848年)の革命の主力は労働者である。産業革命の展開に伴って、労働者が政治的に目覚めた。彼らは普通選挙を求めて暴動を起こす。革命は失敗に終わったが、革命のドサクサに紛れてブルジョアジーの政治参加が実現された。

社会主義思想・・・急進的な社会主義思想は私有財産を否定する。各先進資本主義国は、労働者の運動と社会主義が結びつくことを恐れて国民国家の枠内に労働者を取り込もうという思惑があった。労働者と社会主義の結びつきを断つ目的で労働者に権利を与えていく。それが参政権(戦士は参政権をもつ)だったり、ドイツでは社会保障制度も整備され、フランスでは労働時間の制限が義務付けられた。イギリスでは1871年、労働組合の合法化が図られた。要は、民衆の運動を押さえつけると革命が起こってしまうから、そうならないように国家が譲歩できるところは譲歩する。こうして国民国家の内部で民主政治が進展していくのが19世紀後半。1919年のワイマール憲法において、初めて労働者の権利が明記される。労働者=無産者(プロレタリアート)を国民とみなす、つまり民主政治が進展したことを物語る。これ以降の革命は、国民国家を倒そうとする社会主義革命を意味するようになる。この社会主義思想に対抗するために、支配層は斬新的な改革を進め、国民統合の度合いを強めることで、反体制運動を社会主義と切り離しつつ、国民国家の枠内に取り込んでいく。

徳川慶喜・・・ナポレオン三世から贈られた軍服を着ている。

WW?後のインパクト・・・ドイツ・オーストリア・ロシアといった国々の立憲君主政が共和政に変わったこと。大戦後に独立していく国の殆どが共和政になることも、19世紀とは違った時代が訪れている証拠。現在の立憲君主国は日本・イギリス・オランダ・ベルギー・スペイン・北欧三国・マレーシア・タイ・ヨルダンなど20カ国に満たない。

産業革命のインパクト・・・イギリスが元祖。そして他国も工業化せざるを得なくなった。そうしないと自国の経済がメチャクチャにされてしまうから。
 南北問題は「豊かな国は進んでいる。貧しい国は遅れている」という発想をまず捨てなければならない。そしてイギリスが工業化されたためにその影響を受けたインドは容易に工業化できなくなった。

産業革命・・・大航海時代(商業の時代)を経て起こる。イギリスは鉄鉱石は取れないのでスウェーデンやロシアから輸入していた。産業革命はマンチェスターの綿織物、バーミンガムの鉄鋼業から始まるが、まさに輸入品の国産化を目指していることがうかがえる。綿織物はかつてインドから輸入していた。
 イギリスではかつて熱源として木炭を使っていた。しかし16世紀になると「森林の枯渇」と呼ばれる状況に陥った。石炭を使うようになったが、石炭で鉄鉱石を溶かすために、石炭を蒸し焼きにして邪魔なものを飛ばしてコークスを作った。このコークス製鉄法は、1709年にダービーが考案します。念願の鉄の国産化です。木材という有機物に代わって、鉄という無機物が日常生活に入り込んでくるという「工業化社会」が訪れる。
 綿織物のよさは洗濯しても縮むことがないこと。綿織物は毛織物に代わり爆発的にヒット。それを何とかして国産化できないかと考えるようになる。見事に成功。
 動力が水力から火力・蒸気力にかわったことで、工場が平地にも建てられるようになった。
原料や製品を運ぶために、鉄道や運河が整備された。これを交通革命という。植民地にも鉄道は建設されたが、この目的はあくまで工業製品を売ったり運んだりするため。

紡績・・・綿花を綿糸にすること。

アシャンティ王国・・・イギリスから武器を購入した西アフリカの諸王国は、対立する諸部族を奴隷として捕らえ、イギリスに売り払った。この奴隷貿易で繁栄した王国がアシャンティ王国(現在のガーナ)。しかしおびただしい人口流出は、後々人口停滞を招き、アフリカの発展を阻害することになる。
イギリスの産業革命と奴隷制度は、切っても切り離せない関係にある。

スラムの原因・・・狭いところに人口が集中すると、住むところに困るから。

義務教育・・・学校では時間単位(時間割)で、何をしなければいけないかを決めている。国家は、このことを子どもの時から慣れ親しませる。また、学校には、国民意識を育成していく意味合いがある。国語や歴史で。

ジェントリ・・・地主のこと。これと貴族を合わせてジェントルマンといい、イギリスを支配するエリート層を構成している。オックスフォードとケンブリッジの両大学を卒業することが1つのステータスになる。

スノバリ・・・ジェントルマンの真似をしたがること。Snob(スノッブ)とは上流気取りで地位・財産などを崇拝し、上に媚び、下に横柄な人」。

資本主義・・・自由な経済活動に基づく経済の仕組みを「資本主義」と一般に呼ぶ。自由な経済活動は国家が支えている。なぜならインフラ整備をはじめとして、国家の活動が無ければ自由な経済活動は行えない。だからこそ、社会主義は国家の死滅を主張することにつながる。

重商主義・・・自由な経済活動を認めないもの。たとえば、貿易活動を行えるのは東インド会社だけ。重商主義政策の放棄とは、自由貿易体制への転換と同義。

覇権国家と列強・・・国際政治に影響力を持つ国を列強という。その中で最強なのが覇権国家。
覇権国家は歴史上3カ国だけで、17Cのオランダ、19Cのイギリス、20Cのアメリカだけ。
19C末になるとイギリスが衰退していく中で、次の時代の覇権を争うアメリカとドイツが台頭し、この3国と密接に関係する日本が国際関係の表舞台に登場してくる。

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