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日蓮原理主義を破折する会コミュの仏説観普賢菩薩行法経から不受余経一偈を考察する

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法華経結経の仏説観普賢菩薩行法経(前半)から不受余経一偈を考察する。


仏説観普賢菩薩行法経

このように私は聞きました。

ある時、仏が、インド中部の毘舎離国(ガンジス河の支流ガンダキ河の東岸にあるベーサール)の大林精舎の重閣講堂にいらしたとき、諸々の出家男子にお告げになった。

三ヵ月後に,私はきっと、最後の悟りを得た境地に入るはずだ。

尊者阿難は、すぐに座より起って衣服を整え、手を合わせ合唱して、仏の回りを右回りに三度回り礼をして、

ひざまずき合掌して、注意深く如来を見奉り、まばたきもしなかった。

長老の摩訶迦葉と、弥勒菩薩摩訶薩もまた座より立って、合掌して礼をして、世尊の顔を見上げた。

その時に、三人の偉大な悟りを求める修行者は、口をそろえて同じように仏に向かって言った。

世尊、如来が世を去られた後に、どのようにして、生命のあるものすべてに悟りを求める修行者の心を起こさせ、

すべての生命のあるものに平等な救済と成仏を説く経典を修行させ、物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れず、絶対平等の真実である善悪の報いによって、各人が受ける境遇を心に浮かべてよく考えさせることができるのか。

どのようにして、この上ない悟りを求める心を失わせないようにさせるのか。

どのようにして、また当然、煩悩を断ち切ることなく財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を離れることなく、生命活動や感覚の原動力を清浄にし、諸々の罪を滅して排除することが出来るのか。

父母が生み出した清らかな肉眼によって、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲を断ち切らず、しかも巧みに諸々の障害になる物事を見させることが出来るのか。

仏は、阿難にお告げになった。しっかりと良く聞け。しっかりと良く聞け。よくこれを常に心に深く思え。

如来は、過去に耆闍崛山(ぎしゃくつせん)とその他の住む場所に於いて、すでに広く絶対平等の真実の道を思量し、識別していた。

今、この場所に於いて、未来の世の諸々の生命のあるものすべてのために、平等な救済と成仏を説くこの上ない教えを修行しようと願う者と、

普賢の修行を学び普賢の修行を実行しようと願う者の為に、私は今、当然、心に思っている教えを説くべきである。

もしも、普賢を見たり、または見ない者が、罪の数を取り除くことを、今、おまえたちの為に、当然広く明らかにするべきである。

阿難よ、普賢菩薩は、東方の浄妙国土にお生まれになった。

その国土の様子は、華厳経の中にすでに広く明らかにした。


私は、今この経に於いて、省略して解説しよう。

阿難よ、もしも、出家男子・出家女子・在家信士・在家信女・天人・龍・八部衆・一切の心をもつすべての存在で大乗経典を声を出して読む者、

大乗経典を修める者、大乗経典を切望する者、普賢菩薩の姿を見ようと願う者、

多宝仏の塔を見ようと願う者、釈迦族の聖者の如来と、その分身の諸仏を見ようと願う者、

六根から生じる迷いを断って清らかな身になろうと願う者は、当然、この物事を細心に分別して観察し道理を悟ることを学ぶべきである。

この物事を細心に分別して観察し道理を悟ることによる現世や来世に幸福をもたらすもとになるよい報いとは、諸々の悟りの障害となるものを排除して、不思議なまでにすぐれている姿を見ることができることである。

心を一つの対象に集中して、動揺しない状態に入っていないとしても、ただ声を出して経文を読んで覚えるために、心を専念して修習し、

心を捧げ続け、大乗経の修行から離れず、一日より二十一日に至れば、普賢を見ることができる。

重大な悟りへの障害がある者は、四十九日後に見ることが出来る。またさらに重大な悟りへの障害がある者は、一つの人生の後に見ることが出来る。


またさらに、重大な悟りへの障害がある者は、二つの人生の後に見ることが出来る。またさらに、重大な悟りへの障害がある者は、三つの人生の後に見ることが出来る。

このように種々に、前世や過去におこなった善悪の行為による報いは、同じではない。この理由の為に、人によって異なる教えを説く。

普賢菩薩は、身の大きさは果てしなく、発する声は果てしなく、姿かたちは果てしない。

この国に来ようと願って、自分の思うとおりにできる超人的な能力を使い、身体を縮小して小さくなった。

この閻浮提の人には、善根を妨げる三つの障害がある理由のために、物事をありのままに把握し真理を見極める認識力により、変化して白象に乗った。

其の象には六つの牙があり、七つの足で大地の上の身体を支える。

其の七つの足の下には、七つの蓮華を生じる。

その象の色は、雪のように白く、全ての白の色合いの中で、最も優れている。

水晶や雪山(ヒマラヤ山脈)も比べることが出来ない。

象の身の長さ四百五十由旬(3150Km)、高さ四百由旬(2800Km)。

六つの牙の端に於いて、六つの沐浴の池がある。


一つ一つの沐浴の池の中に、十四の蓮華が生えている、池と同じ大きさである。

其の花の開く様子は、天の樹木の王のようである。

一つ一つの花の上に、一人の宝玉のような女人がいる。

顔の色は紅のようであり、輝きは天女を凌ぐ。

手の中に他の力に依存せず、五つの琴を生じさせる。

一つ一つの琴に、五百の楽器があり、それを以って伴奏させる。

五百の鳥がいる。鴨、雁、オシドリ、皆宝石の色であり、華や葉の間に生じる。

象の鼻に華がある。其の茎は、例えば赤い真珠のようである。

其の華は金色であり、まだ芽であって開花しない。

このことを見終わって、また更に犯した罪悪を告白して許しを請い、

真の心で本質をはっきりと見きわめ、大乗経を心に浮かべてよく考え、心を休めることなく絶え間なくするならば、華を見る、それは敷き詰められて、金色の光を放つ。

その蓮の花弁は、甄叔迦(けんしゅくが)の木に咲く花の色に似た赤い宝石や、不思議なほど神聖な珠玉によって花弁が出来ていて、金剛宝によって、雄しべが出来ている。

様々な姿となって現れた仏が、蓮の花びらに、お座りになっているのが見える。

多数の悟りを求める修行者が、蓮の華の雄しべに、お座りになっている。

さまざまな姿となって現れた仏の眉間から、また金色の光を放って、象の鼻の中に入る。

紅の蓮の華の色であり、象の鼻の中から出て、像の眼の中に入る。

像の眼の中から出て、像の耳の中に入り、像の耳から出て、象の頭の上を照らして、変化して金の花弁を作る。

象の頭の上に、三人の変化した人がいる。独りは金色の輪を持ち、一人は竜王の脳中から出て望みをすべてかなえるという珠玉を持ち、一人は金剛杵を持つ。

金剛杵を挙げて象に突きつけると、象はすぐに良く歩く。

脚は大地を踏まず、虚空を踏んで歩き回る。

大地から浮かび上がること七尺、しかも大地には印文のある足跡を残す。

足跡の印文の中には、仏が備えている三十二相の一つである、足の裏にある千の輻(や)をもつ車輪の形の文様がある。

一つ一つの車輪の形の文様から、大きな蓮の華が生える。

この蓮の華の上に、姿を変えて現れた一つの象を生じる。


また七つの足があり、大きな象に追随してゆく。

足を挙げ足を下げる度に、七千の象を生じる。

これらの全ての象は、大きな象に仕えて随従する。

象の鼻は、紅の蓮の華の色であり、その上でさまざまな姿となって現れた仏が、眉間の光を放っていらっしゃる。

その光は金色であり、前のように象の鼻の中に入り、

象の鼻の中から出て、象の眼の中に入り、

象の目から出て、還って像の耳に入り、

像の耳から出て象の頭の上に至る。

段々と上って象の背に至り、姿を変えて金の鞍になって、七宝によって飾られる。

鞍の四面に、七宝でできた柱があり、多くの種類の宝で飾られた台座となる。

台座の中に、七宝でできた一つの蓮の華の雄しべがある。

その蓮の華の雄しべは、百の宝石によってできている。

その蓮華の花びらは、竜王の脳中から出て、望みをすべてかなえるという大きな珠玉で出来ている。

一人の悟りを求める修行者が、結跏趺坐している。名を普賢という。


身体は真珠の色で、五十種の光を放っている。

光には五十種の色があり、これによって頭上を照らす。

身体の諸々の毛穴から、金色の光が流れ出る。

その金色の光の端には、計り知れないほど多くのさまざまな姿となって現れた仏がいらっしゃる。

諸々の仮の姿でこの世に現れた菩薩を従者としている。

象は静かにゆっくりと歩いて、大きな宝蓮華を降らして、仏道を修行する人の前にやって来る。

その象が口を開くと、象の牙の上に於いて、諸々の池の玉のように美しい天女は、つづみを打ち、楽を奏し、琴を弾き鳴らし、歌う。

その声は、何ともいえない美しさや味わいがあり、自己の解脱だけを目的とするのでなく、すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道であるとする絶対平等の真実の道を賛嘆する。

仏道を修行する者は、見終わって歓喜し敬い礼拝して、またさらに非常に奥が深い経典を声を出して読み、

もれなく全てのあらゆる方面の計り知れないほど多くの諸々の仏を礼拝し、多宝仏塔と釈迦族の聖者の如来を礼拝して、供に普賢と不退の位に上った諸々の菩薩を礼拝して、


この誓いを立て、成就するように願う。

“「もしも、私の前世になされた善行によって得られる福徳があるならば、きっと普賢を見ることが出来るだろう。 ”

願わくは尊者遍普(普賢)よ、私に三十二相をそなえた仏の生身をお示しください」と。

この願いをなし終わって、昼夜、六回、十方の仏を礼拝し、犯した罪悪を告白して悔い改める教えを行い、

大乗経を読み、大乗経を声をだして歌うように読み、大乗のすべての人間の平等な救済と成仏を説きそれが仏の真の教えの道であるという教義を思い、大乗の行為を念じ、

大乗の教えを銘記して忘れない者を恭しく敬って供養し、一切の人を視ること、あたかも仏が心の中に思い浮かべるようにし、諸々の生命のあるものすべてに於いて、父母が子を心の中に思い浮かべるようにせよ。

このように考えたとき、普賢菩薩は徳の高いりっぱな人相である眉間の長く白い巻き毛からすぐに光を放つ。

この光が現れるときに、普賢菩薩の身体は、姿などが整っていて威厳があり、紫金山(しこんせん)のようであり、端正で趣深く、何ともいえない美しさや味わいがあり、仏のみが備える三十二のすぐれた身体的特徴を皆悉く備えている。

身体の諸々の毛穴から大光明を放ち、その大きな象を照らして金色に染める。

全ての姿を変えて現れた象も、また金色となり、諸々の仮の姿でこの世に現れた悟りを求める修行者も、また金色になる。

その金色の光は、東方の計り知れない世界を照らし、皆同じ金色となる。

南西北方、天地の四つの方角、上下も、またこのようである。

その時に、十の方向の一つ一つの方向に於いて、一人の菩薩が六牙の白象の王に乗っている。

また、普賢菩薩のように同じであり異なるところがない。

このように十方の計り知れない限りない中に満ちている姿を変えて現れた象も、普賢菩薩の神通力のために、法華経を受持しもっぱら読経する者には、皆あまねく見ることができる。

その時に、仏道を修行する者は、諸々の菩薩を見て、身も心も歓喜して、そのために礼を尽くして言った。

「一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲を持つ者よ。私を哀れみ思いやるために教えを説きたまえ」と。

この言葉を説くときに、全ての悟りを求める修行者たちは、異口同音にそれぞれ清浄な大乗経を説き、諸々の詩句を作って、仏道を修行する者を賛嘆するだろう。

これを初めて普賢菩薩を心に思い浮かべて静かに観察する最初の境地と名づける。


その時に、仏道を修行する者は、この事を見終わって、心に大乗の経典を念じて、持ち続けてきた思いを失わないならば、睡眠の間に於いて、夢で普賢が彼の為に教えを説くのを見ることができる。

目が覚めているのと同じようであり、その心を安らかにしてなごやかに静めて、このように言う。

「おまえが声を出して読んで覚えた経は、この句を忘れ、この詩を忘れている」と。

その時に仏道を修行する者は、普賢の深い教えを説くことを聞いて、その教義の趣旨を理解し、常に念頭に置いて忘れない。

日々このようであり、その心に精神的な利益を徐々にもたらす。

普賢菩薩は、これによって、十方の諸々の仏を正しく記憶させ絶えず忘れさせない。

普賢の教えに随って、正しく考え正しく記憶して、しだいに心眼によって、黄金の姿で整っていて威厳があり趣深く何ともいえない美しさや味わいがある東方の仏の身体を見るであろう。

一人の仏を見終わって、また一人の仏を見るであろう。

このように、徐々に広く東方の全ての諸仏を見て、

鋭利に姿を心の中に思い浮かべるために、広く十方の全ての諸仏を見る。

諸々の仏を見終わって、心に歓喜を生じて、このように言う。

「すべての人間の平等な救済と成仏を願うために、仏を見ることができ、仏の力の為に諸々の仏を見ることができた。

諸々の仏を見たといえども、なお今だ明らかではない。

目を閉じれば見ることができ、目を開けば見失う。」

この言葉を言い終わると、両ひざと両ひじを地に着けて伏し、さらに合掌して頭を地につけ、広く十方の仏を礼拝せよ。

諸々の仏を礼拝し終わって、座禅を組み合掌して、この言葉を言え、

「諸々の仏や世尊は、十力(如実にすべての理と非理とを知る力、如実に三世の業とその報いとの因果関係を知る力、如実にすべての禅定や三昧の順序や浅深を知る力、如実に衆生の能力や性質の優劣などを知る力、如実に衆生の了解断定を知る力、如実に衆生の素性素質やその行為などを知る力、如実に人天などの諸々の世界に趣く行の因果を知る力、如実に過去世の種々の事を憶い出し知悉する力、如実に天眼を以て衆生の死生の時や未来の善悪の世界などを知る力、自らすべての煩悩が就きて、次の生存を受けないことを知り、また他のものが煩悩を断つのを誤らずに知る力)と、畏れることがない安穏で不動の境地にある。

仏のみに具わっている十八種のすぐれた特質があり、


一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲をもち、三念処(衆生が仏をほめたたえるとき、その心を喜びとし、衆生が仏をけなしたとき、その心に深く慈悲し、仏の教えに帰依した人としない人を別け隔てしない心)を持っている。

常に世間にあって、すべての物質的なものからできている身体の中で最も優れている。

私は、どのような罪によって仏を見ることができないのか?」と。

この言葉を説き終わって、また更に犯した罪悪を告白して許しを請え。

犯した罪悪を告白して許しを請い清浄になることを終わったならば、普賢菩薩は、また更に前に現れて、日常の立ち居振る舞いのときに、そのそばを離れない。

あるいは夢の中でも、常にその人の為に教えを説く。

この人は、夢から覚めて、仏の教えを聞きそれを信じることによって心にわく喜びを得る。

このようにして、昼夜二十一日を経て、その後に他を感化する作用が次々と伝わっていく力を得る。

教えを広める智力を得るために、諸々の仏や仏道修行者の説く言葉では言いつくせない意味の深い教えを、記憶して忘れない。

また、常に夢で釈迦牟尼と、それ以前に現れたといわれる毘婆尸(びばし)・尸棄(しき)・毘舎浮(びしゃふ)・拘留孫(くるそん)・拘那含牟尼(くながんむに)・迦葉(かしよう)の七仏を見て、ただ釈迦族の聖者の如来のみが、その人のために教えを説かれる。


この諸々の世尊は、それぞれに大乗経典を称賛するだろう。

その時に、仏道を修行する者は、また更に歓喜して、広く十方の仏を礼拝するだろう。

十方の仏を礼拝し終わったならば、普賢菩薩がその人の前に留まって、前世からの全ての善悪の行為によって現世で受ける報いや間接的な原因を教え説いて、

凶悪な全ての罪を隠さず告白させるだろう。

諸々の世尊に向かって、自らの口で犯した罪を隠さず告白せよ。

犯した罪を隠さず告白し終えたならば、すぐにその時に、諸々の仏の前に於いて、心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得るだろう。

この心を一つの対象に集中して動揺しない状態を得た後に、東方の阿閦如来(あしゅくにょらい)と妙喜国を明らかに見るだろう。

このように、十方のそれぞれの諸々の仏の不思議なまでにすぐれている国土を明らかに見るだろう。

十方の仏を見終わった後、夢を見る。象の頭の上に、一人の金剛人がいて、金剛杵(こんごうしょ)を、全ての感覚や意識を生じまたそれによって迷いを起こさせる原因となる六つの器官に突きつける。

六つの器官に突きつけた後、普賢菩薩は仏道を修行する者の為に、六つの器官から生じる迷いを断って清らかな身になる教えと、懺悔の教えを説くだろう。

このように、犯した罪悪を告白して許しを請い、一日から二十一日に至る。

仏の前に於いて、心を一つの対象に集中して動揺させない状態を保つ力の為に、また普賢菩薩の説法が荘厳であるために、

耳は徐々に障害なしに声を聞き、眼は徐々に障害なしに事を見、鼻は徐々に障害なしに香りをかぐだろう。

広く説くことは、妙法華経のようである。

この六つの器官から生じる迷いを断った後、心身は歓喜して、諸々の悪いことを心に思い浮かべることはなくなるだろう。

心をこの教えに専念させて、教えに従うだろう。

また更に、百千万億の他を感化する作用が次々と伝わっていく力を得る。また更に、百千万億の計り知れない諸々の仏を見るだろう。

この諸々の世尊は、それぞれ右の手を伸ばして、仏道修行者の頭をなでて、この言葉を言うだろう。

「素晴らしい、素晴らしい、すべての人間の平等な救済と成仏の教えを行ずる者、智慧・福徳・相好でその身を飾る心を起こした者、すべての人間の平等な救済と成仏を念じる者である。

私たちは昔、悟りを求めるとともに世の人を救おうとする心を起こした時、皆、またこのようであった。


おまえは真心を込めて失わないようにせよ。

我らは、この世に生まれ出る以前の世に於いて、すべての人間の平等な救済と成仏を行じた為に、今は清浄で遍くある正しい智慧を具えた身と成った。

おまえは、今また当然仏道を勤め修めて、善行を修めるのに積極的でない心の状態になってはならない。

この大乗経典は、諸々の仏の教えを納めた蔵である。

あらゆる方面、過去、現在、未来の諸々の仏の最も重要な眼目である。

過去、現在、未来の諸々の如来を生み出す種である。

この経典を受持しもっぱら読経する者は、すなわち仏身を持ち、すなわち仏事を行うことである。

当然知るべきである。この人は即ち諸々の仏の使者である。

諸々の仏や世尊の衣に覆われ、諸々の仏如来の真実の教えの子である。

おまえは、すべての人間の平等な救済と成仏の教えを行じて、教えの種を絶たないようにせよ。

おまえは、今東方の諸仏を細心に分別して観察し道理を悟れ。」

この言葉を説かれたとき、仏道修行者は、すぐに東方の計ることができないほど多くの全ての世界を見る。


大地の平らな様は、手のひらのようである。

“諸々の台地や丘、高くて大きい山や大きな丘、イバラなどの生い茂る荒れた土地はなく、ラピスラズリで地ができていて、黄金によって道が区切られている。 ”

十方の世界も、またこのようである。

この事を見た後に、すぐに宝石の樹を見る。

宝石の樹は、高く何ともいえないほど美しく、高さは五千由旬(35000Km)である。

その樹木は常に黄金や白銀を生じて、七宝によって厳かに飾られる。

樹木の下に、それ自身の宝石をちりばめた獅子座がある。

その獅子座の高さは、二千由旬(14000Km)である。

その獅子座の上には、また百宝が光を放つ。

このように、諸々の樹木およびその他の宝座や、一つ一つの宝座にみな百宝の光明がある。

このように、諸々の樹木およびその他の宝座や、一つ一つの宝座に皆五百の白象がいる。

象の上に皆、普賢菩薩がいる。

その時に、仏道を修行する者は、諸々の普賢を礼拝して、この言葉を言え。

「私に何の罪があって、ただ宝石の大地と宝座と宝樹をみて、諸々の仏を見ることができないのか。」と。


この言葉を言い終わったならば、一つ一つの宝座の上に、一人の世尊がいらっしゃるだろう。

姿が整っていて威厳があり趣深く繊細であり、宝座に座られている。

諸々の仏を見奉り、心は大いに歓喜して、また更に大乗経典を唱えて繰り返し読め。

大乗の力のために、空中に声がして賛嘆して言うだろう。

「仏法に帰依した男子よ、おまえはすべての人間の平等な救済と成仏を行じた事による現世や来世に幸福をもたらすもとになる善行の因縁により、よく諸々の仏を見ることができた。」


以上、法華経結経(前半)の部分であるが、頻繁に大乗経典を賛美する文言が出てくる。
仏説観普賢菩薩行法経は法華経結経であるが故に、法華経以外の経典は捨てるべきだという論法は、法華経に背くものであることはいうまでも無い。
 法華開経で、四十余年未顕真実と説かれた後に説法された法華経が釈迦の本懐であって、以前の経典は全て捨てるべきだという論法は、実際には法華経が紀元後に創作された経典であることから成り立たず、日蓮教学の根本を成す五時経判が誤りである以上、インチキ、デタラメである。
 法華三部経の結経である仏説観普賢菩薩行法経でさえ大乗経典を賛美している事からも、不受余経一偈という文言は法華経のみを修行しなさいと言う事では無く、大乗経典全てを含むことは明白である。
 日蓮宗では謗法という邪義を廃して、全ての経典を修めているのは、経典からも理屈として至極まともな事である。

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